*24 パリ冒険記
プロローグ
華の都、芸術の街と謳われるくらいであるから嘸煌びやかな街なのだろうと考えていた私の目に実際に映ったパリという街は、未だに生きた歴史の香り漂う古めかしくも誇り舞い立つ褪赭色の街であった。いや実際煌びやかさも持っていた。言い喩えるならば、埃を被った褪赭の額縁の中に市民の志や魂が彩を与えている絵画の様な街であった。私がそんなパリに足を踏み入れたのは、すっかり日曜日も夕方になってからの事であった。
ミュンヘン空港で搭乗前の手荷物検査を済ませた途端、流れる空気は忽ちドイツのものからフランスのものへと変わった様に感ぜられた。八年前、家族や友人に見送られ搭乗口へと向かった成田空港を彷彿とさせた。これから己の付け焼刃の英語のみを刀に見知らぬ街へ足を踏み入れると思うと、少々尻込んでしまいそうになる一方で却って興奮を覚える自分も確かに居た。
何十分か遅れてミュンヘンを飛び立った飛行機は空港での待ち時間よりも短い時間を要してパリに着陸した。飛行機が止まり皆我先に荷物を下ろして降機の支度をしていた時、私は通路の向こう側に乗っていた赤ん坊と目が合ったから嫣然としてやると、それを見ていた私の隣に座っていた婦人が私に向かってフランス語で何やら嬉々として喋り掛けて来た。フランス語をまるで分からない私でもそれなりに人間をやってきているから、この婦人の言わんとする事も大凡赤ん坊に纏わる平和な事だろうと、ははは、そうですよねと言った表情を向けて声を出して笑っておいた。この一件で私の緊張は随分解けた。
空港から市内へはバスやら電車やらを乗り継いで一時間近くかかるんだという情報を予め調べておいた私であったが、それらしいバスを探している内にロワシーバスというまた別のシャトルバスを見付けたから、まあ慣れない交通機関を背伸びして駆使するよりもこれに乗り込んだ方が得策だろうと券売機の前に立った。幸いドイツ語表記が可能であったから順序に従って券売機のボタンをぽちぽちしていくと支払い画面になったから私はカードを入れて支払いを済ませた。すると画面には発券出来ませんという主旨の表記が出た。納得のいかない私は近くにいた職員を呼び事の顛末を説明しようとするもなかなか英語が出て来ない。それでも意図が通じると彼からは、その機械は壊れているとの一言があり、それから隣の券売機で支払い画面まで操作してくれた。機械が壊れているんだったら貼紙をするくらいの親切があっても良いように思った私は、まあこれも異国の洗礼かと、一先ず手に入った切符を持ってバス乗り場へと進んだ。バスを待っていると観光客の母娘からこのバスの行き先と切符売り場を尋ねられたから、拙い英語で教えてやった。
ロワシーバスはオペラ座の前で停まった。すっかり夕暮れた街に堂々と聳えるオペラ座に圧倒された私であったが、一先ずこの日はホテルへ行って観光は次の日の朝から始める事に予定していたからさっさと帰った。
一日目
観光地に来たからにはちゃんと観光客でありたいと思う私は、パリの観光はコンコルド広場からシャンゼリゼ通りを抜けて凱旋門を見上げる所から始める事に疾うから決めていた。その点にのみおいて言えば前日の夜にオペラ座を見上げたのは予定外であったのだが、まあそれは大した問題でもなかった。
幾ら路線を下調べしたとしても実際に訪れるとなかなか把握するのに時間がかかる。案の定私はシャトレ駅の地下鉄乗り場でコンコルド広場行の線を確認するのに手間取っていた。するとそこに一人の老いた男が声を掛けて来た。英語の不十分な私であったから判然とはしなかったが、なんだか行き先を尋ねられている様だったから、コンコルド広場へ行きたいんだと言うと、それならこっちだ、付いて来いと案内してくれた。出身を聞かれたから日本だと言うと、その男は日本に行った事があるらしかった。幾つかの都市の名前を挙げて来たから「長野は?」と駄目元で尋ねると、やっぱりノーと言ったから私ははははと笑って「分かっていたよ」と言った。こう馴れ馴れしく会話こそしていたが、腹の底ではこの男が悪人である可能性を片時も忘れなかった。私も海外に八年と住んでいる身であるからそれくらいの事は無意識に心得ているくらいなものであった。案内の途中で彼が「ユーロとアメリカドルを交換してくれないか」と言って来た。金の話が出たなと思って私は「いやいや、私はアメリカドルなんか要らないんだ」と答えると「違う、俺がユーロを欲しいんだ」と男が言うから、「それは分かったが私の方ではどうしたって要らないんだ」と答えると男の方でも堪忍したようでそれ以上言ってこなかった。そうこうしている内に乗り場に着くと「これに乗ればコンコルド広場に行ける」とだけ言って彼は何処かへ行った。私は彼に向かってありがとうと言って地下鉄に乗った。怪しい男ではあったが実際被害が出ていないから果たしてその男は善人であった。
階段を登り地上へ出ると目の前にコンコルド広場が広がった。私は自分で目が開き口角が上がるのが分かった。広場は噴水が二つあって塔が一つ立っている以外はただの平地であったが、その奥に伸びるシャンゼリゼ通りと遠くに待ち構える凱旋門、さらにその左手奥に聳えるエッフェル塔が、その広場をパリの全貌の様に仕立て上げていた。忽ちパリにいる実感が込み上げて来た。
シャンゼリゼ通りは歩くには長過ぎると聞いていたが、実際コンコルド広場から凱旋門まで二十分近く歩いた。シャンゼリゼ通り自体は掻い摘んで褒めるほどの感動は無かったが、それでも有名な通りに自分が歩いているという事実が気分を高揚させて二十分の道程も然程苦ではなかった。歩みを進めるに従ってその姿を大きくしていく凱旋門は、すぐ傍まで来ると圧倒的な存在感を放っていた。
凱旋門を一頻り眺めると今度はバスに乗ってエッフェル塔を目指した。車内の電光掲示板の見慣れない文字と窓からの景色を交互に眺めるのに忙しかった。
エッフェル塔の迫力は物凄かった。ただ鉄塔を見上げたに過ぎない筈だのに、その形状や色味や質感にパリと言う街の奥深さを見た気がした。これは決して只文章を盛り上げる為に拵えられた言葉の綾ではなく、また博識ぶりたいが為にひけらかす背伸びでもなかった。エッフェル塔も凱旋門も、パリと言う街で繰り返された歴史の中で大事に守られて来た市民の意志の象徴の様に雄々しかった。
有名な建造物を立て続けに見上げた後、時刻も昼前であったし少々疲労を感じていた私は、エッフェル塔からノートルダム大聖堂へ行くのに適切な経路を探すのに梃子摺り余計に疲労した。地図を眺めていると一度市街へ戻って休憩した方が良さそうだったから、パン屋かカフェにでも入ろうと考えていたのだが、前以て印を打っておいたパン屋もカフェも閉まっていたり混んでいたりとなかなかありつけず、ようやく入ったパティスリー・チュイルリーも、昼だと言うのに「もうキッチンが閉まっているから」と、客も居なければ有名なクロックムッシュも注文出来ない中で、それでも休憩を取れるならとエクレアとカプチーノを頼んで腰を下ろした。
休憩を済ますとノートルダム大聖堂を目指した。セーヌ川の中州であるシテ島にある大聖堂は数年前に火事になったのが記憶に新しいが、失われた尖塔の位置にはなおも足場が組まれていた。
大聖堂を後にするとまた市街地へ戻った。折角パリに行くんだからと、私は自分への土産に靴を一足買う積でいた。パラブーツという店に入ると黒人の店員が一人接客に当たっていた。私は目的の品こそ決まっていたが、一先ず店内に並ぶ靴を見回した。それから手の空いた店主に欲しい靴を伝えると、奥から品物を出して来て私は試着した。結局三回試着をした後、丁度良いサイズの物にあり付き直ぐに購入した。その際に「免税の手続きはするかい」と聞かれた私は、咄嗟に「ドイツに住んでいるから不要だ」と言ったものの、その後の「そうか、ならいいが」という店主の訝し気な口振りに不安を覚え、それから免税の云々で店主としばらく遣取があった。彼は私がアジア人だからと免税を勧めてくれたようであったが、結局私の言ったように免税は不要であった。然しサイズの調整から免税の云々まで慣れない英語で行った私は、体のみならず頭まで疲労してきたので、靴屋を出た後モンマルトルの丘のサクレクール寺院だけ拝んだら、今日は早めにホテルに戻ろうと思った。
モンマルトルの丘と言うだけあって幾らか標高の高い所へ行くのに地下鉄を使った私は地下鉄の駅から地上へ出るまでに随分と長い螺旋階段を登り、一日歩き回った体には流石に堪えた。思い返せばエクレアとコーヒー以外に飲まず食わずで継続的に運動をしていたわけであるから疲れて当然である。地上に出てからもまた二度ほど階段を登ってようやく着いた広場には絵描きが集まっていた。其々椅子に腰掛けキャンパスに向かい、観光客であろう人々の似顔絵を描いていた。モデルとなって凛と澄ましている少女や、子供の絵が出来上がって行くのを嬉しそうに覗き込んでいる親の様子が何とも微笑ましく、絵で人を喜ばせると言う世界が輝いて見えた。
その脇にパン屋があったから私はそこでバゲットサンドとコーラを買い、サクレクール寺院の裾にある階段に腰掛け、パリを一望しながらそれらを食べた。コーラが体中に染み渡った。
バゲットは大きくて食べきれなかったから半分を残して立ち上がると、パリを一望しながら正面の丘を下って行った。然し何処へ行っても大変な観光客である。私は人の合間を縫いながら、まさしく棒の様になった足で下って行った。その先で事件は起こった。
最寄りの駅でも調べながら歩く私の左手を指差す手が視界に飛び込んできた。顔を上げると目の前には五六人の黒人の男が立っていた。そして徐に私の左手にミサンガを巻こうとして来たので私は「No,no」と手を振り払おうとしたが、心配ないと言いながら強引にミサンガを巻いて来た。周りでは残りの男達が私を囲むようにおり「ハクナマタタ」と言いながら楽しげである。そうして巻き終えるとその男は財布を取り出し「幾らか入れてくれ」と言って来た。流石に途中から状況を理解し観念していた私は財布の中から五ユーロ札を取り出して彼に渡すと、相場は二十ユーロだと言ってさらに要求をしてきた。わかったと言って紙幣を数えていると横から手が伸びて来て財布に入っていた紙幣を全て取り上げ、「これでいい、アフリカの子供たちが...」と然も慈善活動の如く言うので、呆れた私は解放され出口の方へと向かったが、午前中に味わった感動や興奮が遠退いて行くようで遣る瀬無かった。
これは私の不注意であった。とは言っても海外旅行でこうした悪人に気を付けなければならない事くらい心得ていた私である。呆然と地下鉄に揺られながら失態の要因を探ってみると、疲労で注意が散漫になっていた事と、そもそもパリには黒人の割合が多い事でその集団に違和感を感じなかったという二点が思い辺り、なお遣る瀬無かった。終始楽し気な雰囲気で私を囲み金を奪っていった彼らが、全くこれで良心が痛まないのかと思うと哀しかった。
帰り道に偶然降りた駅の前にパン屋が二軒あったからそのどちらもでパンを買ってホテルへ帰った。パリの街中ではなかなか見付からない様な気がしていたパン屋がようやくここで見付かって少しほっとした。
二日目
翌火曜日は昼からヴェルサイユ宮殿を訪れる予定があったから、午前の内に目星いパン屋を幾つか巡る事にした。パリで本場のクロワッサンを食べる事がこの旅行の主旨であった。
まずパリ三区にあるレピュブリック駅の近く、Tout Autour du Painというパン屋に向かった。クラシックで気品高い店構えであったが、店内は町のパン屋という言葉の似合うような飾り気のない素朴さがあった。クロワッサンと水を買った私は、支払いをする際にカウンターの奥に地下へ続く階段がある事に気が付いた。一度そこから職人が顔を出したのを見て、地下に工房がある事を知った。
店近くのベンチに腰掛けてクロワッサンを食べた。見た目の素朴さ以上にさくさくでジューシーであった。
そこから歩いて今度は十一区のBoulangerie Utopieを訪れた。以前私が買ったパンの雑誌で取り上げられていたからという理由だけで私が端から贔屓目に見ていたパン屋である。
先程のクロワッサンに比べて味わいがミルキーであった。クラムが案外詰まっていながらクラストはしっかり脆く美味しかった。然しパンの味も然る事ながら、店内や工房の様子が大変良かった。何とも仲睦まじそうな遣取を交わす販売員と職人。販売スペースと工房との間の間地切りは殆ど無いに等しく、大型のデッキオーブンが客の方を向いて鎮座していた。粉の舞う作業台などは奥にあるのだろうが、働いてみたいとさえ思うパン屋であった。
それからまた近くのパン屋The French Bastardsを訪れた。フランス人がパリのクロワッサンを食べ比べる動画を見て知ったパン屋である。
これまで立て続けに食べていたせいもあるかもしれないが、味と言う点に関して言えば可もなく不可もなく美味しかったが、見た目がこれまでのものと違いやや芸術味を帯びていた。またサイズも大きかった。口だけでなく目でも味わえるという点で言えば他より優れていたかもしれない。カウンターの後ろには大型のパンも並んでいたがやはりバゲットが殆どで、カンパーニュの様なパンの存在感は薄かった。
すっかり腹が膨れていた。何故かホテルの朝食でもしっかりクロワッサンを食べていた私は、この日昼までの間に既に五つもクロワッサンを食べていたんだから腹も重たい筈である。その腹を今度は電車でヴェルサイユ宮殿まで運んだ。
電車に乗っていると三人の車掌が切符の点検をしに回って来た。女の車掌が私のとこへ来たので切符を渡すと、しばらく眺めた後「この切符は無効よ」と言って来た。私は「そんな事はないよ」と拙い英語で返した。そして何処の駅で何処へ行く迄の切符を買ったから間違っている筈が無い旨を説明した。それでもなお訝しげな彼女は、恐らく先輩車掌であろう黒人の男に確認した。確認の末、やはりその切符は有効であった。まあ買った本人である私は確信があったから幾ら疑われても何処吹く風であったが、確認を求められた車掌の男は間違った彼女に対して終始にこやかに説明をしていた。彼女の方でも真剣な顔で説明を聞き、そして私に「無効じゃなかったわ」と言って返して来た。そこに私は人間を感じずにはいられなかった。人間は誰でも間違いをするものだと言う事の真意を理解している人間同士が作り上げる空気が心地良かった。何より先に御客様へ御詫び申し上げ頭を深々と下げるではなく、その空間で起こった出来事を順番に整理して処理していく姿が清々しかった。
電車とバスを幾つも乗り継いで辿り着いたヴェルサイユ宮殿は圧巻であった。壮大であった。あまりの迫力にろくに頭も働かなかった。これは決して腹が一杯で頭が働かないのとは訳が違った。金色に輝く装飾も然る事ながら、何と言っても目に飛び込んできた宮殿の規模の大きさが私を唸らせた。
午後一時から入場の列だけでも長蛇であった。そこに並んだ私でさえ入場する頃には一時を十五分程回っていた。外観もそして内装も大変豪華絢爛であった。ここに実際フランス国王が暮らしていた歴史的事実と、私が今観光客の一人として宮殿に足を踏み入れているという事実とが頭の中でまるで重なる気がしなかった。然しそれらがいずれも事実であると気付いた時、何とも言えない感動が体中を駆け巡った。付け焼刃とは言え旅行前にフランスやパリの歴史をなぞって行った私は心底その行動を自ら讃えたかった。屹度、単なる観光地として訪れるのと歴史の一頁に触れる積で訪れるのとでは感じ方も変わっていたに違いなかった。兎に角言葉にし切れない感動を全身で浴びた私は、鏡の間も王の寝室も何時しか憧れの目で眺めていた。
ヴェルサイユ宮殿を後にし鉄道駅を目指して歩く途中でパン屋を見付けた。無性に気になった私は吸い込まれるように中へ入り、クロワッサンを含むパンを二つとオペラケーキを買った。予定していない買い物であったから、私は両手でそれらを持って歩くしかなく、方向音痴の私は時折地図を開いて道を確認するのも一苦労であった。ベンチに座ってせめてケーキだけでも食べてしまいたかったがこういう時に限ってベンチは見当たらず、結局そのまま駅に着いたので諦めて電車に乗る事にした。
券売機で切符を買い自動改札に切符を入れ通ろうとすると改札は開かなかった。何度試してもその切符では作動しなかった。困った私が近くにいた車掌に助けを求めようと振り返るのと、その車掌が私の元に駆け寄ろうとするのとが殆ど同時であった。私が事情を説明すると彼もまた改札に切符を通し作動しないのを確認した。そして駅の中に案内所があるからそこで聞いてみてくれと言って私を促した。
言われた方へ行くと案内所のシャッターが閉まっていた。おいおい話が違うじゃないかと思いながらカウンターの前にあった無関係のボタンや何かを触っていると、後ろからボンジュールという声がして私服姿の職員らしい男が現れた。そこでまた私が説明をすると、彼もまた一度改札の方まで行って確かめた。この辺りも大変人間らしい。そうしてまた案内所の方へ戻ると、ここで待っていろと言って切符を持ったまま裏へ入って行った。換えの切符を発券するのか、切符代を返金されてそれで新たに購入を促されるのかと考えながら待っていると、男が裏から戻って来て私の買った切符の磁気が効いていないという説明をするなり、その切符の裏に説明文か何かを手記で書いたものを私に渡すと、職員専用のカードを使って改札を通してくれた。電車の中で車掌に切符の提示を求められたらこれを見せて説明しろという話であった。実に人間的である。
然し親切な人間に既に何人も出会った。パリは旅行客には冷たいという記事を出発前に読んでいたがまるでそういう対応には出会わず、寧ろ皆にこにこと友好的で親切であった。
電車の出発まで十分と時間があったから、ホームのベンチに座ってオペラケーキを頬張った。こんな乱雑に食べるものでは無く、しっかりとテーブルに付いてフォークで食べなければこのケーキ本来の美味しさは味わえないとその時の私は口元と指先を汚しながら反省した。
ヴェルサイユ宮殿から市内へ戻って来るとすっかり夕方であった。そして手にはクロワッサンが残っていたから私はオペラ座へ行ってそこの広い階段に腰掛けてクロワッサンを食べながら少しゆっくりする事にした。
これまで食べた中でも最も馴染みのあるような味わいに感じた。言葉を選ばずに言えば庶民的と言えるような味だった。階段には沢山の人間が座っていた。そしてまた一人の男がその人集りに向けて歌を歌っていた。御世辞にも綺麗な格好をしているとは言えない男の歌で人々が歓声を上げている光景も情緒があった。その時の時間は大変のんびりしていた。こうして休憩はしたもののパン屋を巡り宮殿内も歩き回った体はまた疲れていた。その上レストランへ行くには腹に余裕が無かったから、その日はもう少し休憩した後、ギャルリー・ヴィヴィエンヌにだけせっかくなので立ち寄り、それからファーストフード店で簡単に食事をとった。フランスらしくマックバゲットなるものがあった。
三日目
観光三日目となる水曜日の朝は遅かった。本来この日はストラスブールとコルマールを巡ろうと考えてはいたのであるが、余りに疲労困憊であったから急遽予定を変更してパリに残る事にした。それが功を奏したか、将又その変更が故の結果かは定かではないが九時半頃になってやっと目を覚ました。余程の疲れが蓄積していたものと見えた。
急な予定変更であったからパン屋を巡る以外にこれと言って予定も立てていなかった私は、十時過ぎにパリ一区にあるLa Rotondeというカフェで朝食を取った。クロワッサンは売り切れたというのでトーストを食べた。ようやくパリに来て飲食店の中でゆっくり出来た私は心の閊えがとれたような気持で贅沢な気分を味わった。然しパリのカフェは軒並み高価であった。
カフェを出て道を歩く。流石に三日もいると街の勝手が分かって来る。切符の買い方も地下鉄の乗り方も手慣れたものである。それでも街の景観には幾度と無く目を奪われその度に足を止めた。街中にはジャンヌ・ダルクも燦然と輝いていた。
そうして向かった先は四区にあるレクレール・ドゥ・ジェニであった。何でもパリで一番のエクレアであるとの呼び声高いという話であった。
行って見ると無人の店内に色鮮やかなエクレアがショーケースに並んでいた。然し無人とはおかしい。私は一度「ボンジュール」と声を掛けてみたが誰も出て来ない。少しの間ショーケースの中を眺め、それでからもう一度、今度は「ハロー」と声を掛けるとそれで奥から一人スタッフが出て来た。ここで私はフランスの昼休みが長いと言う話を思い出した。ひょっとすると初日の昼時にキッチンが閉まっていたカフェも、ヴェルサイユ宮殿からの帰り道に親切をしてくれた私服姿の駅員も、そしてこの店でも昼休みの時間に私は邪魔をしていたのかも知れないと気が付いた。店が開いていたから別段問題と言うわけでもないとは思うが、そこで一つそんな事に気が付いた私は妙に納得して、それからチョコのエクレアを一つ買った。一つで驚きの値段であった。
私の知っているエクレアと言えばシュークリームの仲間であり、おやつの時間にむしゃむしゃと手掴みで食べる物であったが、パリで見る本場のエクレアは初日のカフェ同様ナイフとフォークで食べるのが相応しい上品な見た目をしていた。それを心得ていながらパリで一番のエクレアをベンチに腰掛けてぱくぱくと食べていたのは私である。とは言え幾らか上品な振る舞いを心掛けたが、これも矢張りお茶の席でコーヒーか紅茶と共に食べるのが美味しいのだろうと思った。中にはチョコレートクリームがこれでもかと詰まっていた。
それからまた地下鉄に乗って移動すると今度は二区にあるストレーというパン屋へ寄った。大変煌びやかな店内であった。このパン屋ではパリ・ブレストが有名だと言う話を読んで行ったが、一人で食べるには余りに大きいからここでもクロワッサンを買った。
そうしてベンチを探すつもりで歩いているとまた別のパン屋が目に飛び込んできた。Maison Colletという名前のこのパン屋に人が並んでいたから、あれこれ考える前に私もその列に参加していた。これだけ客が居るとショーケースの中を吟味する時間が生まれる。私は結局クロワッサンに加え、クロックムッシュとリンゴのタルトも買った。両手が塞がってしまう程の量になった。
ようやくベンチにありつくと私の手元には全部で四個ものパンがある事を、さすがに買い過ぎてしまったと自嘲した。結局私は一つのクロワッサンを残して後の三つはそのベンチの上で平らげた。然しエクレアと言いクロックムッシュと言いリンゴのタルトと言いこうしてベンチの上で食べるのにまるで相応しくない味であった。悉く私はタブーを犯していたに違いなかった。美食の街とも呼ばれるパリにおいて、ひょっとするとベンチの上で食べられる物など極少数なのかもしれないと思った。物自体は大変美味しかったが、無作法だったのだろうと思った。
三日目にもなれば街の勝手が分かって来ると先に書いたが、旅の仕方も分かって来ていた私は、十区にあるデュ・パン・エ・デジデにだけ寄ってから一度ホテルに戻って休憩する事にした。既に一つクロワッサンを持っていると言うのに、である。
レピュブリック駅で降り、広場に立つマリアンヌ像を見上げた後、デュ・パン・エ・デジデまで歩いて向かった私は、まずその店構えに魅了された。
前日に訪れたTout Autour du Painと少し似た、それでいてさらに派手さを増した様な外観に加え、内装に至ってはまさに宮殿を彷彿とさせるような輝きであった。またこのパン屋は今まで見た中でも大型のパンが目立った。もっと言えば菓子やケーキに類するものが殆ど置かれていない、純パン屋の様であった。私は例にならってクロワッサンを注文すると、レジ前に置かれていたバゲット生地の中にベーコンやチーズが包まれている様なパンも併せて買った。
ホテルに戻った私は、依然としてパンの残る腹に残りのパンも入れた。Colletのクロワッサンは私が自分で作ったクロワッサンに若干似ている様な味わいであったが、見た目で言えばあまり整っている印象は受けなかった。
デュ・パン・エ・デジデのクロワッサンは、見た目こそスタイリッシュであったが思っていたよりも身が詰まっており驚くほどの美味しさは秘めていなかった。併せて買ったパンは食べやすいサイズの総菜パンの様な珍しいもので美味しかった。
結局ホテルで二時間程眠った私は、夕方六時を過ぎたパリの街へまた出掛けて行った。この日の目的はパリらしい食事を取る事であった。旅行前に危惧していた通りパンしか食べないと言うのが現実味を帯びてきた所で、さすがに少しはパリの美食を味わっておかなければ帰るに帰れない様な気がし始めたのである。向かった先は十四区にあるBistrot du Dômeというレストランであった。
夜は七時から開くと言う話であったから、七時過ぎ頃に行けば予約をしなくても座れるだろうと思って出向いた私を待ち受けたのは空っぽの店内であった。そこで一度私は、店の質というものを疑った。せっかく意気込んで入った店が妙な店であってはなんとも納得いかないと思っていた所で、外に出て来たウエイターに声を掛けられ、美味しい海鮮料理が食べられるという文句に惹かれそのまま店内へ入った。
店内の様子は素敵だった。壁に大きく描かれた魚の絵も、何処となくイタリアを思わせる上品かつ敷居の高くない雰囲気も好感が持てた。空っぽではあったが其処彼処が予約席で、私の来店が早過ぎただけなのだろうと思った。
案内してくれたウエイターはフランス語でメニューの書かれた黒板の様なボードを私の前に立てた。私が英語のメニューをくれないかと言うと、英語のメニューは無いときっぱり言い、続けて「しかし日本語が少しできる」と言ってメニューに書かれている品を何の魚だか一つずつ説明してくれた。大したものである。私は目当てにしていた舌平目のムニエルをメインとし、前菜にウエイターが勧める烏賊を頼んだ。
昼間にあれほどパンを食べておいても案外食べられてしまうものである。烏賊と舌平目はおろか付け合わせのパンも三切ればかり食べた。料理は大変美味しかった。海鮮料理などいつぶりに食べただろうかと思った。この旅行だけで見てもこうした立派な料理を口にしたのは初めてであったから大事に味わって食べた。
最後にエスプレッソを頼んで会計をした。値段も立派であった。
レストランからの帰り道、すっかり暗くなったパリの街で私は素晴らしい光景に偶然遭遇した。広場から音楽が聞こえ人集りも出来ていたから何事かと思い近付くと、黒人の男と白人の男が二人で音楽に合わせて踊っていた。服装を見る限り有名なダンサーというわけでも無さそうであったが、観衆は大変な盛り上がりであった。私もそのダンスを暫く見ていると、その途中、観衆の中から一人の少女が輪の中心へ出ていき踊り始めた。ますます湧き上がる観衆。そこへさらに一時休憩していた白人の男が戻って来ると、少女のダンスを盛り上げるように一緒に踊り出した。それを優しく見守る黒人の男はマイクを握って観客をさらに扇動した。何とも美しい光景であった。愛と言う言葉しか私の頭には浮かばなかった。踊り子も観衆も、全てが人間であった。ちゃんと人間が生きていた。ヨーロッパに未だ残る人間味というものの縮図がこの広場であったように思われた。皆が素直であった。皆が素晴らしかった。私にとって理想の世界がそこにあった。そしてそれが決して特別でなく、この街の当然のようであった。私は大変良い物を見れたと満足で夜のパリを歩いて帰った。有り金を巻き上げられたモンマルトルの丘の事など疾うに忘れてしまっていた。
四日目
四日目の木曜日は二つの美術館を回る予定を入れていた。朝から予約の九時に合わせてルーヴル美術館へ出向くと、先ず建物の雄大さに度肝を抜かれた。雄大でありながら繊細なその建物にもまた守られてきた歴史という重厚さを感じた。中庭に抜けてもなお物凄かった。有名なピラミッド型の入口からまた長蛇の列が伸びていた。
場違いにも程があるが、私はルーヴル美術館の中をぐるぐる回りながらここで隠れん坊ないし鬼ごっこをしたらさぞ盛り上がる事だろうなどと考えていた。それほどに館内は入り組んでいて、案内図を貰ったからと言って思った通りの場所へ辿り着くのは容易ではなかった。
ルーヴル美術館と言えばモナ・リザが有名である。無論私もその名画を拝んだが、館内を散々歩き回って様々な名立たる芸術作品を見ている内に、私は絵画その物以上に額縁という物が好きなのかもしれないと思い始めた。ドイツに渡ってから人の家や飲食店で額縁に入った絵を飾られているのを良く見掛ける。今年の春先まで職場にいた同僚などは、フリーマーケットに行くのが趣味でそこで絵を買うんだと言った。今まで無知な私は、高値の付く絵で無ければ飾る意味などないと考えていた為に、絵や額縁を自分の手の届かない所の物だとばかり思い込んでいたが、あくまで壁や室内を彩る装飾品として見た時に、これほど雰囲気の出る物は無いのかもしれないと思った。取り分けルーヴル美術館の館内はまるで宮殿であった。実際に古くは宮殿であった建造物らしいのであるが、その煌びやかな内装の中に見る額縁と絵画は何とも私の興奮を誘った。壁一面程の大きさもある絵画などを見ると、そこに掛けられた画家の歳月や労力、そして所有者であったであろう権力者の力を振り翳された様に圧倒された。ヴェルサイユ宮殿の王の寝室が理想的だと思う私は、この美術館の装飾と絵画とで彩られた空間も理想的に思われた。こんなところで暮らしたいとさえ思った。
それにしても随分歩いた。外観からも雄大さが伺えたが、中を歩いてみると街中を歩くのと殆ど変わらない広さに思われた。そうしてルーヴル美術館を出ると、今度はオルセー美術館へと向かった。予約の午後一時まで時間がまだあったから、美術館の正面にあったCafé d’Orsayへ寄って、クリームブリュレとカプチーノを注文した。
オルセー美術館はルーヴル美術館よりも美術館らしいすっきりとした館内であった。その昔は鉄道駅だったというこの建物には、その当時の名残の大きい時計が堂々と存在感を放っていた。
この美術館には有名な名画が揃っていた。中でも印象派の作品である。ファン・ゴッホだ、ゴーギャンだ、ルノワールだと、一度は何処かで目にした事のある作品が次々と目に付いた。
美術鑑賞を終えた私は、凱旋門などを見て回った観光初日に勝るとも劣らないほど足に疲労を溜めていた。館内であったから判然としないが、実際の歩行距離で見たらそう大差ない距離に及んでいるに違いなかった。私は前日同様に一度ホテルへ戻る案を思い付いた。然しまだ行きたいパン屋を残していた私は一先ずパン屋に行ってから考える事にした。
六区にあるBoulangerie Poilâneは一九三二年創業の老舗らしかった。なるほど老舗らしい出で立ちである。これまで私が食べて来たクロワッサンがどれも菱形であったのに対してこの店のクロワッサンは三日月形であった。これは使用される油脂の違いによるものなのであるが、マーガリンを折り込んだものが三日月形であり、その辺りも老舗らしくていい。そして不思議な事に懐かしい味がした。朝食というよりもおやつに食べたい様な印象を受けた。
時刻は夕方四時になろうとしていた。ホテルまで戻るには三十分とかかる。それから一時間ばかり休んでまた三十分かけて街へ出てくると考えると得策には思われなかった。かと言って夕飯時を街中で待つには長かった。また足が非常に疲れていた。散々悩んだ挙句、六区から中心地の方まで戻ると、最後にもう一度コンコルド広場に出た。相変わらず素晴らしい光景であった。そうしてそこから街を歩いて、いよいよ棒になった足で一区にあるエリック・カイザーというパン屋に入った。これまでで最もポップな店内は言葉を選ばずに言えばチープな印象も受けた。しかし並ぶパンには貫禄があった。ここでも私はクロワッサンを注文すると、併せてカプチーノも頼み店内の窓辺の席で休憩をした。窓の下には次から次へと人が流れていく。時計を見る。夕飯まではまだ早い時間であった。
この店のクロワッサンは、ここまで食べて来た中で最も美味しかった。食べ応えもクラストの食感も、そして上品な甘みもあった。噛んだ時の弾力も絶妙であった。
少し休んだからと言って時間は早く過ぎるわけもなく、ちょうど夕飯には早過ぎるしホテルに一度戻るには遅過ぎる時間になっていた。しかし疲労度がとっくに限界であった私は、取り敢えず夕飯を食べられる場所に行ってしまう事にした。
行こうと考えていたレストランは、夕飯には早過ぎる時間というのもあったかもしれないが、入口の前でウエイター達が集まり煙草を吸いながら談笑をしていたのであまり良い雰囲気に思えず断念した。どうしても行きたいと考えていたわけでもなかったから断念するのは案外平気であったが、さてそれからじゃあどこへ行こうかと考えるといよいよあてもなかった。そうしてとぼとぼ歩いているととあるブラッセリーが目に留まった。この日の私の目的はエスカルゴを食べる事にあったから、店先に出されていたメニューでそれを確認するとエスカルゴを置いていたから、もう私は色々な事は考えずにその店に入った。
十区に位置するL'Amour Vacheは下調べもせずふらっと入ったから評判などは分からなかった。外のテラス席に座る。然し十月末だと言うのにこの五日間は暑かった。天気に恵まれたと言えばそうなのであるが、それにしても十一月を目前にして三十度を越えるとは誰も予想だにしなかったに違いない。殆どの人間が上着を着込んでいた。
席に着いてしばらくしてからようやくメニューを貰えた私は、予定していた通りのエスカルゴとメインにオムレツを頼んだ。その時の私にはサーロインステーキを食べるよりも元気が出る様な気がしたのである。
エスカルゴは貝の様であった。アヒージョの様にオリーブオイルやニンニクで味付けされたエスカルゴは美味しかった。勝手な先入観から栄螺の様な苦みのある物とばかり思っていた私は、余りの食べやすさにあっという間に食べ切ってしまった。物足りなさを埋めるように、付け合わせのバゲットをオイルに浸して食べていた。
オムレツと聞いて想像していたものの三倍くらいの大きさの物が出て来た。なるほどこれはメインを張れる一品である。オムレツの中にはジャガイモやチーズやハムが入っていてこれも美味しかった。料理に疎い私は、これがパリ風のオムレツ何だろうかなどと考えながら食べ進めた。十分満足した。
食事を済ませた時点でまだ夕方の七時に達していなかった。随分早い夕食である。しかし食べたら元気が出た。矢張り食事は命の源である。とは言え疲れを隠せないでいた私は早々にホテルに戻ると、翌日にチェックアウトを控えていたから荷造をし、早めにベッドに入った。
五日目
最終日の朝くらいはゆっくりしようとも思っていたが、まだ訪れていない場所がある事に気が付き、その近くで朝食を取る事にした私は八時半頃にホテルを出た。向かう先はかつてバスティーユ牢獄のあった広場である。
広場には革命の記念柱が立っているばかりで牢獄の姿は跡形も無く、それでもフランス革命の発端とも言える牢獄襲撃事件がここで起こったのかと思うと、襲撃の様子を描かれた絵が目の前の殺風景な広場に映り、また守られてきた歴史の影を見た。そんな広場の直ぐ脇にあるCafé Françaisのテラス席で朝食を取る事にした。
広場を目の前に座っていると、注文したヴィエノワズリーとカプチーノが運ばれてきた。これがパリでの最後の食事である。そう思ってクロワッサンを口へ運ぶと、遂に私の探していた衝撃が体に走った。これだ、これである。御託や能書きは要らず、ただただ食べ切るのが惜しいクロワッサンが、数年前、トランジットで寄ったシャルルドゴール空港で私の目を丸くさせ頬を落とさせたあのクロワッサンが、いや正確に言えばあの日の物よりも輪郭のはっきりした衝撃が、ついに私の目の前に現れ、手に入り、口に入った。美味しい。
これは然し私がエクレアやクロックムッシュに対して感じ続けて来た「作法」のせいでもあるのだろうか。矢張りクロワッサンもベンチの上ではなく、カフェの席に座って食べるべき物だったという事だろうか。いや、たとえ仮に私がこのクロワッサンを革命の記念柱の真下で齧っていても、同じ感動があったに違いない。私は食べかけのクロワッサンを一度皿の上に置き、パン・オ・ショコラの方を先に食べる事にした。
こちらも矢張り美味しかった。これまでパリで食べて来たチョコレートの味の中で最も鼻と喉のぶつかるあたりに染み込んだ。散々パン屋を回って来て辿り着いたこのカフェのヴィエノワズリーを、私は誰かにパリで最も美味しいクロワッサンを尋ねられたら是非とも推薦したい。私のこのパリ旅行を以前から言う様に一つの冒険であったとするならば、財宝は奇しくもパン屋ではなくカフェに眠っていた。
大変な満足を得た私は、バスティーユの地下鉄駅からシャルルドゴール空港へ向かって出発した。楽しみにしていたパリもこれで終わりかと思うと、帰るのが惜しい気もしたが遣り残しの無いような心持でもあった。言語の面の不安が旅行前からずっとあったわけであるが、いざ来てみると自分自身の振る舞いや言葉が想像していた以上に堂々としていた所を見ると、私自身の人間的成長も伺えた。何度か道を尋ねられたのも一つその証拠の様な気がしている。無論、不十分な英語ではあったが、言語云々と言うよりもサバイバル能力という点において、随分肝が据わったと実感した。
電車は順調に、フライトの二時間前に私を空港へ送り届けた。ドイツでは遅延に再三注意を払わなければならないのがパリでは一度も起こらなかった。手荷物検査へと進むと、中身云々の前に荷物の重さが量られた。最大十二キロまでと決められている手荷物であったが、パリへ来る時には量られなかった事ですっかり油断していた私は、ろくに重さも量らないままで空港まで来た。量ると十四キロとあった。殆ど土産物を買っていない私であったから、靴の分の重量だと直ぐに分かった。結局私は追加で五十五ユーロを支払って荷物を一つ預ける必要があった。まあここまで来たら止むを得ない。
こうして私はパリの冒険を終えてドイツへと戻って来た。久しぶりのドイツ語に安心を覚えると共に、心の内に一つ変化が伺えた。
パリの名立たる観光名所から、市民国民によって守られてきた歴史の息吹を全身に浴び、パリの持つ歴史の重厚さと壮大さを身を持って思い知らされた私は、不図自分と言う存在の小ささを感じずには居られなかった。私の生活を振り返った時、それから私の活動や労働を思い返した時、なんとも無力な自分がそこにぽつねんと立っている様に思われた。私の前に伸びる人生の展望や、今私を突き動かす欲望が、軒並み下らない事の様に感ぜられてならなかった。真面な人間の生活の集合体が築き上げて来た歴史の前に、周囲から風変わりだと評されてきた私が圧倒されたと気付いた時、歴史が創り上げた世界の壮大さに敵わない事を自覚し、またそれらを崇めながら、身を弁えて世界の片隅で密やかに暮らせばそれで十分ではないかと思った。こうした弁明は自己悲観ともとれるが、自分の都合や人生を最優先に世界や他者への迷惑を省みる事を忘れた現代のエゴイズムの中に生きる私が世界の圧倒的な歴史の壮大さに平伏し、降参し、そうして送る私なりの称讃と敬慕と尊崇である。パリは素晴らしかった。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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