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雫と聴いて思い浮かぶものはなんだろう

日経が雫という漢字の知名度について調査しています。ヘッダ画像をお借りしています。

で早速なのだが、耳をすませばみたいに凄まじくおきれいなお話を持ち出してもらったところでとてもいいづらいんだが、ことおたく文化上ではこの耳をすませばで培った(?)常用漢字としての雫をもっとスターダムにぶち上げた事件があったように自分の知識を総動員すると思える。

それはLeafがリリースした18禁ゲームの雫です。もちろんぼくも現役で知っているわけではない。

しかしながら雫のスペックとは下記のようになっている。

メディア, 【Win】CD-ROM ; 発売・開発元, Leaf ; 発売日, 1996年1月26日 ; 定価, 8,800円(税別) ; レーティング, アダルトゲーム.

https://w.atwiki.jp/gcmatome/pages/5607.html

後年、リマスタリングされてリリースされたようだった。この事実が裏付けるほど雫がおたく市場に遺した印象とは凄まじいものだったことが推測される。「電波キャラ」とか「電波Song」の語源となったのはこのゲームなのではないだろうか。

それは後年のToHeartリリース時にもいた脚本の高橋龍也が天才的な物語を作ったからであり、後年も確かリアライズとか……なんかすごい有名なアニメの脚本で結果を残していた気がする。

高橋が書いた、といいますか絵の水無月と一緒に作り上げたこの世界観は以降のおたく文化にある一定のまとまりのようなものを残したんじゃないかとぼくは分析……分析とかいうとなんか偉そうすぎるので、「そう思ってます」的なものですが、そう思ってます。

例えば作者もプラットフォームも全く異なるげんしけんなんかで描写される世界観とかはLeafのゲームがなかったら存在していたのか、また全く違う形で描写されていたのか、と。斑目のようなおたく文化を刹那的に生きるキャラクタが果たして生まれたのだろうか、と。元来おたく文化とはそのような人たちで形成されていたよ、とか先人に言われたらぼくは黙るしかないんだけど。

電波SONGSとかそういう名前もいしずえが雫なんだったのだとすれば、雫は文化形成のいしずえである。雫がなかったら電波SONGSとはどのように呼ばれていただろうか?電脳SONGSあたりがいい落とし所だろうか。電影処女の影響で電影SONGSとは呼ばれなかった。

文化とかジャンルに名前をつけてしまう行為はある意味カテゴライズであり、ぼくが普段言っているような(昨日も一昨日もここで言った気がする)分断を招く行為につながり、分断はすべきじゃないとか言ってるくせにカテゴリで切り分けんのかよ、とか言われるかも知れないんだけど、少なくとも雫の時代には今のようなインターネットがなかったことを考慮していただきたい。

SNSとは個々の違いを浮き彫りにさせるのに特化した場所であり、それがない現実というリアル(頭痛が痛いのだ)では自分がどのようなカテゴリに属しているかを先んじて確かめておくことが自己防御に必須である。つまりデカルトのいうところの我思う故に我ありであり、自己を客観的に見つめ直し万事に備えることです。

自分はそう見られるかも知れないから、こういう攻撃を受けるかも知れない。だからこのような防御策を練っておかねばな、と考えることは社会を生きる上で必要そうに見える。ぼくは当時を生きていないから想像でしかないが、斯様な区分の上に自分をひとまず設置しておく行為とは、いくらか自己を客観的に見つめ、心理的安全性を担保する役にたったのではないだろうか?球体がいつも球体の形をしているとは限らないように。

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