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令和の北前船 2022夏 DAY3-1 港町TSURUGA

気比神宮

9月9日(金)。
早く起床して朝食までは時間があったので宿から歩いて10分ほどの気比神宮へ行ってみた。昨日歩いたアーケードを抜けていく。

敦賀駅 2年後の延伸に向けて北陸新幹線の工事が進む

「北陸道の総鎮守」とされる古社であり、赤い鳥居が非常に映える。
松尾芭蕉も奥の細道の道中で立ち寄った由緒ある場所で、この先の旅の安全をお祈りした。

松尾芭蕉さん

敦賀は全国有数の鉄道と港のまち。明治時代に日本海側の街として初の蒸気機関車が走り始め、東京の新橋駅と敦賀を結ぶ欧亜国際連絡列車が運行。
その後、ロシアのウラジオストクまで直通定期船が就航したことにより、大陸に最も近い港として栄えてきた。飛行機のない時代、敦賀からウラジオストクへ渡りロンドンやベルリンといったヨーロッパへたくさんの人々が渡っていったらしい。

そして平成11年(1999)に、開港100周年を迎えた開港を記念し、当時の敦賀市のイメージであった「科学都市」と歴史を引き継いだ「港」と「鉄道」に将来ビジョンを重ね合わせ、『銀河鉄道999』と『宇宙戦艦ヤマト』の像を設置することになったらしく、駅前の商店街にはたくさんのモニュメントが並んでいた。

銀河鉄道999の車掌
ふむふむ

金ケ崎の退き口

宿をチェックアウトし、フェリー埠頭に近い「金ケ崎城趾」へ向かう。

敦賀港を一望するこの小高い丘は、何度か日本史の表舞台に登場するが、織田信長の「金ケ崎の退き口」が有名である。他にも南北朝時代に新田義貞が親王を守護して足利軍と戦った場所でもあるそう。
ビッグネームが当たり前のように登場する本州、すごい…。

1570年、越前(福井県)の朝倉氏を攻めた信長は同盟関係にあった北近江(滋賀県)の浅井長政に裏切られたことをここ金ケ崎で知る。浅井家に嫁いでいた妹お市の方から陣中見舞いとして届けられた小豆袋のエピソードが有名。
越前の朝倉氏と近江の浅井氏に南北を挟み撃ちにされた信長は、瀕死の体で琵琶湖西岸の朽木を経て京へと逃げ帰る…という信長にとって「人生最大のピンチ」であった。
この時に撤退線の殿を豊臣秀吉、明智光秀が務めており、信長と同盟関係にあった徳川家康も参戦している。後の天下人たちが一堂に会した唯一ともいえる珍しいケースである。
彼らの敗走は一時の敗北であったが、結果的にそれは「天下への道」で
あったのだ。

金ケ崎宮 信長の故事にちなみ、「難関突破」の宮となっている

人道の港

金ケ崎城趾を下ると一気に近代の建築物たち。
敦賀は美しい湾を持つ天然の良港だ。
石油の貯蔵庫として使用されていたという「敦賀赤レンガ倉庫」、
かつての敦賀駅を再利用した「敦賀鉄道資料館」などがあって
函館や小樽のような雰囲気があった。

敦賀赤レンガ倉庫
敦賀鉄道資料館(旧敦賀駅舎)

これらの建物の近くには、かつて大陸との往来が激しかったことを物語る象徴として「人道の港 敦賀ムゼウム」がある。

人道の港 敦賀ムゼウム

ウラジオストクとの直行便があったことから、1920年代にはシベリアから救出されたポーランド孤児、1940年代には外交官杉原千畝の「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した地、敦賀。館内では、これらの史実と共に難民の方々と敦賀の人々の交流が世代を超えて続いている様子が紹介されていた。こうした歴史背景から現在でもウクライナからの避難民を受け入れたりもしているらしく、敦賀ならではの「平和」へのメッセージを受け取る場所だった。

独ソ戦前夜、はるばる東欧からシベリア鉄道、日本海を経由して敦賀に到着し、第三国へ渡って行ったユダヤ難民の苦難を偲ぶと共に
外務省からの圧力よりも「人として正しい行動」を貫き通した外交官杉原千畝に改めて頭の下がる思いがした。真の国際交流とは、こうした心と心の繋がりのことを指すのだろう。

気比の松原

ベイエリアを抜けると日本三大松原の一つである名勝気比の松原。
松尾芭蕉もかつてのユダヤ難民たちも眺めた景色。
敦賀港がいかに天然の良港であるかを感じさせてくれる素晴らしい景色をたっぷりと眺め、敦賀を後にした。


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