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好きなものは量より質を求めるべきか否か

現代は娯楽に溢れてる。それはもう何が良いもので何が悪いものかも分からなくなるぐらいありとあらゆるものが混在している。一昔前は、プロが作り上げたものだけしか触れることが出来なかった。今よりもずっと良いものも悪いものも、自分の目と耳で判断するしかない世の中だった。

でも今はプロであろうがアマチュアであろうが、自分の創作物を世の中に発信することが出来るようになり、良し悪しを判断する材料も昔より格段に増えた。

しかし、これだけ世の中が発展しても、僕らには世の中にある全ての娯楽を堪能できるだけの時間は用意されていない

気になったものに反応できるアンテナを常に張っておくことは大事なことだ。いつどこに自分の概念を覆し、酔いらせてくれるものがあるか分からないから。

それでもやっぱり圧倒的に時間は足りない。広く浅く嗜むにも、狭く深く嗜むにも満足できるだけの時間が自分に用意されているとは思えない。あの世に行く時も、何かしら「あれやってみたかったな」と思ってあの世に行ってしまいそうだ。
僕は時間を無限に生み出せるわけじゃないし、お金が有り余るほどあるわけでもない。

だからこそ好きなものは量より質を求めていきたい。順番としては質を求めながらも、量を絶やさないという感じだろうか。
自分が好きなものは貪欲に好きになりたいし、好きなもので自分の血肉を形成していきたい。

これは自分の思い込みなのだが、TwitterやYouTubeを眺めていると至るところで、「これを見ろ」「これを聞け」と言われているようで辟易としてくることがある。

何に時間を使うかは自由だけど、道ゆくキャッチを全員相手にするのはさすがに参る。

何か食べたいと思った時に食べるものに困らないのは良いとしても、何を食べるかは選びたいし、それは自分の楽しみであり、自分を形成するものでありたい。

TVが大勢の暇つぶしになっているように、ネットも大勢の暇つぶしの要素を大いに含んでいると思う。
あらゆる創作物に触れれるようになったからこそ、その手軽さに浸り続けてる場合ではない。

「俺はお前に付き合ってる暇はねぇんだ」とばかりに何かに夢中になっていたい。

「俺はお前のカモじゃねぇんだ」と自分を持っていたい。



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