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映画の感想「パラサイト」下

前回はこちらです。

※映画全体の感想になる予定なため、核心部分に遠慮なく触れる可能性があります。

前回まで

上記で述べたのはパラサイトに対する観る前の印象、公開当時有名人とかが「印象的である」というように総じて発信していたためぼくの中で頭の片隅に残る題のひとつであったという話。

しかし公開当時の2020年当時はあまり外に出ませんね。もともとわざわざ外出なんてしないぼくにとっては、いきおいそのままフェード・アウトしてしまう事柄となってしまっていた。

コメディかと思ったらそうでもなかった

そして明るく小賢しく生きている人々の姿を観、ああこの話はコメディなんだと拝見早々に結論づけていました。

結果的には、恐らくそうではなかった。

下剋上とはいかないまでも、

泥に塗れた地下生活から地上で悠々と暮らす人々の生き血をすすり、

それでも生きてやるというような気概を持って社会と(おそらくは彼らなりの、客観的にはねじ曲がった)真っ向勝負をする、

主格とされる家族の絆や生命がずたぼろにされて終わる。

ギテクの判断について

映画の感想を雑多に探し、眺めていて目についた感想のひとつとして、

物語の最終局面において社会的な罪悪はそこまで犯していない(詐欺や公文書?改竄は結構大きいようにも思えますが)長女が惨殺され、

完全に生命を奪われ、家族の中で一番年少であるにも関わらずその人生を終えることになってしまったものの、

その場の勢い、成り行きで衝動的に自分の主人であるパクを殺したギテクは生命の確保だけには成功した=生き延びられた≒人間の尊厳を保つことに成功した(?)、

というものがあり少し考えさせられました。

しかしながらギテクにできたのは、自分にとってさらなる屈辱とも言えるような、「自分の人生を象徴してしまってすらいる地下生活そのもの」であるパク邸におけるシェルターに入ることのみ。

その場所は都合よく―――――都合よくと表現してしまうと物語を紡ぐ相手、語り部に対してあまりにも重圧、あまりにも多くを求めすぎとなってしまうかもしれませんが―――――「家主に知られていない=社会に知られていない=警察の捜査の手が入ることがない」というアドバンテージがありました。

最後の公権力の手がそこまで稚拙かどうなのかについては、物語に都合の良い展開にするためにやむを得ないことなのかも知れませんが……

先住民、といいますかその住居を建てた本人が一流の建築士なため、自分で将来的に懸念される北からの核を防ぐためにシェルターを作ったものの、それを近隣住民や知人に対して大っぴらにひけらかすことは社会的に少し躊躇われるという時代背景があった。物語の舞台は南朝鮮=韓国ですね。

しかしながらギテクたちはパク家族すら知らない、パク邸にシェルターがあるということを知っていられた。

それが故に物語の佳境でギテクはそこに逃げ込める、殺人犯として法のもとに裁かれる使命からすらも逃亡できてしまうわけですが、同時に―――――おそらくそれを思いついてしまったがために―――――

目の前で惨殺された長女を親として完全に見殺しにし、

恐らくは彼女およびギウに対して存在するであろうある一定の責任からも逃げることとなった。

その判断をしている最中、まだ混乱が続く中、

頭から血を流しながら外に運ばれる長男を視界に入れたことや、

妻が胸に刃物を突き立てられた長女の側に居たことなどがなまじ把握できた上で―――――把握したからこそ―――――自分の中で情報処理した内容から選んだ最上の状況判断として

「地下への逃亡」

となったとも言えるかもしれません。

何か妻について異様に文がまとまっておりません。

妻は長女を惨殺した異常者―――――異常者と言ってしまうのは些か残酷かも知れないとは思っています。しかしながら舞台装置としてパーティの最高潮に襤褸をまとい血まみれの異様な姿で現れ、目についた仇たちを次々に殺しにかかる姿は異常者以外の描写がされることは必要なさそうです。しっかりと救いなど無い例として最初から最後まで書かれている。例え自業自得の借金で(自業自得かどうかは明らかにされていないはずです)偶然妻が勤め先で見つけた誰にも知られていない地下室で半ば自己監禁のような生活を何年も続けた上に、ギテクたちの策略でその妻が痛めつけられ、それでも暴れないように縛り付けられた自分を助けようと自身も縛り付けられ頭部に大きなダメージを受けた状態で縄を解いてくれようとしたものの力が及ばず、やがて少しずつ感覚器官の機能が失われて死にゆく様を夫として目の前で何も出来ずただ見つめるだけで終わるという物語一番の残酷な境遇に身を置かれ気が狂ってしまったのだとしても―――――の次の餌食となるところでしたが、バーベキューセットから鉄串を抜き取り、異常者の腹に突き立て正当防衛(劇中裁判所の判決でも正当防衛であった様)の形で撃退し、そのまま長女の下へ駆けつけるという物語内における戦闘描写では一番の勇者であるかのような行動を取りました。

砲丸投げのプロを目指していたものの、金銭的な理由からその夢を諦めざるを得なかった妻のタフさを夫として嫌というほど知っていただけに、ギテクとしてはもう後のことは全て任せたくなってしまっての逃亡だったとも捉えられるかもしれません。

おそらくこういった部分は、「読者の想像にお任せ」と著者が後書きで言ったりする例や、歌の詩や題名なんかを「リスナーがそれぞれ聴いた上で感じた通りで構わない」と新譜のインタビュー等で応えるコンポーザたちと同じなのではないかと思っています。

ぼくは必ずしも「想像の余地を残す物語づくり」だけが崇高であるという立場には積極的になるつもりはありませんが、そういった評価の方法がこの世界にあってしまうのならば、その可能性を考えなければならなさそうです。

後記

思いの外ギテクについて長く書けてしまったため、後編を更に後日へ分けようかと思っています。

お付き合いくださり、ありがとうございました。

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