*18 ドイツパンの心臓に触れて
虫の角と書いて触ると読んでみたり、日と月を並べて明るいと形容してみたり大昔の人の好奇心や感性には目を見張るものがある。尚且つそれが人々に共感を齎したんだか何だか今まで受け継がれてきている事実も、疑いの念が湧く程想像の追いつかないスケールの物語である。
また紀元前四千年のエジプトで穀物を石で擂り潰してそれを水と混ぜて粥状にし、それを熱した石で焼いたのがパンの始まりと言われているのだが、それで余っていた粥が自然と発酵してそれも焼いて食ってみたら酸っぱくて美味かったのがドイツパンの起源などと聞くと、その好奇心たるや最早狂気の沙汰である。それでいて現在まで発展を成しながら脈々と受け継がれてきているのだから、酢豚を参考に白飯にパイナップルを乗せて食っていて窘められた過去の私の好奇心も無駄ではなかったと慰めらるようである。
卯月の終わりを前にして日々慌ただしく過ぎて来た学生生活を振り返ると、随分長い間走っていたように思えていた割にまだ一ヶ月しか経過していない事に驚いた。もう二週間が経った、もう三週間目だなどと、毎週末に思っては試験まで時間が無いと心を急き立てて来たが、四週間目にして真逆の感覚に襲われた。見知らぬ土地の見知らぬ環境で見知らぬ人に心をそわ付かせ、バイエルン訛りに囲まれた輪の中心で膝を震わせていたのがたった一ヶ月昔の事である。更にはこの街に引越して来てこれで漸く二ヶ月が経過するのである。
背後に伸びる足跡を辿ってみると、見覚えのある不安や混迷を見付けた。そのおろおろとした表情に懐かしさすら覚えるが、これもたったの一ヶ月以内の出来事かと思うと、充実した時間はあっという間に過ぎるが振り返ると体感以上の時間が過ぎているという普遍の真理の逆説を見たような気がした。そんなおろおろとした男を成仏させつつ足跡で出来た道を引き返していくと、突き当りにはこの学生生活や授業にもすっかり慣れ始め徐々にではあるが余裕が出て来たと見える男が学食の椅子に腰掛け、ティースプーンでカチャカチャと音を立てながらエスプレッソに溺れる大量の砂糖を呑気に掻き混ぜていた。午後の授業で睡魔と格闘するくらいなら、折角ほうれん草で摂取した鉄分の吸収をコーヒーでもって妨げてしまうのも厭わない覚悟であると見た。
慣れもあったかもしれないが、先週の反省から自分の意識に変革を要求していたのも事実であり、それで月曜日から水曜日まで立て続けに実施された実習の授業では比較的落ち着いて作業を行えたのは己の自信になった。火曜日に小麦の大型パン(※1)を焼いた以外はなかなか不慣れな作業が続いたが、不慣れなりにそれも慌てず熟した。まるで先週の自分と無事見事に決別したようであった。
木曜日の午前の授業ではサワー種(※2)について習った。ドイツのパンと言うと、ライ麦粉で作られている硬くて酸味のあるパンというイメージが持たれていると思うが、このサワー種はそんなライ麦パンの要であり酸味の正体である。それだから私は予てよりサワー種への関心が高かった。何度か自分で試してみたり、専門の本を買って読んだりしてみた事もあった。またこの時代である、インターネットで調べればその工程等探し出すのは実に容易である。しかし私は百聞は一見に如かずが過ぎる様な頑固者であるので、インターネットで出てくる情報より、私が見様見真似で挑戦した試作より、実際にドイツのパン職人の口から出る言葉でもってされた説明こそが本物であると信じたがったのである。そして三年前の職業学校では教わり切れなかった物語の続きを、このマイスター学校の授業に願ったのである。
斯くしてその授業は終始興味深く、眠そうに話を聞いているドイツ人達を尻目に私は細い目を爛々とさせながらシュテファン先生の紡ぐ物語に夢中であった。そして家に帰ってから辞書を片手にその物語をなぞる事を既に心待ちにしていた。話の内容は以前に本で読んだ事やインターネットで見掛けた事と殆ど違わなかったが、それでも中には知らなかった事実も紛れ込み、また本物を教わっているという感覚にすっかり陶酔していた。
中でも特に私の関心の的であったのはアンシュテールグット(※3)であった。これはサワー種を作る為の火種になるわけであるが、パン屋ではそれを既に完成しているサワー種から少し取って、それを火種とし継ぎ足す様にまたサワー種の炎を立ち上げるのが一般である。即ち、運営中のパン屋にとってみればこのアンシュテールグットは常に手元に在る物で、態々また新たに作りだす必要が基本的には殆ど無いのである。そういったパン業界の一般常識を鑑みたのか、私がこれまで漁り散らかして来た製パンの文献であるとか専門誌であるとかに掲載されているサワー種のレシピには既に、さもありなんとアンシュテールグットが何グラム必要だなどと分量を振って書いてあるばかりで、肝心のアンシュテールグットの出処は全く不明のままなのである。それどころか本によっては「アンシュテールグットは完成しているサワー種から事前に取っておく」などと平気な顔で載せているのである。
そう言う経緯もあって私は授業を終えた後直ちにシュテファン先生の元に近付くと、アンシュテールグットの起こし方について授業を聞くだけでは不十分だった思い付く限りの質問を投げつけた。そうすると彼も歴としたマイスターである、堂々と自信を持って説明を返してくれた。
先程私はアンシュテールグットの出処の不明瞭な文献に対して絶体絶命の如き嘆きを書き殴っておいて恐縮ではあるが、手元のサワー種の専門書にはきちんとそれも記載されているのを私は知っていた。実のところ以前私が何度か試しにサワー種を起こした時も参考にしたのはその本であった。しかし私はここでも百聞は一見に如かずの病によって、実体験でもって教わるまで確信を持てずにいたのである。物を覚えるのも一苦労であり、全く効率の悪い頭で甚だ不面目である。
その日の授業が終わると早速、私はアンシュテールグットという火種を起こす為に必要な材料や道具を調達しに出掛け、忽ち掻き集めると翌日にはもう取り掛かった。来週の末頃には使い物になっている計算である。
話の流れが途切れてしまうのを避ける為に一度端折ったのだが、材料やらを調達しに出掛けた木曜日の午後の授業の後にも重大な出来事があった。
その日の午後の授業はフーバー先生の担当であった。まあそれが誰であっても私は構わなかったのだが、いずれにしても授業が終わったら私は先生に、書類を郵送したいから封筒をくれと頼む積でいた。フーバー先生にそれを伝えると、問題ないと言って一緒に事務室まで廊下を歩いていたのだが、その時に先生が私に、試験で作るシュペツィアルブロートのレシピは書いたかと尋ねて来た。ドイツ語をカタカナにすると大変読み難いだろうと心得てはいるのだが、詰まりこれは試験課題でもあるオリジナルパンのレシピの作成は済んだのかという問いである。私は、レシピは書き終えているので今週末に家で作ってみる積だと言うと、サワー種はあるのかと聞いて来るので、無いからスーパーで売っている粉末状の物で試すんだと答えると、必要なら学校からアンシュテールグットを持って帰ってサワー種を起こすと良いと勧めてくれたので、私はその提案を嬉々として受け取り、そして翌日にシュテファン先生を介してアンシュテールグットを戴く約束になった。
翌金曜日の休憩時間にシュテファン先生が、フーバー先生からの言伝を聞いたと言って私を連れて工房まで降りて行った。そして先生が冷蔵庫から取り出して来たのはラインツュヒトサワー(※4)と言う、インスタントのアンシュテールグットの様な物で用法用量についてまた説明してくれた。これも前日に授業で習っていたので実物を見て百聞一見の欲望が満たされた。
さらに先生は、サワー種を起こすならライ麦粉も持って帰りなさいと言って勧めてくれたので、私は恐らく必要となるであろう最低限の量の粉を袋に入れて口を結ぼうとするとそれを見た先生が天を仰ぐように「おいおい何を遠慮する必要があるもんか、もっと持って行きなさい」と呆れた様に捲し立てて来たので、私はへらへらと笑いながら言葉に甘えて袋を一杯にした。
そうして迎えた土曜日に早速、オリジナルパンの試作をした。その為に前日に仕込んでおいたサワー種も健康そうな見た目と香りに成長しており、斯くしてその試作は想像していたよりも満足な出来となった。来週の木曜日に学校の授業で、各々に思い思いのオリジナルパンを作る機会が設けられているので、その時にまた先生にレシピや実物の善し悪しを聞く積でいる。
サワー種について学び、サワー種を自らの手で触れ、そしてパンを焼き、サワー種の早苗を自分の中に植えていくかのような明るい皐月の幕開けであった。
(※1)小麦の大型パン(例:バゲット、ヴァイツェンミッシュブロート(小麦とライ麦の混合パン))
(※2)サワー種 [ Sauerteig ]:ライ麦粉や小麦粉を水と混ぜ合わせ乳酸菌などを培養させた伝統的なパン種。
(※3)アンシュテールグット[ Anstellgut ]:サワー種を起こす為の元種。
(※4)ラインツュヒトサワー [ Reinzuchtsauer ]:別名スターター。サワー種を起こす為の元種で、簡易的で保存がきく。
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