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現代語訳 樋口一葉日記 22 (M25.11.9~M25.12.20)◎結婚する田辺龍子を訪問、久しぶりに半井桃水を訪ねて、桃水の弟浩来訪。

道しばのつゆ 明治25年(1892)11月

(※道芝の露とは、道の芝草の上の露で、はかないものの例え)

(明治25年)11月9日 九日は萩の舎の納会であった。二、三日前より、時の気(け)(※季節特有の病気。はやりやまい。)であろうか、ひどくわずらって頭も上がらず、「出席は難しいだろう」と思っていたが、今朝よりは急に心も清々しく、「これくらいならば(大丈夫)」と思って、(納会に)行った。髪などもしっかりとはたぐり上げもせず、手足なども汚れがついたままであった。田中(※田中みの子)、鳥尾(※鳥尾広子。直近では明治25年7月27日に出ている。)、中村(※中村礼子。直近では明治25年8月20日に出ている。)などの方々は私より先に来ていた。そう(※体調が少し回復したことを指す。)とは言え、いつもの調子でもないので、歌も詠むことが出来ず、物憂げであったのを、人々があれこれと世話をしていろいろと介抱していただけるのがとても嬉しかった。来会者は三十人余りであった。龍子さん(※田辺龍子)が、田中さん(※田中みの子)に言づけて、私と伊東さん(※伊東夏子)に手紙をくれた。今月の二十日までに嫁入りされる予定とのこと。今日の納会に思いをはせての歌があった。
「むれ遊ぶ沢辺のさまをおもひやりて心そらにもたづぞ鳴(なく)なる
(※仲間の鶴が群れて遊んでいる沢辺の様子を想像して、心はうわのそらで(一羽の)鶴が鳴いていることだ、ほどの意。たづは「田鶴」で鶴のことだが、田辺龍子の自身の名「龍」に掛けている。萩の舎で遊んでいる皆さんを思うと私は寂しいですよ、というメッセージ。)
鳴き声も整わぬ取り乱した(私の)気持ちをお許しくださいね。」など(と)、いつものように麗しく乱れ書き(※散らし書き。文字の布置に変化をつけ、空間的、視覚的な美しさを高めた筆法。)をされた美しい小さな紙に、遠い山の方をかすかに霞ませて、鶴が鳴きながら飛んで行く松原の景色(を描いた)絵も趣があった。私にはまた別に、「十五日(より)前にもう一度お越しくださいね。(結婚して引っ越す)新しい住まいだと誰しも(はじめは)居心地がよくないものなので、今よりしばらくは、ゆっくりとお話しすることも出来ないでしょうから、どうかどうか(お越しください)。」などとあった。「これへの返歌は(どう書きますか)。」と人々が言うのだけれど、騒々しさに紛れてやめにした。夕方を過ぎた頃、頭が急に痛くなって、人の目にもそう見えたのだろう、まだ残っている人はとても多かったけれど、私は車(※人力車)を雇っていただいて、家に帰った。
(明治25年)11月11日 雲の様子が定まらない。「雨が降るでしょうか。」などと言ったが、龍子さん(※田辺龍子)からの手紙(のこと)もあり、「もう一度はどうにかして(訪ねたい)」と思ったので、今日を見過ごしてはまた(都合の)よい日もなかった。というのは、かの三崎町の先生(※半井桃水。7月に神田三崎町に引っ越し、松濤軒(しょうとうけん)の屋号で茶葉屋を開いていた。日記によれば、一葉が桃水に最後に会ったのは4か月前の7月12日である。)に、あれからのちのお話を申し上げ、今の私の状況も何隔てなくお知らせしたいのだが、「わざわざ(行くのは)どうだろうか。人目(に付く)ような妨げになる煩わしいことは、それでも避けるべきだろう。母上、妹なども(半井先生に会うのは)許可せずとことさらおっしゃっているのに、しのぶの山の下の通い路ではないが、(※鎌倉時代の新勅撰和歌集の歌「いかにしてしるべなく共尋ねみむ忍(しのぶ)の山のおくの通路」を踏まえたもの。どうにかして案内する人がいなくとも(恋するあなたを)訪ねてみよう、信夫山(しのぶやま)の奥の通い路を通って、ほどの意。信夫山は福島県の山だが、「忍ぶ」恋に掛けて恋の山を表す歌枕。)そんな通い路を求めるには、どんなにかつらく面倒なことであるだろう。ただもう本当のお許しを得て(からにしよう)。」と悩んでいると、折よく今度の二十日からは『都の花』に私の名前が掲載される(※「うもれ木」の載る『都の花』95号の発行日であった。)ことになる(ので)、「『武蔵野』にゆかりのあるあの先生(※半井桃水)に、このことをお知らせしてはいかがですか。」などと(思いがけず)母上が先に言い出された。「それなら、龍子さんのところへ行かれる道の途中がよいでしょう。」と妹も言った。前の(龍子さんからの)手紙には、「十一日か十三日にお越しください。」とあった(のだ)が、十三日は日曜日である。(日曜日だと)先生のもとにもお友達が多く集まっているのはかえって煩わしいと思って、(そこで)今日(十一日に)、(先生も)龍子さんも(まとめて)訪ねることにした(のである)。(龍子さんへの)お祝いのものなどを持って行った。道(の途中)で三崎町へ(今日訪問する旨の)手紙も出した。
 (龍子さんの家に着くと、)龍子さんは何の気構えもないかのようにいつもの如くうちとけていらっしゃった。某新聞が評したとかいうように、大雅堂の夫妻が思われる(感じだ)。(※10月31日付の読売新聞に、「三宅学士と花圃女史(賀儀(がぎ))」と題した記事が載った。三宅学士は三宅雄二郎(三宅雪嶺)、花圃女史は田辺龍子のこと。賀儀は祝いの言葉。その内容は、江戸時代の文人画家、池大雅(いけのたいが)とその妻、池玉蘭(いけのぎょくらん/同じく文人画家であった。)が、おしどり夫婦であったことを引き合いに出し、今この二人は互いに助け合い、それを見て倒れんばかりに羨ましがる者が多いだろうというものであった。)三宅雄二郎(※田辺龍子の結婚相手。三宅雪嶺(せつれい)。東京帝国大学文学部哲学科卒。明治21年政教社を設立し雑誌『日本人』を創刊。欧化主義に対抗し、国粋の道徳を訴えたジャーナリストであり、哲学者であり、ナショナリストであった。特に「真善美」を唱えた。のちに文化勲章受章。)と言えば世間には(何の役にも立たない)木っ端のように思われて、「仙人」とさえ言われていたようだ。しかし、「この田辺龍子さんという世間には珍しい程の才高き女性を(妻として)迎えなさるとは、やはり(この男)只者ではない。」と驚嘆して目を見張る人々が多かった(ようだ)。(龍子さんは、)「『都の花』の松竹梅のこと、どうなりましたか。(※先月10月22日の日記に詳しい。『都の花』新年号の付録に田辺龍子、一葉、そしてもう一人の3人の競作を松竹梅の三幅対として金港堂が企画していた。3人目は佐佐木竹柏園か坪井秋香を考えていた。)私もいよいよ十九日には鬼界が島に移ろうとしていますので、(※鬼界が島は「平家物語」の俊寛が流された島。一度結婚したらもう戻れないことを言っている。)なかなか暇がないのですが、心が穏やかだからでしょうか、短篇のものを書きたいという心積もりがあります。とはいっても(それは)翻訳というほどではありませんが、意訳などと言えば(そう)言えるでしょう。イタリアの小説を英語に訳したその物語(※ビコット夫人原作「内助」)を、父(※田辺太一)から聞いたのです。これを今金港堂に出したら、大方松竹梅に加えようとするのではないでしょうか。『新年の付録』というのでさえ派手なのに、女ばかり三人など(とは)いささか目立つ点がないわけでもありません。あちら(※三宅雄二郎)に(対して)も、そのような目立つことを好まない性分なので、嫁いで間もなくというのはいかがなものでしょうか。(まあ)それもあなたと私と坪井秋香さんならばまだ少しはよい(方な)のです。坪井家は三宅とはいささか縁がないのでもないのです。今度の十三日に小石川の植物園(※東京帝国大学付属植物園)でお披露目をする予定ですので、それからは追々(坪井家とも)親しみを重ねて(身近になって)いくのが道理というものでしょうから。(ただ)聞くところによれば、(三人目は)竹柏園が選定に決まったとかいうことです。それだと少し不都合なので。」と言って笑った。(そして龍子さんは)「いっそのことあなたの小説と一緒にして、一冊のものを世に出したいものです。金港堂ではなく春陽堂(※出版社。日本橋区にあった。)からでもよいのです。何か(書いている)お作はないのですか。」と尋ねられた。(私は)「私、いつもの通り遅筆ですから、これぞと思うものもありません。ですが、かねて書きかけていた小説が、もう少しでまとまろうとしているところで、それを、ああ、一緒に出版していただければ嬉しいです。」などと語り合った。昼食をいただいて、しばらくして(龍子さんの家を)出た。二時にもなっていただろう、番町(※田辺龍子の家は麹町区下二番町五にあった。麹町の一番町から六番町までは江戸時代から番町と呼ばれ、宮家、華族、官僚の家が多かった。)より車(※人力車)で三崎町まで急いだ。北風が大変強く、(その寒さは)身を刺すようであった。
 月日を隔てて気が変になるほどいろいろと思い悩んだことを、先生(※半井桃水)はそれほどにはお思いになられてはいまい。不本意だった別れのその折は、いろいろとうるさく噂された他人の言葉のつらさに、何事も(正しく)判断する暇(いとま)もなかったので、今さら昔のように戻りたいと思ったところで(もはや)その甲斐はない。はじめから憎くはなかった人で、しかも情け深く、思いやりがひととおりではなかったことなどを思い出すにつけて、「どうしてこうなったのだろう。わが身はええ、どうなろうとも、そのように、(たとえ)世間につまはじきにされてしまおうとも、もし毎日(先生と)お親しみ申し上げていたならば、かえって生き甲斐のある世の中であったはずだろうに。」(※原文は<何故にかく成けん身はよしやさは大かたのよにつまはじきされなんとも朝夕なれ聞こえなましかば中々にいけるよのかひなるべきを>である。最初の<何故にかく成けん>はよしとして、問題は<身はよしや>のあとの<さは>である。「然(さ)」は副詞で「そのように」の意。前の文章、語句を受ける指示詞である。<は>は係助詞で他との区別、強調をあらわすもので現代語に訳出すると「は」そのままだが、かえって不自然に聞こえることもあり、ここでは訳出を控えることにした。だから<さは>は「そのように」でよい。ここで、<さは>が受ける文章、語句といえば、直前の<身はよしや>以外には見当たらない。<身>は「わが身」のこと。<よしや>は通常「もしたとえ」「仮に」の意であるが、もう一つ、「ええ、ままよ」「どうなろうとも」「仕方がない」「まあまあ」といった、気持ちを吐き出すような意で使われる場合もある。仮に、通常の<よしや>、つまり「たとえわが身は~」であれば、語順が<身はよしや>ではなく<よしや身は>となる可能性が高く、また、そのまま直接あとの<大かたのよにつまはじきされなんとも(世間一般につまはじきされてしまおうとも、の意)>に続いてもよいはずのところを、間にわざわざ<さは>が入っていることからも、<身はよしや>はそれだけで意味が完結する文章として認識すべきだと判断した。だから<身はよしや>は、「たとえわが身は〜」ではなく、「わが身はええ、どうなろうとも」の意として解釈した。そうすると、その直後の<さは>は、<身はよしや>全体をそのまま受けることになるので、<さは>は厳密に言えば「わが身はええ、どうなろうとも、のように」ということである。そしてあとの「世間につまはじきにされようとも」の文章につながるのである。平たく言えば、「わが身はどうなろうとも(かまわない)」例えば「世間につまはじきされようとも(かまわない)」というわけである。どうなってもかまわないというのを、次に掘り下げて例示したのである。<さは>はその前後の文を並列、あるいは例示としてつなぐ役割の言葉だと見てよい。次の<朝夕>は毎日の意。<なれ聞こえなましかば>は<なれ>は「馴(な)る」で、うち解けること、親しむこと。<聞こえ>は補助動詞で「お~申し上げる」。<な>は完了、強意。<ましかば>は仮定。あわせて「お親しみ申し上げたとしたら」ほどの意。<中々に>は「かえって」。<いけるよのかひなるべきを>は少し難解だが、直訳すると「生きる世が甲斐のあるはずなのに」で、要は「生きがいのある世の中であるはずなのに」ということ。以上を総合して上記の通りに訳出した。一葉の桃水に対する思いがあふれ出た言葉であり、それだからこそ、<身はよしや>はそのまま一葉の胸に轟いた自身の心の声であったはずだ。)などといろいろなことを合せ(て考え)れば、人も私自身も世の中さえも大変憎く(いやに)なる。「まず何を言おうか。あの方のお心も知らないで、ぶしつけな感じで月日の隔てを嘆くのもいかがなものか。そうかといって、『都の花』のことから話すのもとても(言いにくく)苦しいことだなあ。」などと思い続けているうちに、車(※人力車)は先生の店(※松濤軒(しょうとうけん)という茶葉屋。三崎ヶ原を背に新開街(※しんかいまち/新しく開けた街)のはずれにあった。宇治の茶問屋から買い受けたもので、桃水が経営し、従妹の河村千賀と店員五、六人でまかなっていたが、経営はうまくいかなかった。のちに桃水はこの店を河村千賀に譲り、自分は隣の家を改造して移り住んだ。)に着いた。今更ながら気おくれしたので、案内を乞うのもしばしためらわれた。ここは新開街の華やかなところで、その上さらに美しく飾り立てた茶葉屋であるので、(お店に)出入りする人、(往来を)行き来する人がこちらの方を見る(その)まなざしが、(私の)性格のせいなのか、とても気恥ずかしく思われた。ここには早いうちに(私の)手紙が届いていて、先生が、そうおっしゃっておかれたのだろうか、賢そうな小者(※こもの/身分の低い奉公人。丁稚。小僧。)が急いで走ってきて(私を)迎えて、「こちらへ(どうぞ)。」と言った。店と奥の暖簾口に立って手で招いているのは、見知った下女であった。気が引けながら膝をついて(その部屋に)進み入ると、(そこには)六畳敷ばかりのところに机を置いて、先生が(その机に)ゆったりと寄りかかっていらっしゃった。すっと見上げたら、(先生は)ものも言わず微笑みなさって、(それが)嬉しいというのは言うも愚かで、ただもう胸がどきどきするばかりであった。ああ言おう、こう言おうなどと思い続けていたことは、どこにその姿をくらましたのか、全然何も言うことが出来なかった。かろうじて、「この月日をいかがお過ごしでいらっしゃいましたでしょうか。心(の中)では(先生のことを)忘れる時もなかったのですが、思いもよらずご無沙汰ばかりしておりました。御患いののちは、さほどには病後の名残りはないものと思っておりましたら、このほど、(先生の)召使いより、『どこということもなく弱々しげ(です)。』などと承りましたのですが、本当でしょうか。」などと、ちょっとした話で(先生の)お気持ちをうかがい知ろうとすると、(先生は)にこやかに微笑むばかりで、言葉が少ないのがかえって、(先生の)心の底に何かありそうな(感じ)でとても苦しかった。(私が)『都の花』のことを語ると、(先生は)「それはとても良い事ですね。どちら(の雑誌)にでもあれ、筆を執っておられれば、喜ばしいことですよ。私の友達なども皆(あなたが去ってしまったのを)惜しみ合っていたものですから。」などと話された。(そして先生は)「先日、明治女学校の教師である某という人(※星野天知。当時、明治女学校で武道、心理学、東洋哲学、漢文を教えていた。明治23年から女学雑誌社の創刊した『女学生』の主筆もしており、明治26年1月には、『文学界』を創刊した。明治25年4月20日のところで、星野天知、明治女学校、『女学生』について触れている。)が、わが『武蔵野』の方へ、あなたのことを頼みに来ました。『女学雑誌』(※女学雑誌社が発行する女性向けの文芸雑誌。明治18年創刊。)に執筆してほしいと言っていましたが、(ちょうど)差支えがありました頃でしたから、しばらくは(あなたが)筆をお執りになることは出来ないでしょうと断ってしまいましたことは、私の僭越な行いだったのでしょう。もしあなたがこれ(※『女学雑誌』)に(小説を)出したいとお望みであれば、いつでもいいのでおっしゃってください。私がその人(※星野天知)に(あなたを)ご紹介申し上げますので、少しもあなたの名誉を汚すようなことにはなるはずがありません。」などと言った。私も言いたいことはとても多いのだけれど、人目があるので口にすることが出来なかった。先生も仰せになりたいことがありげだったけれど、(何かと)口をつぐまれていた。「畑島(※畑島一郎。朝日新聞社の社会部記者。畑島桃蹊(はたじまとうけい)。直近では明治25年6月24日に出ている。)の老母が、一昨日急に亡くなったので、この一日、二日、常に通って世話をしているのです。」と(先生は)言った。(私は)「それでは私の手紙が届いたのでそこからお帰りになられたに違いない。気の毒な事であった。」と思った。(茶葉屋の)商いが大変忙しくて、先生が少しも落ち着いていられる暇もなく立ち働いていらっしゃるご様子は、何とはなしに悲しかった。前の病気の後はとてもとても痩せてしまわれて、あんなにも見上げるようであった人が細く細くなられているところに、(店の)出入りに応じて、台所の下女のような取るに足りない者にさえ、客と言えば頭を下げられることの痛ましさ。これを生業(なりわい)としているのでその身にはつらいとも思われないのだろうが、(はたからの)見た目はとても物悲しいことだ。「今日はいつもと違ってとても商いが多いのは、あなたがいらっしゃるからに違いないですよ。こんな福の神がいらっしゃるのに、何かおもてなしをしないわけにはいきません。」と、(先生は)台所の下女を呼んでお菓子などを買いにやらせた。こう隔てなげにおっしゃるのだけれど、何故だかわからないが、昔とは変わった心地がして、ただひたすらにもの寂しい(気がした)。「新開街のならいで、どんな品物といえど良いものを売る店屋がなく、お菓子も何でもみなこんなものばかりですけれど、お許しくださいね。こういう街の中ですから、人は私の店もこの類いの(良いものはない)店と見て、それほど珍重に思ったりはしないのですが、もしここに来て一度(茶葉を)買う人があれば、思いがけず(その品質の良さに)驚いて、『三崎町にもこんな店屋がある(んだ)』と(気づいて)、それからはいつも(ここに)買いに来てくれるのなら、かえってわが家の商売はますます繁盛することになるでしょう。」と笑いながら(先生は)いつものようにおどけなさるので、(私が)「それはごもっともですよ。お店ばかりではなく、ご主人からがして、鶏の群れの中に鶴がまじっていらっしゃるのと同じようなものですから。(※ことわざ。鶏群の一鶴(けいぐんのいっかく)。平凡な人たちの中に一人だけ優れた人物がまじっていることのたとえ。)」とかろうじて応えて言うと、(先生は)「それは褒め過ぎですよ。」と大笑いされた。(そして)辺りに人がいないのを見て、(私は)さっと先生の近くに寄りながら、「何をおいても、お目にかかることが大変はるかなる(※遠く隔たっている)ことが残念でなりません。何事も苦しい世の中にご相談申し上げる人がいないようで、その心細さが耐え難いのです。」と言うと、(先生は)「どうして私なんかが(あなたの)助けになることがありましょうか。しかし、もし、こんな私に相談したいことがあるとお思いになれば、この(店の)裏道は大変寂しく、人目というものが全くないので、そこからお立ち寄りになられたら、見とがめる人は誰もいないでしょう。」とささやかれた。(私は)「いやもう、そういう人目を忍んで来るようなことを厭うからこそ、(今)この時、こんなにもつらく切ないのです。」と言いたかったけれど、申し上げはしなかった。(そうして)何もかもすべて残しているような心持ちで(先生と)別れたのであった。(※ここでの一葉の言動はほぼ桃水への愛の告白ともとれるだろう。最後に桃水の家を出る時の言葉は、原文でも<別れぬる也>である。先の田辺龍子の家を出た時は<出(いで)ぬ>であるから、その言葉の選別からも一葉の心中は察せられよう。)

(※以降12月6日まで日記の記載はない。おそらく先月10月22日に金港堂の『都の花』編集員、藤本藤陰(ふじもととういん)から依頼された小説の執筆に忙殺されていたのだろう。11月11日に田辺龍子と一緒に本を出そうと話した時に一葉が「書きかけてもう少しでまとまるものがある」と言っていた小説がこれであろう。(第7作「暁月夜(あかつきづくよ)」はこの12月10日頃に脱稿したと推定されている。なお、田辺龍子は11月19日に結婚し、三宅龍子となった。)

(明治25年)12月7日、先生(※半井桃水)よりお手紙があった。「『朝日新聞』にかねて連載していた小説「胡沙(こさ)吹く風」を、あらためて一冊の本にまとめて世に出すつもりですので、(それに)どうかあなたの御歌を一首お恵みになってくださいませんか。(あなたの)ご都合で、(あなたにとって私は)知らない人(だ)という心積もりで(書かれても)よく、または匿名で(書かれても)も構いません。このことは(自ら)参上してお願いしなければならないはずのことですが、いつものように、行くことをためらう妨げのある身、かえってご迷惑でもあろうかと思ってこのように(手紙をしたためた次第です)。」とあった。すぐにご返事をしたためて、歌は一首、よくはないけれども林正元(※はやしまさもと/「胡沙吹く風」の主人公。日本人の父と朝鮮人の母を持ち、両国の為に活躍する英雄として描かれた。)(のこと)を詠んだ歌である。このような折節の便りはとても嬉しい。

(※以降、12月19日まで日記の記載はない。)

(明治25年)12月20日 過ぎ去りし去年のことを思い出すと、確かに今日(十二月二十日)であった。(※原文は<まことに今日成けり>であるが、実はこれは書き直しがされていて、元々は<恋しさ堪(たへ)かたし>であったことを記しておく。)あの先生から急に、「言わなければならないことがあります。人前では大変言いにくいので、たとえ夜であってもお越しくださいませんか。お帰りには車(※人力車)でお送りします。」と(便りが)あったのだが、母上が到底(それを)お許しになられるはずもなく、この日(※明治24年12月20日)の早朝に(半井先生のいる)平河町を訪ねた(のだ)。「(あの時は)そう大したことでもなく、あやしげなお話に、何かをほのめかしておられたことがあった(なあ)。」などと、すっと(その日のことを思い出しながら、頭の中でそれを)並びたてていたちょうどその時(※原文は<ふとかぞふる折しも>で、<ふと>は「すっと」の意。<かぞふる>は「数える」意、<折しも>は「ちょうどその時」だが、合わせて「すっと数えたちょうどその時」と直訳してもさっぱり意味が分からない。そこで、ここでの一葉の状況から、1年前の記憶にすっと入り込んで桃水の言葉を一つ一つ思い出しているのだろうと推定し、上記のように訳出した。なお、昨年の12月20日の日記は、散佚のため、その日の途中からだけが残っている。桃水が家政改革をする話をしたくだりである。桃水はその際、どうも一葉に求婚めいた言葉をほのめかしたらしいが、明らかではない。恋する一葉だけがそう受け取った可能性もあるからだ。実際はただ一葉に家政婦として来てもらえないかと言いたかっただけなのかもしれない。)、龍田さんがいらっしゃった。(※龍田は、半井桃水の弟、浩のこと。明治24年10月30日の日記のところで詳説したが、半井桃水の父湛四郎(たんしろう)は、龍田家から入り婿で半井家の養子となっており、その後龍田家に跡目がなかったので、浩が継ぎ、龍田浩となった。浩は昨年鶴田たみ子を妊娠させ、医学校を中退。米問屋の養子となっていたが、この頃には桃水のところに戻って来ていた。鶴田たみ子は娘の千代とともに実家の福井県に戻っていた。後に桃水はこの千代を引き取り、七歳まで育てた。)かの(※12月7日に頼まれた)和歌の端書き(※はしがき/和歌などのはじめにその由来などを書いたことば。)をお求めになられて(先生の代わりに)来られたのである。少しお話をした。(龍田さんは)さしあげたお菓子などを気持ちよく食べ(られ)た。(先生に)ゆかりのある人と思えば、誰が憎いと思うことがあろうか。(龍田さんが)「帰ります。」と言うと、母上が、お菓子を包んで、「兄上のお土産に。」と差し出された。(もらった)龍田さんより、私の方が喜んで、その喜びはこの上ないものであった。このような折節のはかない出来事を、よく書き付けたものだなあ、と(は)思うけれど、やはり少しばかりは気持ちがまぎれるようである。ああ、(それも)はかないことだなあ。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)





 


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