ふるそぼ

昔から日本近代文学が好きです。 「文学の散歩道」の大半は以前書いていたものですが、今回…

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昔から日本近代文学が好きです。 「文学の散歩道」の大半は以前書いていたものですが、今回改稿、新作も含めて随時発表していきます。現代語訳樋口一葉日記は、出来るだけ正確に、出来るだけ分かりやすく、何よりも一葉のために、書くものです。よろしくお願いいたします。

最近の記事

現代語訳 樋口一葉日記 13 (M25.3.12~M25.3.20)

日記 (明治25年(1892))3月(明治25年)3月12日 日差しは薄いけれど、晴れなので、梅見の催しは実行しなければならない。(※前日まで一葉は梅見に行きたくない思いを綴っている。)わが家を出たのは九時であった。その時、(入れ違いに)三枝信三郎さん(※真下専之丞の孫。銀行家。直近では明治25年1月17日に出ている。)が来られた。(萩の舎の)師(※中島歌子)のもとに一同揃った。車(※人力車)を連ねて向島(※むこうじま/墨田区の地名)に向かった。自分は一人(車で)走り抜けて、

    • 現代語訳 樋口一葉日記 12(M25.2.19~M25.3.11)

      (明治25年)2月19日 母上が先に起き出しなさって、雨戸を開けられた。「なんとまあ(よく)積もったことだ。一尺(※一尺は約30センチ)にも余るだろうね。まだどれくらい降るのでしょうねえ。」などとおっしゃるのは、(きっと)雪のことであろうと嬉しくなって、さっと起きた。(※原文は<やをら起ぬ>で、<やをら>は本来、静かに、そっと、などの意味だが、明治時代頃から、さっと、急に、という意味合いでも使われ出した。ここでは後者の方が自然だと判断した。)国子(※邦子)をも起こして一緒に中

      • 現代語訳 樋口一葉日記 11(M25.2.4~M25.2.18)

        (明治25年)2月4日 早朝から空模様が悪く、「雪になるだろう」と皆が言う。十時頃より霙(みぞれ)まじりに雨が降り出した。晴れたり降ったりで昼にもなってしまった。「よし、雪になるならなれ、どうして厭(いと)うことがあろうか」と思って、家を出た。真砂町(※まさごちょう/地名)のあたりから、(雪が)綿をちぎったかのように、大きいのも細かいのも少しもやむことなく降った。壱岐殿坂(※いきどのざか/坂の名前)から車(※人力車)を雇って行った。前ぽろ(※人力車の前面を覆う幌(ほろ))はわ

        • 現代語訳 樋口一葉日記 10 (M25.1.8~M25.2.3)

          (明治25年)1月8日 早起きし、空を仰ぐと、とてもよく晴れて塵ほどの雲もない。うららかに霞んでいるさまが、本当に春とばかりに感じられる。出かける支度をあれこれしている時に、綾部喜亮(※あやべきすけ/正しくは喜助。一葉の姉ふじの夫久保木長十郎の義兄。1月7日に出ている)が、久保木(※久保木長十郎。一葉の姉ふじの夫。1月7日に出ている。)と一緒に来た。(今から出かけるところだと)詫びて(その場を)済ました。(綾部と久保木の二人が)帰宅して、すぐに国子(※邦子)は神田(※地名)あ

        現代語訳 樋口一葉日記 13 (M25.3.12~M25.3.20)

          現代語訳 樋口一葉日記 9 (M24.11.22~M25.1.7)

          よもぎふ日記 二 明治24年霜月(11月)(※蓬生(よもぎう)とは、ヨモギがたくさん生えているような荒れ果てたところ、の意。また、前回の日記(蓬生日記一)は明治24年11月10日までだったが、それから11月21日まで日記は書かれていない。) (明治24年)11月22日 手紙を半井さん(※半井桃水)に寄せた。明日の在宅の有無を問い合わせたのである。この夜は書き記すものが大変多くて、三時過ぎる頃まで執筆した。 (明治24年)11月23日 半井さんより書状が来た。「幸い閑(ひま)

          現代語訳 樋口一葉日記 9 (M24.11.22~M25.1.7)

          現代語訳 樋口一葉日記 8(M24.10.28~M24.11.10)

          (明治24年)10月28日 曇り。六時頃、急に地震があった。「今年は大地震の三十七年」(※天明2年(1782)の天明小田原地震、文政2年(1819)の文政近江地震、安政元年(1854)の安政東海地震、安政南海地震と安政二年(1855)の安政江戸地震のように、およそ37年ごとに大地震が起こるといううわさがあった。明治24年は西暦1891年なので、安政元年からちょうど37年目にあたる。)とかいって、非常に危ながる人もいる。十時頃坂上(※地名)の洗濯屋の主人が来た。「明日昼までに綿

          現代語訳 樋口一葉日記 8(M24.10.28~M24.11.10)

          現代語訳 樋口一葉日記 7 (M24.10.08~M24.10.27)

          (明治24年)10月8日 快晴。午前は清書。午後は作文。『十八史略』(※じゅうはっしりゃく/中国の歴史書。)及び『小学』(※中国の朱子学の修身書。)を読む。お鉱様(※稲葉鉱)が来られる。明日の各評(※かくひょう/詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。会の前に回覧しておく。)の景物(※けいぶつ/時節に応じ興を添える衣装や食べ物。また、連歌、俳諧の点取りの景品。ここでは後者だろう。)を作る。日が暮れてから、母上と共に薬師(※やくし/真光寺内にある本郷薬師。

          現代語訳 樋口一葉日記 7 (M24.10.08~M24.10.27)

          現代語訳 樋口一葉日記 6  (M24.9.26~M24.10.07)

          (明治24年)9月26日 空、少し曇る。早朝、千村礼三さん(※ちむられいぞう/元稲葉家の家来か。明治24年9月24日の日記に出ている)が、正朔さん(※しょうさく/稲葉正朔。稲葉寛、鉱の子)とともに来る。自分は図書館で本を読もうと思ってはやく(家を)出た。道で、今野はる(※もともと中島歌子の下で働いていた小間使い。)が商品陳列館(※上野公園で第3回内国博覧会が開かれたあと、建物が改築され勧工場(かんこうば/デパートの前身)となっていたもの)に出勤するのに会って、(途中まで)連れ

          現代語訳 樋口一葉日記 6  (M24.9.26~M24.10.07)

          現代語訳 樋口一葉日記 5 (M24.9.15~M24.9.25)

          蓬生日記  明治24年菊月(9月)(※蓬生(よもぎう)とは、ヨモギがたくさん生えているような荒れ果てたところ、の意) 日差しに遠い、雑草が生い茂るような荒れ果てた家での秋に、露のようにはかない私は心身を休める所がなく、(そのせいか)筆を墨に濡らして(この日記を)書き続けていると、変に人の陰口を言っているようになってしまった。 (※この序文はこの日記冊子が書き起こされた時より後で書かれたもの) (明治24年)9月15日 晴天。九時頃より灸治療に行く。五十人ばかりの待合

          現代語訳 樋口一葉日記 5 (M24.9.15~M24.9.25)

          現代語訳 樋口一葉日記 4 (M24.7.17~M24.8.10)

          無題(※「わか艸(くさ)」という題の詠草入れの余白に書かれた日記で、日記そのものの題や署名はない) (明治24年)7月17日 みの子さん(※田中みの子)の月次会(※つきなみかい/月1回開かれる歌会)である。昼少し前から家を出る。道案内だとおっしゃって、母上も(一緒に)お出になる。高等中学校の横手の坂を下っていると、雨が少し降ってきた。空は薄墨のような雲がだんだん重なっていって、「やがて夕立が降るだろう」などと、道行く人も言っていた。真下まき子(※先述の真下専之丞(ましもせん

          現代語訳 樋口一葉日記 4 (M24.7.17~M24.8.10)

          現代語訳 樋口一葉日記 3 (M24.6.11~M24.6.24)

          (明治24年)6月11日 今日も空が曇る。入梅(※梅雨入り)と言っていたので、もっとも(な天気)だ。今日の新聞に、小舟町(こぶなちょう)二丁目石崎廻漕店(※かいそうてん/廻船問屋。海運取次業者のこと)所有の汽船、石崎丸が小樽より東京へ向けて出帆し、四日の夜であろう、銚子の沖合にさしかかった時に、どうしてそうなったか、もろくも沈没して、乗組員五十余名全員溺死したとかいうことだ。ならびに五日の朝、銚子の浜辺に一片の救命標(ブイ)が流れ着いたことにより、ようやく人の知るところとなり

          現代語訳 樋口一葉日記 3 (M24.6.11~M24.6.24)

          現代語訳 樋口一葉日記 2       (M24.4.22~M24.6.10)

          (明治24年)4月22日 前回のように、昼過ぎから半井先生を訪問(した)。さまざまなお話を(私に)お聞かせなさって、「先日の(あなたが預けた)小説の第一回は、新聞に載せるには少し文が長過ぎるし、その上、あまりに和文(※平安時代のかな書きの文章の意。源氏物語、伊勢物語などの王朝文学のこと。)めかしている箇所が多い(よう)です。もう少し俗世間の調子で。」とお教え下さった。「さらにさまざまな学者たちをご紹介さしあげようと思いましたが、いささか差し支えることがないわけでもないので止め

          現代語訳 樋口一葉日記 2       (M24.4.22~M24.6.10)

          現代語訳 樋口一葉日記 1 (M24.4.11~M24.4.21)

           若葉かげ  明治24年(1891)4月(※一葉の本名は、樋口夏子。生誕は明治5年(1872)3月25日だが、これは旧暦で、ちょうどこの年の12月に太陰暦から太陽暦に暦が変更され、新暦に換算すると一葉の誕生日は明治5年5月2日になる。よって、明治24年4月は一葉はまだ18歳である。「若葉かげ」は日記の題で、一葉の日記にはそれぞれにこのような題と年月、署名が記されている。また、括弧のみの補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧には言葉の意味、解

          現代語訳 樋口一葉日記 1 (M24.4.11~M24.4.21)

          文学の散歩道11

           敵(かたき)討ち━━━それは武家社会で認められていた復讐の制度です。実際は明治6年まで遺(のこ)されていたもので、主君あるいは父親を殺害された遺族(嫡子/ちゃくし/あとつぎの意)が、逃亡した下手人を捜して殺すことが出来るというものです。「家」制度を根幹に為す武家社会においては、まさしく武士の面目、意地を賭けた究極の制度と言ってよく、相手からの返り討ちも認められているのですから、法と考えるよりも制度、システムと捉えた方がしっくりくるようです。  菊池寛は敵討ちをプロット(話の

          文学の散歩道11

          文学の散歩道10+

          <はじめに>  以下の論考は先に書いた「文学の散歩道10」の完全版とでも言うべきものです。前回の論考では終わり近くである発見をし、そこで狼狽して中途で論を投げだした形になってしまいました。論旨も怪しくなり、蛇足のような文章までものして中途半端な形で公開してしまいました。そこで自分なりにもう一度研究と思索を深め、あらためて完全版「文学の散歩道10+(プラス)」として発表することにしました。前作での細かな誤謬をあらためている他、後半で「歯車」が登場するあたりまではほぼ前作と変りま

          文学の散歩道10+

          文学の散歩道10

          冬の夕暮れ、「私」は横須賀発上り二等客車の隅に腰を下ろして、ぼんやり発車の合図を待っています。珍しく「私」の他に乗客はおらず、プラットフォームにも見送りの影も見えません。「私」は「云ひやうのない疲労と倦怠」を感じていて、外套(がいとう)のポケットに両手を突っ込んだまま、そこに入っている夕刊を出して見る元気もありませんでした。  やがて発車の笛が鳴り、汽車が発車するという時、車掌の罵(ののし)る声とともにに「私」の乗っている二等客車の戸が開いて、「十三四の小娘」が慌ただしく入

          文学の散歩道10