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*37 ギャンブラー

 織田信長は新しい物好きであったという逸話を耳にした事があった。鉄砲もカステラも、南蛮から伝わった文化を進んで受け入れたのが信長公である、と。私が今生業なりわいとしているパンが伝わったのも全くそれと同時である。一五四三年にポルトガル人が種子島に漂着し鉄砲もパンも伝えられた御陰で、私が今パンを売る時に態々わざわざ「パンというのは小麦と水を練り合わせてですね、」などと説明せずに済んでいるわけである。
 
 信長亡き後、時は流れその内世界をすっかり断絶した鎖国の時代は二〇〇年と続いた。パンもカステラも伝わったは良いがその後南蛮ではどのように進化していくんだか誰一人として知る由もない。それで日本ではあんぱんをはじめとする独自のパン文化が発展していったんだと知った時、成程なるほどそれで日本では諸外国の料理を自国民の舌に合うよう亜錬自アレンジするという技法が一般的である事にも合点がいった。しかしそうして納得する一方で悔やまれるは開国である。仮に鎖国が現在まで続いていたとしたら、日本独自のパンはどの様な変貌と進化を遂げていたんだか、考える程大変興味深い。
 
 
 さて私はと言えばドイツで学んで来たドイツパンを逆輸入するばかりで、それを母国民向けに亜錬自するもそれを独自に進化させるも今のところ脳裏にさえ浮かばない。無論この先そうした方面へ矛先を変える可能性が全く無いとも言い切れないが、江戸のパン職人が信念ポリシーを持って独自開発を進めたのと同様、私にも人並みに信念ポリシーらしい事が一応ある。
 
 人間が食べ物を感じるは主に味覚である。次いで視覚で、嗅覚や触覚、聴覚と続く。あるいは現代において言えば、情報を得る為の視覚聴覚が味覚すら凌駕し得るかもしれない。兎に角五感を存分に使って味体験をする我々であるが、その全ての感覚が一度必ず脳を経由する時、そこに一枚、歴史や起源、風土や伝統といった類の物語を含むフィルターを通過させると、それが味覚の起爆剤となり美味しさは少なからず増幅する様に思う。
 
 イタリアで食うピザが抜群に美味いのは、イタリアの風土や気候、その土地で育った食材でその土地の人間によって生みだされた食べ物であるから、という点に尽きるは言わずもがなであるが、いくら本場の老舗のピッツァを頬張り囓ってみた所で風土の味も歴史の味もせず、ただただトマトとチーズの味を舌が捉えるのみである。これは京都の八つ橋にも銀座の最中もなかにもおんなじ事が言える。
 
 この味が脳に伝達される際に例のフィルターをくぐると、突如トマトの旨味が濃く滲み出し、チーズのこくが透き通る。八ツ橋の肉桂ニッキの香りはなお際立ち、至極単純な組み合わせの最中と餡子にさえ奥行を見出す。口にする物の発祥地は何処で、起源は何時で、歴史は如何どうして今日こんにちを迎えたのかをいちいち考えながら食べていてはピザは冷め、最中は湿気ってしまう。食事に際して悠長に思考の旅へ繰り出すいとまは無い。それだからフィルターを設ける。これすなわち興味関心の類である。
 
 
 
 先日に到頭とうとう芥子けしの実を手に入れた私はそれをフィリングにして、そして試食するなりドイツに住んでいた時代の記憶と感覚をはっきり蘇らせた。するとさらなるドイツの味が恋しくなった。もとい、私が親しんでいた味を人様に味わってほしい様な気持ちになった。ドイツの味、と言っても大衆周知のドイツパンでもドイツ菓子の事でもなく、私が私の時間の上で味わってきたドイツの味である。

 一つ目論もくろむはビーネンシュティッヒである。蜂の一刺しとでも訳せるこの菓子との思い出はマイスター学校にあった。パン職人として働いていた私は製菓部門が工房脇にあれど、なかなか製菓作業に勤しむ場合がなかったから、マイスター学校に通っていた時分、周囲のクラスメイト達との間に大きな差として現れたのはまさに製菓の経験値であった。当時の敗北感についてはここに列挙しかねる失態をもってして私の心底に未だぐさりと刺さって動かないでいる。
 
 ビーネンシュティッヒを初めて作った授業も、次々躊躇う間も無く作業を進めていくクラスメイトの動きを横目に観察しつつ、方言過多な教員の説明に耳を食らいつけつつ見様見真似で何とか形にした。恐らくその時きりか、あったにしてももう一度くらいなものであった。思い返しても未だに苦い。
 
 しかながら分析すると、あれは一人勝手に重圧を感じつつ焦燥感に苛まれつつの作業であったところに苦味成分があったのみで、仮に一人、レシピを見つつ手順を確認しつつ落ち着いて作業が出来ていたならビーネンシュティッヒの思い出は菓子らしく甘い物であった筈である。実際、今作業手順をそらんじろと言われれば糸も容易く、その上マイスター学校時の雪辱を晴らさんと燃える心意気も相俟あいまって今にも作ってみたい。そうしてカフェに置いてみたい。そういう事を考えた末、来週の試作に向け準備は整った。
 
 
 またそれとは別に目論むはキッシュである。キッシュはフランス料理だ、と指摘されればぐうの音も出ないが、発祥とされるアルザス地方はドイツの近所である。地続きの大地に誰かが勝手に線を引いただけで、時代を遡れば何れも古代ローマ帝国の領土仲間であろう。第一、態々わざわざ歴史を遡らずとも、私がドイツで最後に勤めていたパン屋では毎日キッシュが焼かれていた。そうしてその担当が殆ど私であった様なものである私史実に基づいて私はキッシュを試作しようと思い立ったわけである。
 
 さらに私の私史実のより細かい話を持ち出せば、昨年帰国した後に一度とあるカフェでキッシュを食った事があった。掌サイズと呼ぶなればそれ未満時の掌サイズとも呼ばれそうな小さなキッシュが、一丁前な価格を引っ提げておきながらまるで美味しくなかった。ドイツで散々キッシュを焼き、キッシュを食っていた私はその時に飛んでも無い衝撃を受け、どんなに手を抜いても自分の方が美味しいキッシュを作れるに違いない、と落胆をサイダーで飲み干して店を後にした。
 
 週に一度とは言えカフェという場を与えられた今、ドイツにいた頃と同じようにキッシュをホールで焼いて振る舞えようと思い立った。そうしてその直後に、サイズを小さくしたものであればイベントに出店した際にも並べられようと閃いた。都合よく六月は毎週末の様に出店の予定が入った。順を追って手数を増やしていこうと帯を締め直した。尚、そうして試作したキッシュの出来はいまいちであった。ここに落胆は無い。試作で良かったと胸を撫で下ろすは、まさに製パンマイスター実技試験前日の通し練習が一つとして上手くいかなかったあの日、教師から「気を落とすな。これが練習で良かったじゃないか」と言われた言葉が今でも反芻している証拠である。

 くして週末を迎え、土曜日のカフェにキッシュは間に合わなかったものの、その日訪れた御客に対してこれでもかとモーンシュネッケを紹介したのは私である。私はそれを食べて美味いと言って欲しいかと言われれば無論頷くより他に無いが、それ以上に私の通って来たドイツの味が一人でも多くの人の口に入り、そうしてその味をどう感じるかというところに興味があった。それもひとえに、今でこそ好物と呼べる芥子の実も渡独直後の私の口にはまるで合わなかった経験があるからである。幸いにその日の御客は美味しいと言ってくれた。その瞬間、喜びよりも安堵が生まれる。案外と博打打ギャンブラーの性質を持ち合わせる私である。
 
 
 日曜には地元から少し離れた所のイベントに出店した。また新たな地域の人の口にドイツの味がどう受けるのか、結局そこが興味関心の的である。そしてまた美味しいと声を戴ければそれで安堵に胸を撫で下ろす。博打打ギャンブラーと言っても実際打つ博打ギャンブルは人生だけである。

※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


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