*16 岐路
日本では桜の象徴に見るように三月から四月にかけて年度が入れ替わるが、ドイツではそれが八月から九月にかけて行われる。つまり出会いと別れの場面に桜が舞う事はなく、夏が終わり秋が始まっていく季節の移ろいに沿うように新年度が始まっていくのである。私が初めてドイツに渡った年、まさに日本とドイツの年度替わりの時差を埋めるが如く、また慣れない文化と言語の溝を埋めるが如く、三月にドイツに到着するとまず六ヶ月の語学学校期間を経た後に、私も九月からドイツの社会に飛び込んだ。
同僚のヨハンが八月末を持ってこの職場を離れると分かったのはまだ桜が咲いていた頃の事だった。個人の話をべらべらと余所に喋るのは品が無いから細かくは綴らないが、彼の中で彼是と考えた末の決断である。彼がシェフにその旨を伝えるのに暫くそわそわと不安がっていた姿も鮮明に思い出せる。
今週の水曜日が彼にとって最後の出勤日であった。その前日には彼がレバーケーゼと幾種類もの飲み物を準備して、休憩という名目で小さく贐の食卓を工房で働く皆で囲んだ。アンドレとルーカスはビールを飲んでいた。私も飲もうかと考えていたが彼らより仕事時間が残っていた私はノンアルコールのラドラーで乾杯した。ヨハンにまつわる未来の希望も過去の思い出も話頭には大して登らず、昨日今日の仕事の話やその場で起こった針小な出来事を棒大に扱って盛り上がるあたりにドイツらしさを見た様に思った。
そうして迎えた八月三十一日、彼と働きながら「明日からもう次の仕事を始めるのか」と聞くと、しばらくは少しゆっくりする積だと言った。三年間の職業訓練を終え、最終試験にも合格し晴れてパン職人として一丁前になった矢先、別の職種へ移るという彼の選択をシェフは陰で大変残念がっていた。私はシェフの気持ちも理解しながら、一方で自分自身、宮大工からパン職人への転向を経て来た過去を後にぶら提げて歩いてここまで来た身であるから、余計な世話は焼かなかった。仕事が粗方になり工房が少し落ち着き始めた朝の九時頃、それでもまだ残った作業を続けていた私とクララをルーカスが「君達もちょっと来い」と言って製菓の作業場の方へ呼んだ。二段しかない階段を上ってそちらへ行くと、いわゆる餞別の会が行われようとしていた。
皆が集まると、製菓職人のアンナが作業台の裏から手紙を添えた小包を取り出してヨハンへと手渡した。皆の注目を浴びて照れた様子のヨハンは、終始微笑んで、緊張からか受け取った小包から手紙を滑り落して皆からやいやいと囃された。小包を開くと中からはマグカップが出て来た。そのカップに書かれていた「君がいないんじゃこんな場所クソ食らえだ」という如何にもドイツらしい台詞を受け取った彼が読み上げて皆が笑った。
それからルーカスが先頭を切ってヨハンの方に歩き出し二人で抱き合った。幾つか言葉を交わした後、ルーカスが踵を返すなり、さぁ、次は誰だと言って、今度は私が彼の方へ向かって行って抱き合った。こうした場合になかなか気の利いた言葉を思い浮かべられない私は、ハグをしながら真っ白になっていた頭から「元気で」という短い台詞をなんとか絞り出せた限で不甲斐なかった。しかし彼の方から私の今後の健闘や幸運を祈る言葉を貰うと、目を向いて「君にも」と声を掛けた。それから皆一人ずつ順番に彼と抱き合っていったが、思いの外そこに感動的な空気は漂わず、かえって爽やかで健全であった。一通り挨拶を済ますと、最後に記念写真も撮った。その一連の内に、彼が如何にこの職場で愛されてきたのかという私の知らない二三年前から積み重ねられてきたドラマを見たような気がした。実に気持ちの良い時間であった。彼の帰る間際には、もう一度拳を合わせて彼の最後の背中を見送った。
そんな事のあった今週は見習い生のクララが私のもとについて仕事をしていた。先週先々週と製菓の方で仕事をしていた彼女であったから、月曜日に一からまた説明する覚悟を持っていたのであるが、彼女の方で小さな手帳に以前教えた色々を几帳面に書き留めてあって、殆ど教える必要も無いに等しかった。ただ初めに確認さえすれば、後は彼女が自分で手帳を見ながら仕事を進めていった。
一緒に仕事をしていれば当然話す事も多い。彼女はよく「仕事が終わったら今日は何を食べるの」と子供らしい事を聞いて来た。またその話題が出ると少年も真剣に話に参加して来る。改めて私の十六歳時分の身の回りを思い返しても、これほど純粋な話題が飛び交った記憶はやっぱりなかった。私は自分の分を答えると、彼女にも同様に聞き返す。多くの場合、彼女の口から出て来る料理の名前はバイエルン弁であった。いつも一度では聞き取れない私が困った顔で聞き返すという反応に、彼女が方言への誇りを覚え、得意になって態と難しい名前の料理を言っているようにも思えた。私がその難しい名前を牙骨なく復唱するのを見ては満足そうな表情を浮かべていた。
また彼女には自宅でもパンを焼くという趣味があった。この点について私と彼女は共通していた。仕事でもパンを作り、その上部屋に帰ってもパンを作っているという己の行動への理解がこれまで身近に無かった私は、ついにそうしたパンの話に花を咲かせられる相手の出現を正直に喜んでいた。給料、残業、社会、天気、人の噂などの話には一向に関心の向かない私は、これまでも屡々同僚との話題に頭を抱えた事があった。また同じような話題であっても切り取る角度の違いから、なかなか会話に満足を覚える事が少なかった。そうしてこれは何もこのベッカライ・クラインで働き始めてからに限った事ではなく思い返せば学生時代からそうであったかもしれない。
月曜日のことであった。突然彼女の口から、ルッツ・ガイスラーを知ってるかという質問が投げ掛けられて私は驚いた。ルッツ・ガイスラーと言えばパンに関するブログやレシピ本を数多く手掛けるドイツ人である。私自身、彼の出した本を手元に持っているし、また一時帰国の際に面会した邦人女性はルッツ・ガイスラーと大変親交の深いらしい人物でその際にも話を聞いていた事で、勝手にルッツ・ガイスラーを身近でないにしても然程疎遠な人物としていなかった。それだから私は稍興奮気味に「勿論、知っている」とクララに返事をすると、その日の仕事終わりには彼女からルッツ・ガイスラーのブログのURLがメッセージで送られてきた。それを皮切りに今週は二人でパンの話をよくした。時折彼女は休憩中にポケットからスマートフォンを取り出すと、これまでに作ったパンやケーキの写真を幾つか見せて来た。そうした遣取の中で私はまさに感化されたという言葉が相応しい刺戟を受けた。
そんなクララは彼女自身の意向で来週から製パンではなく製菓の見習い生に職業訓練を変更する事が決まった。従って今週が彼女の製パン部門での最後の週となったわけであるが、金曜日に掃除をしていると「最後の一週間は楽しかった」と伝えて来た。私はただ、仕事はそうじゃなくっちゃと答えた。また別の時には「あなたと喋る時だけは標準語で喋らないといけない」と億劫がったような言葉を言うと、それに続けて「でもあなたと話すのは面白い」と言って今度は褒めた。私は笑いながら「変なアクセントだからね」と皮肉った。彼女はいつも通り細く笑った。小さい頃から人を笑わせるという事についてをストイックに考えてきた私は面白いという褒め言葉が何より嬉しいと感じる性分であったが、それ以上に教育役としての立ち居振る舞いを評価されたようで胸がすく思いであった。
※この作品では一部実在しない表現/漢字を使用しています。
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