*46 ふるさと納税
四月末頃の話である。市役所の職員からふるさと納税の返礼品としてパンを使わせて頂けないかという連絡が入った。藪から棒の出る如しであった。その相談を受けて即座に、また同時に二つの感情が腹から頭まで登った。一つは言わずもがな、単に面白そうだという好奇心である。何においても共通して言える事であるが、或る好機が目の前に転がって来た時、怯えておずおず手を引ッ込めるよりも一先ず触ってみた方が断然良い。それによって齎される結果の良し悪しなどは、人間如きの力でどうにか操れるものでも無い。その点、手を引くか出すかについては人間の意志でどうにでも選べる権利である。それならば矢ッ張り触ってみた方が良い。思えばマイスター資格挑戦を考えた時も、最終的にその好奇心が後押しとなった。これが「単に面白そう」と思った内訳である。
それと同時に沸き上がった感情は、果たしてこのドイツ仕込みのパンが日本の田舎町の返礼品として相応しいか、という純粋な懸念であった。幾ら私がこの地の生まれだという事実を加味しても、どうにも不思議な見え方がして仕方が無かった。これは結局初めて市の職員と打ち合わせをした日に早々に解明された謎だったのであるが、市の職員でもなければふるさと納税の仕組みを熟知した者でもない私にとって、最早ドイツのふるさと納税じゃないのかとでも指摘したくなった。以上の二つの感情を抱えたまま打ち合わせに臨んだ私は、帰る頃にはすっかり二つ目の猜疑心は消え去り、好奇心が倍に膨らんでいる事に気が付いた。
返礼品の申請書を出したのは菜の花まつりへの出店を終えた五月の上旬であったと記憶している。あの頃は大変忙しい積でいたが、今になって振り返ると大して騒ぐほどでもなかった様にも思える。寧ろ今週末から来週にかけての方が何倍も大変になる様な兆しであるが、喉元過ぎて熱さを忘れたと共にまだ経験せぬ事の方が凄まじく思えてしまう心理現象の所為であろう。兎に角当時は気の逸っている中で慣れない文書を作成するのに手を焼いていた覚えがある。
そうして作った申請書を市の方で面倒を見て貰うと、先月になって到頭国からの許可が下された。当の私よりも職員の方が、ああ漸く下りました、と半ば辟易とした口ぶりで言っていたのは、今年になって基準が変更された事で今までよりも申請に時間が掛かる様になった、という相対的な経験によるものだろう。それで今度は宣材写真の撮影に向けて日取りを取り決めた。
生憎曇り、後、土砂降りになったその日、宣材写真を撮るには相応しくない天気ではあったが、カメラマンの方が冷静に画角や照明をどうにかこうにかして綺麗な写真を撮って貰った。日頃は自分でパンの写真を撮る事の多い私は、自分の焼いたパンが自分ではない誰かからカメラを向けられている様子が何とも目新しかった。親心、と言うよりも芸術家の心地であった。自分で自信を持って完成させたと思っていた筈の作品も、いざ余所のカメラの前に曝されると途端に未完成作品の様に見える。然し一度手を離れてしまった以上、ちょっと待ってくださいねなどと言って手直ししようにもそうはいかない。そんな気分があった。
そうして先週になって、大凡三ヶ月と掛かって公に開けられた返礼品としての私のパンは、今週の月曜日、早くも誰かの目に留まったらしかった。
ふるさと納税の返礼品として発表されたからと言って、実際に発注が来るのはまあ暫く先の事だろうと悠長に考えていた私は、市役所からメールで送られてきた発注書を見るなり忽ち気の逸るのが分かった。ちょうどその月曜日はグラフィックデザイナーの方の所で秘密裏の相談をして、それからその足を少し伸ばして梱包資材の調達に向かって、帰り昼食に珍しく外食でもしようかしらんと目星い店を見付けては、駐車場への進入経路が分からず通り過ぎて、それじゃあ次に見付けた店に入ろうと考えながら車を走らせていて見付けた店でも侵入経路が分からずに通り過ぎると言うのを延々と繰り返すという随分呑気な一日を過ごしていたから、メールを確認して猶更気が逸った。
そうして気が逸ると共に、気が引き締まる感覚も覚えた。最初に話を持ち掛けられた四月末の頃には「面白そうだ」などと好奇心に任せて頷いていたが、いざ返礼品として公表され、いざこうして注文が入ると、散々盛り上がっていた好奇心は瞬く間に責任感に変わった。日頃パンを作って売っている時とはまた異なる責任感であったのは、恐らく市を介している所にあろう。自分一人で完結する話ではない、というのが、謂わば新感覚だったわけである。
ドイツパンセットとアップルパイの発注を受け、一週間の予定に組み込んだ。そうしていると水曜日にまた別の発注書が市役所から送られてきた。嬉しいには嬉しい筈であるが、その嬉しいを純粋に感じる心の準備が整っていなかったからまた気は忙しくなった。何とも想定外である。ふるさと納税に出せば間口が広くなって良い、という話は先日人からされて頷いた所であったが、こうも人目につくとは思わなかった。そんな事を考えている所に市役所から封書が届き、中に入っていた書類に貼られた付箋には「こうも早々に注文が入るとは驚きです」と私と殆ど同じような感想が書かれてあって、それで有難い事なんだとはっきり理解した。
金曜日の午後になって、記念すべき最初の返礼品を発送した。注文頂いたパンやアップルパイに加え、直筆の手紙も同封した。別段気の利いた文言を書き認めたでもない、単にパンやアップルパイを食べて頂く際の手引きの様な事を書いただけであるが、それでも立派なレターセットを取り寄せ、手書きで文字を書いてみると、どことなく気の逸りが清らけく鎮まる様で心持良かった。後はこの荷物が無事、寄附者の元に届き、そうしてパンやアップルパイが無事、寄附者の口に合う事を祈るばかりである。自分の作品に他者のカメラが向けられているを見守る時よりも心が落ち着かない。これもまた新感覚である。
そうは言ってもいつまでも「心が落ち着かない落ち着かない」と言ってる場合でも無い。次から次へとやる事がある。荷物を発送した翌日はカフェ、日曜日は地元の灯篭まつりに出店する準備と、もう一つ別の注文品を発送するのに追われる。それが過ぎれば今度はケーキを只管焼いて、火曜日から木曜日までカフェ営業が控える。それで一日空けてまたカフェを開けば、その翌日曜日にはまた大量の注文に応える。そんな風に過ごしていれば「心が落ち着かない」以前にそれを感じる程、頭と体が落ち着かないはずである。そうして頭と体が落ち着かないくらいな事は然して問題でもない。時間さえあれば体力や労力は捻出出来る。一日二十四時間は確実にあるわけである。
御盆に合わせてカフェの特別営業をする事がどんな結果を生むか、当然分からぬ。然しこの土曜日、いつもよりも二時間短い営業時間の中で、私の想定していたよりも人が来た。そうしてどことなく―これは全くもって私の直感によるものであるが―御盆の連休に託けて向いてきた客足らしいのが多かった様に思われた。根拠こそ全く無いが、御盆の三日間も希望は薄いとも限らなそうである。
何においても共通して言える事であるが、或る好機が目の前に転がって来た時、怯えておずおず手を引ッ込めるよりも一先ず触ってみた方が断然良い。それによって齎される結果の良し悪しなどは、人間如きの力でどうにか操れるものでも無い。その点、手を引くか出すかについては人間の意志でどうにでも選べる権利である。それならば矢ッ張り触ってみた方が良い。改めて。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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