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プロフェッショナル仕事の流儀とエッセンシャルワーカーの話す平凡について

最近見た番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で、長年(30-50年)バスを運転されているかたが紹介されていて、おそらく数ヶ月密着した綿密な聴取結果を放送しているようでした。

これは自分で感じたことを記録するnoteです。

番組に登場するにあたって、ご本人の中で”自分のような者が出演しても良いものだろうか”といった葛藤をお持ちになっていたようでした。

そちらを鑑み、(もちろん、あまり意味はないかもしれませんが)せめてもの配慮ですが、ここのnoteでお名前を出すことを控えさせて頂こうかと思います。

ぼくは、「プロフェッショナル」について、いわゆる芸能人やタレントと近い土壌でメディア掲載されるような人々が取り上げられる番組だと思っていました。

しかしながら、本来であれば連日連夜マスコミが取り上げるような場所で文化の一部となっておられる方々も、人々の日常生活を守っておられる方々も特に変わりなく何らかの専門家ではあるように感じ、例えば

・地元警察あるいは団地の近くにあるような交番に、ご本人の希望というよりは任務色を濃くした環境で配属されている人

・小中学校の用務員や掃除をなさる方

・小売店で棚卸しをしたり、会計に携わる方々

それぞれにもともと何らかの技術があり、あるいは職務を続けられる中で着任以前とは思いもよらなかった技術を身につけられたはずであり、だからこそ現在も同務をされているわけなので、タレントであろうとあるまいと同じ3/4時間のプログラムとして番組を構成するにあたって特に差し支えはないようにも思っていました。

エッセンシャルワーカーとは

それは番組制作側も同じらしく、ほぼ冒頭で今回エッセンシャルワーカーを特集したことについての説明をおこないます。

エッセンシャルワーカーとは、日経のコラムによると

エッセンシャルとは、英語で「必要不可欠な」という意味。まさに、社会が正常に回り続けるために必要不可欠な仕事

とのこと。各種キャリア向けサイトでも同じような説明が見られます。経済色は濃そうですが、コラムでは言葉の成り立ちや効果についても考察が進められているため、踏み込んで知りたい方はご覧になるのも良いかもしれません。

バスの運転者はエッセンシャルワーカーにあたり、人々の交通インフラとして生活を支えています。人間が暮らしを続けるにあたって、必要不可欠な存在です。

平凡とは

「平凡」であることを至上とする今回のプロフェッショナルに対し、”そういう感想を述べられた方はこれまでで初めてかもしれません”と番組クルーの一人が本人に伝えていました。

少なくとも大型二種をお持ちになろうと思われた時点で、かなり平凡ではないように思えてしまいます。

自分の背中数メートル右斜後ろや左斜め後ろが、何らかの障害物に当たらないように大きな鉄の塊を操作するという技術を持ってして、ご自分を平凡と称することこそになにかご自分でも気づいておられないほどの、他者には持ち得ない特別な視点をお持ちなように感じました。

今回のプロフェッショナルが、運転書の詰め所から始業開始するにあたり自分の相棒、獲物であるバスがアニメ仕様にラッピングされている様子が撮影されていました。

もちろん前日からそのような通達が有り、既に出動させた回数も一度や二度ではないのかもしれません。しかしながら、それでもご自分の任務を全うできる、という「動じなさ」にも平凡ではない何かを感じることができました。

ぼくらが生きる日常は、意識せず生きていればさっと過ぎ去る一日でありながら、また同じ日は二度と到来しないものであるといえます。

いきなり住む場所が奪われず、食べ物を無くすこともなく、金銭を得る手段がなくならず、体が急に壊れることもなく次の日も目覚められているというだけで、どれほどの奇跡がその場に詰まっているのかという考え方もできそうです。

バスを駆る

今回のプロフェッショナルには、路線バスの運転でありながら曲がりくねった山道をほぼほぼ毎回必ず通行しなければならないという日常がありました。

実際に見聞せずにお話しすることでもないかもしれませんが、コーナーの角度はかなり急であり、乗用車であってもかなりの揺れをもたらすように思えます。

またほとんど住宅街のような細道では、たまたま建物の入口で道幅に余裕ができるような箇所でなければ擦れ違いも難しく、無事にやり過ごせても向かいから歩いている人が数人こちらやあちらに向かっていたりと息をつく暇がありません。

そんな中、乗客の気分を害さず・悪寒をもたらすことなく停留所まで送り届ける技術について紹介が続きました。足だけでなく指の力をコントロールし、数本ずつ緩急を入れることでブレイキングペダルを操作する等、第三者からは想像も及ばない次元だと感じます。

ぼくが車を運転する際は、教習所でそう習ったため数回に分けて踏むか、あるいはそれをしないこともあるように思います。昨今の車両であれば、ゆっくりじわじわと踏んでいればおよそ信号等で停車する程度のことについては差し支えなくできてしまうのではないでしょうか。いわゆるそういった仕様に甘えているとも言えます……

ところが彼らにしてみたらそんなことは守って当たり前、さらにその先の技術で勝負しているように思わされます。

また停留所に止まる際は、同僚の停車シーンと比較しながらプロフェッショナルの技術について言及。同僚も同じくプロとして大型自動車を操っているわけでして、よく許可が出たなぁと思えるほどの、制作会社の切り込み方が尋常ではない箇所でした。

昨今の社会状況における、外出自粛とか遠距離の商業施設が利用されない傾向にある等の影響下で、この番組は以前紹介した理髪店や飲食など客商売の店が立たされている苦境についても特集を組んでいたことがありました。

視聴者からどう見られるかを意識しすぎて制作に難を生じさせてしまうよりは、一貫した視点から報道を続けるという立ち位置と自分たちを置いている風に仮定するのであれば、常にその姿勢はタフであり続けるようにしていると好意的に解釈できなくもないように思えます。

もちろん、このnoteで読者の方にその考えを促したり強制するものではありません。

同僚

今回のプロフェッショナルが最終的に密着取材を受けた理由に、同僚の仲間たちの頑張りもあるのだということを世間様に知ってほしいというものがありました。

実際に運転者たちが休憩室で歓談する様子や、プロフェッショナルの偉大さについて語る様子、気温が高い時間でも外に出て、車両を洗浄する様子が映されていました。

放送局の特徴として、法人の固有名詞を出さないことが挙げられます。どうしてもバスを映す必要があるためカメラにはその名前は収まっており、モザイク等かけることもないため、あるいはそこから得られた少しの情報さえあれば一瞬で情報にたどり着けはすると思いますが、あくまでたった一人を観察し、その力を報道するという一貫した姿勢なのだというような好意的な解釈は前段落と同様に可能です。

ご本人的には、所属企業の当該詰め所の仲間たちを表裏問わずに全体として報道してほしかったのかな、というようにも思えました。もちろん、これはあくまでぼくの勝手な理解です。

街なかの路線バスでは、そこまでの障害とも形容できてしまえるような道筋を経由しないことが多いように感じます。もっとも自治体の手が加わっていない細い道は往々にしてあり、いったいどのような経験を積めば対応できるのかというクリアリングを見せる運転者は地方・都市問わず見られるようにも思えます。彼らは例外なくプロフェッショナルなのでしょう。

過去

今回の方は若くしてプライベートで事故を起こし、社の判断かご自分での希望かは伏せられていましたが(ご自分の希望のようなニュアンスを感じましたが、正確な情報ではないため鵜呑みにはなさらないでくださいますようお願い致します)車庫長に任命されるという配置転換を受けられたそうです。

ぼくには車庫長という立場のかたが何をなさるのかはわかりませんが、ご本人の談によると運転は一切しないこと、また当該箇所の説明の背景ではなにか特殊な屋根のある場所に車両が出入りしていた様子が映されて説明されていたため、車両を出動させる前後のケアに当たる内容なのだと思われます。

ご本人は、より若い頃より乗り物を操作することに人生の喜びを感じ、同職に就かれたとのことで、当時はいわばそれを無くした状態でした。その心情たるやとても平凡な人生を送れている状態であると言い切れるものではなかったものと推察されます。

同僚の皆さんが一室に集まっている様子が映されます。お一方は蛸焼きをオーブンで温めます。午後の運転を頑張るために唯一の楽しみなんだそうで、周りからはだから太りっぱなしで痩せられないと揶揄されます。

思えば大型車両の運転は特に繊細であり、精神にかなりの不可がかかることは考えられるものの、身体的な疲れはほぼないように思えてしまいます。逆に、動かさないことにより筋肉及び血液の循環が不活性すぎて、疲れたと感じた後に疲れる行為を課さなければならないのではないでしょうか。

同僚のまたお一方が、この職業は何処かから転職してくる人がほとんどとお話しします。確かにプロフェッショナルのように一貫して還暦まで勤続という形の方が珍しいのかもしれません。大きな病気を抱えていなければいいのですが。

後記

インカメラで、ご家族とお話している夫妻が映されます。月並みな言葉ですが……祖父にこのような人を持った孫たちは生まれながらにして幸せなのではないでしょうか。

離れて暮らしてはいるようですが、彼の近くで学んで育つということは、この番組を常に視聴しているようなもの――それどころか、プロフェッショナルの追体験すらできそうなもの―――かと思います。

終点では折返しの発車まで時間があるのか、ラッピングされたバスと写真を取りたい家族に対し、自分が撮影者になりましょうかと進言したり、どの目的地に行きたいのか、そのためにどの車両を利用することが好ましいかというボランティアのような行動まで取っています。

それだけでなく、普段ならば多くの乗降車が予測される駅前で押されていなかった停車ボタンの押し忘れをケアする、雨天ではイレギュラーな場所まで車両を動かしてから乗客を降ろす、乗車時に目的地に停車するかどうかを質問していた乗客に対してその場ですらすらと答えて乗車してもらい、当の停留所が近づくとその乗客に対してアナウンスを加える、また別の乗客の目的地の甘味屋の定休日を同僚に確かめてもらう……と、例示するだけで枚挙に暇がありません。

終点の停留所、名称は「桃源台」というものでした。

桃源郷とは俗界を離れた別世界。仙境。理想郷。


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