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*19 クロワッサン

 何時ゝゝいついつ曜日に見習い生が余りに残業をし過ぎていたから最後の掃除をもっと急いでやらせないといけないよ、と先日横眉怒目おうびどもくな表情をしたアンナから直々に忠告を受けた私は、そうかそうか分かったと聞き入れて、それからマリオにもう少し急いで仕事をする様に単簡に伝えた。この時の私はアンナが深刻げに、また不満げに吐露した愚痴の主旨を、同じ温度で受け取るつもりがまるで無かった。それだから私が見習い生に伝達した時には、すっかり忠告の熱は冷え切っていた。しかしこれは何も私が教育をいい加減な所で切り上げて、この職場がどうなろうと私の知った事ではないと無責任に職務放棄をしているのとは違った。寧ろ私の主観から言えば、見習い生が余計な委縮をせぬようにという心掛けで、かえって職場の未来を案じての行動であった。
 
 ドイツ人と日本人は屡々しばしば持っている性質が似ていると言われる。私がドイツに渡る前にも、インターネット上にそういった類の記事を幾つも見掛けた。そこで並べられる類似点の一つに、時間厳守という性質がく挙げられている。実際に時間厳守という点においてドイツ人と日本人とが似ているか否かという問題はさて置き、ドイツでは終業時間を厳守すべきという考えが大変強い。当時に読んだ記事によれば、終業時間を守れない、即ち残業ばかりする者は己の能力の低さを周りに見せつけていると同じ事の様に思われる、とさえ書かれていたのを覚えている。成程なるほど道理どうりで見習い生が掃除をするだけにも関わらず一時間も残業した或る一日の事にアンナが目鯨を立てて大事おおごとらしく取り扱う筈である。日本で働いていた時分の、毎日の様に十五時間くらい仕事や寮生活に拘束されていた私に対して、終業時間厳守を掲げるドイツの労働環境を説いてみれば、まるで天国か夢の様な話じゃないかと驚かれるに違いない。然しながら実際身を置く私からしてみれば、それは手放しに褒められた慣習であるとも断言しがたかった。
 
 仕事の遅い者が残業をする羽目になるという道理は筋が通っていると言えよう。然し残業をしている者が皆仕事の遅い者であると転逆させた時、果たして同様に筋が通るかと言えば捻繰者ひねくれものの私には容易に頷けなかった。それだからアンナが見習い生に覚えた不満も理解は出来たが、果たして実際にはどういった理由で一時間残業するほど掃除に手間取ったんだか本人に聞いてみる迄は頭ごなしに叱れなかった。また理由を聞くにも私が自分で納得するまで聞く性分であるから納得した頃には、じゃあ次からはこうしなさいと具体的に解決策を示すだけで、遂には叱るという事を忘れてしまうくらいなものであった。私がそう素直に頷けないのも、過去に味わった経験を思い返せば当前とうぜんの事であった。
 
 ドイツに渡ってから初めに勤めたパン屋には職業訓練期間も含めて五年間身を置いた。ドイツ人も日本人も共に勤勉だと言われる事があるが、同じ熟語で括るのはいささか乱暴に思われた。多くのドイツ人は自身の作業範囲というものを大変律義に守った。持ち場に付き仕事を始めてから持ち場を掃除して片付ける所までを自分の仕事と認識している彼らは、与えられた労働時間の中でそれらを片付けられるよう勤勉に働いた。それはすなわち自身の範囲の外にある作業については押しべて皆無頓着むとんじゃくであるという意味でもあった。すると意思の疎通が十分ではない私の以前の職場の様なところでは、誰の仕事とも定まっていないが誰かが片付けなければならない仕事というのが何時までも残り、結局それに気付いてしまう世話焼きな私がその作業に取り掛かり、挙句あげくに残業の注意を受ける事が屡々しばしばあった。時に全く事実無根のふざけた残業理由をでっち上げられ、その嘘偽がシェフにまで伝達されるという不当な扱いを受けた事さえあった。その記憶がアンナの曇った表情と淀んだ口調に蘇らされたから、私は彼女の怒りも話半分に聞いていた。土曜日にはルーカスから私自身の残業についてもとやかく言われた。彼の方では私が早く帰れるようにというのが真意であろうが、過去の経験上相変わらず余り良い気持ちのしないでいた私は、うんうんと彼の助言に頷きながら、まあ成るべく早く仕事を終えられるように頑張るよとへらへらそれなりにして彼の週末の予定でも尋ねた。全くどれだけ迅速に抜かり無いよう働いたって残業すれば仕事の出来ない者だと評される世の中も、無償で残業するほど真面目だと褒められる世の中もそれでまともなんだから仕様が無い。

 まあそうは言っても私は郷に入って来た余所者よそものの身であるから大人しく郷に従うのが通例である。只でさえ何処に居たって浮いてしまう私である。
 
 見習い生が職業学校の為不在であった木曜日、単純計算でその分の負担も片付ける必要のあった私は、製菓職人のシルヴィアの応援もありたった十五分の残業で仕事を済ましアパートに帰ると、小休憩もシャワーも後に回してクロワッサンの生地を捏ね始めた。パン作りはパンとの対話とも言うが彼らには暗黙の了解も野暮なしがらみも無く全く素直で安心である。
 
 パリを訪れるにあたって、本場のものを見る前にクロワッサンというものをもう少し知っておこうと考えた私は、職場でクロワッサンを成形するにも何時になく注意を注ぎ、休憩にもクロワッサンを食べ、それで今度は自分でも作る事にしたのであるが、折角ならとフランス仕込みとされるレシピで作る事にした。
 
 まず材料を量るにあたって生地の中にバターが入らない事に目を疑った。これまでにも様々なクロワッサンのレシピを試して来たが折り込み以外にバターの入らないレシピは初めて見た。まあこれをフランスの主流と決め付ける積も毛頭無いが新発見であるには違いなかった。それで生地を捏ねると所謂一次発酵を長く取った。ドイツの製パンでは一般的にここの手順が省かれる場合が多いからこれも普段と違った。それでバターを普段通りに一度折り込むと今度はその生地を冷蔵庫の中で最大半日も寝かせろと書かれていた。成程と私は唸った。ここで取る十二時間が果たしてどう影響するんだか、それを私が気付けるのか見物であった。折り畳んだ生地を冷蔵庫に仕舞うとそこで私は漸くシャワーを浴びた。
 
 翌日になって冷蔵庫から生地をそっと取り出すと彼が目を覚ます前に二度目の折り込みを済まし、また冷蔵庫で寝かせた。それをもう一度繰り返した所で本来折り込みは完了の筈であったが、どうも一度目と二度目で十分にバターが折り込めていなかった様に思われたので、独断で余計にもう一度折り畳んだ。この日ここ迄は大した驚きも無く作業を進めて来たが、生地を伸ばし三角形に切り分けた後、もう一度冷蔵庫で寝かせるんだと言う念の入れっぷりにはまた唸らされた。過去に作ったクロワッサンも職場で作るクロワッサンもここまで入念に時間を掛けた物は知らなかった。

 暫くして通常通り成形し、十分に発酵をさせて焼き上げると、何とも美しいクロワッサンが姿を現した。私は小躍りでもする如くに感動し、焼き上がったクロワッサンをあらゆる角度から眺めてみた。こうして目で味わっている段階において既にこれまでに焼いたクロワッサンよりも上出来に思われた。それを十分に冷ましてから今度は舌で以て味を見てみると、成程、過去に味わったクロワッサンよりも味わいが濃く感ぜられた。また食べ応えも物凄かった。生地その物にバターが練り込まれている今までの物と比較してみても同じ事が言えた。完成する迄も騒がしかった好奇心は、完成を迎えて尚沸き立った。同じレシピをもとに何度も研究してみたいと言う気が起こった。或いはルヴァン※1種を起こして今度はそれを使ってみたいとも思った。そしてまた、まだ見ぬパリのクロワッサンへの想いも強まった。只パリにある幾つものクロワッサンを食べ比べるのみならず、私が今週作ったクロワッサンを軸に比較してみるのも面白そうである。 



(※1)ルヴァン種Levain:フランスの発酵種。  

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。

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