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無尽蔵に出てくるモダンな標語につきあわされる現場の断末魔

 今日は会議をハシゴした日だった。置物会議もあれば、主催した会議もあり。学内の会議もあれば、学外の会議もあり。ずーーっとZOOM。会議資料を見ながら思ったのは「ベンチがアホやから野球でけへん」という名言だ。実に名言だ。今日のとある会議資料をみて「お上がアホやから研究・教育がでけへん」と叫びたくなった。

 このところのお上は失策続きだ。お金をかけてやろうとするプロジェクトを次々と失敗させている。記憶に新しいだけでも、入試改革(記述式導入と英語民間試験の導入)、法科大学院、教員免許更新制とキリがない。しかし、こういう目に見えて分かる失敗は、プロジェクトとしてお金をかけているので報道もされれば批判もされる。もっと怖いのは「聞こえの良い標語と共に沸いてくるプロジェクト」だ。標語ありきなので、お金はたいして投資されていない。

 例えば・・・・「新たな○×△に対応するための□◆■の育成プログラム」とか「○△×を実現するための■×◆認定プログラム」とかだ。大体は「ーーーーを文部科学大臣が認定するものです」とか「ーーーーを文部科学省が促進します」とか偉そうに書かれている。グローバル人材とか、Society 5.0だとか、その時々の流行の言葉を標語みたいにして沸いてくる。この手のやつは、大学に入ってくるお金はなくて(あっても微々たるもので)、現場の労働力が無節操にかり出される。社会人に講義をしたり、出前で講義をしたり、○○に認定されるために新たな講義や実習を作ったり、地域のために色んな事をしたり、企業さんのために色んな事をしたりするが、その人材は全て現場が賄う。○△×を実現するために新たな人材を雇うわけではない。お上は「今ある現場の人間で対応しろ」と宣うわけだ。もちろん給料は一円も増えない。企業や地域からすれば、お上が認定して大学教員をタダ(もしくは格安)で利用できる権利が聞こえの良いモダンな標語と一緒に沸いてくるわけだ。利用しない手はないだろう。

 必然的に現場はどんどんと疲労していく。今日も今日とて、新たな○○○○カリキュラムに対応するためのにどうするか?みたいな議題があった。もう現場は限界だ。これ以上は無理だ。誰もがそう思っている。そうなると、どうなるか?この既存の講義は、これに対応しているって言えるんじゃない?みたいになっていく。そういう風にして「やった体」を見繕うしかなくなっていく。

○△×を実現するために何か新しいことをする

今やっているコレは○△×を実現するために対応しています
(対応させました)

と置き換えが始まるのだ。本末転倒だが、もう現場の兵士のライフはゼロだ。補給もないまま戦ってきたが、もう限界だ。こうやって「やった体」を見繕うしかない。

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 そういえば、私がM可とかD可をとって大学院の講義を受け持つようになり一定時間がたった頃に「大学院の講義は英語にしろ」みたいなのがあった。真面目に講義のスライドを英語で作り直した。が、日本人の大学院生の理解度は落ちた。こんなド田舎の底辺の大学院で講義を英語で、しかも私のような出来損ないのクズ教員が駄目な英語で講義をしても中身が伝わらないのだ。大学院の講義を英語でするために、講義専門の方でも雇えば結果は違っただろう。もしくは大学院生に英語を理解させるためのプログラムとか、教員に英語の講義を作るためのプログラムを作るとか、時間とお金をかけてやれば「中身のある」人材育成に繋がったかもしれない。でもいきなり成果を(お金を投資せずに)求めるので、結果に中身が伴わないのだ。

 ここでいう成果とは我々(現場の教員達)の成果ではない。お上、官僚の成果だ。曰く「大学院の講義の実にXX%が英語で行われるように改革されました。日本の大学の国際化、ひいてはグローバル人材育成を強力に推進しています」みたいなやつだ。謎のポンチ絵で官僚がどこかで成果をアピールする。この政策は私が推進しました、みたいなドヤ顔で。意識高い系丸出しで。

 もちろん一部の大学では実のある結果も得られているだろう。でも中身が伴っていないものも含めてお上は成果を盛りに盛ってアピールする。現場は歩調を合わせて(もしくは尻尾を振って)「やった体」を醸し出しているが中身は伴っていない。お上の標語につきあわされて時間が奪われているだけに過ぎない。いつの世もお上の気まぐれに振り回されて疲労するのは現場だ。もはや大本営発表となんら変わりはない。

 講義の英語化については続きを語りたい。コロナ禍でオンデマンドを用意することになった時、教務に相談したら、動画を幾つあげても構わないとのことだったので、大学院の講義については日本語の講義と英語の講義を両方作ってアップした。日本人は日本語しかみない。留学生は英語しかみない。いつもよりアンケートの回答が充実していた。私の時間は相当に消え去ったが大学院生はみなハッピーだった。その後、例年のように「講義を英語で行ったか?」の調査が来たが、どう回答していいか分からずに悩んだうえで例年通り「英語でしました」と回答した。日本人は日本語の方しか受けていないので私の講義は日本人のグローバル化には貢献しなかったが、留学生の理解度向上には貢献した。これもグローバル化だろうと考えた。

 さらに続きがある。先日のことだ。そのアンケートを取りまとめている某先生と会議で一緒になったので「実は斯く斯く然々で「英語でした」と回答したけど、良かったんですかねー?」と軽く尋ねたら「100点満点」と回答がきた。曰く、講義は日本語でも、配付資料やスライドが英語であれば、それでOKらしい。そうでもして「やった体」を生み出さなきゃいけない、みたいなことになってるらしい。英語でやっていないという先生のところには連絡をして、一部でも英語にすればOKとかしているらしい。私は取り組み初期の頃から真面目に英語でしていたので連絡がなかったのだ。そんなことになっているとは知らなかった。ここでも「やった体」が生み出されていた。

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 つまりだ。お上が標語を考えたうえで、それを実現していると公表している成果は何を意味しているのか怪しい。実態は何も伴っていないかもしれない。お上が標語を考えて、現場がそれに振り回され続けた結果として、中身の伴わない成果を生み出したフリをするしかなくなっている。どこかの官僚だか、審議会だか、検討会とか有識者会議とかが、それを盛りに盛って成果にする。全ての標語に真面目に対応出来るほどの戦力は現場にないどころか、最前線の人員も兵糧も削られているのだ。補給をたたれて、現場は疲労して、最前線の人員達は限界だ。末期症状だ。研究時間はどんどん減っていく。本来の業務に時間をかけることが出来ないという機能不全を起こしている。そりゃ、まともな人材から逃げるよな、と思う。

 このことについては、もっともっと語りたいことがある。でも、これ以上愚痴が長くなっても仕方ない。最後に、今日の会議で全員が失笑するしかなかった場面を再現したい。某えらい先生の退官に伴って(当然、補給はない)、講義の担当をどうするかを話し合っていた時のことだ。

 教員A「でも○○先生、これの担当増えて大丈夫?」 
 教員B「そういえば、助教の先生の研究時間確保のために、助教の先生の講義の受け持ちは○○まで、みたいな学部ルール(申し合わせ)ってありませんでしたっけ?」
 教員C「ありましたね。確認します・・・・・○○時間までですね」 
 教員B「・・・って、これ誰も実現できてなくないですか?既に全員の助教の先生が上回っている気が・・・」
 某助教の先生「そんなもの、とうの昔に有名無実化していると思いますよ・・・」

 現場はもう限界だ。無理だ。泥船じゃない。もう既に沈んでるのに、みんなで沈んでないと夢を見ているだけかもしれない。

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