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*44 残像のプロジェクター

 日本へ移住して間も無く一年が経とうとしている、と考えた時、果たして一年前は何をしていたかと思い返すと在欧最後の旅行としてイタリアはミラノと、それから私の心の故郷であるオーストリアはウィーンへと立て続けに足を運んでいた。本当は友人との最後の旅行という話であった筈が、彼の身内に不幸があって結局一人旅になったミラノでは、往路のバスを待つ間から正体不明の不安感に襲われていた。何だかよくわからずただひたすらに心臓がそわそわとして、出発迄十分な時間を持て余していた私は二十三時のマクドナルドでハンバーガーを買って、待合所のベンチに腰掛けて食べていたが、ハンバーガーを口に入れてもコーラで流し込んでも、喉こそ通過してなお腹まで落ちるのに妙に時間が掛かって心地が悪かった。バスが到着した時、果たして本当にこのバスに乗って行って良いんだろうか、私は今から何処へ行き、また此処へ帰って来るんだろうかと妙な心配が脳裏も脳表も駆け回った。
 
 今思い返すと―当時も既に暴いていたかも知れないが―、あの晩に突如として私を襲ったざわめきの正体は、目前に控えた本帰国に対する期待や不安に加え、八年半の歳月の中で幾つもの思い出の出発点であったそのバス停に浮遊していた過去の残像が、両側から私の袖を引っ張り合っていた為に起こった心の揺らぎであった様に思う。ミュンヘンのZOBバスステーションからは何処へでも行った。私がドイツに渡り初めてそのバス停から出発し向かったのはしくも当時出会った日本人の仲間複数人で、両夜行で行ったウィーンである。全くの世間知らずであった私は海外旅行経験豊富な面々に先導は任せながら、初めての夜行バスや初めてバスで国境を越える事に興奮していたのを覚えている。それこそリョウヤコウという言葉の漢字すら頭に浮かばない内にバスに乗り、そうして早朝のウィーンに降り立った。二〇一五年は四月の事である。
 
 それから人生で初めての一人旅もZOBステーションから始まった。北ドイツにある芸術家の村、ヴォルプスヴェーデを目指し、この時もまた夜行のバスに乗り込んだ。先だって同行した諸先輩方の夜行バス内での所作を参考に、一丁前にビールとつまみを買い込んでは窓側の席にどんと座り、も旅行熟練者の如き顔でビールの栓を開けた。目的地迄は十何時間と掛かった。当時まだ見習い生で稼ぎも少なかった私は時間タイムよりも費用マネーおもんぱかった。あの一人旅を経て、当時まだ脆弱な頼りないドイツ語でもって見知らぬ土地を巡り再び帰って来られた経験が、自分のドイツ語に多少なりと自信を付与した。二〇一六年、六月の記憶である。
 
 チェコにも行った。ハンガリーにも行った。イタリアにも行ったし、ドイツ国内も幾つか回った。一人で乗ったバスもあれば同行者と隣り合ったバスもあった。其々の残像が、深夜のバス停でハンバーガーをかじる、最後のイタリアへ旅立たんとする私の目に浮かんだ。本帰国するという事がこのバス停を遠ざけるのであれば、帰国などせずにドイツに残りたい気も起こった。それと同時に、仮にドイツに残った所で深夜のバス停に浮かぶ残像は残像のままで、ドイツにいるからと言って再びそれらの残像が実体を持って私の手を引くわけでは無い現実も突き付けられた。そういう揺らぎであった。二〇二三年の七月の話である。
 
 
 
 その日バスに乗り込んでミラノへ向かった私も、まさか一年後に地元のテレビ局の番組ロケをカフェという形で受ける事になっていようとは思い浮かぶ筈も無かった。
 
 不断ふだんは土曜日のみの営業としているカフェも、制作局の都合で月曜日のロケを打診され承諾していたから、この月曜日も一通りパンやケーキを準備した。折角なら画面が映えるに越した事は無い。地元のローカル番組であるから全国区の番組を基準に考えては規模こそ劣るが、誰か一人でもドイツのケーキに目を留め「どうやらあの辺りにこんなカフェがあるらしい」と話の種にでもしてくれれば、それで良いんだろうと思う。「番組を観た人が来てくださったら良い」などと人に言ってみると「観ている人も限られているから期待は出来なかろう」と返って来るのが関の山であるが、これは其々の前提が異なるから起こる。何でもかんでも一律の基準で測っては寂しい。「期待」と言えば皆が皆「大盛況を期待」しているかと言えばそうではない。「偶々たまたま番組を観た人の中で一人でも来店してくれる人がいる事」に対する期待もある。私が最低限の労力で細々と動画投稿を続ける理由も全くこれである。

 くして番組の撮影は楽しかった。テレビで観た事のある演者はこの辺りでは有名である。それにしても大人に成るにつれて緊張する事も減っていくというのを実感した私は、極めて通常通りの接客でそれぞれのケーキやパンの説明にあたった。演者の方々は矢張りテレビカメラを意識した動きで、嗚呼ああこれが番組を作るという事かと感心した。結局、パンもケーキも美味しい美味しいと褒めて頂けた。撮影終了後には御土産にと幾つか買って行っても下さった。この美味しい美味しいがカメラの向こうへ伝わると思うとこれはなかなか有難い事である。八月いっぱいの放送との事であったから、さあ果たして来店客の中にテレビで観て来ましたという人がどれだけいるのか楽しみである。
 
 
 
 バゲットを焼くのにも食べるのにも凝り出して久しいが、愈々いよいよ胡桃クルミを入れてみた。この胡桃のバゲットが良かければ本格的に胡桃を調達するのに当たりたい所がある。自分で食べる分にはすでに美味い。しかしバゲットに傾倒しているとは言いながら、使っているオーブンが最適でないというのが依然引っ掛かる。パンとしては成る。食えば美味い。それで十分にパンの存在意義を果たしてはいるが、世間の評論家が目の前に現れて私のバゲットを食べればこんなものはバゲットじゃないと叩きつけられてもおかしくない。原因が判然としているだけにもどかしくもあるが、まあ無闇に急いても仕方が無い。先人と比較するはなお無意味である。美味い事は美味い。今は下積みである。こういう情報も後々に活きよう。
 
 
 道の駅で久し振りの人に声を掛けられて彼是あれこれと話した。私よりも大先輩なこの男は野菜について大変詳しい。私がカフェでリンツァートルテに纏わる能書きを垂れるが如く、或いはそれ以上にこの日も野菜の話を聞かせてくれた。イタリアのナスを作っているんだと聞いた。カボチャも四種類あるんだと言う。話を聞く度に頭に浮かぶは野菜をパンにどう利用出来るかというところである。カボチャについては私も最近ちょうど考えていたから少し詳しくいておいた。こういう話の中にも案外発見がある。
 
 その日、彼と別れ、パンを納品すると、帰りにプラムを買った。そうしてそれを使ってツヴェッチュゲンプラムのケーキダッチを試作した。この名前については稚児ややこしいを重々承知で書いた。安易に直訳してしまって損なわれる魅力と言うのもある。

 これを試作する工程の一つ一つが懐かしかった。視覚も嗅覚も懐郷感ノスタルジックつらまえた。ドイツの工房で見習い生のマリオに作り方を教えたり、彼がプラムの種を延々取り除いている所へ茶々を入れていた景色が蘇る様であった。焼き上がって一切れ食べた。味覚は当時の残像を、この狭く暑い工房の中へ投影し、琴線がくすぐられたのが分かった。ZOBバスステーションでは触れる事も出来ず見送るより他に出来なかった残像は、味覚を通せばこうして近くに感じる事が出来るんだと分かった。私がパンを生業にしてやりたかったのはこういう事だったのかもしれない。
 


 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。



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