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22:一人ひとりの声が軽くなってしまった

こんにちは、yuyaです。

今回は、SNSの普及で誰でも手軽に発信ができるようになった現代における、若者の意見について考えました。

発信できるのは一部の人間?

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誰でも簡単にSNSを通して、個人の意見や情報を発信できるようになりました。

ほんの数年前までは、一部のメディアにしか許されない特権でした。

ですが、今や誰もがメディアになったと言えるでしょう。。。

という意見を見ると、私には2つの考えがよぎります。

1つ目は個々の情報の価値が落ちていること。

2つ目は消費されていること。

この2つについての考えを、元引きこもりの視点で見ていきます。

ネット弁慶という言葉をご存知ですか?

現実ではうまくいっていないが、ネット上では威勢の良い人物を指してこう呼んでいるそうで。

ですが、ネット上で威勢がいいことが、なぜマイナスの評価になるのでしょう。

理由は簡単。

ネットの利用者自身が、ネット上での発信を格下に見ているのです。

よく考えれば、いくら匿名であるとはいえ、

不特定多数の人に思いや意見をぶつけることができるのは、すごいことではないでしょうか。

そのエネルギーはどこから来るのかと、よく感じています。

たしかに幼稚な意見や、ただ喧嘩腰であるような意見もあります。

ですが、それは現実でも同じではないでしょうか。

見ず知らずの人に失礼な態度を取れば、それだけ自身の評価が下がるものです。

ですがどうも、ネット上の意見は評価が低い。

信頼できるという意見もありますが、メディアとして見るとどうでしょう。

どんな情報にもバイアスがかかっていて、誰かの意思のない情報は発信されません。

とすると、より真実を語りそうなものは、メディアよりも個人になります。

ですが個人の発言には責任感が、、、

と言ったように分からなくなってしまいます。

もちろんこの考えに答えなどありません。

正しいことを言う人も言わない人もいる。

それだけのことなのですが、

元引きこもりとしては、ネット上の意見は見捨てることができません。

なぜなら、意思の伝達方法がインターネット上にしか、なかったからです。

そしてこのように思ってしまうのです。

自分の唯一の意思表示方法が、誰でも出来るゆえにとても低く見られていると。

辛く悩んでいる人、日頃の思いや叫びを綴っている人が多すぎるのです。

それだけ、発信しやすい環境が整っているのです。

個人は簡単に埋もれてしまうのです。

本気で自分の思いを世界に発信したい若者は、どのように考えを伝えれば良いのか。

消費されている

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自分の意見は人と違うのか。

そのように考えることがあります。

ですが、その答えはわかりません。

なぜなら探せないからです。

人と違うところが個性だと言うのなら、私は全くの無個性でしょう。

私の肩書きは既に誰かが通った道です。

私たちは言語化できているものを見ている時点で、過去の情報を元に生活しています。

なぜなら、知っているものしか認識できないからです。

知っているものしか探せないからです。

全く見たことのない世界や、未知の環境は、言葉にできません。

私たちがSNSに投稿する内容は、誰かの言葉や概念を借りた、遊びのようなものなのです。

そうでなければ、遊びでもなければ、

こんなにも多くの思いや感情が、1日に数え切れないほど流され続ける社会に、私は生きていけません。

この情報の流れと同じように、私の存在も流されていくのだと感じてしまうのです。

ベストセラーの『LIFE SHIFT』にあるように、人生は100年時代です。

ですが、人生が何年あろうが、ステージが幾つあろうが、私の価値は変わりません。

社会の役に立たなければ。

私に出来ることは、能力のある人や志の高い人を支援することなのではと、考えています。

私は引きこもりでした。

だからこそ、当事者としての意見があります。

そして、同じような境遇の人の力になりたい。

ですが、どうしたら良いのか、分からない。

今は、その答えを探しています。

自分が先頭に立つべきでないことは、よくわかっています。

自分が、自分の意見が消費されていく世の中で、私は何の役に立てるのか。

その声は、どうしたら助けが必要な人の元に届くのか。

考えなければいけません。

ここまで書いた内容も、一つのnoteとして消費されるのだと思うと、文章を書くことの意義を考えさせられます。


つづく