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*29 夢から覚めた

 近頃は全く自室に居るが快適である。近頃と言ってもその傾向は一週間前辺りから強まり始めた様に感じているが、それの所為せいでアパートを一歩出た所からどうにも居心地が落ち着かない。職場に居ても何だか早く帰りたくて堪らない一週間を過ごした。これは然し仕事に身が入らないのとは分けが違う。仕事は仕事で真面目に取り組むし、職場のシュトレンの製法もシェフ直々の説明で学んだ。成形する手も真剣に動いたし、頭も良く働かした。それでも可能な限り一刻も早く帰りたくて堪らなかった。ああ、思い返せば不断にも増して小さな労働上の過失が目立っていたかもしれない。
 
 テレビも無ければ同棲者パートナーが待つでも無いさみしげな部屋に早く帰りたいという感情の正体を暴いてみると、社会という外界から自分の世界の内へ逃げ込みたいとも言い換えられるように思われた。そしてまたその身包みぐるみをさらに剥いでみると、他者と混じわらない純然孤独じゅんぜんこどくの時間を極力確保したい欲求であるとも思われたのは、パン工房から早く帰って来ておいてまたせっせとパンを焼くなどしていたからである。恐らく遠くは十月の上頃から沸々と私の中にひっそりと起こり始めていた名も無き意思の原石が、時の流れの中でパリの歴史や人との出逢いにごつごつと打ち付けられながら形を整え、流れ着いた私の足元でその洗練された姿を輝かせた時、放たれた光は私の瞼の裏側に一人静かにパンを焼く環境への強い憧れを映し出したのである。ただでさえ他者の感情や思惑の殆どを容易に感じ取れてしまう私は、感じ、そして受け取ってしまう無形のそれらが必ずしも平穏ではなく、時として、いや多くの場合に嫌味や毒味を含んだ精神的苦痛性を持つ刺激物であると気が付いてしまった。暗黙の規律であるとか社会的しがらみであるとか、皆目を瞑って飲み込んでは平気で美味いと御世辞を吐ける食物を、私はどうにも健全であると思えず右に倣えで美味いと世辞れないどころか、これ以上飲み込む事を体が拒否している合図サインを俄かに感じ取ってしまった。思えばドイツに渡って初めて務めた職場でも、またその他同郷者の人間関係の内にも同様の刺激物を見付けては人知れず睨め合い時として血気盛んに牙を剥き出しにしてきたが、思い付く幾つかの別世間に共通してその習慣が見られるというのであれば、如何にそれらが毒性で不健全であろうとも異端は私の方である。それで私は自室に籠りたがっていたのだろうと思う。寒しい世に冷やした手を、人目の無い場所で吐く己の溜息で温めようとしたのだろう。
 
 
 それで、という一理によるものだけでも無いが先週末からカイザーゼ※1ンメルを二度とパン・オ・ショコラを焼き、末頃になるとバゲットの試作をしていた。最初のカイザーゼンメルは形だけを見ると一見真面まともに焼き上がっていそうであったが、大きさに物足りなさを感じた。どうしても業務用のオーブンではないから火力も蒸気スチームも劣ってしまうが、影響はそうした直接的なものに限らず私の場合は発酵の見極めにも大きく影響を及ぼされた。

 と言うのも予熱にかかる時間や電気代が頭を過ると、どうしても発酵完了の時と予熱完了の時が同刻である事が望ましく、仮に予熱が完了して尚、発酵が不十分である場合などは稼働したままの家庭オーブンの背後に価格高騰の影がちらつき、その重圧に文字通り煽られるようにして発酵を焦りその結果ボリュームに貧しいパンを焼いてしまう事がある。この時はまさしくそれであったと考察した私は、翌月曜日に早速また中種※2を仕込むと、火曜日には発酵に十分注意を払って再度カイザーを焼いた。前回であればオーブンに入れてしまっていそうな発酵具合になってからオーブンに熱を回し、その隙に自分はシャワーで仕事の汚れを流した。そうでもして強制的に発酵時間を延ばした。するとボリュームは俄然増した。それから風味や食感も良くなった。所がカイザー特有の形は歪になっていた。そう言えば以前に形がいびつるのを避ける為に発酵を早めに切り上げてオーブンに入れようと心掛けた事があった。成程、これが家庭用オーブンの限界であろうか。然しまだ手の施しようはあるに違いないと思った私は、今度は生地をよりしっかり捏ねてみる事を主題に置いて取り組む事にした。

 パン・オ・ショコラの方も課題が残った。こちらはバターの折り込みである。折り込みと言えば巷でも難しい難しいと嘆かれがちな作業であるが、斯く言う私は日々扱う中で感覚を養って来た自負がある。然程恐れも無く取り掛かり一度二度三度と折り込んだ所までは順調に思われた。所がここで四度目の折り込みに移る時に注意を欠いた。これまで三度、折り込む度に冷蔵庫で暫く寝かせていたのであるが、この四度目に際しても同じ間隔インターバルで折り込んでしまったからいけなかった。焼き上がって齧って食感も味もまあ及第点には届いたと言えそうであったが、一つ不注意が判明している分満点とは言えなかった。生地が良かっただけに大変悔やまれた。

 週末頃にはバゲットを試作してみた。生地自体はこれまでに何度も作った事があったが元来バゲット生地で無いだけに、それでも食感も味も好みであったから是非バゲットとして試して見たかった。結論から言えば失敗である。覚悟していた以上に生地の扱いにバゲットとの異があった。然し乍らこちらも幾つか手直しの利く点が目に留まったのでまた近い内にやり直してみる事にする。

 先に述べた稚児ややこしい内面の変化を受けてこうして只管ひたすらパンを焼いてみると増々私専用の工房という物が欲しくなった。誰にも何にも気を張らずにただ生地の機嫌と発酵の塩梅にのみ神経を使い、業務用の設備の整った静かな空間で黙々とパンを焼けるならそれほど居心地の良い空間は無いに違いない。そうした私の心の底の理想郷が随分と輪郭をはっきりさせた。今年の一月に私はこの二〇二二年の役割を「今はまだ霧がかって靄々もやもやとしている※3視界を晴らす為の術を身に付ける」ものだと推望すいぼうしていたが、年末を前にして霧がやや晴れ始めたのかもしれない。

 さて冒頭で少し述べておいたが、シェフからベッカライ・クラインにおけるシュトレンの仕込みを教わった。この店のシュトレンと言えば私が昨年太鼓判を押し、墨と折紙を付けた代物である。仕込みも教わり、それからこの日も例の如くアンドレと共に成形をしたのであるが、完成形を見たシェフの口から「どれも綺麗に焼けている」との大人しい称賛があった。私はそれでも「屹度この私が成形した一つは案の定少し歪になってしまったね」と、少々至らなかった点を突いたが、アンドレとシェフが口を揃えて「Handwerk手仕事の証拠だ」と言った。私はその一言に救われたと自己中心的に感じるよりも、この言葉、この感覚こそがドイツで人とパンが共に生きて来た証拠であると大人しく痺れていた。そうしてみると自室ラボで焼いたカイザーだのパン・オ・ショコラだの、ひいては失敗作のバゲットでさえなんだか健気に見えた。
 
 
 
 土曜日の晩に職場のクリスマス会が開かれた。世間の喧騒から逃げるように自室に籠りたがっていた反面、相変わらずこうした集まりでうたげるのは好きであった。十月の上頃に意思の原石が生まれたと言ったが、その切掛きっかけであったのも職場の飲み会である。あの日に私の生活の調を良くも悪くも崩したウーゾ※4という酒が、この日はまるで体が飲み込む事を拒絶しているかの様で、一杯は貰ったがそれを飲んだきり、途端に腹の中が不快になってそれから水ばかり飲んでいた。体の拒絶反応には素直に従うがやはり健全である。



(※1)カイザーゼンメルKaisersemmel:王冠を模した形の小麦の小型パン。
(※2)中種Vorteig:本生地を作る前に作る、粉と水と微量の酵母を混ぜて発酵させる生地。
(※3)「今はまだ霧がかって…術を身に付ける」:ドイツパン修行録『新年の展望』より引用
(※4)ウーゾUZO:アニスを使った無色透明のギリシャの蒸留酒。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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