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第1回ノートノベリスト詩詠み会 〜二日目〜

こんにちは、匤成です。

昨日は、第1回ノートノベリスト詩詠み会の2日目でした。なんだかんだと多くの方に参加して頂き、ありがとうございました。

また、記事を購入して頂いた方。感謝します。とてもうれしかったです。

僕は、まだまだインフルエンサーと呼ぶには早いかもしれませんが、これからも企画していきたいと思います。

みあ さん

言葉へのバイタリティー

願いが何なのかは詩からは分かりませんが、『100 Days of Poetry』と言う連載の中で書かれた詩。

もう面倒だ、やめてしまいたい。願いは強くなるほどに空回りして困惑してしまう。「(私の)部屋の中」というフレーズ1つで外の世界いっさいが排除されていて、コロナ禍のもとで書かれた事を感じさせつつ作家・文筆家がそうするように、いつの時代でも当てはまるように工夫されていると感じられた。

みあさんは日記やエッセイを書いているイメージはありません。いつも詩を載せておられるような気がします。言葉を紡ぎ続けるそのバイタリティーはどこからくるんでしょう? とても感銘を受けています。


take/機械技師 さん

ダダっ子が悲しみを増幅させる

実際の病気は恐ろしい。安易な気持ちで「遊びに来てよ」なんて言えないことは明白だ。コンプライアンスに反する行為に取られるに違いない。takeさんはおそらく、それを理解した上で詩を書かれている。

ポップな歌詞というのはいつもあった。きちんと愛すること、道ならぬ恋に落ちそうになっているのを戯(おど)けて見せたりもした。

兎の眼

灰谷健次郎のお話に「兎の眼」というのがあって、ゴミ処理場がある町の、学校の生徒が教室で遊ぶ場面があって、男子生徒の1人がおままごとのような遊びの時に、かつて“物乞い”と呼ばれていた人たちの真似をした。

主人公である新人の教諭は不謹慎だ、失礼だ、と質そうとしていたのを同僚の男性教員にたしなめてられてしまった。全くの意訳ではあるが、

『楽しいわけがないだろう。笑ってでもいけなきゃ、やっていられなかったのさ。アイツらはそうしてでも、なんとか生きているんだ。そう、たとえ遊びの中でもな』と言われてしまう。

本当の笑顔ではなく、だからといって感謝の念が無いわけでもない。心では泣きながら顔では笑ったのだろう。そこがとても印象に残っていて、takeさんの「だって、だって」のダダっ子フレーズのリフレインが、本当の気持ちとは裏腹に、戯けていたんじゃないかと思った。

平山 鳩さん

詩人のストレートな詠嘆

平山さんの詩は至極まっとうな訴えだ。詩壇の中にあっても遜色ないだろう。《ええい、ままよ》とならないのが詩人だ。己と語らい合いながら言葉の力を信じ、そして誰より早く絶望する。

文学を武装に着けても、容易いことですぐに揺らいでしまう。言葉は軽いようで重い。しっぺ返しが大きいわりに他人からどんどん忘れ去られていく。

孤独という言葉が似合うが、平山さんは友との交友を待ち侘びている。幸せだ。会いたい人がいる。それを邪魔するものを確と認めて解放を願い詠う。ここにまた静かな活動家の詠嘆がある。

期間はまだまだあります。あなたも短歌や詩を書いてみませんか?

匤成でした。


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