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小ぎたない恋のはなしEx52:Back to the 糞掃衣

▼粗筋

同窓会に行くかどうか決めあぐね電車内にいる僕の体の中には、ルナというかつての友達と同じ名前を持った一人の蜘蛛が住んでいた。ルナはいつしか知性を持ち、人語を解し、僕の中から世界を見ていたらしい。僕らは駅に降りると、異様な気配に包まれていた。

▼前回

https://note.com/fuuke/n/n2594dd4acf7b

「余計なことを考えるな」

ルナには僕の思考が伝わってしまうのだった。

僕はおよそ現世ではなくなってしまったかのような駅舎で異様な雰囲気の、しかしながらどこか厳かな静けさを持った駅員と対峙しながら、子供の頃に造った人形のことを思い出した。ルナに余計なことを考えるな、と言われたのにも関わらずだ。

だからか、ルナは僕の目の前に垂れ下がってきて、困ったような顔───蜘蛛だから困った顔をしているのかさっぱりわからないのだが───をしているようだった。やれやれ、と同期した思考の中でルナが言った気がした。

その人形には旧友の中にはないだろうと思える名前を───つけた。

なにか実在する人の名前をつけたらいけない気がしたのだろうか。そんな一定のリテラシーが求められるようなことを義務教育のような頭で想いつけるのだろうかはわからないが、たしかにそうしていた気がする。そしてぼくのそれを模倣した旧友もいたように思い出される。

その人形とはおよそ人形とは言えない。なぜなら廃材から棒人間ののような形を切り出したものを人形と呼んでいるだけだからである。

人形と呼んでいるのも今からその当時を振り返ってのそれであり、僕は当時そのなにかを人形と認識していなかったのではないだろうか。

果たしてそのへんの教材にならなくなってしまった木を手に入れた僕は、技術室だか、図工室だか、家庭科室だかわからんような場所に持っていき、あるいはその授業における課題をさっさと終わらせたからという理由で自分の行動に裁量権を持っていたようだった。

僕は電動のこぎりの前に立ち、その廃材で何らかの造形を作り始めた。つまり僕のやっていたことは単なる切り出しであり、立体ではないのだ。だから今このことを思い出している僕は、その人形のことを人形と呼ぶべきなのかどうか迷っている。

一度失敗したりしたのかどうかも思い出せない。その頃の僕は「自分が行動したことにより何らかの結果が得られれば別にその過程以外はどうでもいい」つまり成果物(悲しいかな人形のことだ)にはなんらの興味もわかない、あるいはその成果物の成果度合い、品質の高低は重視していなかったはずだった。だから失敗を失敗とは思わず、最初に切り出した「人の形」を完成としたような気がする。

僕はその人形をいつかなくしてしまった。だけどいま僕とルナが迎えているようなこの窮地というか……窮地ではないのかはわからないが、明らかに異質な場所においてこの人形の思い出が急に意味のあるように思えてきた。いま手元にすらなく、今の今まで思い出しもできていなかったのに。

小ぎたない恋のはなしEx52:Back to the 糞掃衣

▼次回

(URL)

▼謝辞

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