*26 何事もなかったかのように
星の浮かぶ早朝、人気どころか猫気さえも無い閑静な暗闇の道を、私は猛然と駆け抜けた。寝坊である。目を覚ました時刻と本来始業しているべき時刻が全く同刻であった時点で、頑張ってどうにかなるような事態ではなかったのであるが、それでも一生懸命走って一刻も早く職場に着くより他にすべき行動も無かった。私は闇夜を駆けながら、頭では色々な言い訳を拵えようと奮闘した。婆さんを助けるには幾ら何でも朝が早過ぎる。事故に遭遇するにしては車通りが無さ過ぎる。アラームの設定時刻を間違えていたと言うのが最も無難に思えたが、だからと言って私の責任である事には変わらない。これは困った。
言い訳を生み出すのにもほとほと手が詰まると、それで空いた頭の中に過去に起こした幾つもの遅刻の情景が映し出された。ドイツに渡って最初の年の働いてまだ間もない頃に、ドイツでの初めての遅刻を記録した。深夜の電車通勤で一駅分寝過ごしてしまったあの時は、名前も知らない次の駅に着くなり大慌てで降りたはいいが、街灯も無ければ当時はまだ真面にネットワークを使用出来る携帯電話も持っていなかったから、右と左が分からないどころか前も後も分からない闇夜の中で、線路沿いを電車の来たのと反対方向に泣きそうになりながら走った。途中背中でゆさゆさ揺れていたリュックサックから荷物が落ちた時、大きい物こそ暗闇の中でも判別出来たが、万が一細々した物も一緒に落ちていたとすれば紛失しかねないという思いもありながら、確認の術も時間も無かったから諦めてまた走り出した。工房に入ると皮肉の籠った拍手で迎えられた私は、当時私が付いていたオーブン担当の男にまるで泣きつくように謝った。その男が冷静に「二度目は無いぞ。一先ず汗を拭いて来い」と言って私を更衣室に促し、それ以上に責められなかったのを覚えている。
その遅刻があった職業訓練一年目の年だけで、私は結局四回の遅刻を記録した。最初の寝過ごした遅刻を除いては皆寝坊であったのだが、中でも四時間の遅刻をした時はもうその職場に見放される事さえ覚悟した。当時夜中の十二時前に家を出て、大凡一時間の通勤を経て一時に始業するという風であったのだが、その日は三時半頃に目を覚ました。病欠という事にして寝込んでいた為に連絡も出来ませんでしたという事後報告に逃げようかという案も脳裏に浮かんだが、私は正直にマイスターに電話をした。もうその時間では電車が動いていなかったから、私はシェフの出勤時間を待ち、彼の車で朝の五時に出勤した。車中終始顔を伏せるより他に立つ瀬の無かった私にシェフは「誰にでも起こり得る事だ、心配するな」と前向きな言葉を掛けてはくれたが、そもそも工房の状況もろくに把握していないシェフの言葉がどれだけ優しかろうと、実際現場に立つ同僚達の表情や胸の内を思うととても前など向けなかった。
電車で寝過ごした遅刻がドイツで初めての遅刻だったと言ったが、宮大工として日本で働いていた頃にも遅刻は度々あった。遅刻王の名を恣にしかねない屈辱的な経歴であるが、遅刻について怒られた記憶と言うのは案外と少ない。日本では建設会社の敷地内にある寮で生活をしていた私は、度々朝礼のラジオ体操の音楽で目を覚ますという事があった。その場合にはラジオ体操の終わるタイミングを待って、さっき迄会社の敷地内に大きく広がって体操をしていた作業員達が各々の現場ミーティングに移る所へ紛れて、何食わぬ顔でしれっとミーティングから参加しては結果的に叱責を回避していた。
さて、始業時間に目を覚まし、職場を目指して走りながらそんな回想をし、言い訳も手詰まりになった今度の私はと言うと、逃げも隠れも出来ない事態であったから、然も端からこの時間に出勤するよう託けられていたと言わんばかりに堂々と工房に入り、働くシェフとルーカスに向かって「Morgen」と言い放つと、走ったわりに息も上がっていなかったから何事も無かったかのように工房の中の動きに入り込み作業をし始めた。出された指示には不断通りか或いはそれ以上にはきはきと景気良く返事をした。当然シェフは私の遅刻に気付いていたと見える苦い顔色をしていた。ルーカスも訝しげではあった。それでも結局一度も遅刻について言及されなかったどころか、ルーカスともまるで通常通りに談笑を交えながら働いた。何事も無かったかの様に、という言葉のこれ程上手い例はなかなかあるまい。とは言え胸の内では平生を装う為の物凄い緊張を抱えつつ猛省していた私は、不断以上に精力的に仕事を終え、家に着きその一日を思い返した時、寝坊して飛び起きた時の絶望的緊張と、何事も無かったかの様に工房に入って行った時の戦慄的緊張が相殺し合い緩和され、我が事でありながら笑いが込み上げて来た。
「新工房の工事が遅れていて年内の移動が難しいから、今年もクリスマスに向けて賑やかになりそうね」と製菓職人のアンナが、多忙と混雑を極め製パンと製菓で機械の取り合いも起こり得るであろうその時期の工房を皮肉った。本来の予定では間も無く製菓部門が製パン部門より一足先に引越せる見積もりであったのだが、それが無くなった事態が彼女にそう呟かせた。確かに気が付けばクリスマスも間近である。
製パン部門では今週からクワルクシュトレンが先行して焼かれ始めた。焼かれ始めた、と他人事の様に言ったが金曜日には私が焼いた。冷凍されていた成形済みの十二個の生地を大きいトレーに乗せて室温の中で解凍と発酵をさせてあったのを私は知らずにいたのであるが、或る同僚はそれを私の傍の作業台の上にどんと置くなり、誰かやれよというような事をぶつぶつと言ってその場を離れて行き、また別の同僚はまるで見て見ぬふりで近付こうともしないから私が面倒を見るより他に無く、彼らのコミュニケーション能力の低さに呆れながらも、きっと焼成温度だの焼成時間だの不確かな点が多いからそれで敬遠しているのだろうと私は特に何とも言わずクワルクシュトレンに手を付けた。斯く言う私もベッカライ・クラインに来てから初めて触るクワルクシュトレンであったから見様見真似である。発酵具合も焼き加減も集中して見極めた。よく職人は扱う物と対話をするのが大事と言うが、あれは最も単簡な言語化で厳密に言えば、或いはパン職人である私の場合で言えば、脳の神経を一部生地の中に宿らして、例えじっと見詰めたりべたべたと触らずとも生地の状況を脳で感じるというのが対話の仕組みである。それだから対話には大変な集中力が要る。そうしてそれらが上手く焼き上がると脳の緊張が解れて安堵する。この日のクワルクシュトレンも全くそれであった。
半ば押し付けられた様な形でクワルクシュトレンの責任を背負ったが、矢張りパンとの所謂対話をしているとそんな苛立は疾うに忘れてしまっていた。製パンの楽しさを一点に絞るならばこの対話の点に尽きる。嫌な事があれば人と会って話をして気を紛らわすという精神衛生上の営みはこの場合にも反映された。
この翌日に休みを控えていた私は、仕事が終わってから一度帰宅し、新しい靴を卸して街へ繰り出そうと考えていた。ところがどうも日本に住む友人から二カ月も前に発送された荷物が到頭届くらしいという連絡があり、荷物を受け取る際に金銭を幾らか支払う必要のあった私は、嬉々として荷物を待つ代償に荷物が届く迄身動きが取れなくなり街へ出るのは諦めた。帰宅してから三時間近く経った頃、漸く荷物が届いた。受け取る際の支払いは現金のみだと言うので財布を開くと、運良く丁度指定額が入っており、それが出ていくと財布の中身は小銭で一ユーロにも満たなくなった。更に友人の荷物と共に、もともと来週中に届く予定であった筈の絵画の小さなレプリカも届いた。街へ行くなら仕事を終えて直行も出来た所を、態々靴を卸したいが為に一度帰宅した事が功を奏しこれらを受け取れたこの日は十一月の十一日であった。そう言えば近頃は頻く二桁数字の連続を見掛ける。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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