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「絵を使わない活字集が文学と称されるなら、活字を使わないタイプの漫画も文学だろ」

新聞漫画ののちゃんについて考えを巡らせています。ヘッダ画像をお借りしました。

ののちゃんが所属している山田の家は意味不明なおばあちゃん、ステレオタイプな親父、それに与しているのか手綱を握っているのかよくわからない関西おかんという個性的な3名がおり、それだけで大体の話は成立してしまうみたいなことを述べました。

この、セオリー通りにいかない三人が出てくればどんな時事ニュースが来ようと大体構成できてしまう(とぼくは思う)ため、むやみに小学生ののの子という子供目線で話を語る必要がない。

ステレオタイプな家族描写に意味なんてあるのか

家がテーマの漫画って大体親父が金を稼いでて偉いとされてしまい、母ちゃん役とかはただただ媚びるだけだったり非常にステレオタイプがちであるといえる。さらに子供がいるのだとすればそこに逆らうのがセオリーか。

サザヱなんかはそこを絶対に崩しませんね。家父長主義といいますか昭和主義というのでしょうか―――――そのような文化は現代ではあまり意味がないとぼくは思う上に、既に大概の家庭が脱却しているはずなのでいちいち名称を付ける必要なんてないとぼくは思いますし、なんて名称なのかわからないため上記の表現でいきますが―――――波平が職の業から帰ってくると子供と孫3人がまっさきに出迎える。で鞄を預かりますね。王族?

こういう言い方もステレオタイプにステレオタイプで返すような発展性のないカウンター・カルチャーのように思えるため言いづらいのですが、偉そうです。

のの子でのステレオタイプ描写も徐々にそういったカウンター・カルチャーを成立させるための舞台装置として機能してきたように見える。つまり横柄に振る舞う親父に対する祖母やおかんの迎撃ですね。山田やのの子を挟む必要がない。あるいは子供に迎撃させてしまうと現代の70~代読者の反感を買ったりするのでしょうか?反抗的だ、と……

離婚活動

こういった描写はこの前TBSあたりでオンエアしていた、セーラームーンとかむしっ子Qとかでおなじみの声優さんである三石琴乃氏が美魔女役で出ていた離婚活動のドラマで久々に見られました。

主人公の夫である瑛太の親父が瑛太と同じ軍人?か何かで信じられないぐらい妻や子供に自分の思想を押し付けていましたね。それで妻に逃げられたとあれば自業自得以外の何物でもなかった。彼は復縁のためにそれを前時代的文化として捨て去ることで立ち直ったような描写が見られた。

関係ありませんが現在の同時刻帯のドラマでは、その親父が死に役で出ていたのと、声優の津田健次郎が三石琴乃レベルのかなりのいい役で出ています。何か縁があったり、声優プロダクションとTBSが懇意にしていたりするのでしょうか。個人的には声以外にも場所があてがわれることは理にかなっていると思います。もちろん顔を出す出さないは個人の意思を最上位に尊重すべきです。

で前回も述べたかも知れませんが勿論ぼくは男主義がどうのだの女主義を見つめ直せだのどちらかに肩入れするつもりもありません。そういう事実があったと説明しているだけです。また続きます。お読みくださりありがとうございました。

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