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エンタメ異人伝Vol.7 襟川陽一(シブサワコウ)

2年前の惠子会長のインタビューへの反論…?!

襟川 その節は会長がお世話になりました(注1)。

注1:エンタメ異人伝vol.6で、襟川陽一氏の妻であるコーエーテクモゲームスホールディングス代表取締役会長の襟川惠子氏にお話をうかがった。

――こちらこそありがとうございました。

写真をクリックすると襟川惠子様記事へリンクします。

襟川 あれは何年前でしたっけ。

――2年前です(※)。この連載の初期の段階で受けていただきました。初めて聞くようなお話も多かったので非常に好評で、そのあたりについて陽一社長にもぜひお聞きしたいなと。

※)今回のnote復刊の際は、襟川惠子氏をVol.6として再現し、襟川陽一氏をVol.7として公開しました。

襟川 同じ時代に同じ仕事をずうっとしてきたので、だいぶ話がダブっちゃいますけどね。

――陽一社長が書かれた書籍(注2)も読ませていただきました。最近は露出も多くて、もういろいろなところでしゃべったんだよなと思うところも多々あると思うのですが。

注2:襟川陽一氏がシブサワ・コウとして自身の半生やクリエイティブ術などについて綴った『シブサワ・コウ 0から1を創造する力』(PHP研究)のこと。

襟川 そうですね。ほとんどしゃべってしまったので、私よりも鯉沼(久史)(注3)のほうがいいんじゃないかと(笑)。

注3:コーエーテクモゲームス代表取締役社長。『戦国無双』や『ガンダム無双』、『ワンピース海賊無双』など、数多の『無双』シリーズのタイトルを手がけたことで知られる、

世界中のゲームファンの方が「頑張れ」と応援してくれたこと

――(笑)…とはいえですね、陽一社長に出ていただきたいという読者の声が以前からたくさんありまして。それは私も同じで、ぜひお話をうかがいたいと思っていたんです。ゲームを作り始めて、もう40年近いですよね。

襟川 1980年からですから、もう39年ですね。

――一代で会社がここまで成長と言うケースは、とても素晴らしいことですよね。

襟川 ゲームファンの皆様方が応援してくださっているということが、やっぱり一番うれしいです。国内だけではなくて、世界中のゲームファンの方が「頑張れ」と応援してくださる。そういう言葉に励まされることで、「いいゲーム作ろう」と自然に動機付けされると言いますか、きっかけが出来上がって、それでゲームを何本も作ってきたんですね。

黎明期の頃にゲームと出会って、ゲーム作りを始めて、それをゲームファンの方々が叱咤激励して引き上げて下さって。そういったことを1980年からずっと続けてきまして、それがさらにどんどん……ビジネスでいえば2018年のゲームマーケットは15兆円になるとも言われていますよね。それぐらいの勢いで、急激に今ゲームの世界は広がっていっています。そういう中で40年近くゲームの仕事を続けられたというのは非常に幸せです。本当にファンの皆様に感謝したいと思います。

――作ったものが評価されて、陽一社長がさらに頑張ろうと思われて、またいいものを作ってと。すごくいいスパイラルだなと御社の歴史を見ていて僕は思います。

襟川 そうですね、おっしゃるとおりです。

会社は生き物で、傷ついたり、活気に満ちていたり…


――でも、やっぱり初期の頃はいろいろ御苦労もされましたよね?

襟川 全然苦労なんてしていないですよ。好きなことをやってきましたから。

――そう言えるのはいいですよね。とはいえ、御実家が経営されていた会社が廃業するというのは厳しい経験だったと思います。そうしたことを目の当たりにされたときは、どのように感じられたのでしょうか。

襟川 う~~ん……会社っていうのは生き物であってですね。さまざまな理由で傷ついていって、最後どうにもならなくなると廃業して無くなる。生きていた会社、活気に満ちていた会社がまったく無になってしまうということを目の当たりにしたわけです。ですから、家業が廃業したことへの悔しさはもちろんありましたが、同時に父親の会社の残務処理をしていく中で、そこに至った原因というのも自分なりに分かってきまして。自分だったらこうする、こういう風にすればうまくいくんじゃないかと思い始めたんです。

そのとき、以前に勤めていた大阪の会社に戻って、営業の仕事をもう一度やらないかというお話もいただいていたんですが、無謀な夢といいますか、希望といいますか。甘い考えではあったんですけれども、何かやってみようという気持ちが芽生えてきまして、それで光栄(当時)を創業したんです。

――御家業と同じ業種で創業されたわけですよね。ほかのインタビューなどでも、自分ならやれるんじゃないかという気持ちがあったと、お答えになっていますが、やっぱりそうしたお気持ちが強かったのでしょうか。

襟川 戦前から染料問屋を営んでいましたから、その頃から長くお付き合いいただいている染工場やプリント工場、繊維製品を整理する会社などがありまして。襟川家の3代目が家業を再興するんだったら応援するよという暖かいお言葉を、そうした会社からいただいたんですね。そういったお言葉にお応えするということで、染料工業薬品の販売の仕事をもう1回スタートしたというのが実態です。ただ、自分としては何か新しいことをやらなくちゃいけないという気持ちが強くて、包装用の資材であるとか、販促用のプロモーション機材であるとか、いろいろなことにチャレンジをしていきました。

パソコンは夢の小箱みたいな感じがしたんですよ


――そういうものもおやりになっていたんですか。

襟川 はい。いろいろ取り組んで成功したり失敗したり。そんな中で出会ったのがパソコンだったんですね。それが1980年のことです。

――シャープのMZシリーズですよね。

襟川 そうです、MZ-80C(注4)です。でも、別にゲームを作ってビジネスにしようとはまったく考えていなかったです。コンピューターを使って会社の合理化が進められたらいいなあと。見積の計算や財務管理、在庫管理など、手計算でやっていた管理関係の事務的な仕事を合理的に素早く解決できればいいなあというような気持ちだけだったんです。

ただ、それまでコンピューターは素人がさわれるものではない、自分にはとても縁遠いものだとも思っていたんですね。それが自分の目の前にあってオモチャとして自由にさわることができる、操作することができる。そう思うと、何か夢の小箱みたいな感じがしたんです。それで、パソコンの世界にどっぷりハマってしまいました。きっと、パソコンと相性がよかったのでしょうね。

注4:モニター、キーボード、データレコーダーが一体化したオールインワンタイプの8ビットパーソナルコンピューター。往年の名機として名高く、2017年にミニチュアサイズのレプリカが発売された。

――すべて独学で覚えられたんですよね。当時はけっこうハードルが高かったと思うのですが。

襟川 実は、私は小学生の頃から電気工作でラジオやアンプを作ったりしていたんです。当時『ラジオの製作』や、そういった電気工作の月刊誌がありましたよね。それを見て真空管や抵抗やコンデンサーを買ってきまして、鉱石ラジオから始まって3球、5球スーパー(注5)などを作りました。そういう自分で何かを作っていくことに楽しさを見出していたんですね。

注5:真空管ラジオの種類。「球」とは使用する真空管の数のことで、3球は真空管を3本、5球は5本用いる。このような真空管などの電子部品を使って組み立てる電子工作キットは当時の理系少年たちの間で非常に人気があった。

自分で操作ができるんだと思ったら、もう楽しくなっちゃって


――もともと、そういった理系的な素地がおありになったんですね。

襟川 ええ。だから、よくアキバに部品を買いに行っていましたよ。そういうラジオの部品は足利には売ってないですが、アキバに行くとたくさんありますから。

――当時、アキバの高架下にそういう電子部品のお店がいっぱいありましたね。

襟川 そうです、アレです。で、真空管も新品を買うと高いので、中古屋さんに行って安いものを探したりしてね。その前はプラスチックモデル、プラモも好きでした。そういった何かを組み立てたり作り上げたりするのが大好きでしたので、パソコンを家内に買ってもらったときも……当時は「マイコン」って言っていましたけどね、中身はどんな風になっているんだろうなと思って、まずフタを開けてみて(笑)。で、半導体とかが何かに繋がっているのを見て、これを自分で操作できるんだと思ったら、もう楽しくなっちゃって、アッハッハッハ。

――アハハハハ。

襟川 さっそくパソコンのマニュアルであるとか、操作方法が書いてある解説書なんかを読んだのですが、それだけでは分からないので、本屋に行ってBASIC(ベーシック)の教則本を買ってきまして。それでBASICをひとつひとつ自分で覚えていったのですけど、とにかく楽しくてしょうがないんです。BASICのコマンドを覚えること、BASICで要領よくプログラムを組むこと、そのプログラムを動かすと自分のアイディアで作りだしたものが実際に画面に表示されること。それがもう、うれしくて、うれしくて。

――やっぱり、そういうものなんですね。そのパソコンは恵子会長に買っていただいたんですよね。

襟川 はい、誕生日プレゼントで。高いオモチャでしたから(笑)。

ゲームソフトを開発するなんてことは全然考えていませんでした

――当時は相当高かったですよね。

襟川 高かったですね、26万8千円です。

――以前の取材で恵子会長は当時から株の運用をされていたし、美術や洋服関係の仕事もされていて経済的に余裕があったので、陽一社長に言われて買ってあげたとおっしゃられていましたけど。

襟川 マイコンっていうのが世の中に出てきて、何かすごく変わるみたいだよ、みたいな話を夕食のときなんかによくしていたんですね。そういう情報は当時のパソコン4大誌(注6)を買って読んでいましたから。会社の仕事がうまくいっていなかったので、自分で買えるだけの余裕はなかったんですけど、そういう話をしていたらプレゼントしてくれたんです。

注6:電波新聞社の『月刊マイコン』、アスキー(現角川アスキー)の『月刊アスキー』、工学社の『I/O』、廣済堂『月刊RAM』のこと。

――だんだん洗脳していったと言いますか、刷り込みをしていった感じですか。

襟川 洗脳って(笑)。いや、世の中こんな風に変わるのかなとかね。マイコンっていうものが世の中に出現して、今まで雲の上の存在だったコンピューターが身近なものとして個人ベースで使えるようになっていく。そういう時代になってきたんだな、なんて話をしただけで、それがこんな風に仕事の役に立つとか、ましてやゲームソフトを開発するなんてことは全然考えていませんでした。

――でも、すごい慧眼ですよね。

襟川 マニアの人っていうんですかね。電子工作が好きとかいう人たちは、パソコンの方にだんだん目がいっていたんじゃないかと思います。その当時、アップルIIの部品だけ買って、自分で組み立てて使うとかですね。もちろん問題なんでしょうけど、そういうのも話題になってきていましたから。電子工作は昔やっていましたので、私も最初作ってみようかなと思いましたが、結局それは止めて出来合いのものを買いました。それがシャープさんのMZ-80Cだったんです。

今でいう受託開発をいくつか始めたわけです


――元スクウェア(現スクウェア・エニックス)の坂口(博信)さんもアキバでそういうパーツを集めて、アップルIIまがいのものを作ったことがあるとおっしゃっていました(注7)。

注7:坂口博信氏が大学時代に田中弘道氏と海賊版のアップルIIを組み立てて遊んでいた話はエンタメ異人伝Vol.4にそれぞれ詳しい。

大学生のときのヨーロッパ旅行時のスナップ

襟川 (アップルIIの)回路図も売っていましたからね。

――そうだったらしいですね。当時もそういうマニアはいましたけど、でもゲームまで作って、それで今ここまでっていうのはやっぱり違いますよね。

襟川 最初は自分でプログラムを作って財務管理とか在庫管理とか見積計算とかに使っていたんです。それがすごく便利だったので、いろいろな取引先の人にパソコンを入れるといいですよ、すごい役に立ちますよって勧めたんです。すでにOA化、オフィスオートメーションっていう言葉が生まれていましたからね。オフィスコンピューター……当時はオフコン、オフコンって言っていましたけど、そのオフコンを導入して経営の合理化に役立たせるとか、そのようなトレンドがもうすでに出始めていたんです。

それで、もっと安くて身近なパソコン、マイコンを使えば個人ベースで経営合理化を進められる、みたいなことを自分の経験を元に取引先の方にお話ししていたんです。そうしたら、良さそうに感じるけどプログラムを組める人がいない、誰もプログラミングできないから、じゃあ襟川君やってくれないかと頼まれまして、今でいう受託開発をいくつか始めたわけです。

――経理ソフトみたいなものを作られていたわけですか。

襟川 在庫管理のソフトですね。あと工程管理のソフトなんかも作りました。それがいくらか収入になりましてね。もちろん、何千万とか何億とかいうプロジェクトじゃなくて、何百万円ぐらいだったのですけど、これはビジネスとして成り立っていく可能性があるなと感じたんです。

――はあ~~すごいですね。

襟川 ただ、それは仕事としてやりましたので、やっぱり自分としては夜にやるゲームソフト作りのほうが楽しいんですよ。

4大マイコン雑誌の功績って、ものすごいものがあります


――そうでしょうね。その頃はどういったものをゲーム作りの参考にされていたのでしょうか。

襟川 先ほど申し上げた4大マイコン誌、パソコン誌がありましたよね。そこにゲームのプログラムが載っていまして、全部入力すると、ちゃんと動くわけです。たとえば『スタートレック』とか、そういったゲームのプログラムが載っていて、それを打ち込んでいくと、ちゃんと『スタートレック』のゲームになって、クリンゴンがどうしたとかクリーチャーがどうだとか(笑)。

――それを全部自分で打ち込んでプレイされていたと。

襟川 ええ、1980年とか81年頃のパソコンのゲームは自分でプログラムを打ち込んで、自分でプログラムを組んで楽しむものだったんです。そういうゲームを売っているお店も当時はまだなかったですし。

――そうか、自分で打ち込むことでプログラミングを覚えていったわけですね。ここはこれでこう動いているんだ、みたいな。

襟川 そうですね。ゲームの作り方が分かっちゃうわけです。ですから、その4大マイコン誌の功績って、ものすごいものがあります。ああいった雑誌がなかったら、私もどうなっていたか分からないですよ。

――そうですよね。なるほど、すごいことですね。

襟川 で、プラグラムを打ち込む時間のない人とか、BASICの知識のない人は、打ち込んだ人にカセットテープに保存してもらって遊んでいたんです(注8)。そのテープをじょじょにお店とか通信販売で売るようになったんですね。最初に始めたのは『I/O』さんです。『月刊マイコン』さんもやっていましたね。自分で打ち込まなくても、これで遊べますよっていう。それがゲームソフトの歴史の第一号で、おもに通信販売で売られていました。

注8:当時は音楽用に利用されていたテープレコーダーを使って、カセットテープにプログラムを書き込んで保存したり、テープからプログラムを読み込んだりしていた。

『川中島の合戦』開発の背景にあったものとは・・・


――それで『川中島の合戦』(注9)を作られたわけですよね。

注9:武田信玄となって川中島で上杉謙信と戦う戦術シミュレーションゲーム。1981年10月26日に発売されたシブサワ・コウのデビュー作で、現在「シブサワ・コウ アーカイブス」として配信中。オリジナル版とリメイク版が遊べる。

襟川 ええ。そういう打ち込みのゲームをたくさんプレイしてみて、面白かったので自分でも作ってみようと。昔から歴史が好きだったので、歴史に関わるゲームを作ってみようと思ったんです。当時は『ブロックくずし』であるとか、テニスのゲームであるとか、アクションゲームであるとか、それから先ほどの『スタートレック』みたいな冒険アドベンチャー系ですね、ああいうものがほとんどで歴史に関わるゲームはまったくなかったですからね。それと、私は囲碁が大好きだったのですが、囲碁や将棋のような考えて楽しめるものもなかったんです。

――いわゆる国産のものがまだなかったですよね。

襟川 そうですね。ただ、ゲームを自分で組んで、その4大誌に本名やハンドルネームで投稿されている方はすでにいました。で、何々さんが作ったこのゲームは面白いよねとか、みんなから賞賛されたり、話題になったりしていたんです。そういう中で自分もやってみようかなと、そう思って作ったのが『川中島の合戦』だったんです。

――最初の作品だけに、かなりご苦労もあったのではないですか?

襟川 いやいや全然。まったくの趣味ですから、もう楽しくて、楽しくて(笑)。いい遊び道具を見つけちゃったみたいな感じでした。

――今でいうところのAI的なパラメータの導入というのは、当時としてはかなり斬新でしたよね。

襟川 いえ、そういうパラメータで何かを表現するというのは、もうすでにいろいろありました。ボードゲームとかカードゲームとかでも一般的でしたからね。ただ、それを歴史のゲームの中に持ってきたというだけです。

――でも、その部分だけでも十分パイオニアだと思います。

襟川 自分で楽しむために作って、自分で楽しんでいただけです。それで、自分がより納得して楽しめるように何回も何回も作り直して。

『投資ゲーム』開発は短波放送の株式市況からのヒントをもらった

――先ほどおっしゃられた外部の会社のシステム作りを受託する一方で、夜はゲームを作られていたと。

襟川 夜はそれをやっていました。でも、プログラミングの技量が上がっていったのは、その受託開発のおかげです。お客様からけっこう厳しい要求仕様が出されるので、それにお応えするために、どうしようどうしようと考えることで、だんだんプログラムの効率的な組み方であるとか、スピーディーに物事を処理する組み方であるとか、そういったテクニック的なところが鍛えられていきました。それで、自然にゲームが作れるようになっていったんです。

39才のとき_ニュービジネス協議会からアントレプレナー大賞を受賞した時

――なるほど、すごいですね。

襟川 ただ、その業務用の受託の仕事は最初の3つだけで止めました。『川中島の合戦』がすごく面白かったので、家内が通信販売をしてみたらいいんじゃないのって言い出したんです。『月刊マイコン』に半ページ広告の空きが出たので安く出せるよって。しかも、1タイトルだけだと広告宣伝費がもったいないから、もうひとつ作って、ふたつ宣伝しようって言うんですよ(笑)。それで、家内がとにかく株式投資が大好きだったということもありまして、何か投資に関係するゲームなら面白いんじゃないかと。そういうゲームもまだなかったので『投資ゲーム』というゲームを作ったんです。

――すみません、そちらはまったく存じ上げませんでした、

襟川 株式相場と商品相場と為替相場、この3つの相場が日々のニュースによって変動していくというものです。株式相場は確か8銘柄か10銘柄ぐらいで商品相場は3つぐらい、為替も3つぐらいでしたか。それらが毎日流れるニュースの内容によって上がったり、下がったりするんです。

――つまりゲームの中の銘柄があって、それらの株価がニュースに応じて変動すると。

襟川 そうです。どこかで大きな経済の変化があったとか、そういった我々が日々新聞で見るようなニュースがたくさん流れるのですが、それらが株式や為替や商品相場のどういう項目に対してプラスするか、マイナスするかっていうのをちゃんと紐づけしてあるわけです。で、元手が100万円でゲーム内の銘柄に投資して資金を増やしていくという。

――なるほど。それで、恵子会長はその『投資ゲーム』と『川中島』の2本で広告宣伝をしようと。

襟川 ええ、そうですね。なぜ、この『投資ゲーム』を作ったかといいますと、家内は高校生の頃からずうっと株式投資をしていまして、私が仕事でプログラムを組んでいるときも、夜に遊びでゲームを作っているときも、ラジオの短波放送で「何が何円、何が何円、何が何円……」っていうのが、ずうっと聞こえてくるんですよ。もう、うるさくって、うるさくって(笑)。

――ハッハハハハハ、ラジオの株価情報ですね。僕も昔聞いたことがあります。それを恵子会長がいつも聞かれていたわけですか。

襟川 そうです。当時の何百という株式銘柄を高いのも安いのも含めて全部読み上げていくんですね。しかも、一通り終わると最初からまたやるんです。それを、ずううっっと、ずううっっと……家内が食事を作ったりとか、掃除をしたりとか、いろいろ仕事の手伝いをしたりとかしながら聞いているので、私も1日中聞くことになるわけです。もう「何が何円、何が何円、何が何円」っていうのがアタマの中に入り込んじゃいまして(笑)。それで、自然とじゃあ投資のゲームを作ってみようかなと思ったんです。

――そうだったんですか。それで、2本まとめて宣伝して、お話によると現金封筒が……。

襟川 たっっくさん来ました。最初は100本ぐらい売れたらいいな、でも数本か数10本だろうなと考えていたんですが、最終的に『川中島の合戦』は1万本近くまでいったんじゃないですかね。そんなに売れるとは全然思いませんでした。『川中島』ほどではないですが『投資ゲーム』も考えていた以上に売れました。それだけ好きな方がいるんだなって、あのとき初めて分かりました。

――それでフェイズが変わったんですね。

襟川 変わりました。ゲームソフトを作ろう、自分で(ゲームを)作るのは楽しいし、遊んでも楽しいし。しかも、それを買ってくださって「面白いよ」、「面白かったよ」っていう声援を電話とかハガキとかで、たくさん送ってくださる。それで、なおヤル気になりました。

――それは足利の別荘で生活されていた頃ですか?

襟川 そうです。山の奥にあった私の祖父母の別荘だったのですけれども、当時はまだそこにいました。ただ、業務用の受託を始めたときには、すでに市内の中心地にパソコンショップを作っていまして、そこでゲームの開発を始めたんです。

通信販売を始めてみたら現金封筒が驚くほどたくさん来ましたからね


――パソコンショップもされていたんですか?

襟川 ええ、ショップでパソコンを売っていました。それが「光栄マイコンシステム」です。

――「光栄マイコンシステム」ってショップの名前だったんですか。

襟川 ええ、ショップ名だったんです。

――てっきりブランド名だと思っていました。これは失礼しました。では、その頃はショップも経営されていたと。

襟川 そうです。ゲーム開発のほうが忙しくなったので、ショップの方は2年ぐらいで止めましたけれども。

――そのあと『地底探検』(注10)や『コンバット』(注11)などを手掛けられて、完全にゲームパブリッシャーになられたんですよね。

注10:5人組みのパーティで地底を探索していくRPG風シミュレーションゲーム。1982年発売。

注11:往年の人気海外ドラマ『コンバット』をベースにした戦略シミュレーション。1982年発売。

襟川 染料工業薬品の販売の仕事は止めて、もうゲームが100%になりました。とにかくゲームを作るのが楽しい。遊ぶのも楽しい。しかも、それをお客様に喜んでいただける。そこにすごくやりがいを感じまして、ゲームソフト開発を専業にしたんです。

――恵子会長はゲームという新規のジャンルを専業にすることに、あまり抵抗はなかったのでしょうか?

襟川 もしかしたら思うところはあったかもしれませんけど、先ほど申しました通り、通信販売を始めてみたら現金封筒が驚くほどたくさん来ましたからね。二人ともビックリしてしまって。仕事の内容はまったく違いますけど、私は(ゲームに)可能性を感じましたし、会長もそうだったと思います。本業の染料工業薬品の販売のほうも順調にいっていなかったですしね。

41歳のとき、株式上場に際して東京証券取引所にて

「ストロベリーポルノシリーズ」について訊く


――いや、すごいお話ですね。当時作られたソフトの中に「ストロベリーポルノシリーズ」(注12)がありましたよね。一部の記事で読んだこともあるので、ちょっとお聞きしたいのですが、大丈夫ですか?

注12:1980年代前半に光栄がパソコン向けに発売していたアダルトゲームのレーベル。

襟川 ええ、最初に作ったのは『ナイトライフ』ですね。これは実用的なソフトでして、当時の長崎大学医学部の先生から褒めていただいたものです。今も不妊治療はありますけども、当時もなかなかお子さんができないとか、そういう話があったんですよね。で、「オギノ式」(注13)という妊娠しやすい周期を計る方式をうまくプログラムにすれば、世の中の役に立つんじゃないかと考えました。そこに48手の表とか裏とか、100年分セーブできますとか、ちょっとしたエンタメ性を入れたわけです。ソフトがスタートすると、ああしろこうしろと色々指示が出てきて、充実したナイトライフが過ごせますよという(笑)。

注13:女性の月経周期に基づいて妊娠しやすい時期や妊娠しにくい時期を計算する方式。医学博士の荻野久作氏が提唱した学説であることからこのように呼ばれる。

――アハハハハ、いいですね。遊び心があって。

襟川 これがすごく売れたんですね。それがきっかけになって、もっとゲームっぽくできないか、エンタメの世界にならないかっていうので作ったのが『団地妻の誘惑』です。コンドームのセールスマンが主人公なんですけど、ヤクザとか、きれいなお姉さんとか、妖艶な人妻とか、いろんな人が出てきまして。越ケ谷の団地で、そういう人たちと交渉しながらコンドームを売っていくっていうロールプレイングゲームでした。

――面白いですよね。

襟川 これもすごく好評を博しまして、2番目に作ったのが『オランダ妻は電気ウナギの夢を見るか?』。ダッチワイフが男どもに「いいかげんにしろ」って反乱するゲームです。

――フィリップ・K・ディックの小説(注14)がベースですよね。

注14:SF映画の傑作『ブレードランナー』の原作である『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』のこと。『オランダ妻~』はこの作品のパロディ的内容になっている。

襟川 そう、そうです。これも非常に好評でした。

――なぜ、こういったものを作ろうと思われたのでしょうか。

襟川 新ジャンルにどんどん挑戦していこうということで、ロールプレイングゲームやアドベンチャーゲームやアクションゲームなど、シミュレーション以外の作品もいろいろ作っていたんです。そのひとつとして艶笑落語的といいますか、大人のちょっとした楽しみがゲームになるようなものを作ってみようかなと。ほかの会社はそういうものをあまり作っていなかったですから。でも、ちょうど会社が急成長している時期で、そういうソフトを出していると上場審査で問題になる恐れがあると、中止したほうがいいというアドバイスをいただきまして、そこで止めました。

30歳の頃の記念写真

ゲーム作りは新しい面白さを楽しんでいただくというのが大原則

――恵子会長が手がけられた女性向けの『アンジェリーク』もそうですが、新しいものに対して常に意欲的に取り組まれてきましたよね。それはやはり、ご自身の興味の向くままという感じなんでしょうか。

襟川 私もいちゲームユーザーなので、新しい面白さに対してすごく貪欲ですし、やっぱり同じタイプのゲームを何回も繰り返すのはあまり面白いとは思わないです。いちゲームプレイヤーとして常に新しい面白さを求めていますので、自分がゲームを作るときも新しい面白さを楽しんでいただくというのが大原則だと思っています。

――もともと別に好きじゃないけど、社業だからやってきたという方が経営する会社もあると思うんですけど、陽一社長の場合はホントに好きで始めて、それが拡大していって。さらに自身のプレイヤーとしての目線も含んでクリエイティブとして増殖していくっていう、すごくいいパターンですよね。

襟川 80年から、ゲームと接していることが1日のほとんどを占めるようになりましたので、自然と面白いもので遊びたい、面白いものを作りたいと。そういうことが、いつも頭の中で練られているといいますか、錬成されているといいますか……何と言ったらいいのか分からないですけど、普通にいつもそう思っちゃっているんですね。面白くないものは何とか直さなくちゃいけないし、面白いものはより面白くしたいと。

幼稚園から中学3年までバイオリンの稽古の背景は父の教育方針


――そうした物事をご自身から積極的に楽しんでいくという陽一社長の資質は御両親の影響によるところもあるのでしょうか? なぜかというと、妹の襟川クロさんも映画のほうで大成されて、今でも現役で活動されていますよね。陽一社長もゲームというエンターテインメントの分野で活動されていて、御兄妹でそうしたジャンルに進まれたというのは、なかなか珍しいと思うのですが、それは御両親が文化的なことに対してすごい寛大だったからではと思ったんです。

襟川 あれしろ、これしろと強くは言われなかった記憶はあります。ただ、バイオリンだけは絶対にやりなさいと。これだけは厳命されまして、幼稚園から中学校の3年生までやっていました。

――かなり長いことされていたんですね。ご両親としては何か目論見みたいなものがあったのでしょうか。

バイオリン発表会 10歳の頃 陽一氏は右

襟川 父親がクラシック好きだったんです。クラシックのレコードをコレクションしていて、しょっちゅう聞いていました。そういう親だったので、必然的に子供たちも何かやれという話になりまして。それで息子にはバイオリンを、娘ふたりにはピアノをやらせて、家族や友人・知人、親戚なんかが集まったりするときにみんなの前で弾かせるわけです。

――兄妹全員で演奏すると。

襟川 そうです。襟川一族は人数が多かったですから、そういうところで弾かされました。学校でもよく弾くことがありましたし、中学に入ってからは足利の市民交響楽団で大人に混じって第2バイオリンをやっていました。ベートーベンの第一とかを演奏しましたね。

――それだけスキルがあったわけですね。

襟川 ただ、好きでやっているわけではなくて、両親にやらされていましたので、どちらかというと義務感みたいに感じていました。

――では、御両親はけっこう厳しい方だったんですか。

襟川 音楽のことだけです。勉強しろとかはあまり言われなかったですし、割と好きに遊ばせてもらいました。

――ほかに何か少年時代に文化的な部分で影響を受けたものはありますか。

襟川 う~ん、そうですね……足利市は足利尊氏の一族の発祥の地で足利学校(注15)もありますし、鑁阿寺(ばんなじ)っていう足利家の菩提寺もあります。足利一族の居宅跡であるとか、足利家にゆかりのあるお寺であるとか、そういう歴史に囲まれた環境の中で育ったんですね。そうしたことは私が歴史を非常に好きなことに関係があるんじゃないかとは思います。

注15:栃木県足利市にある史跡。中世の高等教育機関で日本最古の学校といわれる。

商売に関係するところを受けなさいと言われ、慶応大学商学部を志望

――その後、慶應大学に入られたわけですが、なぜ慶應を選ばれたのでしょうか。

襟川 私は割と数学が好きで、理科も好きで、電子工作・電気工作も大好きなので頭の中は理工系じゃないかなと思うんですね。ですが、父親に家業の3代目になるんだから、商学部であるとか経済学部であるとか、そういう商売に関係するところを受けなさいって言われまして、それで慶應の商学部を選んだんです。

――そこで慶應を選んだからこそ、のちの出会いもあったわけですよね。当時、日吉の校舎のあたりで下宿を探されているときに、当てにしていたところがダメになってしまって、それで恵子会長の御実家があった今のFOST(注16)のある場所に下宿されることになったとお聞きしましたが。

注16:襟川陽一氏が理事長を務める公益財団法人・科学技術融合振興財団の略称。シミュレーション&ゲーミングなどの研究への助成と、その成果を広く還元する普及啓発を事業の柱としている。

襟川 そうです。あそこの2階に下宿していました。

――それは誰かの御紹介だったのでしょうか。

襟川 ええっと、最初はですね……そうだ、慶應の教務課にまず聞いたんですね、下宿屋さんを斡旋してくださいと。そうしたら下宿の協会といいますか、組合みたいなところがあるから、そこに行きなさいと言われまして。それで、行ってみたんですが、最初に紹介してもらったところが空いていなかったんですね。で、もう一件紹介してもらいまして、そこが会長の実家だったんです。 

陽一氏が語る惠子さんとの出会いとは

――なるほど。住まれてみて、いかがでしたか?

襟川 あそこは日吉の駅からすごく近くて、今はそうでもないんですけど、当時はバーとかクラブがたくさんあったんです。あの通りだけでバーがイチ、ニ、サン、ヨン……4つ、クラブが2つありましたね。それから雀荘とか卓球屋なんかもあって。小料理屋さんも確か3、4軒あって中華料理屋さんもあって、割と夜遅くまでみんなが楽しめるところだったんです。

――そんな場所だったんですか。

襟川 ええ、だから、どちらかというと夜の方が賑やかな感じの通りで、きれいな女性がけっこういましたね(笑)。

――ハハハハ、それはいいですね。そこで惠子さんに初めて出会われたわけですが、第一印象はちょっときれいな女性だな、みたいな感じですか?

襟川 最初はあんまり意識しなかったです。よくパチンコ屋や雀荘で会っていましたので、「あ、またいた」ぐらいな感じでしたね。

――そうでしたか。恵子会長が下宿の階段のところに腰掛けていたら、ほろ酔いの陽一社長が帰ってこられて、飲みに行こうと誘われたというようなお話もお聞きしました。

襟川 あぁ~……シチュエーションはちょっと忘れちゃいましたけど、私のクラスの友人がその通りに4軒あるバーのひとつでバーテンダーのアルバイトをしていたんです。それで、今だから話しちゃいますけど、深夜12時くらいになってですね、お店が終わると店のオーナーも女の子もみんな帰っちゃうわけです。そうしたら、その友達が下の道路から「襟川、襟川~」って。そのバーって下宿のちょうど斜め向かいだったんですよ。

――下宿の窓から見て斜め向かいにそのお店があったと。

襟川 ええ、いい場所なんです(笑)。で、その友達が「もうみんな帰ったぞ」とか「飲みにこいよ」とか言ってくるわけです。それで、行くとですね、余ったウイスキーだとかビールだとか、飲み残しがたくさんありまして、これ全部飲んでいいよとかなんとか。

――へえ~そうだったんですか。

襟川 そこに会長と一緒に行ったか、他の店に行ったかで、いろいろ話をしたりしたんです。そういったことが縁になったような気がしますね。ただ、とにかく毎日会っていましたので。それこそ一緒にパチンコ屋に行ったり雀荘に行ったり……もう若い頃の話です、アハハハハハ。

アルバイト、ヨーロッパ旅行、部活、充実した大学生活


――アルバイトもいろいろ紹介してもらったんですよね。テレビの裏方のお仕事とか。

襟川 大学時代にもっとも一生懸命やっていたのはジャズコーラスのバンドで、ほぼ毎日練習していたんですけれども、当時は全共闘が活躍していた時代で。

――ロックアウトですか。

襟川 ええ、ロックアウトで日吉の校舎に入れないというのが、ごくごく普通の状態でした。1年のうちの半分とか、ロックアウトしていましたね。

――そんなだったんですか。

襟川 ひどかったです。それで、昼間ヒマになったので、アルバイトをいろいろ紹介してもらったんです。テレビ局のアルバイトが多かったですね。

――仕事をしないで、小川ローザさんとか弘田三枝子さんとか、当時の有名な歌手を見に行ったりしていたみたいなことを恵子会長がおっしゃられていましたが、それは事実ですか?

襟川 有名な歌手やタレントさんが普通に歩いていますからもう目移りしちゃって(笑)。テレビ局の中に入れるだけでも貴重な体験、経験ですからね。それだけでもう浮足立っちゃいまして、ほかのスタジオにいる有名な俳優やスターを見に行って、収録に間に合わなかったりとか、いろんな失敗をしました。

――御一緒にヨーロッパ旅行もされていますよね。恵子会長がお友達と海外旅行の計画を立てていたときに、もっと長期でいいのがあるよと言ってきたとおっしゃられていましたが。

襟川 ええ、慶應の紹介で「英語とヨーロッパの旅」っていうツアーに。イギリスのボーンマスっていう場所だったかな? そこの英語学校で3週間勉強して、残りの3週間でヨーロッパ中をグルっとひと回りするっていう。確か、慶應の教授が3人か4人一緒で、お医者さんや看護師さんも帯同していて、全部で120人ぐらいのツアーでしたので、集団でワァーッといろんなところを移動していきました。

――そんなにすごいツアーだったんですか。それを御一緒されたんですよね。

襟川 ええ、一緒に行きました。それが大学4年生のときです。

彼女は感覚的に捉える、私は論理的に構築して捉えるというように全然違うんです


――お話しにくいかもしれませんが、いつ頃からお互いに意識をされ始めたのでしょうか。

襟川 う~~ん…………(熟考)。

――恵子会長はお母さまが陽一社長のことを「深草少将」(注17)と呼んでいたとおっしゃられていて、陽一社長は「人命救助結婚だ」みたいなお話をされていますが、正直なところどちらなのでしょうか。

注17:小野小町に恋して彼女のもとに通い詰めたとされる伝承の人物。

襟川 いやもう2階の窓から釣り糸が垂れていましてね、それに私がうまく引っかかっちゃったもんで、ハハハハハ。

――アハハハハ、そっちなんですね。でも、恵子会長は今もすごくおきれいですし、当時から魅力的な方だったのだと思います。

襟川 趣味が非常に近かったといいますか、似ていたんですね。どちらもジャズが好きで、パチンコが好きで、麻雀が好きで。それから、飲み屋に行って騒いだりするのも好きだし。

――もちろん趣味が合ったということも大きかったと思いますが、どちらかというと陽一社長はクリエイティブの側で、恵子社長は割と前にガッと出ていくタイプで。そこが、プラスとマイナスではないですが、対照的なだけにすごくマッチングが良かったような気が僕はしているんですけど、御自身はどのように感じられていますか?

襟川 まったく性格は違うし、考え方も全然違うんですね。彼女は多摩美で平面デザインを専攻していましたから非常に美的センスが良いですし、性格も感覚的、直観的で、あまり物事を理屈で考えないんです。一方、私は先ほど申し上げたように数学とか物理とか理科が好きで、理屈で物事を組み立てていく。プログラムはまさしく理屈で組み立てて出来上がるものですからね。ですから、彼女は感覚的に捉える、私は論理的に構築して捉えるというように全然違うんです。ただ、趣味だけは一致しているんです。いいと思う音楽も同じで、どちらもジャズが好きだし、山下達郎やユーミンも好きでしたし。そういう好きなところが非常に近かったんです。だから、話が合ったんですね。

――それは重要なことですよね。ただ、いざ結婚となったとき、陽一社長の御実家の方に抵抗があったというような話もうかがっていますが、そのあたりはどうだったのでしょうか。

襟川 う~~ん……そうですね。最初に早いっていうのは言われましたね。24歳で結婚は早すぎると。まだ若いんだから、もっと修行してから結婚しなさいと父親には言われました。

――でも、それを押し切られたわけですよね。

襟川 そうですね。あの~~……まあ人命救助婚でね。責任取らなきゃいけないかなというような気持ちもあって、ハハハハハ。

――いやいやいやいや(笑)。ただ、お父様はもうちょっと社会経験とか積んだほうがいいと思われていたわけですよね。

襟川 まだ修行中の身だっていう意識だったと思うんですね。父親は高校を出てすぐに大阪の船場にある問屋さんに丁稚奉公に行っていますから。そこで修行して帰ってきて、亡くなった祖父の仕事を引き継いだんです。ですから、私も同じように7、8年は外で修行して、それで帰ってきてから結婚しなさいみたいなイメージがあったんじゃないかと思いますね。

65年続く、大学サークル「カルア」の活動を今でもサポート

大学生のころ、シングルレコードリリース 慶応大学の学生バンドとしてデビュー ザ・カルア

――なるほど、そうでしたか。先ほど趣味のお話がありましたが、バンドはもう趣味の域を超えていますよね。「カルア」というバンドでレコードも出されていたり。

襟川 「カルア」は大学のサークル活動といいますか。正式のクラブ活動ですけどね、文化団体連盟……ブンレン、ブンレンって言っていましたけど、その文化団体連盟KBRソサエティーの所属で昔はハワイアンのバンドだったんです。

――そうだったんですか。だから「カルア」なんですね(カルアはハワイ語)。

襟川 そうですね。代々名前を引き継いでいまして、私の代のときにはジャズとボサノヴァのバンドになっていました。今はわりとロック系になっています。

――今も続いているサークルなんですか。

襟川 続いています。5年前に60周年を迎えました。

――60年! すごいですね、それは。

近年も活動を継続するカルア50周年記念のライブにて

襟川 50周年のときも60周年の時も青山のブルーノート(注18)に先輩後輩250人ぐらい集まりました。それぞれの時代の曲をみんなで歌いまして、あっという間に3時間ぐらい経っちゃいましたね。

注18:ジャズライブを鑑賞しながらディナーなどを楽しめる東京南青山の老舗ジャズクラブ。

――はあ~~慶應ならではのエピソードですね。60年と聞くとびっくりしますね。

襟川 あと5年で70年になるのかな。多分、またブルーノートでやると思います。

――もう、ある種のOB会ですね。

襟川 そうですね。ただ、ブルーノートでやるのは10年に1回ですけど、OB会はOB会で毎年やっています。で、私は18歳で「カルア」に入ったんですが、いまだにそのときの同級生たちとバンドをやっていまして。「カルアージュ」というバンドで、昨年の12月9日にも青山のCAY(カイ)というところでライブをやりました。120人ぐらい集まったんですよ。

近年も活動を継続するカルアのライブにて(陽一氏はベース)

――スパイラル(東京青山にある複合文化施設)の地下ですよね。あそこでもライブをされているんですか。

襟川 ええ、そういうライブを昨年は5回やりましたね。

――それは襟川社長を接待ライブで盛り上げようとか、そういうのではなくて?

襟川 違います、違います。そういうのじゃないです(笑)。

――いや~ダイナミックですね。ホントにアグレッシブに生きておられますね。じゃあ練習もけっこうされているんじゃないですか?

襟川 月に2回か3回ですね。3、4時間ぐらいスタジオを借りてやっています。

――あ、御自宅に巨大スタジオがあるとか、そういうわけではないんですね。

襟川 いえいえ、普通のスタジオでやっています。

――失礼しました。でも、楽しそうですよね。

襟川 そうですね。昔の仲間が集まると、あっという間に18歳の頃に戻っちゃいますからね。

――私みたいな小市民から見ると、本当に素晴らしい人生を送られていると思います。

近年も活動を継続するカルアのライブにて(陽一氏はベース)

『VR SENSE』の企画、開発に反対した理由は…


襟川 いやいやいや、そんなことはないですよ。

――いや、まさに成功された方だなと思います。最近の話になりますが、『VR SENSE』(注19)についてお聞かせください。最初はあまりポジティブではなかったということですが。

注19:コーエーテクモウェーブが展開するアミューズメント施設向けのVRライドマシン。香りや暖かさ、冷たさを感じられるなど多彩な機能が搭載されている。

襟川 業務用ゲームの開発に関してはテクモが長年ずっとやっていました。テクモの創業当時のビジネスというのはゲームセンターを運営していくこと、ゲームセンター用の業務用ゲームを作っていくこと、その業務用ゲームの筐体を売っていくことだったんですね。それを引き継いでいるのがコーエーテクモウェーブという会社で、そこでやるのがふさわしいと思っていたんですが、業務用のゲームとか筐体は、もう10年ぐらい作っていなかったんです。業務用ゲームの業界が厳しい時代を迎えていましたので、先を見越して撤退したんですね。それからしばらく経っていて経験がないので、あまり事を急がないほうがいいんじゃないかなと思っていたのですが、会長は思い立ったらすぐやりたい人で(笑)。

――筐体のデザインも御自身でお考えになったりとか、すごいアクションが早かったですよね。

襟川 ええ、すっごい早いんですね。思い立ったらもう、すぐやらないと気がすまないので。

――でも、そのときに「ウチのスタッフは使っちゃダメ」というようなことをおっしゃられたわけですよね。

襟川 それはですね、今もそうなんですけれども、毎年この時期にこういうソフトを出すという開発計画が、3年先まできっちりできあがっているんです。各ラインを含めて社員が2300人ぐらいいるのですけれども、その2300人が3年先の仕事まで全部埋まっちゃっているわけです。ですから、『VR SENSE』を今急にやるといっても、なかなか人員を揃えられないんですね。それで、どこかに捻出できる部隊がないかとなっていたんですが、たまたまコーエーテクモウェーブのパチンコやパチスロのソフトを作っている部隊の手が少し楽になっていまして。なんとかなりそうだというので、そこから数人を回して、コーエーテクモゲームスからもなんとか人を集めて、それでチームを作ったんです。

――決してネガティブだったわけではないけれど、人を出す余裕がなかったと。

襟川 ええ、そうです。

陽一氏と惠子氏 イタリアのリドのレストランにて 2015年

変化するゲーム会社の経営形態と、その進化を語る

――でも、3年先まで開発計画ができているというのはすごいことですね。

襟川 ゲームソフト会社を経営するなら、3年から5年先ぐらいまでの仕事を事前に決めておかないといけません。でないと、どんな人材が何人必要か決まりませんからね。そうした計画に即した人たちを採用して、研修などで育てていくということをしていかないと、どんどん会社として衰退していっちゃうんです。やっぱり新しい分野に挑戦して、新しい面白さを作っていくとなると、どうしても社員の数必要になるんです。

――ゲームソフト会社としてスタートされた頃、もしくはそこで成功のフチに手がかかったぐらいの頃、社員が2000人以上いる今の規模のような会社に、みたいなお考えはあったのでしょうか。

襟川 いやいや全然思いませんでした。それはまったくないです。自分で楽しくプログラミングして、それを皆様に遊んでいただいて、喜んでいただいて、買っていただくっていう。それだけで十分という感じでしたから、将来の会社の設計であるとか長期の遠大な経営計画とか、そんなのは全然なくて。ただ面白い仕事をしていれば、なんとか食べていけるっていうね。最初の頃はそれぐらいしか思っていなかったです。

ですが、社員がだんだん増えてくると、やっぱり会社の経営方針であるとか、1年間の開発計画であるとか、そういったものを皆さんに提示して一緒に頑張ろうっていう風にしないと、みんなの力をひとつに結集できないんです。ですから、社員が増えてきたことで、自分が経営者としてすべきことがだんだん見えてくるようになりました。そういうのが分かってきて、初めて『信長の野望』ができたんですね。

テクモとの合併と、知られざる『仁王』開発エピソードを語る

――社員がさらに増える要因のひとつにもなったテクモさんとの合併ですが、異なるカルチャーを持つ会社同士がひとつになるというのは、いろいろご苦労があったと思います。

襟川 当然、歴史が違いますし、会社の運営の仕方もゲームの開発の仕方も管理の仕方も違うわけです。ただ、違うのは当たり前だと思っていましたし、時間をかけて融合していけば、いずれひとつの形にまとまるだろうなという考えが基本にありました。

――なるほど。

襟川 逆に急いで強制すると、せっかくの優秀なクリエイターたちが、やる気をなくしてしまいますので、そこは非常に気を使いましたね。面白いゲームを作りたいという気持ちを持って、それぞれの会社に入ってきているわけですから、その気持ちは大切にしながら、ふたつの会社がひとつの会社になれるように時間をかけて段階的にゆっくり行いました。その象徴と言えるのが『仁王』(注20)です。

昨年の2月に発売して全世界で200万本売れたのですが、『仁王』はコーエーだけではできなかったですし、テクモだけでもできなかった。まさしくコーエーとテクモの経営統合によるシナジー効果によってできあがったタイトルなんですね。この成功体験によって、今までできなかったことが、さらにできるようになったんです。『ドラゴンクエストヒーローズ』のシリーズであるとか、『ゼルダ無双』のシリーズであるとか、両者のノウハウを融合させることによって、新しい面白さを作っていくというのが次々に成功していますので、今はもう「コーエーテクモ」という、ひとつの会社だという一体感を持ってやっています。開発方式もそれぞれ分かれていましたが、今は同じ開発方式でやっていこうとなっていますし、ゲームエンジンも同じものを使うことで非常に開発が効率化されています。

注20:群雄割拠の戦国時代末期を舞台に異国の侍・ウィリアムが異形の妖怪たちと戦いを繰り広げるアクションRPG。2017年2月9日にプレイステーション4向けに発売。

――『仁王』はけっこう難産といいますか、最初の発表からローンチまで、ちょっと時間がかかったタイトルだったと思うのですが、そうしたコーエーとテクモのすり合わせの部分も影響したのでしょうか。

襟川 それは、まったくコーエーの側の事情でして(苦笑)。最初はロールプレイングゲームとして作っていたんですが、テスト版を作ってみたら今ひとつで、自分としては納得できるものではなかったんですね。戦場の合戦部分であるとか、そういったところをロールプレイングゲームで作るのはなかなか難しくて。もっとそこを極めれば別の展開があったかもしれませんが、そのときはいったん置いておいて、しばらく休止して、また新しいアイディアが出てくるまで待とうということになったんです。

――そういう事情だったんですね。

襟川 ええ。で、10年前にテクモと経営統合した際、Team NINJA(注21)の早矢仕(洋介)君(注22)に、今当社の専務をやっていますけど、彼に『仁王』を再開したいから一肌脱いでくれって話をしまして。早矢仕君も一生懸命作ってくれたんですけれども、どうも『NINJA GAIDEN』風になっちゃってですね(笑)。これだったら『NINJA GAIDEN』を作ったほうがいいんじゃないかとなって、そこでまた中止になったんです。それが5年ぐらい前に、またもう1回スタートしようということになりまして。会社のいろいろな知恵者のアイディアを集めた結果、出てきたのが「戦国死にゲー」だったんですね。で、そのプロトタイプを作ってやってみたら、えっらい面白くて、「これだ!」となったんです。

注21:コーエーテクモゲームスの開発チーム。旧テクモ時代からアクションゲームの開発に定評があり、『DEAD OR ALIVE』シリーズや『NINJA GAIDEN』シリーズなどを生み出したことで知られる。

注22: Team NINJAのブランド長とコーエーテクモゲームス専務執行役員を務める。代表作は『DEAD OR ALIVE 5』など。

――なるほど、なるほど。それで時間がかかったわけですね。

襟川 そうですね。ですから、『仁王』はTeam NINJAが存在したからこそ実現できたわけです。

――まさにコーエーとテクモの合体による産物ということですね。

襟川 そうですね。コーエーは歴史に関するゲームは経験豊富ですが、アクションはやっぱりテクモの方が圧倒的にノウハウがあります。彼らの作るアクションは非常にキレがあって、やっていて気持ちが良いんですね。手触り感っていうんですかね、すごく気持ち良くサクサクっと動いてくれるんです。

2019年はeスポーツ元年と捉えてのチャレンジする


――今年はeスポーツにもコーエーテクモとしてチャレンジしていかれるんですよね。

襟川 そうですね。2019年は当社にとってのeスポーツ元年みたいな年になります。

――やはり『DEAD OR ALIVE』(以下『DOA』)シリーズで?

襟川 『DEAD OR ALIVE 6』が3月1日に発売されましたが、すでに『5』でもいろいろな大会を行っています。昨年の11月に開催した『DOAフェスティバル』(注23)でもトーナメントの大会を行ったんですけど、会場に900人ぐらいの方がお見えになって、もう手に汗握りました。私も決勝戦を見ていましたが、5セットマッチで両者2セットずつ取り合ってですね。最終セットも両方とも同じぐらい体力ゲージが減っちゃいまして、どちらもあと1回打たれたらダメっていうところで最後の一打が入ったんです。それで優勝が決まったので、もう会場はヤンヤヤンヤです。本当に素晴らしい大会でした。

注23:『DEAD OR ALIVE』シリーズのファン感謝イベント。2018年11月18日に御茶ノ水ソラシティカンファレンスセンターにて開催された。

――すごい大会だったんですね。今年はワールドツアーも行うとのことですが。

襟川 ええ、すでにアメリカではやっているんですけど、それをもっと世界レベルで広げていこうと。大会の回数も増やして、賞金額ももっと大きくして。億とまではいかないですけど、千万円単位ぐらいの金額にはしなくちゃいけないと思っています。

――楽しみですね。また新しい柱ができる感じがします。

襟川 そうですね。『DEAD OR ALIVE 5 Last Round』は全世界で基本無料版の配信サービスを行っているんですけれども、それが今1000万ダウンロードを超えてるんですね。つまり、世界には『DOA』のプレイヤーが1000万人以上いるわけです。そこに新作の『6』を提供して、さらに競技性を増した形で楽しんでいただきたいと思っています。

変化する市場環境への対応とMR技術への注目



――なるほど。ただ、一方で家庭用パッケージゲームは年々数字を落としていますよね。反面、オンラインやスマートフォンのパイが大きくなってきていますが、そうした状況について何かお考えはございますか?

襟川 ゲームの産業自体は1980年代以降ずっと右肩上がりですからね。中身に関しては業務用のゲームがだんだん減りつつあり、パソコンのゲームも80年代は隆盛だったんですけど、それ以降どんどんパイが小さくなっていました。ところが、eスポーツが盛んになってきて、また欧米でパソコンのゲームが伸び始めているんですね。特に、ヨーロッパはパソコンゲームのシェアが20%を超えています。家庭用のゲームは世界的にみるとずっと安定成長しています。今は御存知のようにスマホのゲームが非常に盛んですが、時代とともに栄枯盛衰があり、またプラットフォームや形態は変わっていくと思います。ですから、それに合わせた形でクリエイティビティを発揮して、面白いゲームどんどん作っていく。プラットフォームが変わっても、その根本は変わらないです。

――確かに、そこは変わらないですよね。

襟川 ええ。私が今一番注目しているのはMR(複合現実)ですね。今はまだデバイスが高額ですけど、安くなったらあれは画期的なエンターテイメントになりますね。

――もうそこに注目されているんですね。確かに今はまだちょっと高いですよね。

襟川 そうですね、何10万もしますからね。でも、実際やってみて、『HoloLens』(注24)はすっごい面白かったです。

注24:マイクロソフトが開発したMR用ヘッドマウントディスプレイ。

――普通のメガネ状になったらいいですよね。

襟川 たぶんなるでしょうね。そうなったら、ものすごく面白いゲームができると思います。

――コーエーテクモとしても取り組むべきテーマのひとつになっているわけですね。

襟川 ええ、VRやMR分野への挑戦も積極的にやっていきたいと思います。でも、VRもMRもまだまだ値段が高いですよね。もっともっと一般的になって生産ベースが上がれば、値段も下がると思うんですけどね。

――2020年には新社屋になるわけですけど、大学時代を過ごされ、これだけの規模にまで会社を育てた場所である日吉を離れるというのは、かなり英断だったのではないでしょうか。

襟川 現実問題としてもう社員が入りきらなくなってきているんですね。本当にもうギチギチなんです。それで、なんとかしなくちゃいけないということになりまして、みなとみらいの土地が手に入るというので、そこに本社を建てようということになりました。2020年の3月に完成しますので、それまでは現在のオフィスで頑張って、2020年になったら半分ぐらいは向こうに移ることになります。だから、全部が日吉から移るわけじゃないんです。

世界のゲームマーケットにチャレンジするために必要なこと

――全部じゃないんですか。

襟川 ええ。というのも、コーエーテクモゲームスの社長の鯉沼が社員を5000人ぐらいにしたいと言っていまして(笑)。

――5000人!?

襟川 そうでないと、もう3年先、5年先ぐらいのプロジェクトをやっていけないと。特にAAA級のゲームですね。世界で500万本以上売れるゲームは予算規模も50億から100億ぐらいになりますので、やっぱり500人とか1000人とか、そのぐらいの人数を注ぎ込まないと開発できないんです。

――そうですね。

襟川 ゲームの仕事を始めたからには、やっぱり世界中の人たちに楽しんでいただけるゲームを作っていきたいですし、世界のマーケットにチャレンジしていかないと、会社は伸びなくなります。それには、どうしても人数が必要なんですね。今のままでは現状からちょっと上ぐらいのところまでが限界なんです。開発資金にしても以前は数千万でできたスマホ向けのゲームが、今は開発費10億から20億が当たり前になっています。ですから、開発資金もオフィスももっと必要ですし、何より開発するクリエイターが不足している状態なんです。


みなとみらいを本社にすると打ち出したときには、まだそこまでは考えていなかったのですが、最近また中期の3年計画を作り直しまして。その先の4年先、5年先を考えていくと、新本社ビルもいっぱいになっちゃうんですね。ですから、日吉の社屋も引き続き活用していきます。ただ、2020年から23年ぐらいまでは大丈夫なんですけど、25年ぐらいには両方ともいっぱいになってしまうので、また新しいところをということで、会長が今一生懸命探しています(笑)。

――すごいですね、もうそこまでなんですね。

襟川 今は大作になると開発期間が3年ぐらいかかりますから、先々まで見ていかないと。もちろん、そのタイトルがどれだけ売れるかとか、どれだけ課金されるかとか、そういった読みも大切ですけれども、それを実現する人たち、クリエイターが圧倒的に足りていないので、これからも積極的に採用していこうと思っています。今年は4月に新卒の社員が95人入ってくるのですが、来年は最低でも200人は採用したいですね。

AI を活用した新しい分野のゲーム開発に注力

――200人ですか!

襟川 ええ、そう思っています。

――素晴らしいですね。AIの可能性についてはどうお考えですか? これまでAI的なものを使って数々のシミュレーションゲームを作られてきたわけですが、近年はAIがより現実的なものになりつつあります。そうしたAIを使って何かしようとか、ゲームに使おうとかいうお考えはありますか?

襟川 実は、AIをもっともっとフィーチャーした、より面白く遊べるようなゲームを開発しているんです。もちろん、『信長の野望』や『三國志』でもAIの活用をもっと増やしていって、より武将らしい、戦術・戦略を人間と競えるようなAIを実現しつつあります。そちらの研究開発もさらに深めていく予定ですが、今開発しているのはAIを活用した、まったく新しい分野のゲームなんです。はっきりしたことは言えませんが、今年の春か夏ぐらいには発表ができると思います。

――それは楽しみですね。

襟川 初めてのゲームになるので私も非常に楽しみです。

――現在、外部の会社様とのコラボが多数あって、それらが大変成功しています。自社のIPもしくはナレッジをより有効に活用するという部分で、会社の方針としてすごくプラスになっていると思うのですが、さらに積極的に進めていくという形になるのでしょうか。

襟川 ええ、会社と会社のノウハウを融合することで、新しい面白さを生み出そうという気持ちで取り組んできましたが、それが非常に高い成功率でできていますからね。今後は国内だけではなく、中国をはじめとするアジアだとか、アメリカ、ヨーロッパ。そういった会社のIPあるいはキャラクターとのコラボレーションを、どんどん積極的にやっていきたいと思っています。

開発を進める際には、そのキャラクターやIPにものすごい愛情を持っている人たちを集めてチームを編成しています。そうした開発の姿勢に、タッグを組んだ会社が共鳴してくれているんだと思いますね。私もたとえば『ドラクエ』『FF』や『ポケモン』『ゼルダ』は当たり前のようにやっていますから、コラボレーションや開発を担当することで、もっと面白いゲームを自分で作りたいとか思ったりします(笑)。そういうゲーム愛っていうんですかね。そのIPやキャラクターでいいゲームを作りたいという情熱を持っている人たちでチームを編成するという方式は、変えずにやっていきたいなと思っています。

『ザ・ブラックオニキス』にまつわる時代の裏話

――これは私の個人的な興味なんですけど、ヘンク・ロジャースさん(注25)が関わられた『テトリス』についての書籍(注26)の中に『ザ・ブラックオニキス』を襟川社長と思われる人物のところに売り込みにいったということが書かれているんです。家族で経営している会社に持ち込んだところ、社長はすごく面白いと言ってくれたけど、奥様が出てきて「やりません」と言われたという話なんですが。

注25:オランダ出身のゲームクリエイター。長く日本に滞在していて株式会社BPSを創設。日本初のファンタジーRPGと言われる『ザ・ブラックオニキス』を手がけた。フルネームはヘンク・ブラウアー・ロジャース。

注26:『テトリス』の版権争奪戦の内幕を描いた『テトリス・エフェクト』(白揚社)のこと。

襟川 ええ~~(笑)。

――詳しく言いますと、その社長は販促費や宣伝費は全部ウチが持つからアナタはこのソフトを完成させてくれればいいと言ってくれたんだけど、そうしたら奥様が出てきて、それはダメですと。払うのはロイヤリティーだけです、みたいなことを言われたというくだりがあるのですが、それは御記憶にありますか?

襟川 ヘンクがちょうどパソコンショップを始めた頃に、足利に来たことはありますね。

――やっぱりそうなんですか。

襟川 ええ。よく覚えていないのですが、当社で売り出す予定だったんですけれどもビジネスのスキームで違いが出て(笑)。結局、ヘンクが自分でやりますっていうことになったんです。私の知らないところで会長も何か言っていたのかもしれませんが、まあ開発の過程ではよくあることです。きっちり契約したわけでもないですし。

――いわゆる口頭ですか。

襟川 当時は外部の人にゲームソフトを作ってもらうということに対して契約書を作ったりしなかったんです。まだまだ幼い業界でした。

――今、私は昔のビデオゲームに関わった人たちの取材をしているんですが、そうした中でこの書籍に出会いまして。読んでいて、これは多分、陽一社長のお話なんじゃないかなと思ったものですから、私の個人的興味でうかがっただけなんですけど、そういう経緯は事実としてはあったんですね。

襟川 ええ、ありましたね。懐かしい話です。ヘンクは碁が好きなんですよね。任天堂の山内社長(注27)も碁が好きで、それで何か『テトリス』で……。

注27:任天堂3代目社長の山内溥氏のこと。一代で任天堂を世界的企業に押し上げた立志伝中の人物として知られる。2013年に死去。

――その話もでてきます。それでヘンクさんが任天堂の代理としてロシアに行って『テトリス』の交渉をするっていう話なんですよ。

襟川 ヘンクは囲碁の有段者なんですよね。彼とも碁を打ちましたけど上手でした。私は2級とかなので、ハッハッハ。

好きなことを一生懸命やることがいいと思います

――2年後に70歳になられますが、まだ現役でおやりになると思います。最後に今後クリエイティブを目指す若い人たちにアドバイスをいただけますか。

襟川 やっぱり好きなことを一生懸命やるのがいいと思います。ただ一生懸命なだけでは成就できないことであるとか、好きではないこともやらないと好きなことは貫徹できないとか、いろいろ思い通りにならないことも出てくるんですけどね(笑)。でも、基本はやっぱり好きなことをやっていくと。そうすれば必ず実現できると思います。

――ありがとうございました。

襟川陽一氏と筆者 黒川文雄

以下は有料部分ですが、読んでいただいたお礼のテキストしかありません。この活動を支援いただけるかたはドネーションとして課金をしていただけると幸いです。ありがとうございました。

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