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*25 カササギをただ待つよりも

 七夕という風物を意識して過ごしたのは何年ぶりだっただろうか。思い返そうと記憶に飛び込んで連想を試みても、ジョバンニとカムパネルラが天の川を旅するばかり(※1)で七夕の記憶は保育園生だった頃まで遡る必要がありそうであった。かと言って今週の七夕も果たしてどういう因果で思い起こされたのかまるで分からない。短冊を書くでも吊るすでもない私は、試験の後からの雇用を乞うメールや事務的な堅いメールを二三書く必要があったので、それを七夕の日に、余り面倒な未来を引き起こしてくれるなと願を掛けインターネットの川へ流した。


 そんな七夕の日から指導者適性学科(※2)の授業がオンラインで開始された。対面式の授業の時でさえバイエルンの方言に手を焼いていた私は、この授業が始まるまでに画面越しに受ける説明を勝手に想像しては忽ち震えあがっていた。ところがいざ実際に授業が始まってみると、思いの他快適に進んで行く事がわかった。最初の挨拶くらいは先生がビデオを通してこちらに喋り掛けてきていたが、授業が始まるとパワーポイント画面や教科書をビデオに映すばかりで、その上我々生徒はビデオを切ったままなので誰の顔も拝む事無く授業が進んで行く。マイクを通して発言する者もいるが、多くの場合はチャット欄に文字を書き込む事が多い。それを先生が読んでは答えて、そうして授業が進んで行く。

 例えば問題が出された時に、私も何度かチャット欄で解答を投げた。外国人の私にも発言のしやすいシステムであるのだが、やはり他のクラスメートはドイツ人であるからチャットにしても発言が早い。これにはなかなか勝てそうにない。それからバイエルンの方言という話をしたが、尻の青い内から方言を教え込まれているせいでチャット欄でも訛りたがる彼らは、音としてのみ存在する筈の方言を無理矢理文字に起こして打ち込むので、実際に方言で話されるよりもかえって難解に思われた。態々アルファベットの並びをへんてこにして打ち込むのも面倒だろうと御節介な事を考えたりもしていた。

 そんな方言を画面越しに聞く事を恐れていたが、それは然程問題では無かった。寧ろ六月までの三ヶ月で耳がある程度鍛えられていたのか、三月に授業を開始した頃の衝撃と比べると何も感じないくらいであった。かと言って私も遂にバイエルン訛りを会得したのかと言うと決してそうではないし、先生が言われている事も未だに完全たる理解には及ばない。即ち鍛えられたと偉そうに書いてしまったが、厳密に言えば朱に交わって赤くなったわけではなく、ただ朱の中にいる事に慣れただけで、仮に赤くなった事があるとすれば先生の質問に対して見当違いの答えをもごもごと喋った時くらいである。


 問題はまた別の箇所にあった。

 オンライン授業はパワーポイントや教科書を使って進められるのだが、これが先生によってばらばらで、中でも機械に疎いのか頑なにパワーポイントを使わずノートや教科書に書かれた手書きの文字で授業を進めていく男の先生がいるのだが、彼の文字が実に歪で困る。


 ここで一つ断わっておくべき事があるのだが、これまでの授業と言えばシュテファン先生とフーバー先生が主たる先生で面倒を見てくれていた。しかしこの指導者適性学科の授業においては、あくまでも製パン科の先生である彼らは無関係なのである。一見、時期的に三月から十月まで一繋がりの授業を私が受講しているように見えるのだが、実は全てばらばらで三月から六月に製パン科、七月に指導者適性学科、そして八月末から十月頭に経営学科という三つのコースを、私がまとめて今年に申し込んだだけなのである。従ってそれぞれのコースにおいて先生も違えば、クラスを構成するメンバーも異なってくる。


 そう言ったわけで彼の授業を受けるのも勿論初めてだったのであるが、その書かれた文字には面を食らった。いや、ドイツに限って言えば彼の文字は決して下手の分類には区別されないだろう。必要以上に筆記体になっているわけでもなく、ただ嘴(くちばし)の黄色い私がパワーポイントの活字によって進められる授業に慣れ過ぎて、目を甘やかしてしまっただけの話である。活字ばかり追いかけて来た私の目がいざ人の手が生み出す不完全な文字を見た時に、シルエットが重なり合わない為に読み取るのに時間が掛かってしまうだけである。


 そんな遠慮がちな客観はさておき、主観で見たら全く酷い物である。その上この先生は、抑揚の無いトーンで足早に授業を進めていく。時にある生徒が板書を写し切れていない内に次のページへと移ってしまったので、もう少しゆっくりお願いします、とその生徒がチャットに書き込むと先生は「まだ書いていなかったのか。一体何の職業のやつだ、そんなに遅いのは」と、また抑揚の無い声でぼそっとアイロニーを言うのである。どうもどこか偉そうで鼻につく男のような気がしてならない。こんな男はきっとやたら大袈裟に特徴付けた故に読みにくくなってしまっている自分の文字を家に帰ってから一人称賛して満足しているに違いない。私はどうも先が思いやられるような気持ちになった。とは言っても私がやる事は変わらないのであるが、そう思うと製パン科の二人の先生は実にマイスターたる人格者であった。

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 今週の授業は三日間のみであった。この科目の内容自体は然程難しくなさそうな印象であるが、新しく耳にする言葉が山ほどある。製パン科の授業は数年前にも習っていたし、そもそも職業に直結していたので想像に難くなかったが、今度の授業で扱われるのは指導者として知っておくべき事であるので私にとって全く初めての分野である。マイスターが見習い生に手解きをする流れくらい容易に想像出来るが、それを表現する専門用語が手強そうであるので宛らドイツ語の授業の積で思っていた方が幾らか気は楽かもしれない。

 金曜日に今週最後の授業を終えると、至急私は隣町のパン屋へ向かう支度をし始めた。有難い事に同居人が私をその街まで車で運んでくれると言うので私は甘えて車に乗り込んだ。実を言うと前日に偶然インスタグラムでそのパン屋の投稿を目にし、一目惚れの如く惹かれホームページを見ているとどうも開店して間もないパン屋らしく、ますます興味が湧いたので、未来の就職先としての観点からも白羽の矢を立て、それで翌金曜日にすぐにでも見に行こうと思い立ったのである。


   *** 
 パン屋の外観は想像していたよりも質素であった。それから店内はそれよりもさらに質素で、殺風景という言葉を用いるべき程であった。店に入ると、販売員が一人長机の前に立っておりその長机の上には電子秤とレジスターがあるばかりであったし、その机の脇には粉袋が山積みにされていた。販売員の後方には壁板が一枚立っていて、その壁に九種類と少ないパンがそれぞれ籠に入れて陳列されていた。その壁の向こうは直ぐ工房であった。

 そんな殺風景な景色の中で陳列されたパンだけは一際輝きを放っていた。何も目新しさの無い、クラシックなドイツのパン。素手で掴んだら今にも手を切ってしまいそうな程ごつごつと割れたパンの姿が兎に角美しく私の目に映った。私は香辛料の風味の強いブロートを一つと小型のパンを一つ買って、家に帰るなり早速切って食べてみた。するとクラム(※3)の食感が、私の知っているドイツパン、もといライ麦のパンとはまるで違ったので私は驚いてしまった。

 本来であれば堅くて酸っぱいというイメージのあるドイツパンは、クラムもしっかりと歯応えがあるものである。ところがこの店のパンはまるで口の中ですっと溶ける様であった。ほどける様であった。こんなドイツパンを今まで私は知らなかった。実に貴重な出会いであった。ただ極限られた人員で営まれていると見えるそのパン屋に働き手として体を入れる隙間は幸か不幸か無さそうであった。


 パンの食感に夢中になってポケットの中のスマートフォンの存在をまるで忘れていた私は、バターがついているかもしれない手を入念に拭った後、スマートフォンを取り出して電源を入れた。すると七夕の日に私が書いた短冊代わりの幾つかのメールの内、オーガニックのパン屋からの返事が紫雲に乗って来るが如く届いていた。是非会って話してみたいから都合はどうだ、という内容のものであった。こんなに早く返事が来るとは想定していなかった私の心はあたかも川の向こうに織姫を見付けた牽牛(けんぎゅう)の如く、しかしそれにはまず足元の激流を渡り切らねばならない事を再確認すると、カササギの飛来など待っていられるかと、腹を括り直すなり足裏で川底の砂利をぐっと掴んだ。



(※1)ジョバンニとカムパネルラが天の川を旅するばかり:宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』のこと。
(※2)指導者適性学科 [Ausbildereignung / AdA]:指導者としての心得などを学ぶ学科。四部構成のマイスター資格試験の内の一つ。
(※3)クラム [ Krume ]:パンの内側の部分。

※写真や挿絵の使用、生地の引用等につきましてはご自由にどうぞ。

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マイスター養成学校が始まり勉強に全身全霊を注ぎ込む積でいまして、それに伴い勝手ではありますが記事投稿の日曜日以外はなかなかnoteの方にも顔を出せなくなります。どうかご了承ください。

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