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はじめての言語ゲーム/橋爪大三郎【読書ノート】

もっともわかりやすいヴィトゲンシュタイン入門書。
世界のあらゆるふるまいを説明しつくそうとしたヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論はいかに生まれ、どんな思想か? 『はじめての構造主義』著者による、きわめて平易な哲学入門です。

言語とは、私たちの心の奥に隠れている想いを表現するための手段だ。

語りえぬものについては、沈黙せねばならない」という衝撃的な言葉で終わる本書は、ウィトゲンシュタイン(1889-1951)が生前に刊行した唯一の哲学書である。体系的に番号づけられた短い命題の集積から成る、極限にまで凝縮された独自な構成、そして天才的な内容。まさに底知れぬ魅力と危険をはらんだ著作と言えよう。

ヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は、この言語の力を探る中で、言語と現実の世界は互いに鏡のように映し出す関係性があると説く。しかし、言葉で表せないことも存在し、そうしたものについては、我々は沈黙すべきだと彼は言う。だが、沈黙の中でも、心の中の声は止まらない。私たちは語りたい、叫びたい。その衝動に抗することは簡単ではない。

では、語りたい想いを伝えながら、同時に言葉に出せないものに対する敬意を保つ方法は?それが「言語ゲーム」だ。言語ゲームでは、言葉の表層だけでなく、その背後に隠された意味もやり取りされる。一見、何気ない言葉の交換でも、実は深い意味が込められていることもあるのだ。

例えば、石工に関する話。ヴィトゲンシュタインの考えを解説する文中に、「石工」や「フリーメイソン」という言葉が出てくる。これは、外から見れば何の関係もないように思えるが、言語ゲームの中では、深い意味が隠されているかもしれない。

本書を通して感じるのは、見えているものだけが全てではないということ。言葉の背後に隠れている意味、それを解読する楽しみがある。そして、それを通じてヴィトゲンシュタインの真の意図や、彼が影響を受けたとされるクリムトの絵の意味など、新しい発見が待っている。

さらに、国学者の本居宣長に関する部分も興味深い。古事記の言語ゲーム分析を通じて、彼が明治維新における大政奉還の背後にいた立役者であったことが明らかにされる部分は、新しい視点をもたらしてくれる。

言葉の力、その背後に隠された意味を追求することで、新しい世界が開かれるかもしれない。私たちは、言語ゲームを楽しむことで、その奥深さを感じ取ることができるのだ。

ヴィトゲンシュタインは、ある日、ひとつの大きな疑問に直面した。
言葉とは、本当に私たちが見ている世界を正確に反映しているのだろうか?

彼の前期の思考では、この問いに対し、言語と世界は鏡のように互いを写し出していると考えた。まるで森の中で見つけた清らかな池に映る風景のように、言語は世界の出来事を一対一で反映している。これを「写像理論」と彼は名付けた。

しかし、時が経つにつれてヴィトゲンシュタインは新たな発見をする。言語と世界の関係性は、彼がかつて考えていたよりも、もっと複雑で奥深いものであることに気づいた。彼の新たな理論は、「言語ゲーム」という名前で呼ばれるようになった。

ある日、彼は村の広場で子どもたちがゲームをしているのを見つけた。彼らは、自分たちの間でしか通用しない独自のルールを持っており、それを元にコミュニケーションをとっていた。ヴィトゲンシュタインはここで気づく。人々が言葉を使ってコミュニケーションをとる様子は、まるで彼らが遊ぶゲームのようだ。そして、それぞれのゲームは独自の規則を持っている。

「机」という言葉を初めて耳にした子どもでも、実際に机を何度か見れば、それが何であるかを理解することができる。これも一種の「言語ゲーム」だと彼は考えた。私たちが毎日生活の中で経験するあらゆること、そしてそれを言葉で語ること、すべてが「言語ゲーム」の中で繰り広げられているのだ。ヴィトゲンシュタインは言語と世界の新しい関係性を発見したのであった。

本書の概要

ヴィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』

ヴィトゲンシュタインが『論理哲学論考』(以下、『論考』と称す)で語った要点は、言語と実世界との間に直接的な対応関係が存在する、という考えである。物の名前はその物自体と対応し、言明は事象と対応する。例えば、「このバラは赤い」という文は基本命題である。ここでのバラは物体を示し、「このバラは赤い」という文は現実の事象を指し示している。もし目の前のバラが実際に赤かったならば、この命題は真実である。「バラ」という名前が指し示す物体や、「このバラは赤い」という事象が存在するため、言葉には意味が宿っている。これが『論考』の視点である。

このような対応関係が成り立つ背後には、命題内部の言語的構造と事象の実世界的構造が類似しているという考えがある。この共有される構造は「論理形式」として知られている。通常、論理は私たちの心の中に存在すると思われているが、ヴィトゲンシュタインは論理が言語と実世界の両方に共通して存在すると提案した。

世界は我々の心に収められている

『論考』において、言語と実世界の両方には「分解できない基本要素」が存在するとされている。例えば、「このバラは赤い」という文において「バラ」という要素が存在する。現実においてバラを物理的に分解することは可能であるが、人々はバラを一つの単体として認識するため、それを最小の要素とみなすことができる。このように、言語も実世界も、「解析可能」と言えるのである。

「一対一対応」や「要素」は集合論の用語であり、集合論には「無限集合」という考え方がある。無限の集合同士の大きさを比較する際、一対一で要素を組み合わせられる場合、その2つの集合は同じ「濃度」を持っているとされている。

事象や命題が無数に存在すると仮定すれば、それらは無限集合のような存在である。可能な事象の全体を表す実世界と可能な命題の全体を表す言語が一対一の関係にあるとすれば、言語は思考そのものと考えられる。

ヴィトゲンシュタイン自身は「無限」という用語は使用していないが、この観点から彼の哲学を「唯我論」と呼ぶ理由が理解できる。言葉は私たちの思考そのものであり、実世界はそのまま私たちの意識の中に存在している。

『論考』:自らの存在を否定するテキスト

前期の『論考』のヴィトゲンシュタインと、後期の「言語ゲーム」論のヴィトゲンシュタインは異なる視点を持っている。特に、数学や論理学に関して、後期の彼は前期の主張を完全に変えている。

しかし、前期と後期の共通点も確認できる。それは、『論考』の最後の命題、命題7「語り得ぬことについては沈黙しなければならない」という点である。多くの解釈において、この命題は『論考』の限界を示しているとみなされている。

さらに深く考察すると、命題1〜6は「言語と実世界は直接的に関連している」という内容であり、命題7は「それ以外のことは語ってはいけない」という内容である。この2つの命題を正しいと仮定すると、命題1〜6が示す「言語と実世界の関係」は、実世界のどの部分にも対応していないメタ言語になる。

これにより、命題1〜6の主張は命題7と矛盾することになる。命題7が意味を持つためには命題1〜6が必要であり、命題7が述べられると同時に命題1〜6は無効となる。『論考』はこの独特の構造を持っており、全ての哲学的文書がどのように誤っているかを示した後、自らを消去する形で存在している。

言語ゲームの深層

「机」はどうして「机」として認識されるのか?

1934年頃、「言語ゲーム」というフレーズが広まり、後のヴィトゲンシュタインの考え方の核心となる。この言葉はドイツ語のSprachspielからきており、spielは英語のplayに近い、すなわち「遊び」や「劇」を意味する。言語ゲームとは、ただの言葉の遊びだけでなく、「規則に基づく人々の行動」を指す。

「机」という言葉を聞けば、多くの人は何を指すのか理解できる。けれど、その「机」の本質を言葉で説明するのは容易ではない。一つ一つの言葉を説明しようとすると、果てしなく言葉を定義しなければならず、決して終わりの来ない説明が続く。現実の机を指し示すことで「机」とは何かを示すのも、実は不完全だ。

言葉の意味がどうやって伝わるのか、そしてどうして私たちは他者の言葉を理解できるのか、それが問われている。

社会は言語ゲームの組み合わせ

この複雑な問題に対し、後のヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という考えを持ち込んだ。彼は人々が「机」という言葉の使用に関する言語ゲームを観察することで、その意味を学び取ると主張した。

想像してみてほしい。机の意味がわからない人に、いくつか異なる机を見せる。各机は色や大きさ、形が少しずつ違うが、全体的には共通点がある。多くの例を通して、その人は「机」とは何かを理解するようになる。その理由は分からないかもしれないし、それを説明するのは難しいかもしれない。しかし、要点は、彼が理解したということだ。

この考えは、言葉の核心に迫るものだ。「机」という言葉は、数えきれないほどの異なる机を示している。しかし、「机」を理解するためには、実際にはほんの少数の例を見れば十分である。人間は、少数の例を基に一般的な法則やルールを把握する能力を持っているのだ。

私たちは言葉を話すだけでなく、食事や農作業、着衣といった様々な行為を行っている。これらの行為には規則があり、それぞれが独自の言語ゲームを形成している。社会そのものも、これらの言語ゲームのコレクションと言える。

「石工と彼の助手」の「N人n語ゲーム」

後期ヴィトゲンシュタインの『哲学探究』には、社会が言語ゲームの集合体であることを説明する例が出されている。その例とは、「石工とその助手」のシーンだ。

2人の活動を横目に見ると、初めは彼らが何をしているのかはっきりしない。しかし、じっくりと観察することで、彼らの間に存在する4種類の石材や、彼らが建設活動を行っていることなど、徐々に事の背景が明らかになる。

「石工と助手」の言語ゲームは、現実の世界をシンプルにしたモデルと考えられる。これを「2人4語ゲーム」と名付けると、人数や言葉の数を増やしていくことで「N人n語ゲーム」に展開できる。多くの人々がさまざまな言葉を使いながら活動している中へ入ると、初めは何が行われているのか不明瞭だが、時間をかけて観察し、最終的にはその活動の一部となれる。

私たちはこの大きな「ゲーム」の中で生まれ、そのルールを学びながら成長していく。最初は何がどうなっているのか理解できなくても、経験と観察を積むことで、徐々にこの大きなゲームの一員となっていくのだ。

ヴィトゲンシュタインの初期の思考では、言葉が意味を持つ根拠は「言葉と現実が一対一に対応している」という写像理論に基づいていた。しかし、彼の後期の思考では、言語ゲームという新しい視点を取り入れることで、この問題に取り組んでいる。彼のこの思考の転回は、哲学の歴史において大きな影響を持っている。

言語ゲームの考え方は、私たちが言葉の意味をどのように理解し、社会の中でどのように行動するかについての理解を深めるものだ。そして、それは現代の言語哲学や認識論においても大きな影響を持っている。

言語ゲームを通じたヴィトゲンシュタインの考察

言葉の一致と感覚の現実
『哲学探究』にて、ヴィトゲンシュタインは色の知覚に関する興趣深い視点を提供する。例えば、AとBの二人がそれぞれ異なる色の知覚を持つと想定しよう。Aは空を青く、リンゴを赤く感じる。一方、Bは逆に空を赤く、リンゴを青く感じるが、二人とも同じ言葉を使って色を表現する。彼らの間での会話において、知覚の差異を悟ることは難しい。この現象を「逆スペクトルの懐疑」と呼ぶ。彼らがこの知覚の差を感じ取れないのは、彼らの反応や言葉の使用が一致しているためだ。

しかし、このシナリオは実際には非現実的だ。AとBの個別の知覚を真の意味で比較することは出来ず、実際に彼らがどのように色を感じているのかを知ることは不可能である。言葉の使用の一致が感覚の一致を示すわけではなく、逆に言葉の使用の一致が感覚の一致の感覚を生んでいるのだ。

ヴィトゲンシュタインはこの考察を基に、言語は「私的言語」ではないと結論付けた。この私的言語とは、個人の知覚や経験に基づく独自の言語を指す。しかし彼の見解では、言語は個人の感覚に基づくものではなく、共同体全体の行動や反応に基づいて成り立っている。言語は共通の資産であり、私たちの思考は言語を通じて外部の世界と繋がっている。

言葉の境界について

『論考』においてヴィトゲンシュタインは、「語れること」は明確な命題、例えば「このバラは赤い」といった内容を指す。これらの命題は明確な意味を持ち、人々の間でコミュニケーションを取る基盤となる。しかし、「語れないこと」は世界の真実や価値に関連するもので、これを口にすると共同体の分裂を引き起こすリスクがある。

それに対して、言語ゲームの視点からは、言葉の使い方や意味には明確な区別は存在しない。すべての言葉や命題は、言語ゲームの中での役割や機能に基づいている。この視点によれば、過去に「語れないこと」とされていた命題や価値についても、排除する必要はなくなる。

彼の究極の願いは、人々が各自の価値や意味を尊重しつつ、争いや戦争を避けることだった。この考えは、ヒトラーによる迫害を背景として、「どのようにして言語ゲームが共存可能か」という問いとして再解釈されている。

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#橋爪大三郎




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