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*34 キャロットケーキ

 水の張られた田圃たんぼに陽の光がはず煌々きらきらと輝く様がなかなか見応えのある美しさだと思った時、この感性は身体的成長にともない育まれたのか、それとも精神的成長にともない培われたのか気になった。少なくとも少年時代の私はまさかそんな事を感じた事は無かった。して、黄金こがね色の穂なびく秋の田でもない、この時期の水の張っただけの田に態々わざわざ注視する理由が無かった。蛙の鳴き声が聞こえて嫌だと思ったくらいのものである。
 
 今年に入り予々かねがね、雪の白に始まり、桜、菜の花と自然生態の漸次的移行グラデーションが目に留まってその都度書き残してきたが、燦々さんさんと降る太陽光を浴びる春の田圃たんぼもその並びに加わった。まさに風光明媚である。思えば白のベールを剝がれた山々もなお迫力を増し、時折車を運転していて目の前に山脈が望まれると、エジプトで同じ様に車の中、後部座席から正面に見えた夕日に照らされたピラミッドの姿を彷彿とさせて感動的である。
 
 屡々しばしば欧州ヨーロッパ諸国の街並みは絵になると過剰に褒めそやされる事があるが、日本の“日本らしい”景色も十分絵になる。油絵具で描けば欧州の街は日本の景色より映えようが、岩絵具で描けば日本の街の方が映えよう。画材によって描き方は変われどいずれも其々それぞれ絵になる筈が、画材の違いに気付かぬまま西洋化された日本の“西洋らしい”景色は、大和絵風に描いても「古風」と囃されるばかりで、結局人は“西洋の西洋らしい”景色に惚れゝゝほれぼれしてしまう始末である。
 
 日々刻一刻と油絵具をぽたぽたと垂らされる我が国のキャンバスも、残る大和絵が完全に上塗りされてしまうは時間の問題である。油彩の上から水彩で重ねて描くは不可能だが、水彩の上から油彩では幾らでも重ねて描けると例の画家の方も解説していた。日本に残る“日本らしい”水彩の風光明媚、油塗れの世に少しでも魅力を伝えたいと思う時、取るべき筆はAIであるんだから袋の鼠、俎板まないたの鯉、前門の虎後門の狼である。
 
 
 
 さて私が道の駅へ油塗れの“ドイツパン”を納品に行く農産物直売所でも季節の移ろいが感じられた。今週の或る日は、何処かのテレビ局のリポーターが生産者入口前で待ちながら、来る人来る人に「根曲がり竹の生産者さんですか」と頻りに尋ねていた。無論、私も尋ねられて「違いますよ」と答えた生産者の一人であるが、その御陰で今が根曲※1り竹の季節なんだと知った。そうすると直ぐに鯖の水煮の入った竹の子汁が頭に浮かんで懐かしくなった。
 
 それで納品を済ませた後、ぐるりと農産物の棚を見て回るとアスパラガスを見付けた。それでアスパラガスと春と言う季節が繋がった時、そう言えばドイツでも五月が白アスパラガスの季節だった事を思い出してまた懐かしくなった。
 
 スノーキャロットと呼ばれる人参も棚に見掛けた私は、そこで少し足を止めた。スノーキャロット、すなわち雪下で育った甘みのある人参はこの地の名物だと話には聞いていた。またそれを使ったプリンも見た事があった。そのスノーキャロットをようやく今実際に見た時、キャロットケーキが頭に浮かんだ。これは良いヒントを得た、とそのままきびすを返し家へ戻った私は、ドイツで買った菓子の本を引っ張り出しキャロットケーキのレシピを調べて準備をした。
 
 
 翌日、また道の駅へ行き、納品がてら館内をぐるっと回ってみたが、昨日スノーキャロットが置かれていた所にその姿が無かった。望み薄であるは承知でその他の棚も一通り見たが矢ッ張り無かった。私はしまった、と昨日熱い内に打っておかなかった鉄を悔やんだ。その話を裏屋戸バックヤードで作業中の職員に話して見ると、スノーキャロットはもうじき終わる頃なんだと分かった。私よりも圧倒的にこの地を熟知している職員が教えてくれた諸々の情報をパンの無くなった籠に入れて持ち帰ると、それでもキャロットケーキを諦める理由には到底成り得なかったから、帰り道に大人しくスーパーで人参を買った。

 まあ試作である。く言う私もキャロットケーキが身近な物でこそあったが自ら作った事はドイツでも日本でもこれ迄になかった。キャロットケーキに関する思い出はドイツに八年も住んでいれば幾つかあるが、中でも初めてその存在を知った時、人参とケーキの組み合わせをいぶかしまざるを得なかった。訝しんだ後、確かに人参は野菜の中でも甘みのある方であるから合わない事も無いんだろうと直ぐに気付いた。
 
 ケーキと言えばクリームで溢れているものという先入観を打ち破られた時、ドイツ特有とも言える田舎風ケーキの魅力を思い知るに至った。味をすこぶる気に入った、と言えるほどまだ舌は肥えていなかった。人参の栄養素を意識出来るほど知識は持っていなかった。そうすると当時の私は何に魅了されたかと言えば、ドイツの空気の中で食べる“ドイツらしい”ケーキという点から受ける精神的満足感であった様に思う。或いは私がもっと言葉を知っていればさらに精密な表現が出来た様に思うが、言葉を知らぬ代わりに名作文学の力を借りると、漱石が坑夫や草枕といった作品の中で描く汚らしい茶屋の団子だか饅頭だかが美味そうに思われるのは、時代背景と登場人物の性質と当時の日本の風景の描写が的確であり、其々それぞれが完璧な調和の関係にあるからこそ得られる魅力である。
 
 これをキャロットケーキに置き換えるならば、ドイツの、或いはイギリスやフランスを含む欧州諸国の持つ中世の時代から残る空気と、彼らの国民性が作り上げた文化の中で生まれたケーキと、そうしてそれらの土台にある風土との関係性もまた完璧な調和、それすなわ原本オリジナルのみが持ち得る誰にも奪えぬ特権がもたらす魅力であると言える。茶会で振る舞われる上生菓子が貴品溢れるのは、職人の手仕事が光るもそうであるが、全ての要素の調和が完璧だからである。小ぢんまりした店の暖簾を潜った先で出される小鉢の中のもつ煮が美味いのは、じっくり煮込んだ店主の拘りもそうであるが、矢ッ張り取り巻く要素の調和が見事であるからである。
 
 
 衣食住は遥か昔から人間がその地の風土や採れる作物と相談してこれまで育んできている。文化や伝統はそうして育まれた衣食住の上に形成された現地人によって紡がれてきている。そのいずれにも原本オリジナルが存在するは必然であり、余所者よそものがそれを作れば模倣と呼ばれるは誰も避けられぬ宿命であるが、模倣が原本を上回るにはどうしても越えられぬ壁がすべからくある。イタリアで食う寿司が物足りないのも、日本で食うピザが物足りないのもそう言う理由わけで普通なのである。
 
 しかながら衣食住を育み、文化や伝統を紡ぐその過程プロセスには世界の何処であれ通ずるものがあってしかる。イタリアのピザも日本の寿司も、風土を生かした手段で発展し根付いているわけである。その過程を軽視し、ないがしろにし、隣の芝生の青さばかりを小手先で真似してばかりでは、隣の芝生はおろか己の芝生にさえ無礼にあたろう。
 
 
 私が今ドイツで学んだパンを日本に持ち込んで、あろう事か地元の農産物と並べて売っている。地元の雄大な自然の中の一角を借りているくせに、地元らしさに一切擦り寄らないドイツ風の物のみを提供するカフェをやっている。はたから見れば誰よりも黒と赤と黄の油絵具で地元の風光明媚を塗り潰しにかかっている様に見えるかも知れない。しかし無論そうではい。そうでは無いがここ迄長々と書いた文章を読んで伝わらなければ今はそれで結構である。今は私の焼くドイツパンが人々の口に合えばそれで十分である。
 
 
 くしてキャロットケーキは一度の失敗を経て良く焼けた。型から外す際に手を滑らせて作業台の上に引っ繰り返してしまった事を除けば良く焼けた。


 
 
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。


(※1)根曲がり竹:タケノコの種類。チシマザサ。

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