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エンタメ異人伝 VOL.12 遠藤雅信

音楽、映画、ゲームなどを総称するエンタテインメントは、人類の歴史とともに生まれ、時代に愛され、変化と進化を遂げてきました。 そこには、それらを創り、育て、成熟へ導いた情熱に溢れた人々がいます。この偉人であり、異人たちにフォーカスしインタビュー形式で紹介するエンタメ異人伝。

「ゼビウス」がもたらしたゲーム性と、そこに秘められたゲームの物語性は、ゲーム黎明期にもたらされたエポックメイキングなコンテンツだったと言えるだろう。それは現代のゲーム用語になぞらえれば、それは「ナラティブ」というワードに該当するものだ。

稀代の創業者・中村雅哉氏と、彼の創業したナムコの成長期に数多くのコンテンツを開発し世に問い、プレイヤーたちに夢と希望を与えてきた。現在は後進の育成とともに、自身のビジョンを信じて突き進む遠藤雅伸の姿は時代を映す鑑である。

今回の「エンタメ異人伝」は、遠藤雅伸の作品を形成するもの、彼を動かすモチベーション、そして日本のゲームの未来に迫るものである。

東急文化会館のプリンアラモード

――遠藤さんは東京のご出身ですよね、確か渋谷の方でしたね?

遠藤 そうですね。

――僕は遠藤さんとは年齢がひとつ違いでして。同世代だけに同じように感じてきたものが、いろいろあると思うんですが、その頃の渋谷でご自身の幼少期の原風景みたいなもの、何か記憶されているものはありますか。

遠藤 今はなくなってしまった東急文化会館(注1)ですね。

注1:渋谷駅東口にあった複合商業施設。大型プラネタリウムや映画館などが人気を集め、長く渋谷のシンボルとして愛されたが2003年に閉館となった。

――やっぱり映画を見に行ったとか? それともプラネタリウムですか?

遠藤 映画とかプラネタリウムとかよりも、なんだろう……食堂があったじゃないですか。あそこでプリンアラモードとかを食うわけですよ。

――分かります! 僕らはそういう世代ですよね。

遠藤 そうです、そうです。プリンアラモードとか、なんとかサンデーとか、なんたらカフェとか。叔母伯母がよく連れて行ってくれたんですよ。叔母伯母がふたりいるんですが、どちらも子供がいなかったこともあって、すごくかわいがってくれたんです。

――じゃあ、その叔母伯母さまたちから好きなものを買ってもらうとか?

遠藤 そういう感じでしたね。

――文化的なものに目覚めたのも、その頃になるんでしょうか。たとえば映画をたくさんご覧になったとか。僕は浅草の方に住んでいたんですが、当時は六区(ロック)街に映画館がいっぱいあって。父が映画好きだったので、3本立てとか2本立ての映画をいっぱい観れたんです。遠藤さんも周囲にそういう文化的な環境があったんでしょうか。

遠藤 父方は絵描きとか多かったし、母方のじいさんは僕が生まれたときには死んでたんですけども活弁(注2)をやっていたそうです。ただ、そういうのはあんまり関係なかった気がしますね。

注2:活動弁士のこと。サイレント(無声映画)の時代は活動弁士が人物のセリフや映画の内容などを語りで説明していた。

渋谷・石神井・横浜の記憶を重ねて

――お父様が出版関係のお仕事をされていたとも聞いてたので、そういう影響が幼少期からあったのかなと推察していたんですが。

遠藤 母親がいろいろやらせてくれたというのはあります。幼稚園の時から大学を卒業するまでクラシックピアノを習ってましたから。

――ということは、それなりに裕福で環境も良かったということですよね。

遠藤 普通です。いわゆる中産階級ですね。ピアノも母親がやらせたいからって、やっとの思いで買ったみたいです。

――そのあとも何か所か引っ越しをされたんですよね。

遠藤 そうですね。石神井から横浜の青葉台に引っ越して、それから習志野に移って、それでまた渋谷に戻ってきたんです。

――それは、やはりお父様のお仕事の関係で?

遠藤 いや、家族が増えて手狭になってきたんで都落ちしていった感じです(笑)。別に仕事も変わってないですし。

――でも、渋谷と石神井だと環境はまったく違いますよね。

遠藤 そうですね。石神井は昔のちょっとはずれたところの町って感じでした。そのあと横浜の青葉台に行きましたけど、あそこは完全な新興住宅地で。まだ、雑木林とかが残っていて基地とか作って遊んだりできるような環境でしたね。

――まだ、町角に土管とかがあった頃ですか。

遠藤 そうです。

――僕も記憶があります。あの土管はどこにいったんだろうとか、そんなこと思ってましたね(笑)。習志野はどうでしたか?

めぐりめぐって戻ってきた東京工芸大学と、あの「予言の書」

遠藤 習志野に越した時はもう高校生とかだったんで、とくに思い入れはないですね。大学が近かったっていうくらいです。千葉大の写真工学科だったんで。写真をやっている大学はふたつしかなくて、千葉大はそのうちのひとつだったんです。

――ちなみに、もうひとつはどこだったんですか?

遠藤 東京工芸大学の前身である東京写真大学です。

――なんだか、めぐりめぐって戻ってきた感がありますね。

遠藤 そうそう。だから、当たり前ですけど、この大学(東京工芸大)にもいっぱい同窓生がいるんですよ。なので、写真学会とかによく誘われるんですが、「いや、もう写真はやってないし」って。ただ、写真学会にはいろいろ書いたりしてますね。

――すごい運命を感じますね。少し話が戻りますが、中学・高校くらいの頃に影響されたものはありますか? 僕や遠藤さんは『ノストラダムスの大予言』(注3)とか『日本沈没』(注4)とかに影響を受けて、自分たちの人生がどうなるんだろうかって悩んだ世代かなと思うんですけど。

遠藤 僕はノストラダムスは全然悩んでないです。あの四行詩には「マルスはその前後の期間」っていう風に書かれているんですよ。前後の期間の「後」ってなんですか?

注3:ノストラダムスの予言について紹介した1973年刊行の五島勉の著書。1999年7月に人類が滅亡するという解釈がされていたことにより一大ベストセラーとなり、その後の日本にさまざまな社会的影響を与えた。

注4:天災による日本の崩壊を描いた、1973年刊行の小松左京原作のSF小説。空前のベストセラーとなり2度にわたって映画化。テレビドラマや漫画作品にもなった。

――そうか、「後」はないはずですよね(笑)。

遠藤 そうなんです。ちゃんと読み込めば、別にそこで(人類が)終わりって詩じゃないんです。

――全然、そんなこと思わなかったです。

遠藤 それは原文で読まないからですよ。

――原文で読んだんですか!?

遠藤 読みました、怖かったですから(笑)。

――あの頃に原文で読むってすごいことですね。僕なんかはこれがあったんで、どうせ死ぬんだみたいに思ってました。アニメの方はどうでしたか? 僕は高校生ぐらいのときに『宇宙戦艦ヤマト』とか観たんですが。

遠藤 アニメには影響されたと思いますね。というかコンテンツ全般です。高校のときは演劇もやってましたし、映画を撮ってたみたいというのもあったんで。

――アニメも観て演劇もやられて写真もって、よくそこまで幅広くできましたよね。

遠藤 音楽もいろいろやってました。全部趣味の範囲でしたけどね。ただ、そのおかげでひとりでゲームを作れるっていう。

――そうか、ゲームは総合芸術ですもんね。ゲームのほうは、『スペースインベーダー』とかの洗礼を受けた世代と考えてよろしいですか?

毎週通った新宿のゲームセンター

遠藤 『インベーダー』は大学生のときでしたね。

――やっぱり、かなりやり込まれましたか?

遠藤 やり込んでないです。ゲームはそんなに上手くないんで。

――そうなんですか? でも、初めて見たときの衝撃みたいなものはあったと思うんですけど。

遠藤 『インベーダー』はそれほど衝撃ではなかったですね。オタクだったんで、テレビゲームは『インベーダー』の前からずっとやってたんです。

――じゃあ『ブレイクアウト』(注5)とかが最初ですか。確か、アタリがお好きだったんですよね。

遠藤 いや、その前からです。『ブロッケード』(注6)とかもやってたし。

注5:いわゆる『ブロックくずし』のこと。アタリのオリジナル版は1976年に発売。

注6:『ブレイクアウト』と同年の1976年にアタリから発売されたライン引きゲームの元祖的存在。

――それらのゲームにはどこで触れたんですか?

遠藤 フツーにゲームセンターで。大学のときは毎週新宿のゲームセンターに行ってましたから。

――あの頃のゲームセンターって、ちょっと怖くなかったですか?

遠藤 そんなことはないですよ。24時間営業だったし(注7)、新宿は田舎なんかよりもずっと明るかったし。土曜日に新宿に行って徹夜で遊んで、次の日の朝帰ってくるみたいなことをずっとやってましたね。あの頃、新宿のゲーセンで知り合いになったヤツらはいっぱいいますよ。田尻智(注8)と知り合ったのも、その頃ですし。

注7:当時はまだゲームセンターの24時間営業が禁止されていなかった。ちなみに、1984年の風俗営業法改正(1985年より施行)によりゲームセンターの営業は午前0時までとなった。

注8:言わずと知れた『ポケットモンスター』シリーズの生みの親。現在は株式会社ゲームフリーク代表取締役を務める。

――僕もゲーム喫茶で100円玉を積んで『インベーダー』をやった世代ですけど、やっぱりちょっと怖いというか、入るのに緊張感があったんですね。だから、『インベーダー』ブームが沈静化したというのもありましたが、なんとなくそのあと行かなくなっちゃって、ゲームから一度離れたんです。でも、遠藤さんはそこからさらにゲームに傾倒していった感じですか。

遠藤 いや、仕事を選ぶときゲームになっただけです。

ベトベトしているのがイヤで、ナムコに就職した

ナムコ勤務時代 ゼビウス筐体とともに

――最初は研究職に進もうとか考えられていたんですか?

遠藤 研究職には、ものすごい誘われました。いろんな研究所から「ウチに来ないか」って言われてたんですけども、何かそういうのがイヤで。写真っていっても有機光半導体(注9)とかっていう物性の研究なんで、実験して性能を調べたりとか合成したりとか、けっこう地味でベトベトしてるんですよ。

注9:コピー機やレーザープリンターの感光体などに利用されている有機化合物。

――ベトベトって(笑)。

遠藤 いやだって、薬品とかをこう……ベトベトしてるやつを練ったりとか、プラスチックの中に顔料を入れたりとか。手は汚くなるし爪も黒くなるしで、すげえカッコ悪いなって。

――そうだったんですか。

遠藤 イヤじゃないけど、もっとパッとしたところでっていうか。なので、テレビの制作の方を目指してたんですけど全部落ちて。しょうがないんで、何か面白いことをやるかってことでバンダイに行ってみたんですけどけど、もう締め切ってますと。じゃあ、コンピューターかなってナムコに行ったんですね。

――アタリジャパンに行こうとは思われなかったんですか?

遠藤 アタリジャパンの親会社がナムコなんで、ナムコに行ったんです。英語が話せたら多分アタリに行ってましたね。英語にはいまだに苦労してます。

アタマで考えた面白さではなく、実際にやってみること

――その当時のナムコはどんな会社でしたか。

遠藤 日本のゲーム作りの黎明っていうか、本当に一番いいところを目の前で見ることができました。もちろん、技術オリエンテッドでもやるんですけど、コンセプト・ドリブンで作るっていうか、面白いほうを採用する。アタマで考えた面白さじゃなくて、やってみて面白ければそっち優先っていう。

――先日、石村繁一(注10)(※)さんにお話をうかがう機会をいただきまして。『シュータウェイ』(注11)を作って、組織が徐々に大きくなっていく頃に遠藤さんとめぐりあったっていう話をされていたんですけど、その頃はまだ手作り・手探りでゲームを作っていた感じでしたか。

遠藤 いや、そこそこちゃんとしてましたよ。コツコツ半田付けとか、そういうのは研修でしかやりませんでした。石村さんがでっかいコンピューターを入れてくれて。ちゃんとコンソール型のヤツでキーボードとモニターとか、ロムを焼く装置とかもいろいろあったし。ハードディスクとかもあって、クリーンルームに入ってハードディスクをどうこうとか、そういう環境でやってましたね。

注10:開発一部長としてゲーム草創期のナムコを支える。のちにバンダイナムコゲームス(現バンダイナムコエンターテインメント)の社長も務めた。

注11:1977年にナムコが開発したクレイ射撃を題材としたガンシューティングゲーム。大型の画面やリアルなガンコンなどが人気となり、のちにリメイク版となる「シュータウェイII」も開発された。

――ずいぶん先進的だったんですね。

遠藤 そうですね。一番お金をかけてる部署でやらせてもらってました。

――でも、最初はデバッグが多かったっていう話ですが。

遠藤 だって、プログラムもなんにもできなかったですから。それで、最初はデバッグやテストプレイをやってたんですけど、しばらくして「やってみる?」って言われて、「じゃあ、やってみます」と。

ゲームプログラムを習得するのは簡単…

――プログラムを習得するのって、すごい大変な感じがするんですけど。

遠藤 簡単ですよ。文章を書くのと変わらないです。頭の中で思っていることを記述するだけで、記述する形が日本語なのか、プログラムなのかってだけです。

――すごい簡単に言うけど本当かなあ(笑)。

遠藤 いや、ホント簡単ですよ。昔のコンピューターなんか、できることが限られてましたから、簡単なことの組み合わせでやるしかなかったんです。

――そういうものですかね。僕は3年ほど前にスマホのゲームアプリ制作のスクールに自費で1年通ったことがありまして。このコードを入れるとここにこう繋がって、こういう分岐になりますとか勉強したんですけど、それはコードがあるから分かるわけで、当時はないわけですよね。それを、ほぼゼロベースから勉強をされたわけですから、やっぱりすごいと思いますよ。あと、ナムコがすごくキャパが広いというか、初めての人によく任せましたね。

故・中村雅哉さんがいたから出来たこと

遠藤 今になってみると、あの会社の懐の広さはとんでもないなあと思います。だからなのか、ゲームから学術とかに進んでる人はほぼ全員がナムコ出身ですね。

――そこはぜひ聞きたいなと思っていたところで、ナムコから学術に進んだ方ってすごく多いですよね。川村順一さん(注12)もそうだし、岩谷徹さん(注13)もそうだし、もちろん遠藤さんもそうですけど、岩谷さんや遠藤さんが引いてるってわけじゃないんですよね。

遠藤 多分、それは中村のおやっさん(注14)の影響ですよ。あの人はとにかく直球、ストレート、逃げも隠れもしない、正面攻撃。

注12:『ソウルエッジ』『鉄拳』などのビジュアルデザインを手がける。現在は文京学院大学大学院経営学研究科客員教授などを務める。

注13:『パックマン』の生みの親として知られる。現在は東京工芸大学芸術学部教授などを務める。

注14:ナムコ(現バンダイナムコエンターテインメント)の創業者である故・中村雅哉氏のこと。

――やっぱり中村雅哉さんの人柄とか仕事に対する打ち込み方を受け継がれたってことですか。

遠藤 みんなそれに引かれたっていうか、それがベースですね。岩谷さんと話していてもハッキリそうなんで。

――すごくチャレンジをさせてくれる方だったそうですが。

遠藤 無茶苦茶チャレンジさせてくれました。そうでなければ入社したてのヤツが、仕様を決めて勝手にプログラムを書いて『ゼビウス』とか作れるはずないです。全部社長が「遠藤、面白そうだ、お前やってみろ」って言ってくれたからできたんです。

で、中間管理職のヤツとかがアタマを抑えにきて、「社長、アイツがうるさいんですけども」って言ったら、「そっか、うるさいか。じゃあアイツ飛ばすか」とか。いや、これは言い過ぎですけどね(笑)。

――僕は元セガですけど中山隼雄社長(注15)もそういう方でしたね。

注15:セガ・エンタープライゼス(現セガ・ゲームス)元社長。勃興期のセガを主導したことで知られる。

遠藤 隼雄さんは今でもそうじゃないですか。いろんなところで若いヤツを育てようって。

――確かに中山さんもそうですね。話を戻します。とにかく最初は何もすることがなくて、いろいろバグチェックとかをされていたと。それで、『ディグダグ』(注16)をずーっとやり続けて、いろんなバクとか技とかを見つけられた。で、それを中村社長が見られて「コレ面白いじゃないか」となったという話ですが。

遠藤 それで本にしてくれたっていう。それが初めての攻略本だったらしいです。

注16:地中を掘り進んで岩を落としたり、ポンプで破裂させたりしてモンスターを倒していく1982年発売のナムコのアクションゲーム。

期せずしてナラティブ(物語)へ

――僕は遠藤さんの今までを俯瞰していくと、知らず知らずなのか、ご自身が意図してなのかは分からないですけど、例えば『ディグダグ』にしてもそうだし、『ゼビウス』のいわゆる都市伝説的な隠されたエピソードとかもそうだし、『ドルアーガの塔』にしてもそうですけど、コミュニティとかストーリー性とか「何か」がついてきますよね。

遠藤 今になって考えてみると、ナラティブ(物語)だったんだなって思いますね。断片的な情報を受け手の方がいいように解釈してくれて、そこに物語性を感じたりとか。

――では、特にご本人として意図してなくて、自分が面白いと思うことをやってこられただけだと。

遠藤 そうですね。ウケるためにはどうすればいいか。芸術というよりもエンタテインメントととして、どうあるべきかっていうことを真面目に考えて。そういうことを考えることに対してナムコはすごい寛容でした。『ゼビウス』が終わったあと、数カ月間ただ遊ばせてくれたりね。その時にいろんなソフトで遊んだんですが、その中のひとつが『ウィザードリィ』(注17)だったんです。これ面白いなってことで、そのあとアメリカに行かせてもらったときにRPGの資料をいっぱい買ってきて『ドルアーガの塔』を作ったんですよ。

注17:3DダンジョンRPGの古典的名作。『ドラゴンクエスト』をはじめとする日本のRPGに多大な影響を与えた。

――本当にキャパがありますね。素晴らしいですね。

遠藤 若いヤツの才能を信じるっていうのが、すごい強かったですね。

――やっぱりそれは中村さんの人柄が大きかったんでしょうか。

遠藤 そう思います。ハッキリそう思います。

――けっこう人を試される方で1回はダメだって却下して、それでも言ってくるか、どれだけ本気なのか、その熱量を見ると。で、最後は「いいよ」って言ってくれるという話を聞いたことがあるんですけど、やっぱりそういうところがある方だったんですか?

遠藤 そうですね。ただ、僕は比較的立場が良かったんで。

――え、それはそういう理由ですか?

遠藤 免許を持ってて運転ができたんです。だから、開発したマシンを社長が見たいって言うと、「じゃあ、持っていきます」と。で、「ちょっと遠藤やってみろ」となって、「なんだ、オレ下手なのかな?」「下手ですね」とか言って(笑)。中村社長が気に入ってくれていたのかはよく分からないですけど、そうやって直接電話かかってくることがときどきありました。だから、中村社長と話す機会がものすごく多かったです。

ゲームのエネミーにも正義があるはず

あそぶゲーム展でのゲームレクチャー

――それは確かに特別な関係ですね。『ゼビウス』の話はたくさんされていると思うんですが、もともとは「シャイアン」っていうヘリコプターを操作するゲームだったという話ですね。ベトナム戦争をモチーフにした。

でも、前年か前々年に『デスレース』(注18)っていう人をはねてスコアリングしていくゲームがあって、中村社長がそういうのはよくないと。人の死をイメージさせるのはよくないと、おっしゃったっていう話を聞いたんですけど、そういう影響はあったんですか?

遠藤 いや、そういうんじゃないです。相手がこちらの射線上に並んでいるというのが気に入らなかっただけです。『インベーダー』もそうじゃないですか。撃たれるってわかっているのに、なんであそこに並んでいるんだって。あれはおかしいと。

相手には相手の正義がある。それはどこからきたかというとアニメ、『機動戦士ガンダム』や『伝説巨神イデオン』からです。相手には相手の考え方があって、相手も命が惜しいから逃げるとか。それはジオン軍と同じです。

注18:車を操作してグレムリンと呼ばれる小悪魔たちをひき殺していく見下ろし型のアクションゲーム。内容が残虐ということで物議をかもした。

――そこが『インベーダー』に飽きて、さらに奥深さとかエンタテインメント性を求めていた人たちにすごく受け入れられたわけですよね。ゲームにキャラクター性を持たせたっていう風に僕は考えていますけど。それまでのゲームの敵はもちろん攻撃はしてくるけど、基本的に撃たれるのを待ってる。でも、遠藤さんはじめ当時のナムコの方々がプロデュースしたのは敵キャラクターに意志があるように見えるゲーム。やられるかもしれないって相手も思っているかのような、そういう対等な関係を持ち込んだ感じがします。

遠藤 そうですね。キャラクターに名前を付けていたし、画面上とは別のプロモーション用のキャラクターとかも作ってましたしね。当時はグラフィックがしょぼかったんで。

よくやったなあというか、若気の至りです

――それはやっぱり遠藤さんがゲームをやってきた中で、足りないと感じていたものだったわけですか。

遠藤 いや、自分のやりたいことをやっただけです。

――よく、そうおっしゃってるインタビューを読むんですけど、それは遠藤さんだから言える言葉なんじゃないかとも思っちゃうんですよね。

遠藤 歳を取ってみると、なんで若い頃はあんなことをやったんだろうなとは思いますけどね。よくやったなあっていうか、若気の至りですよ。

――いや、それだけではないでしょう。遠藤さんが持っていたクリエイティブとかエンタテインメントに対する思いがあったからじゃないでしょうか。

遠藤 それはそうかもしれませんね。

ゲームチューニングの回答はあるのか?

――ゲームはチューニング次第で良くもなれば悪くもなるっていうことを書かれているものも読んだんですが、その部分について聞かせてください。アーケードゲームは上手い人だと、ずっとやり続けちゃうっていうのがあって、チューニングの部分で悩まれてきたと思うんですけど、そのあたりのご自身なりの結論っていうのはあるんでしょうか。

遠藤 今のですか?

――今です。

遠藤 今はもうすごく大変な話になってますよ。『ゼビウス』のときにすでに実装してあったんですけども(注19)、ダイナミック・ディフィカルティ・アジャストメントっていうコンピューターが自動的に難易度を調整する機能があるんですね。それで、論文でも書いたんですけど、難易度っていうのは適正の範囲に合わせるのがいいっていうのがあるんです。ただ、問題は適正の範囲を超えて難しいものが、かえって面白いときがあって。

注19:『ゼビウス』にはプレイヤーの上手さに応じて敵の強さが変わる簡単なAIが組み込まれていた。

――まさに『ドルアーガの塔』がそうだったと思うんですけど。

遠藤 いや、『ドルアーガ』は明らかに異常に難易度が高いというか、殺しにいく難易度ですからね。みんな早く止めてくれっていう難易度で、そういうものへのアプローチだったんですけれども、今言っているのはそういうことではないです。今、研究しているのは難しいのを楽しくやって、納得したところでゲームオーバーになるっていうような形です。時間の切り売りをやるための難易度ではない難易度っていう考え方。そのあたりを今は研究しています。

――ある意味、もうずうっとテーマになっている感じですか。

遠藤 難易度をどう調整するかっていうのは、いろんなゲームで試してますけども、こういうのもありうるねっていうのをどんどん。まあ、いろいろやってます。

――でも、チューニングっていうのは理論立てて説明するのが難しいんじゃないですか? たとえばジャンルにもよるし。

遠藤 それはもう何人もテスターを使って、何度もテストプレイするしかないんで。今はそのやり方が普通ですね。昔は「こんなんじゃないかな?」って自分でやってみて、「ああ、いいかも」っていうことで出しちゃってましたけどね。でも、面白さって奥深いです、そういう意味では。

ナムコを辞めた理由は…

――お話をうかがっているとナムコのキャパの広さをあらためて感じるんですが、そのナムコをなぜお辞めになったんでしょうか。

遠藤 いや、とくに辞めてるわけでもないんで。ただ、なんだろう……ゲームは工業製品として作るべきなのか、それとも総合芸術の作品として作るべきなのかっていう部分の差はありましたね。閉鎖的に工業製品として作るんじゃなくて、もうちょっと広くオープンに構えて、作品としていろんなものを取り込んでいきたいっていう。それで、一番最初のガンダムゲーム(注20)ができるわけです。あれはナムコを辞めたから作れたんですよ。

注20:1986年に発売された『機動戦士Zガンダム ホットスクランブル』のこと。「ガンダム」を題材にした最初のファミコンゲームで遠藤氏がゲームデザインを手がけた。

――それは何かコマーシャリズムにのっとったようなものを手掛けてみたいというのもあったんですか?

遠藤 いや、「ガンダムを作りたい」が一番デカかった(笑)。

『ケルナグール』のルーツは

――なるほど。僕が気になっているのは『ケルナグール』(注21)で、あれがのちの『鉄拳』に繋がったのかななんて勝手に思ってるんですが。

遠藤 対戦格闘ですね。

注21:1989年にナムコから発売された格闘ゲーム。好きな拳士を選んでプレイヤー同士で対戦する「対戦モード」とオリジナルの拳士を育てていく「クエストモード」を楽しめるようになっていた。

――ええ。当時としてはとても斬新な気がするんですけど、あれは何か発想の元があったんでしょうか。

遠藤 あれはですねえ、PCエンジン(注22)の『THE 功夫(ザ クンフー)』(注23)っていうクソゲーがあって。PCエンジンはデカいキャラが出せるんで、そのゲームも自分のキャラがすごくデカいんです。で、向こうからなんかモノが飛んできて、ソイツを叩き落としていくんですけども、自分が大きいから当たりやすいんですよ。自分が小さければ当たんないのに、なんでこんなにデカいんだって。飛んでくるものもセコいもんばっかで、これゲームとしておかしいだろうと。それでコントローラーをバフーンと投げてたんですけど、一緒にいた社員の人に「そりゃ遠藤さん、自分で作るっきゃないっすよ」って言われて「なるほど」と。

注22:1987年にNECから発売された家庭用ゲーム機。ファミリーコンピューターの対抗馬として人気を誇った。

注23:拳法家である主人公を操って、さまざまな格闘家と戦う横スクロール型のアクションゲーム。1987年にハドソンから発売された。

「ナムコの取締役にならないか」と中村社長は言ってくれたが

――そういうことだったんですか。では、辞められた後もナムコがファーストプライオリティで、じゃあこれ出しませんかっていう関係が続いたわけですか。

遠藤 そうです、そうです。

――でも、それはいい関係ですよね。

遠藤 それも中村のおやっさんのおかげです。「遠藤の好きなようにやらせてやれ」って言ってくれたんで。辞めるときに「ナムコの取締役にならないか」とも言ってくれて。当時20数歳の僕は取締役ってなんだか分からなくて、「あ、面倒くさいんでいいです」って断っちゃったんですけどね(笑)。

――それはすごいことじゃないですか。きっと、中村さん流の慰留だったんでしょうね。その後、ご自身で作っていく中で大変さはなかったですか?

遠藤 全然ないですね(キッパリ)。

――それはやっぱり遠藤さんを信じて、みなさんオファーをしてくれたと。

遠藤 そうですね。みんな協力してくれてたんで。

――わりと早い段階からモバイルにシフトされましたよね。いわゆる一般的なゲーム会社さんが、まだモバイルゲームをちょっとバカにしていた頃だったと思うんですが、なぜモバイルだったんでしょうか。

遠藤 Java(注24)が最初に乗ったとき「すっげえ」ってなったんです。携帯でプログラムが走るようになるんだって。で、プログラムが走るようになったら何に使うのって、そりゃゲームしかないじゃん、いずれゲームだよねと。

注24:プログラミング言語のひとつ。OSに依存しないことからどんな環境でもソフトを動かすことが可能で、いわゆるガラケー向けアプリケーションの作成にも利用された。

――その時点ですでにそう思われていたんですか。

故・宮路武さんとの出会いからモバイルへ

故宮地武さんと

遠藤 あと、その時に一緒にやってた宮路武さん(注25)……もう亡くられましたけど、宮路さんが「遠藤さん、最近こういうのやろうとしてて面白そうなんですけど」って言ってきて「それ、面白いわ」「絶対にその時代が来る」ってなったんです。

注25:『グランディア』シリーズや『ガングリフォン』シリーズなどを手がけたゲームクリエイター。2011年に死去。

――でも、その頃はハイグラフィックというか高精細の3Dの時代がまさに来ていましたよね。

遠藤 そっちもやってました。セガサターンで3Dのものを作ってます。『エアーズアドベンチャー』(注26)っていうんですけど、これが出たのがサターンがプレステに敗北したクリスマスで。

注26:1996年にゲームスタジオから発売されたRPG。キャラクターデザインを永野護氏、サウンドを三枝成彰氏が手がけた。

――その頃、僕はもういませんね(笑)。2002年ぐらいに『動物番長』(注27)も作られていますよね。

遠藤 『動物番長』は『エアーズアドベンチャー』のあとです。当時、『番長』のプロジェクトがけっこう頓挫していて、動物が動くとこしかできてないので手伝ってくださいって頼まれたんです。で、マップの構成とかをやってほしいってことで、「マップの構成ってどうやってやるの?」って聞いたら「これが…こうなって」ってというところから…。

注27:他の動物を狩って「ヘンタイ(変身のこと)」を繰り返しながら百獣の王を目指すユニークなアクションゲーム。2002年に任天堂からゲームキューブ向けに発売された。

――そこからやったんですか。伊藤ガビンさん(注28)とか松本弦人さん(注29)が参加されてましたよね。

遠藤 ええ、一緒にやってましたね。それで、マップを作ることになったわけですが、紙とかに書いて誰かに発注して作るっていうやり方を取らなくてよかったんですよ。最初から動物の動きを見て、ああこの動物だったらこういうのが必要だなって、そのまま直接ソフトイマージュ(注30)とかで。

注28:『パラッパラッパー』のシナリオなどを手がけたクリエイター、編集者。現在はマンガ読みものサイト「マンバ通信」の編集長などを務める。

注29:さまざまな広告、映像、デジタルメディアのアートディレクションを手がけたことで知られるグラフィックデザイナー。

注30:『ファイナルファンタジー』シリーズの開発にも使用されたハイエンドな3DCG制作ソフト。2014年をもって開発終了となった

――作っちゃったんですか?

遠藤 そうですね。「こういう風になるんですけども3Dで」、「ああ、3Dですか。すみません、ツールの習熟に1週間ください。1週間あればどんなものでも作れます」って。で、通常だと5人ぐらい必要なんですけど、ひとりでやるからあっという間に片付くと。

――すごいことをされていたんですね。

遠藤 『動物番長』のあとに『ケロケロキングDX』(注31)っていうのもやってるんですけど、そのときもなんだったろう……エイリアス(注32)じゃなかったなあ……ライトウェーブ(注33)か。ライトウェーブでマップを作ってましたね。そうすれば最初からゲームデザインされた、実装できる状態のマップになるので。

注31:ボールの代わりにカエルを飛ばして競うゴルフゲーム『ケロケロキング』のシリーズ第2作。2003年にバンダイからゲームキューブ向けに発売された。

注32:ハイエンドのCG制作ソフト。現在のソフト名は「Maya(マイヤ)」。

注33:ゲーム、アニメ、CMなどの制作に広く利用されている3DCG制作ソフト。

――なんでもできるんですね。それにしてもモバイルのゲームとは正反対じゃないですか。それぞれで楽しまれていたわけですか?

遠藤 モバイルのゲームも、それこそ2週間で作ろうぜって言って、できるんですから面白いかったですよ。面白さの程度でいうと、クロスワードパズルみたいな感じです。「こういうゲーム作ろうぜ」、「容量もないんで、ちょっとドット打っちゃうね」みたいな感じで。曲とかも自分で作ってましたからね。

――ハア~~……いやあ、なんかすごいですね。最後のゲーム職人みたいなイメージで見ちゃうんですけど。

遠藤 最後の職人は多分イノケン(飯野賢治)(注34)ですよ。イノケンが死んだときに僕は先生になろうって決めたんで。日本のゲームのために、僕にしかできないことをやっておかないとって。

注34:いち早くフル3Dを導入した『Dの食卓』や音を頼りに姿の見えない敵を倒していく『エネミー・ゼロ』などの個性的なゲームを開発し、90年代のゲーム業界をリードしたクリエイター。メディアへの露出が多く、歯に衣着せぬ言動でも注目を集めた。2013年に死去。

「やる気ねえんなら止めちゃえよ!」

――もうちょっと具体的にうかがってもいいでしょうか。

遠藤 ええっとね、岡本吉起さん(注35)がカプコンを辞めたあとヒューマンの学園長かなんかになったじゃない。そのときに「岡本さん大変そうじゃん、なんか手伝うことあったら手伝うよ」って言ったらね、「岡本が学園長になったから遠藤さんみたいな人が来てくれたっていうことで先生をやってくださいよ」って頼まれちゃって。それで、専門学校の先生をちょっとやったんですよね。

注35:コナミ、カプコンで数々のヒット作を手がけたゲームクリエイター。ミクシィと組んだ「モンスターストライク」にも企画立案から関わり、アーケード、コンシューマー、スマートフォンの3つのフォーマットで大成功をおさめた。

――ええ、ええ。

遠藤 でも、当時は先生なんて似合ってもないし、学生にも期待なんかしてなかったんで。「ゲーム会社に入りたい」みたいな感じで来る学生にいっぺんゲームを作らせて、「オメーらが通用する世界じゃねえよ」って希望を絶ってもいいですかって言ったら、学校の方はそれでかまわないと。それで、3カ月の短期講座でゲーム業界就職講座みたいなのをやったんです。で、夜間に週2回やったんですけど、「やる気ねえんなら止めちゃえよ!」、「止めません!」みたいな感じで、毎回、毎回、生徒が泣くわで大変な騒ぎに。

――そのとき遠藤さんはどういうことを伝えられたんですか?

遠藤 要するに、作らないとダメだと。「こんなのがやりたいんですけども」とかフワっと思ってたってゲームなんか出来てくるわけねえよって。「どうやって?」じゃねえよ、やりたいんならオメーが作れよ、プログラムが必要だったら覚えろよって。そんなの誰でもできて当たり前ですから。

――まあ、そうやってきたわけですもんね。

遠藤 ただ、それが普通一般の専門学校に来るような学生には、まずできないっていうのも分かってるんで。だったらあきらめたほうがいいと。ところが、その夜間講座が信じられないことに、ものすごいゲーム業界就職率が高かったんですよ。3分の1か半分ぐらい業界に就職したんで、どうやって教えてるんだって聞かれたんですけど、できるまでやらせてるだけだと。とりあえずゲームを作れ、自分で作れって言って作らせただけ。

――なるほど~。

遠藤 その頃にクールジャパンの走りというか、東京大学でゲームのプログラムをやるっていう話が持ち上がって。コンテンツ制作のプロデューサーを育成するためのカリキュラムを作りたいっていうんだけど、教育の現場にはそんなことをできる人はいない。それで、野田聖子さん(注36)に呼ばれて、カレーをごちそうになりながら「遠藤さん、よろしくお願いしますね」って言われて「分かりました、やりますよ」と。

注36:自民党所属の衆議院議員。総務大臣、女性活躍担当大臣、内閣府特命担当大臣などを歴任。

――以前から野田さんとは面識があったんですか?

遠藤 いや、全然。野田聖子さんとはそのあと何回かコンテンツ関係で会いましたけど、そのときは面識はなかったですね。それで、東大生にゲームを教えることになったんですけど、そのときはどうやって教えればいいか、まだ分かってなかったんです。でも、学生たちが優秀だったおかげで「ああ、こうやればいいんだ」っていう。

――逆に教わった感じですか。

遠藤 そうですね。一番教えなきゃいけないものはなんなのかっていうのを教わりましたね。

――それは、ちなみになんでしょうか?

アタマで考えた面白いと感覚的な面白いは、その質が違う

@パリ 2010年

遠藤 やらなければ分からないこととか、そこに流れるコンセプトだったりとか、(コンセプトの)立て方とか、思想の問題です。

――ああ~。

遠藤 彼らは「じゃあゲーム作ってみようか」って言ったときに「何が必要ですか?」って聞いてきます。で、「そうだね、プログラム書けたほうがいいかな?」って言えば「プログラムは何でやれば?」となって、「簡単なのでいいや、Javaでいいかな」って答えると「分かりました。来週までにJava覚えてきます」となります。これで、彼らは覚えてくるんで。

問題はアタマで面白いと思えるゲームを作っちゃうことです。「それ面白いのかな? 俺は面白い感じがしないんだけど」って言ったら、「面白いですよ。こうなってるし、ちゃんとトレードはあるし、ハイリスクハイリターンだし。すごくバランスが取れてて、いいゲームだと思います」って言うんです。それで、「じゃあスマンけど、もう1回やってみて」って言って。もう一度遊ばせると、やっぱり「わあ、面白いな」って言うんで、またやらせるんです。

「え、ホントに面白い? もう1回やってみて」→「まだやるんですか?」→「なんでヤなの? 面白いんじゃないの?」→「いや、う~ん……」、こうやっているうちに思わず徹夜しちゃうゲームってアタマで考えた面白さじゃないってことが分かってくるんです。アタマで考えたものが面白いわけじゃない。ソコには解理乖離があるっていうことを彼らは知るわけですね。アタマで考えた「面白い」と感覚的な「面白い」は実は面白さの質は違う。教えなきゃいけないのはソコだっていう。

――いやでもそれって、すごい難しいポイントですよね。

遠藤 難しいです。なので、それをどうやって教えるかっていうことをいろいろ考えてきました。そのあと、2011年に東日本大震災があって、東北地方のために何かできないかなっていうことで宮城大学でゲームデザインを教えることになったんですが、その時にゲームデザインっていうのはこういう風に教えればいいんじゃないかなっていう実験をかなりしまして。メソッドがそれなりに確立できたので、こちらの大学で本格的に教えるかということになったんです。

それで、イノケンが亡くなったときに、仕事をしながらでも大学の先生とかできないのかっていう話を岩谷さんにして。1人月分は無理でも半人月分ぐらいなら空きがあるしって。だったら年間2科目ぐらいやってみるかっていうことで始めて、今でも僕は2科目しか教えてないですけども、両方とも芸術学部の全授業の中でベスト5に入ってます。今年(2017年)の前期も1位と3位でしたね。

授業の構成自体がゲームデザインそのもの

――それはすごい。何が違うんでしょうかね。やっぱり遠藤さんの熱量でしょうか。

遠藤 授業の構成自体がゲームデザインそのものなんですよ。まず、やらせたいことがある。それをやらせるためのモチベーションを喚起するにはどうすればいいか、なんですよ。で、本人たちの学力、成果がスコアじゃないですか。だったら、それをスコアと実感できるような仕組みみたいなものを作ればいい。ゲームとまったく同じです。最近デザインした授業では自分が何もやらないでも生徒たちが勝手にどんどん勉強して、勝手に上手くなるっていう仕組みを作って、その授業は断トツのトップになりました。

――なるほど、授業自体がもうゲーム作りになっていると。

遠藤 授業もカリキュラム作成もゲームデザインそのものです。あとは博士号の取得ですね。大学の教授だったら博士号を取るべきだと。5年間かかるんですけど、今はD2なんで留年さえしなければ再来年の3月には取れると思います。

――再来年ですか、すごいなあ。そこまで遠藤さんのモチベーションを喚起させたものはなんだったんでしょう。やっぱり飯野さんが若くしてお亡くなりになったことによって、ご自身のこの先を考えられたことが大きかったんでしょうか。

ゲームを作っていることから逃げないとは


堀井雄二さんと 2009年CEDECにて

遠藤 そうですね。だから、生きてる間に僕ができる限りの最大の努力をしておきたい。それが日本のゲームのためであってほしいなと。もうゲームから僕は逃げないんで。

――逃げないとはどういう意味でしょうか? 逃げてないと思いますけど。

遠藤 そうじゃなくてね。富野由悠季さん(注37)が『ニュータイプ』の創刊10周年かなんかで言われたと思うんですけど、僕(富野氏)はずっと映画にコンプレックスを持っていて、アニメよりも映画の方が上だから「いつか映画、いつか映画」と思っていたと。けれども、この歳になってアニメは素晴らしいと思えるようになった。だから、僕はもうアニメを作っていることから逃げないと。

注37:『ガンダム』シリーズの生みの親で、『無敵超人ザンボット3』『伝説巨神イデオン』『聖戦士ダンバイン』など数々の伝説的アニメを世に送り出したアニメ監督。

――なるほど、そういうニュアンスですね。

遠藤 なんで、僕もゲームから逃げない。日本のゲームってなんなのかっていうことを定義して発信しようと。でも、これが全然ダメで。「まあ、ご自身で言われるのは勝手ですけども、学術的にはなんの意味もないんで」みたいな。

日本のゲームってスゴイですよ、ホントに

――そんな風に言われたんですか?

遠藤 アメリカの小賢しいゲームのゲの字も作ったことないような、ロクでもない研究者の若造にね。それなら博士号を取って、上からお前をねじ伏せてやるよって。バカバカしいぐらい研究したので、日本のゲームが進んでるってことはもう分かってます。日本ってスゴイですよ、ホントに。日本のゲームは日本のプレイヤーの価値観が、こういう形に進化させてきたんです。

他の追従を許さないですね。とにかく価値観の多様性みたいなものが、ものすごくあって。『スプラトゥーン』(注38)とか授業でよく取り上げますけど、いい事例ですね。日本人って相手の頭を撃ち抜いて自分が有利だとか、相手より上にいるってことを証明したくないんです。だから、日本人はFPS(ファースト・パーソン・シューティング)とかMOBA(マルチプレイヤー・オンライン・バトルアリーナ)とかが嫌いなんですよ。

注38:水鉄砲のようなオモチャの武器を駆使して、インクを撃ち合いながら塗った広さを競い合う任天堂の対戦アクションゲーム。2017年に発売された続編『スプラトゥーン2』も大人気となっている。

――確かに、日本人はそういう人が多い気がします。

遠藤 で、『スプラトゥーン』って、ただ単に撃つものを弾からインクに変えただけじゃないですか。このインクに変えたことに合わせてゲームデザイン、要するに勝利の評価方法とかを変えただけなんですね。なんですけども、これだけで日本人にはなじむ。相手を撃たなくていいんだっていう部分で、心が開放される。敵から逃げ回りながらカベ塗ってたら、それで勝てるって日本人はそういうの大好きじゃないですか。

――そうですよね。

遠藤 だから、『スプラトゥーン』では日本人がいるとアメリカ人とか逃げますよね。日本人には勝てないから。勝てないからヤダ、日本人と戦うとランキングが下がるからヤダって考え方ですよ。しょせん、その程度です。日本人は勝っても負けてもどうでもいいんです。楽しいですからね。でも、残念ながらアメリカ人はそれができないんです。ただ、フランス人とかドイツ人とかは日本人と同じ楽しみ方ができます。

日本人はゲームを「道」と考えている

――なるほど。でも、それっていまだに理解されないですよね。

遠藤 理解されないです。今年アジアの国際学会で「インテンショナルステイ」っていうものを発表したんですね。ゲームを止める理由を調べていたら、ラスボスの手前で止めちゃう人がけっこういることが分かったんです。これを調べてくとですね、「そこで終わっちゃうともったいないからゲームを止める」っていうことに対する理解が、日本人は100パーセント、自分もそいういう理由で止めたことが一応あるなっていうのが50パーセントなんですよ。

ところが、これが世界的になると、自分はやってないけど理解はできるっていうのが20パーセントくらいしかないんです。じゃあ残りの80パーセントはなんなのかっていうと、「意味がまったく分かんない」って。

――あ~、そうなるのか。

遠藤 今までのストーリーから先に起こることを予見して、それより手前のところで止めることによってゲームの世界の中に自分が入っている状況を維持する。「エモーショナルボンド」っていいますけど、よりゲームの世界にコミットしたいために途中で止めるっていうのが理解されないんですよね。2年続けてアメリカの学会に出したんですけど2年ともリジェクト(論文が却下されること)。「何を言っているのか分からない」「オレの友達はラスボスが強すぎてクリアできないから止めてるけど、それとどこが違うんだ?」って(怒)。

――でも、それって国民性とか文化の背景の違いですよね。

遠藤 そうですね。これって「禅」に繋がる要素で、日本人はゲームを「道」と考えているって僕は今考えていて。

――修行とかに近いですよね。

遠藤 そうです、修行とか道なんですよ。その概念みたいなものが、なかなか理解されないんです。ただ、アメリカにも理解できる人は増えてきています。

――すごい道を究めようとされてますね。失礼な言い方ですけど、遠藤さんのように突き詰めて考えている日本のゲーム関係者は少ないんじゃないですか?

遠藤 だから、僕がやればいいんじゃないですか。

――なるほど、そうですね。

日本のゲームが小バカにされるのがイヤなんです

遊ぶゲーム展での遠藤氏と筆者の記念写真

遠藤 僕がやって、その結果だけみんなに発表しますよ。それで利用してもらえばいいだけなんで。そのために残りの人生を賭けてるわけですから。

――素晴らしいことですね。

遠藤 すごいっていうか、日本のゲームが小バカにされるのがイヤなんです。「ええ~もうアメリカのゲームなんかにかなわないです~」っていう若いヤツらがいるじゃないですか。ふざけんじゃねえよって。

――そういう声は一部ありますよね。

遠藤 技術がかなわないだけで、そもそも日本人は技術なんていらないし。技術は必要なときに、それこそアセットを買えばいいんです。コンセプトメークが日本のゲームの真髄なんです。

――ただ、ガチャとかを多用したソシャゲなんかも一方ではあるじゃないですか。

遠藤 アレはどちらかというとギャンブルとか依存症とか、そういう系統を利用した集金マシンなんで。ゲームっぽい形をした集金マシンを作りたい人たちがやってるだけです。それに、今の経営の方向はそちらではないですね。やっとDeNAとかGREEとかがそうじゃないっていうことで、一生懸命ゲームとしての何かを作るようになった。そういう意味では最近はCygames(サイゲームス)がわりと攻めてますね。

――言い方はアレですけど、まっとうな感じになってきたなって感じは正直しますね(笑)。

遠藤 そう、本当にそうです。本当にDeNA、Cygames、GREEがゲームのなんたるかっていう部分とか、ゲーム自体の魅力でもってなんとかしようっていうように。やっぱりコンプガチャで一斉に引いたのが大きかったと思います。あのあたりから真面目に考えるようになりましたね。

VRを左右するセンス・オブ・エージェンシー

――VRとかARに関しては何かお考えがあるんでしょうか。

遠藤 ウチの学生が国際学会にVRに関する論文を発表して賞をもらってきましたよ。VRに関してはけっこうやってますっていうか、VRの本質はなんなのかっていうところで実験をしてます。VRの本質は突き詰めて言うと映画「アバター」のキャッチフレーズなんです。「見るのではない、そこにいるのだ」なんですよ。

だから、VRっていうと迫力があって没入感のある映像とかって考えがちなんですけど、そうではなくって、脳がそのバーチャルの空間の中に自分が実際」をにいると誤認している状態を作り出すのがVRの本質なんです。そのためにどうすればいいのかってことを研究してますね。一番近いのは『サマーレッスン』(注39)です。プレイしたことあります?

注39:目の前にいるバーチャルな女の子とさまざまなコミュニケーションができるVRゲーム。2017年にバンダイナムコよりPS VR向けに発売された。

――あります。

遠藤 『サマーレッスン』で、あの娘が「ちょっと、先生」とか言って近づいてくるじゃないですか。あそこです。「え、お前近いよ」って思う、あの瞬間に脳が誤認してます。それをセンス・オブ・プレゼンス(存在感、実在感)っていうんですけどね。

――それは分かります。

遠藤 センス・オブ・プレゼンスの実験はいっぱいやってますよ。その次にあるのがセンス・オブ・エージェンシーっていう。

――それは初めて聞きました。

遠藤 自分自身を自分でコントロールしてるっていう感覚のことです。自分がやった結果としてこれが起こってるっていう風に思えないものはダメなんですよ。だから、たとえば車のハンドルを左に切ったとき、右に曲がるともうエージェンシーがないんです。左に切ったら左に曲がらなきゃダメなんです。

それで言うと面白いのは車ってパワーステアリング(パワステ)があるじゃないですか。パワステって自分の数倍の力が出るわけですよ。でも、パワステって自分で操作している感がものすごいあるでしょ?

――あります、あります!

遠藤 あれは素晴らしく成功しているんですよ。そんな感じでもって、実際には違うんだけど自分が操作してる、自分がやってるっていう感覚がないとダメなんです。

――なるほど。

遠藤 今ちょうど船のシステムを作って、それで実験しているんです。油圧でもって船が揺れているように動かすんですけど、これがエージェンシーがないんですよ。自分とは関係なく動かされてるだけなんで。じゃあ、どうやって出すかっていうと、じつはエージェンシーって100分の1秒ぐらい誤差があっただけで失われるんですね。

一番分かりやすいのは遠隔手術みたいなヤツ。手術していて何かに当たったとき、当たった感覚にちょっとでも時差があったらもうダメです。なんで、その時差をなくすために途中の操作を全部なくしてるんです。途中のコンピューターによるデータのやり取りとかをなくして、直接データを送るみたいな形でもってカバーしているんですね。

じゃあ船の揺れのエージェンシーってどういうことなのかっていうと、エアベッドの上に乗っかると揺れるじゃないですか。それって自分の動きによって揺れてるわけですよね。

――そうですね。自重ですよね。

遠藤 これだと、まったくタイムラグがなく動くので、エージェンシーを失わないんです。だから、VRっていうか映像と組み合わせると、ムチャクチャ船に乗ってる感じがするんですよ。

で、ウチの学生がやっている実験なんですが、そのときに実際の船の揺れに対して映像を2倍揺らしてやると効果が強くなるんです。人間の視覚への依存が大きいからだろうと思うんですけど、映像が増幅されると気持ちが悪くなるんですよ。しかも、これが映像酔いとか3D酔いとかじゃない。完全な船酔いなんです。

――へえ~~(感心)。

遠藤 映像酔いは自分の操作と加速度のズレから生じるんですけど、これは完全に一致してるんです。なのに、映像が増幅されると、それだけで酔いがひどくなる。これが面白くて。で、これをどうやって実験するかってのを今やってるんです。そういうのをやってると、またVRに関する知見が増えるんで。

――すごいなあ。

遠藤 ここはゲーム学科なんで、こういったゲームに使う基盤技術みたいなものをまっすぐに研究できます。これがメディア関係とか情報とかだとコンピューターを使って何かやらなきゃいけないとか。あと、その手の学科はゲーム本体についてはやらないじゃないですか。だから、情報的なテクニックとかっていうところにいくんですけど、ゲーム学科はなんにも考えずにゲーム本体の研究ができるんで、すごいですよ。

――遠藤さんがおやりになっていることで僕が体験させてもらったものに、子供たちにカードゲームを作ってもらうっていうのがありましたよね(注40)。あれもエンタテインメントとは何かっていうのを学ぶためのひとつの手法ですか?

遠藤 そうです、メソッドです。あれはユーザージェネレイトコンテンツ(注41)っていうのがユーザーのフックになって、それを面白いと思ってしまうっていうことの実証なんですね。ただ数字が書いてあるもので遊んでも大したことはないですけど、そこに自分で絵を描くことによって「自分のモノ感」が強くなって、そっちを選ぶっていう。それは大学生がやっても同じです。

注40:小中学生を対象に行われたワークショップで、絵を描いたりシールを貼ったりしてカードゲームを実際に作ってもらって、完成したゲームで対戦するというもの。

注41:ユーザー、利用者が制作・生成したコンテンツのことで、マーケティングの分野で注目を集めている。

属人性を排除した状態で世の中に発信したい

――生き方そのものがエンタテインメントですね。同時に自分が得てきたものを残していきたいっていう気持ちを強く感じます。

遠藤 なんだろうな……そういった教育方法みたいなものを属人性を排除した状態で世の中に発信したいんで。だから、学会とかでこういうやり方をしましょうっていうのを、いろいろな新しい演習方法とかをどんどん作って公開してます。ほかでゲームを教えている人が、それを使って効果を上げてるっていうのもどんどん出てきてるんで。

――この先は学位を取られて、いわゆるゲームとはどんなものだっていうのを、より強く訴えていこうと?

遠藤 そうですね。僕が経験的に得たことを「こんなことじゃないのか」って提示しても、博士号がないとたわごとになっちゃうんですけど、学位を取ってからそれを書くと、先生の書いた、博士の書いたものなんで。それってそのまま真実として引用されたりするんです。ブログに書くような内容のことも博士号を持って書くと、その文章を引用していいんですよ。それはそういうひとつのコンセプトであり概念であり、新しい問題提起になるんです。それでないと世界とは戦えない。

技術の無駄使いはすごく大事

――世界と戦う意味というか意義というのは、日本のゲームの素晴らしいところを伝えたいってことですよね。

遠藤 日本のゲームの優位性を示したいんですよ。だって面白いもん。FPSなんてクソつまんないじゃないですか! よりリアルな新しいグラフィックの描画ができて、なんでFPSになるんですか? リアルなグラフィックを使うんだったら、『ファイナルファンタジー』みたいなほうがいいんですよ。キレイなお姉ちゃんが出てくるとか、イケメンな男が出てくるとかっていうことのほうが大事で、そっちに(技術を)使えばいいんですよ。

技術の無駄使いみたいなことはやっぱりすごく大事で。たとえば、「ノンリニア破壊」っていう技術がありますよね。「ノンリニア破壊」って建物とかに爆弾なんかを撃ったとき、その力によってどういう風に建物が壊れるかっていう破壊モデルのことで、3Dで作ったものを再構築してプロシージャルにモデリングしていって分解する。要するに、バラバラって崩れていくのをやる技術なんですけど、日本の「ノンリニア破壊」で一番素晴らしいなと思ったのは『メタルギアライジング リベンジェンス』(注42)です。あれって刀でバッと斬ると、切り口がスパっといくじゃないですか。そこにノンリニア破壊を使っているんですよ。

注42:2013年に発売された『メタルギア』シリーズのアクションゲーム。敵の部位や建物などを刀で斬り裂く斬撃アクションが話題を呼んだ。

――そこに使っているんですか。

遠藤 技術的にはそうですよね。で、何が楽しいってズバッと斬った感? 斬った感覚を盛り上げるためにその技術を使ってるんですよ。日本刀の独特の斬れ方を実現するために、必要ならそういう技術を使う。横井軍平さん(注43)とかと同じですね。

注43:『ゲーム&ウオッチ』、『ゲームボーイ』、『バーチャルボーイ』などのハード開発に携わったことで知られるクリエイター。すでにある技術を利用することで新しいモノを生み出す「枯れた技術の水平思考」を提唱したことで知られる。

――そのとおりですね。

遠藤 それが日本の根本に流れる技術の使い方ですよ。その技術があるから作ろうっていうコンテクスト・ドリブンでやると、ロクでもないものしかできないんです。コンセプトが大事なんです。よく例に出すのは『塊魂』(注44)ですけど、『塊魂』はあのコンセプトだったら、あのグラフィックがちょうどいいんですよ。

あれをフォト・リアリスティックな技術を使って作ればどうなりますか? ネコを巻き込んだときに、そのネコは毛がふさふさしていてギャーって鳴きながら血を流す、そういうゲームを作りたいんですね、アナタ方はって話です。そんなクソゲーいらねえわって。そこが30年遅れてるんですよ、技術で作ろうとしてるヤツらは。

注44:塊を転がしながら、いろいろなモノを巻き込んで大きくしていく異色のアクションゲーム。2004年にナムコから発売され、ユニークなゲームシステムや個性的なグラフィックなどが話題を集めた。

――30年遅れてるっていうか止まっちゃった感じですかね。技術は30年進んだけど、情感が止まっているというか。

「ゲーマーズゲート」って知ってます?

遠藤 止まっちゃったんじゃなくて、そもそもの人間性の部分ですね。「ゲーマーズゲート」って知ってます? いわゆるゲームにおける差別問題です。たとえばMMOとかで一緒に組んでる人の中にリアルな女性が混じっていたとするじゃないですか。そうしたらアメリカでは「なんだ女かよ」って、キックされることがよくあるんです。これが「ゲーマーズゲート」です。そんなことやってる国なんですよ。

日本って女性がもっともゲームをする国だと思うんですけど、それは女性がゲームをする土壌がいっぱいあって、女性がゲームをするっていうことに対して日本人は当たり前だし、それに対してリスペクトを持っているからです。MMOとかで女性が入っていたからって、それでキックするような人は日本にはほとんどいないです。そこで「女となんかとやってられるか」って、いまだに言ってるような国に負けるわけないじゃないですか。

――そこは人間性、国民性の違いだから、なかなか埋まらない感じがするんですよね。

遠藤 埋まらなくていいんですよ。僕はドイツ人の方から「あんな若い国はどうせ積み上げたものが何もないんだから、そんなこと言ってもしょうがねえよ」っていう風に言われて納得しましたね。マーケットとしてデカいってだけで偉そうにしてるけど田舎だからって。だから、アメリカ主導で動くのはダメだと。ただ、アメリカでも分かっている人がどんどん増えてきてはいます。

――そうですか。変わってきますかね。

遠藤 変わるでしょう。人間は成長するんだから。

――う~ん、でもなんか成長してないような感じがするなあ。

遠藤 そう思う部分は僕もあります。なんでドナルド・トランプがアメリカ大統領に当選しちゃうのかなあ、あの国だからだろうなあって。やっぱり銃が捨てられない国なので…しょうがないですね。人が信用できないんですね。

削り切った真髄の部分を面白いと感じるように作れ

――これからゲームを作ってみたいという人にアドバイスはありますか? やっぱり「自分でやれ」って感じですか(笑)。

遠藤 そうですね。自分の手を汚して作ることはすごく大事だと。あとコンセプトですね。面白いと思えるコンセプト。そのコンセプトのために、どれだけ切り詰められるか。そのコンセプトをどれだけ際立たせることができるかなんで。

料理にたとえて言うと、美味い刺身を作らなきゃダメなんですよ。それが日本のゲームの真髄ですね。いろいろ調味料を加えて、フランス料理を作るんじゃないんです。フランス料理がマズイって言っているわけじゃないですよ? いろいろなものを入れてバランスを取って絶妙の美味しさを作る。もちろん、それはあります。

――素材の良さを活かした何かを作ってほしいという意味でいいんですか?。

遠藤 削りに削った中から出てくる本質的な美味しさというか。面白さも削りに削って、最終的に出たエッセンスがしっかりした状態で作らないとダメなんですね。これってなんかちょっと物足りないよねってモノに何かを足してもダメなんです。「なんかさあ、ちょっと物足りないからタマ撃つようにしない?」とか「HPをとか、つけてみようか」とか、そんなのまったく意味ないんですよ。それ以前のところ、そうなる前のところが面白くなきゃ。だから、削り切った真髄の部分を面白いと感じるように作れ、ですね。

フランス人曰く「日本人はいい意味で狂ってる」

――ちょっとイヤな質問しますけど。今の日本のパブリッシャーはどう思われますか? いっとき迷走している感があったかなとも思うんですが。

遠藤 今の日本のパブリッシャーはちゃんと分かってますよ。金儲けしたいヤツらが迷走させてただけです。

――じゃあ、作り手たちはそんなことはない?

遠藤 そうですね。『パズル&ドラゴン』以降、やっぱりゲーム性だってことに作り手も気がついたんです。そのためには何が必要かってところに今は踏み込んでますね。スクエニとかって海外に負けないだけの技術力を持っていながら、その使い方が女の子の脇の下をいかにキレイに見せるかとかですよ?

――アッハハハハ、なるほどなるほど。確かにそうですね。

遠藤 それを称してフランス人は「日本人はいい意味で狂ってる」って。技術の使い方がおかしいって言うんですけど、そのおかしさこそがアートだよねっていう。

――そうですね。

遠藤 僕も一時期迷走しかかったんですが、フランス人に救われたんで。フランス人は日本のゲームのことをどう思ってるか調べてみようってことになって、6500人がアンケートに答えてくれたんですよ。そうしたら、日本のゲームは全然遅れてないし、今でも進んでいるっていう。じゃあ、日本のどこがっていうことで調べていくうちに、だんだんそういったことが分かってきたんです。

――6500人ってすごいですね。そこまで遠藤さんを動かすのはゲームに対する愛ですか?

遠藤 自分が作ってきたものに対する責任ですよね。

すべては日本のゲームの未来のために

――この先もずっと現役ですか。

ゲームクラスの生徒さんたちとの記念写真 当時@

遠藤 もうそのつもりです。博士号を持ってれば何を書こうと、それはそれで研究なんで。そのためにも博士号をちゃんと取らないと。

――分かりました。ありがとうございました。いや、でも素晴らしいですね。

遠藤 変でしょう? 「前行ってるよな」って言う風によく言われますけどもね。ベクトルは違っても、常に日本のゲームをやってる人たちに背中を見せ続けられるように。でも、それって単に自分が遊んでるのと一緒なんで、それもまたエンタテインメントなんですよ。

――人生そのものがエンタテインメントというか、空気を吸ったり水を飲んだりするのと同じようになってるんじゃないかなと思います。そのレベルまで昇華したのは遠藤さんぐらいじゃないですかね。

遠藤 誰かが道さえ付ければ後から追いかけてくるヤツが超えますよ。

――でも、ちょっと継ぐ人が見えてこないなあ。

遠藤 大丈夫です、出ますよ、いくらでも。野茂がいなければ大谷もいなかったわけで、そういう風に思ってるんです。

――作り手であり教師であり、なおかつご自身がエンタテインメントでありカルチャーですからね。ただ、今回お話をうかがって、遠藤さんの見方が少し変わりました。これまでは「作り手」っていう意識でずっといたんで。

遠藤 そこは完全に切り替えてますね。

――ですね。今日改めてその部分を実感しました。

遠藤 はっきり研究者の方に軸足は移しています。それは、すべて日本のゲームの為にというコンセプトはそれで揺らがないですね。

――今日は貴重なお時間をいただきありがとうございました。

取材協力:仁志睦
撮影:北岡一弘
取材・構成 黒川文雄
初出展 エンタメステーション  2018年

ご高覧ありがとうございました。以下は有料部分になりますが、この取材のお礼と取材後の感想しか書いておりませんので、この記事とゲーム考古学に対してのドネーションをいただけるようであれば以下をご購入ください。
ありがとうございました。

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