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批判するより批判される側に

小林秀雄の障害者への差別意識について、前に書いたことがある。

小林は、自分の審美眼と相いれない山下清の作品を受け入れ、認めることができなかった。そのため、山下を狂人呼ばわりするばかりか、障害者への差別意識をむき出しにする文章を、かつて公にしていた。

自分の考えと違う相手に遭遇すると、陰謀論・反社会的・デマ・頭がおかしい人とレッテルをはって否定しようとする今の日本人と小林秀雄の間には、さほど違いがないと思う。

こころが折れそうになってしまう。

気分転換をかねて、批評や評論と呼ばれている分野について、自分が考えたことをちょっと書いてみた。

問題提起として、小林秀雄の山下清の画に対する言いがかりを引用しよう。

清君の画は美しいが、何にも語り掛けてくるものがない、いくら見ていても、美しさの中から人間が現れて来ない。

美しいと予防線を張りつつも、作品を否定するため「美しさから人間が現れて来ない」とケチをつけている。

疑問に感じることがひとつある。

人間が現れて来ない。

どういう意味なのか。

曖昧ではっきりしない。

ちなみに、絵画に限らず、ある作品や演奏に対して、「テクニックはあるが人間性が感じられない作品」、「こころに訴えてくるものがない精神性が欠如した演奏」といった表現を使い、ブログ記事を書いたり、レビューサイトにしたり顔で投稿する人がたくさんいる。

ひろゆきという屁理屈の帝王の言葉ではないが、「それって、あなたの感想ですよね?」だ。

自分のただの感想であることを彼らは忘れていると思う。

面白い記事を2つ見つけた。紹介しよう。

美とは虚無のまたの名――定家の人外境と題する記事で、歌人の吉田隼人氏は、短歌作品に「人間」が詠まれていなくてはならないという風潮は近代という時代が要請した下らない制度だと述べている。ハッと目が覚めるような鋭い見解である。

僕や他の二十代、三十代の歌人の作品には「人間」が不在であるというお叱りを受けることが多い。「人間」の世界にきっぱりと背を向けたところから立ち上がる人外境を定家の歌の中に見てきた僕に、明治以降の、あるいは戦後の短歌を貫く「人間」が詠まれていなくてはならないという風潮は、たとえば「人間(という概念)は波打ち際に描かれた顏のようにいずれ消え去ってしまうだろう」というフーコー『言葉と物』の有名な末尾の言葉を思い出すまでもなく、近代という時代が要請した下らない制度をいつまでも引きずっている歌壇人の怠惰の証拠のようにしか思われず、どうにも馴染めないものがあった。

美とは虚無のまたの名――定家の人外境

指揮者の大友直人氏は、日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある嫌いなものを認めない聴衆の排他性のなかで、近年音楽専門誌で書かれている評論は、極端にオタク的なものが多くなり、その結果、日本のクラシック音楽の聴衆の間に、極端なオタク的感性を持つ人が増え、自分の好き嫌いがはっきりしていて、嫌いなものは認めない。排他的な感性を持つ人を増やしてしまったとの興味深い分析をしている。

いつからか、音楽専門誌で書かれている評論は、極端にオタク的なものとなっていきました。もちろん、広い知識を持ち、適切な評論を発表する書き手もまったくいないとはいいませんが、アマチュアのそれこそオタクのような人か、音楽家志望だった中途半端な人たちや自称音楽ジャーナリストやライターが、あるときから増えてしまいました。それによって、一般の音楽愛好家がもう少し多くのことを知りたいと思ったときに、評論サイドの個人的嗜好を知らされるだけで本当に有益な情報を得られる場所がなくなってしまったのです。特に、初心者でこれからクラシック音楽を好きになっていこうとする人にとって、適切な情報や文章が提供される場は、ほとんどなくなりました。

日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある嫌いなものを認めない聴衆の排他性

長年にわたり、多くの評論家やジャーナリストがその文章や発言によって音楽界を盛り上げるという視点に欠けていたことは否めない事実でしょう。

日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある嫌いなものを認めない聴衆の排他性

こうした積み重ねがどんな状況を生んだか。日本のクラシック音楽の聴衆の間に、極端なオタク的感性を持つ人が増えてしまいました。自分の好き嫌いがはっきりしていて、嫌いなものは認めない。排他的な感性を持つ人を増やしてしまったといえるでしょう。

日本のクラシックは「オタク」に殺されつつある嫌いなものを認めない聴衆の排他性

さらに、小林秀雄と同時代に生きた林達夫の名言を、ここで紹介する。

批評家は自らの「好き嫌い」を「是非曲直」のオブラートに包んで差し出すところのインチキ薬剤師である。中身は要するに彼の「好き嫌い」に過ぎない。

正鵠を射た指摘だ。

批評や評論を書くという営みは、意義がさほどなく、時には有害であるように思えてくる。

結論に入る。

① 芸術作品に美しさではなく、アーティストの「人間性」だの「精神性」なるものを求め、それがないと批評する人とは、自分の好き嫌いの感情にもっともらしい理屈をまぶして文句をつけているクレーマーである。

 物事を否定的に批評するのは容易だ。細かい部分であら捜しをすれば、間違いを見つけることは簡単だからだ。

③ 欠点を見つけることに必死になって、価値ある点を意図的に無視することも非常にたやすい。

④ 否定的に批評することの大きな魅力とは、それが批評家を彼が批評している対象より優れた存在であると思い込ませることができる点にある。

⑤ 否定的な批評は簡単な仕事だ。だから、批評以外のやり方では頭角を現すことができない凡庸な人々の手軽な逃避の場になりがちだ。例えば、#ちむどんどん反省会というハッシュタグにツッコミどころ満載などと言って、このドラマの批判を投稿。評論家気取りでいる人が目立つという。こんなことをして何になるのか、人生の時間は有限であることを忘れているようだ。

批判するより批判される側になることが、人間の生き方として理想的だと言いたい。

追記 2022/10/22

評論家という職業は、自分にとって気に食わない人を狂人とか気違いと公然と罵倒できるものなのか。そして、自分が批判されると、「利口な奴はたんと反省するがいい、俺は馬鹿だから反省なんかしない」と開き直り、逆ギレすれば、自分の放言が免責される職業なのだろうか。昭和の昔だからという理由で、小林の差別体質と傲慢さを軽く見るわけにはいかない。


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