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現代語訳 樋口一葉日記 19 (M25.8.1~M25.8.23)◎萩の舎の浮評、桃水の縁談話、元婚約者渋谷三郎来訪

(明治25年)8月1日 曇り。午前中に田中さん(※田中みの子)が来訪された。私の病気見舞いに来られたのである。(※去る7月23日に萩の舎での稽古のあと、一葉は激しい頭痛で帰宅した。27日の鳥尾広子の歌詠みの会にも頭痛で行けなかった。)入谷(※いりや/地名。朝顔を栽培する植木屋が多かったところ)でお求めになられた朝顔を一鉢いただいた。甲州(※山梨県)の貞治(※古屋貞治/ふるやていじ/一葉の母たきの甥。一葉の従兄。)から手紙が来た。
(明治25年)8月2日 山崎正助さん(※やまざきまさすけ/一葉の父則義の東京府庁時代の同僚。明治25年1月7日に年賀状が来ている。)が来訪された。芝の兄上(※虎之助)ならびに奥田の老人(※奥田栄。未亡人。一葉の父則義が生前荷車請負の事業を立ち上げようとした際、この人が多額の資金を貸し、一葉らは父の死後もその返済を続けていた。直近では明治25年4月6日に出ている。)から葉書が来た。伊東夏子さんから手紙が来た。この日『武蔵野』第三編を買った。(※貰ったのでなく買ったのである。)
(明治25年)8月3日 甲州(※山梨県)後屋敷(※ごやしき/山梨県後屋敷村の芦沢卯助。一葉の母たきの弟。芦沢家の養子となっていた。明治25年1月4日にも奇異な年賀状がこの人物から来ている。)から手紙が来た。図書館へ赴いた。母上は、山崎(※山崎正助)へ金を借りに行った。調達できた。(その金を)奥田老人へ持参し、渡した。この日浅草で大きなつむじ風があった。
(明治25年)8月4日 晴れ。田辺さん(※田辺龍子)に手紙を出した。この日の夕べ、その返事が来た。
(明治25年)8月5日 (記載なし)
(明治25年)8月6日 小石川(※萩の舎)の稽古であった。不快(※気分が悪かったか、頭痛か。)を押して行った。不平を言ってはならないのだ。この日、半井さんから重太さん(※桃水の弟)を使いとして、お茶の葉を一筒いただいた。(※半井桃水は前月の12日に神田三崎町に引っ越し、松濤軒(しょうとうけん)の屋号で茶葉屋を開いた。松濤とは波のように聞こえる松風の音。)
(明治25年)8月7日 野々宮さん(※野々宮きく子)が来訪された。終日歌を詠んだ。(※野々宮きく子は7月31日から毎週日曜日に和歌の稽古に一葉のもとへ通い始めていた。この日が2回目。)半井さんのところへ行ってきたとのこと。私のことについての話があったとか聞いた。
 私はこう詠った。ただし、心の内である。
 吹(く)風のたよりはきかじ荻の葉のみだれて物をおもひもぞする
(※荻(おぎ)はすすきに似た秋の草。風にそよぐ音がよく歌に詠まれる。(あの人の)うわさは聞くまい、心が乱れて物思いをしてしまうから、ほどの意。一葉の、桃水と別れてこそ騒ぐ胸の内であろう。)
 この夜は満月に当たっていたので、国子(※邦子)とともにお茶の水に月を見に行った。
(明治25年)8月8日 晴れ。早起きして、歌を詠んだ。六首。意気盛んな心中(に)、珍しく、太陽と月を得た心地がする。快いこと言うまでもない。(※原文は<日月を得し心地す>で、<日月(じつげつ)>はまさに太陽と月の意。歳月や年月の意味もあるがここではそぐわない。二つ文字を合せれば「明」になることからも、気持ちが晴れて来たことを言っているのだろう。)この日、新聞の号外が来た。内閣総辞職。伊藤さんが、総理大臣になったとのことだ。(※松方正義の内閣が総辞職し、伊藤博文が内閣総理大臣に復帰した。)各新任大臣の名を出していた。夜になって、山梨の源吉さん(※山梨県玉宮村の雨宮源吉。一葉の母たきの弟の子。たきの実家は古屋といい、そこから山梨県玉宮村の雨宮家の養子となっていた。明治25年1月7日に年賀状が来ている。)から手紙が来た。
(明治25年)8月9日 晴れ。新聞を早朝に読んだ。内閣総理大臣は伊藤博文さん、内務大臣は井上さん(※井上馨)、外務大臣は陸奥さん(※陸奥宗光)、司法は山県(※山県有朋)、逓信は黒田(※黒田清隆)、陸軍は大山(※大山巌)、海軍は仁礼(※仁礼景範)、農商務は後藤さん(※後藤象二郎)で、文部は河野(※河野敏鎌)、大蔵を渡辺さん(※渡辺国武)という役割が決まった。(元総理大臣の)松方さんは麝香間祗候(※じゃこうのましこう/明治期の名誉職。京都の御所の麝香間(部屋の名前)で天皇のお相手(祗候/貴人に仕える意)をした。)として、特別に大臣待遇を以てなられたとのことである。
(明治25年)8月10日 晴れ。朝方、風祭甚三(※風祭甚三郎/かざまつりじんざぶろう。東京府会議員。)さんから、東京府士族授産金の一件について、丸田正盛さんに対しての訴訟のため、委任状に調印を求められた。(※この頃、東京府士族3万人の授産金(士族の生活困窮者授産のために積み立てた基金。また、授産とは、失業者に(作業場などを設けて)仕事を授けて生計を立てさせること。)で以て建設されたレース編み教場をめぐり、それを授産金の横領だとする士族側が、教場を差し押さえるとともに、教場の嘱託を受けていた丸田らを告訴し、授産金6万3千8百円を引き渡すよう要求した。樋口家は士族だったため、事件に直接関係はないが、裁判への協力を呼びかけられたのだろう。)ただし、代言(※弁護士)は磯部四郎、宮城浩蔵、鳩山和夫、黒岩鉄之助、及びもう一人である。半井さんから長文の手紙が来た。(それへの)返事をしたためた。午後は小説(※第6作「うもれ木」)に従事した。奥田(※奥田栄)より夜になって葉書が来た。この夜はすることが大変多く、十二時過ぎ頃床に入った。
(明治25年)8月11日 昨夜からの雨が全く晴れて、初秋の空が大変よく澄み渡っていた。(他に)何事もなかった。
(明治25年)8月12日 晴れ。前島むつ子さん(※前島武都子。萩の舎門人。前島菊子の妹。郵便の創業者、前島密(ひそか)の娘。直近では明治25年3月11日に出ている。)の家で数詠み(※和歌の競技。前月の27日にも詳しく記した。)をした。題は三十題であった。
(明治25年)8月13日 小石川(※萩の舎)の稽古日であった。この日は龍子さん(※田辺龍子)も来られた。お話をいろいろ。わが萩の舎についての世間の浮評(※ふひょう/事実無根の評判)が騒がしいとのことである。前島さん(※前島菊子)もその折に(そのことについて)話し出された。皆さんが帰宅されてからあと、田中さん(※田中みの子)と私が残っていろいろとお話しした。私だけは日没近くまでいて、師の君(※中島歌子)に相談を受けた。
(※この浮評については具体的なことは記されていないのでよく分からない。これからの日記を読めば分かるが、中島歌子が非常に神経質になってこの悪い噂の出どころを探そうと躍起になっている。一葉もそれに巻き込まれるのだが、中島歌子がこの年の4月23日に取材を受けた記事が4月25日の読売新聞に、「明治閨秀(けいしゅう)美談」として掲載され、中島歌子と萩の舎は一層有名になった。有名になればまたゴシップも発生する、という見解をつとに国文学者の塩田良平(しおだりょうへい)がしている。おそらく中島歌子の男性関係や身分の高い子女が集まった萩の舎内についての俗悪なうわさではなかったかと想像される。)
(明治25年)8月14日 晴れ。野々宮さん(※野々宮きく子)が来訪された。終日歌を詠んだ。
(明治25年)8月15日 晴れ。暑さはなはだしい。午前中、三枝の奥様(※三枝(さえぐさ)は三枝信三郎。真下専之丞の孫。銀行家。直近では明治25年3月12日に出ている。)が来られた。お庭の果物を持参された。昼食をご馳走してお帰しした。母上は、日没後、奥田(※奥田栄)へ病気見舞いに行かれた。(※8月10日の葉書にそう書いてあったか。)山下直一さん(※樋口家の元書生。直近では明治25年3月20日に出ている。)が、「熊ケ谷より帰京しました。」と言って来訪された。九時頃まで遊んで帰った。
(明治25年)8月16日 晴れ。暑さがとてもはなはだしい。華氏寒暖計が九十七度(※摂氏36度くらい)に(も)のぼった。一時頃より昼寝をしばらくした。目を覚ましてからのち、師の君(※中島歌子)のもとから手紙が来た。そのことについて、田中さん(※田中みの子)を訪ねようとした。(※手紙の内容は、田中みの子の家にいる書生はどちらの新聞社へ出入りしているのか、田中みの子に聞いてほしいという依頼であった。)(母上が)「明日の方がよろしいでしょう。」と言った(ので明日にすることにした)。
(明治25年)8月17日 (※原文は<十六日>とあるが、誤り。)早朝に田中さん(※田中みの子)を訪問した。師の君より依頼を受けたことについてである。師の君はこの度の浮説(※根拠のないうわさ)の出どころについて、とても田中さんをお疑いになられていると思われ、その家に出入りする書生のことを私に問わせようということである。私もこの人を正しい道徳的な人とは決して思ってはいない。「花柳社会にいた人によくあることで、浮ついた行いがあるなど(と)の風説は本当のようだ」と聞いた(ことがある)。そうではあるけれども、今回のことについて、(浮説は)ここから出たのだろうとはさすがに考えてみもしないが、やはり様子は見たくて、そのうえで取り計らうのがよい(という)こともあるだろうと覚悟した。お話しはさまざま。「今日は一日ここで遊んでいきなさい。」と言って、昼食を振舞われた。うわべは親切そうに見えるけれども、やはりその下には、師の君などをもどう思っているのか、折々に(師の君に対する)不平の言葉が(漏れ)聞こえて、ともすれば小出さん(※小出粲/こいでつばら。萩の舎の客員歌人。)のことだけを(話の)引き合いに出すのは、けしからぬことがないわけでもないとは思った。一日(田中みの子と)お話しして、その帰り道に師の君のところに立ち寄った。師の君に、なまじっかいろいろなことをお聞かせするのは、また(私が)難しい仲立ちになってしまうのではないかと気兼ねされて、ただ、(田中みの子の)書生が新聞社に出入りしていないことだけをお話しした。師の君はいつもの疑い深い性格から、一途に田中さんだけを仇とみなしていた。(そして)そうはいってもはっきり名指しはしないまでも、自然と「この人こそ利欲の為にこのようなこと(※浮説)を作り出して、わが萩の舎を乗っ取ろうとする計略なのでしょう。それには軍師(も)あり、手下もある(はずです)。(手下として)使われる人の中には水原みさ子(※水原美瑳子。明治の歌人。)なども交じっているでしょう。」などと、はっきりと思い定めた想像をお立てになっていた。(師の君はさらに)「明日は田辺さん(※田辺龍子)のところに行って、ひそかにこのお話をしてもらいたいのです。このことを話すことが出来る人は、あなたと田辺さん、天野さん(※天野滝子。萩の舎門人。東京専門学校で経済学を教えた天野為之の妻で二児の母であった。麹町区土手三番町29に家があり、地縁的に田辺龍子とも親しかった。ちなみに田辺龍子の家は麹町区下二番町5であった。)のほかにはいません。伊東さん(※伊東夏子か延子。)にも話せば話すことは出来るけれども、自然ともれてしまうところもあるでしょうから。」とおっしゃるのは田中さんのことであるようだ。一晩中お話しして明かした。私はいろいろと推し量ってみたが、田中さんの仕業とも思えず、そうかといって島田さん(※島田政子。萩の舎門人。直近では明治25年4月23日に出ている。)、首藤さん(※宮城県出身の改進党党員、のち衆議院議員の首藤陸三の娘。明治25年3月19日から小間使いとなっていることが日記にある。)がしでかしたことであるはずがない。大方、師の君ご自身についてよろしくない行いなどのあったのが、いつとはなしに世間にもれて、その上田中さん、島田さんなどといったふしだらな人を可愛がっておられたから、ますますまことしやかな話になってしまったのだろうと思う。さすがに(師の君に)そうとも言い難かったので、はなはだ思い煩うことが多かった。
(明治25年)8月18日 (※原文は<十七日>とあるが、誤り。)晴れ。九時頃より田辺さん(※田辺龍子)を訪問した。このことについてのお話をいろいろ(した)。田辺さんも、「田中さんとは思いません。大方、世間に自然と伝わっていったようです。」と言った。(田辺さんは続けて、)「巌本さん(※巌本善治。キリスト教主義の女学校、明治女学校の教頭。教育家。劇評論家。明治25年4月20日に明治女学校の説明で出ている。)、植村さん(※植村正久。麹町区富士見町教会の牧師で、日本のプロテスタントの指導者。)などのように、人(から)の信頼が深い人々が、どのようにしてか言い出したことであって、これをさえぎり止めることはなかなか難しいでしょう。ですがその源というところを探れば、最後には(それが)分からないこともないでしょう。その大元が分かれば枝葉は何とでもなるでしょう。」などと話した。(そして)「とにかく今日はこの家で遊んで、帰り道に天野さん(※天野滝子)のところにも一緒に行って、このことを話し合うのはどうですか。」と言った。(私は)「それならば仰せに従いましょう。」と言って昼食も(そこで)食べた。(二人で)小説家の事についていろいろと話した。付き合いの広い人で、面白いこと、おかしいことが多い。嵯峨の屋御室さん(※さがのやおむろ/小説家。坪内逍遥門下。)(のこと)、及び梅花道人(※ばいかどうじん/中西梅花(幹男)。詩人、小説家。明治24年に狂死。)が発狂したという話もあった。内田不知庵さん(※うちだふちあん/のちの内田魯庵(うちだろあん)。明治の評論家、翻訳家、小説家)や桜井方寸子(※さくらいほうすんし/桜井(鴎村)彦一郎。翻訳家、児童文学者、教育者、実業家。津田梅子とともに女子英学塾(現津田塾大学)を設立。)などのこと、明治女学校の教育方針(※明治女学校は田辺龍子が最初に通学した女学校であった。)など、あるいは高等女学校(※東京高等女学校。田辺龍子は明治女学校から転校してここで学んだ。明治21年に開校し理学博士の矢田部良吉が校長を務めたがその西洋主義が批判され、また矢田部の私生活を揶揄するモデル小説まで現れ、明治23年に閉校となった。)の浮説が世に流れ出た原因、また田辺さんの朋友の人々のさまざまなお話しなど、(話題は)たくさんあった。暑い日に一日話して過ごした。夕方にかけて天野さん(※天野滝子)を土手三番町に訪ねた。家は土手が大変近い所で、詩人の住処を思わせるような、木立がとても茂っているところに、三曲合奏(※筝(そう/琴のこと)、三味線、尺八の合奏。)の清らかな音色が聞こえ出ているところがそれであった。山都某(※山登万和(やまとまんわ)。山田流筝曲家。)が出稽古に来ているところとかで、しばらく西洋間の方で待った。まもなくその三曲(を稽古していた)間を片付けて、そこでしばらくお話をした。日没少し前に暇乞いをして出た。市ヶ谷見付(※地名)にて田辺さんと別れて、ここから車(※人力車)で師のもとまで来た。(師の君は)灸治に行かれて留守であったのでしばらく待った。ただし、「もう一泊してほしい」と(私に)申し置いていたとのことで、私の家に(その旨)一書出しておいた。夕方、小出さん(※小出粲/こいでつばら。)が来訪され、しばらく私と話した。そのうちに師もお帰りになられた。小出さんがご帰宅されたあと、たびたびお話があった。田中さん(※田中みの子)のこと、高田さん(※高田不二子。萩の舎門人。明治24年6月10日の萩の舎年齢比べに出ている。)のこと、首藤さんの娘(※首藤陸三の娘)のことなどがその話の中でも主だったものであった。
(明治25年)8月19日 早朝、(萩の舎から)帰宅しようとしたけれども、することが多くて九時になった。さあ、と言って帰りがけに、鈴木重嶺さん(※すずきしげね/元旗本、明治期では官僚、歌人。)が来訪された。私はすぐに家に帰った。母上は、西村(※西村釧之助)のところへ赴かれて留守であった。久保木(※久保木長十郎。一葉の姉ふじの夫。)が来た。しばらくして帰った。今日は各評(※かくひょう/詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。会の前に回覧しておく。)の歌、並びに小説の著作(※第6作「うもれ木」)を少しした。夜は早く伏した。
(明治25年)8月20日 早朝、小石川へ行った。稽古日である。題は二つ、今日は伊東さん(※伊東夏子)と自分とは十点が一つもなかった。『湖月鈔(こげつしょう)』(※江戸時代の『源氏物語』の注解書。北村季吟(きたむらきぎん)著)の講義もあった。田辺さん(※田辺龍子)が昨日田中さん(※田中みの子)を訪問されたとのこと。私が田辺さんのところに行ったこと、ならびに天野さん(※天野滝子)を訪ねたことなども、残りなくすべて(田中さんに)知られてしまった。「不審なことだ、秘密と言っていたのに(田辺さんは)何故お話になられたのだろう。」と首を傾げた。中村さん(※中村礼子。萩の舎門人。直近では明治24年9月17日に出ている。)のところで明日数詠み(※和歌の競技。前月の27日にも詳しく記した。)の催しがあるのだが、差し障りがあって、二十四日に延期した。田辺さん、天野さん、片山さん(※片山てる子。萩の舎門人。直近では明治25年3月19日に出ている。)などの催しで難陳(※なんちん/難陳歌合(なんちんうたあわせ)のことで、文学遊戯の一つ。歌合(うたあわせ)とは、和歌の作者を左方(ひだりかた)と右方(みぎかた)に分け、その詠んだ歌を一首ずつ詠み合って、その優劣を比較、勝負の判定をするもの。難陳は敵方の歌の悪いところを難じたり、自分の方の歌をその論難に対して陳弁(ちんべん/わけを述べて弁解すること。)をしようということであった。「大造、東(あずま)(※井岡大造と佐藤東。両者とも萩の舎の客員歌人。直近ではどちらも明治25年3月19日に出ている。)のお二人も仲間に加えましょう。」と言っていた。師の君はまた灸治に行かれるということなので、自分たちは昼過ぎ早々に帰った。帰宅後、小説(第6作「うもれ木」)に従事した。
(明治25年)8月21日 晴れ。午前中から野々宮さん(※野々宮きく子)が来た。歌の添削をした。すこぶる素晴らしい歌もあった。点取り(※和歌の点数を競うもの)を二つ詠んだ。(歌の稽古が)終わった後、いろいろと話した。野々宮さんの朋友の一女性で、今年四月に嫁入りした方が、その後お便りがなかったので、こちらから郵便を差し出そうと思って、住所を問い合わせにその里(※実家)へ赴いたところ、図らずも、その人が(そこに)いた。嬉しくて、「どうしてここに(いるのですか)。」と問うと、涙を目の中いっぱいにして語ることといったら、その哀れさ、耐え難いものでした、と言って、野々宮さんは涙ぐまれた。私も気になって、「その人はどうしたのでしょうか。」と問うと、最近の新聞などにも見えている沢木某(※不詳)の妻だということだ。夫は才能ある若人であるのに、何事も平素からの志と違(たが)い、憂鬱のあまり神経の変動をきたし、とうとう自殺を心に決めたのであるとか。(野々宮さんは)「傷もとても深いので、おそらくは一命(をとりとめるの)も難しいでしょう。」と言った。その兄弟である無頼漢のこと、親友の柳某とかいう『時事新報』の記者のこと、(などの話題を)集めて話が多かった。(そして野々宮さんは話を変えて、)「半井さんへ、(その)細君に野口という人(※野々宮きく子の東京府高等女学校時時代の級友であった。)を周旋しようとしたら、中に立つ人が妙に(その話を)引き延ばして、(しまいには)「(できれば)もう一人の方を是非(半井さんへ)。」と言う(ではありませんか)。私はあまり気が進まなかったけれど、依頼されたのでやむを得ず写真を預かってきました。」と言って、(私にその写真を)見せた。そこまで顔が整っていないのでもない(方であった)。(野々宮さんは)その人のことに関連して(半井さんの)小説のことをいろいろと話した。(その人は)『胡砂吹く風(こさふくかぜ)』(※桃水の代表作で日本と朝鮮を舞台にした大衆小説。明治24年10月2日付より明治25年4月8日付まで東京朝日新聞に連載された。日記の明治25年2月4日に出ている。)という痴史(※ちし/桃水の号)の作品を非常に愛され、「それから(桃水のところへ嫁に)行きたいなどという願いをお持ちになったようです。」と言った。不思議にも世にはさまざまな人があるものだなあ(と思った)。野々宮さんは、「帰り道に半井さんを訪ねます。」と言って四時頃帰った。野々宮さんから借りた絵画の手本(で)、今日から(絵画を)習い始めた。(※一葉は原稿用紙を用いて画帳を作り、植物の絵や漫画を描いている。)日没後、国子(※邦子)とともに散歩した。三崎町最寄りから九段下まで行った。半井さんの住まいも遠く離れて見た。(※半井桃水は前月の7月12日に神田区三崎町三丁目に引っ越し、松濤軒(しょうとうけん)の屋号で茶葉屋を開いていた。)自宅に帰ったのは八時であった。これより小説に従事した。(※第6作となる「うもれ木」)
(明治25年)8月22日 晴れ。菊池の老君(※菊池政/一葉の父則義が仕えていた旗本菊池隆吉の妻。直近では明治25年4月19日に出ている。)が遊びに来られた。一日中お話をした。久保木(※久保木長十郎。一葉の姉ふじの夫。)と藤田屋(※一葉の父則義の代から出入りしている植木屋の名。お金の貸し借りもしていた。直近では明治25年5月28日に出ている。)の息子が来た。夜になってから突然、渋谷さん(※渋谷三郎/真下千之丞の妾腹である徳次郎の息子で、真下の孫にあたる。当時は新潟県で裁判所検事をしていた。立身出世を絵にかいたような人で、東京専門学校法学部を卒業後、数々の裁判所検事、判事を歴任し、秋田県知事、山梨県知事にまで登り詰めた。一葉の婚約者であったが明治22年に破談している。それでも樋口家との交流は続いていた。原町田(※はらまちだ/地名 東京都町田市)に実家があり、三郎の兄仙二郎が渋谷家の跡目を継いでいた。仙二郎は原町田で郵便局長をしていた。渋谷三郎は直近では明治25年2月9日に出ている。)が来た。「暑中休暇で帰郷したのです。」とかいうことだ。いろいろなお話をした。私が小説を書くことを三枝さん(※三枝信三郎。真下専之丞の孫。専之丞の長女とみ子の長男。とみ子は三枝家に嫁していた。渋谷三郎と三枝信三郎は従兄弟ということになる。信三郎は直近では明治25年3月12日に出ている。)から伝え聞いたと言って、その良し悪しなどを言った。「いっそう努めなさい。正直潔白は人間の至宝です。これさえを守っていれば、いつかはよい時に巡りあわないことがあるでしょうか。私はその当時の考えでは、あなたのうちがここまで(苦しい)とは思わず、金持ちとばかり思っていたので、無理を言ったこともありました。(※渋谷三郎は一葉との縁談において破格の結納金を要求し、母たきの怒りに触れ破談となった。このことについては9月1日の日記で後述することになろう。)しかしながら今思えば大変気の毒で、心苦しさに堪えません。もし(何か)相談したいと思うことがあれば、遠慮なくおっしゃってください。小説を出版するなどのための費用(が入用)ならば私が立て替え申し上げましょう。また、春のや(※坪内逍遥のこと。号を春のやおぼろと言った。)なり高田(※高田早苗。政治家。当時坪内逍遥も高田早苗も渋谷三郎の出身校である東京専門学校(現早稲田大学)の講師であった。)なりに紹介を頼みたいとならば、私が明日にもその労を取りましょう。」などと語った。私も半井さんのことをかくかく(しかじか)と言うと、「それは出来るだけお避けなさい。どちらにせよ恩もあるでしょうし、義理もあるでしょうが、それにとらわれていると行く末が危うくなります。正当に結婚しようとするのなら、止めるものではありませんが、浮評(※事実無根の評判)というものは悪いことですよ。潔白の身であっても(悪評が)染みついてしまったら、また取返しがつかないのではないでしょうか。とにかくあなたは戸主の身、身の振り方も難しいでしょうが(※一葉は戸主のため婿を取り家督を守るのが筋であった。)国子(※邦子)殿は他所へ嫁される身、せっかくのお年頃を空しく思われてはいけません。私も昔は書生上がりで、見えるところは少なく思い(ばかり)は広くて、小説に言う空想にばかり走っていたのですが(※渋谷三郎は以前自由民権運動の結社の党員となっていた。)、今はさすがに世の中の風がしみ込んで、年よりめいた(古い)考えにもなりました。」などと語った。(渋谷は続けて)「この新年の賀状は、あなたがお書きになったのですか。上手いものです。私は、今も人ごとに(それを)見せて自慢しています。何か(他に)書いたものがあればいただけないでしょうか。記念品にします。それに、(人に)持って行って(見せて)自慢したいので。」といつものように(口の)上手いことを言うと知りながら、(私も)さすがに強くは逆らいかねて、短冊を一枚贈った。(私が)「私の目は近眼でして、渋谷さんのお顔さえよくは見えないのです。(※私の眼中にいまさらあなたはいませんよ、という一葉の比喩でもあろう。)」と言うと、「困ったものですねえ。どうにかして直したいものです。あさって私は(新潟に)帰ろうと思いますから、明日また訪れましょう。いっしょに医者へ行きませんか、いかがですか。」などと(渋谷は)言った。(そして)「『都の花』(※文芸雑誌)にもし執筆されたら、一冊送ってください。」などなど、夜が更けるまで話した。「またいつ(ここに)来ることが出来るか分かりません。(あなたの)写真があったらいただけませんか、私もお送りしましょう。ともかくも正直潔白な生活をお過ごしください。今にごらんなさい、必ず良いことはあるのです。このことだけは私が保証するものです。」と(渋谷が)言うので、私も、「世間の浮説は何というか知りませんが、天地神明にだけは恥じないつもりです。もしも世間に受け入れられなければ、身を汨羅(べきら)(の淵に)没してもよし(※中国の戦国時代、楚の国の政治家屈原が、周囲の讒言(※ざんげん/その人をおとしめるために、ありもしないことを目上の人に言いつけること)により王から疎んじられ、世を憂いて汨羅という川に身を投じて死んだ故事に基づく。)、決して濁りには染まらないと思っています。渋谷様、この次お越しになられる時は、(私は)枝豆を売っているものか、新聞を配達しているものか知れたものではありません。その時(でも)お立ち寄りくださいますか。」と言うと、「必ず、必ず立ち寄ります。もしも(その時あなた方が)不義の栄利に(よって)豊かな生活をされているのに出会ったら、断じて顧みたりはしないでしょう。ああ、則義殿(※一葉の父)がご在世ならば、こんな事(※樋口家の生活苦)に(まで)も到らなかったでしょうに、気の毒なことです。お父上が愛されていた道具などは、どうなされているのですか。もし生活に困りなさることがあっても、(売ったりして)失くしてはいけません。その場合には私のもとへお知らせください。それだけは失ってはいけません。着物などは大したことではありません。拵えようとすればいつでも出来るでしょう。先祖代々のものは大事ですよ。」などと(人の家財までに)立ち入って話した。(渋谷さんが)「さあ、帰りましょう。」と立ったのは十一時であった。(すると)また戻ってきて、「夏子さん(※一葉の本名)の目は困ったものですね。どんな質(たち)(※ここでは具合、状態ほどの意)なのですか。」と気遣うように尋ねられるので、(私が)「自ら拵えた近眼です。」と笑って言うと、「ともかくもそれならよろしい。海岸などの見渡しの広いところに居て、しばらく養生したら、すぐに治るでしょう。」などと言って家を出た。(外に)車(※人力車)を待たせておいたのである。(渋谷さんは)身なりなどはよくもないけれど、金時計も出来ていたし(※ここでは持っていた、ほどの意)、髭も生やしていた。去年判事補に任官して一年半とたたないうちに(※渋谷は明治24年1月に新潟県三条区裁判所に赴任していた。)、検事に昇進して、月棒五十円だという。私が十四歳の時、この人は十九歳であっただろう。松永(※松永政愛(まつながせいあい)/一葉の父則義の東京府庁時代の知人。山梨出身の同郷(真下専之丞の庇護を受けていた)であり、佐々木信綱の父弘綱(歌人)の歌の門人でもあった。一葉は小学校を退学してから松永政愛の妻に裁縫を習っていた。渋谷三郎も真下の縁でそこに出入りしていた。)の家で会った時は、(渋谷さんは)何のすぐれた様子もなく、学識なども大変浅かっただろう。思えばこの世は有為転変(※ういてんぺん/世のすべての物事は変化し常住のものがないこと。)である。その時の私と今の私と(比べてみると)、進歩の姿どころか、むしろ退歩という方なのに、この人がこんなに成り上がっているのには、とりわけ浅からぬ感情を持ってしまう。この夜は何もしないで床に就いた。
(明治25年)8月23日 晴れ。西村さん(※西村釧之助)が来た。師の君のもとへ明日の数詠み(※和歌の競技。8月20日の日記に、21日に中村礼子のところで催される数詠みが24日に延期になったとある。)断りの葉書を出した。渋谷さんがまた来訪された。お土産にお菓子を贈られた。西村さんはすぐに帰った。(渋谷さんとは)お話しがいろいろとあった。「夕べ『武蔵野』を買おうと思って、絵双紙屋(※えぞうしや/江戸時代、浮世絵や役者絵、草双紙(絵入りの詳説)を印刷販売していた店。ここでは本屋の意。)をたたき起こして買ったのはよかったけれど、(よく見ると)間違って、『吾妻にしき』(※演芸雑誌『東錦』のこと)というものでありました。これから行って取り替えてこよう。」などと言って笑った。「大隈(※大隈重信。元内閣総理大臣。東京専門学校の創立者でもあった。)、前島(※前島密。日本郵便の創業者。渋谷三郎の東京専門学校時代の校長でもあった。)、鳩山(※鳩山和夫。元衆議院議長。東京専門学校の前校長でもあった。)を今朝訪問したので、途中ゆえ、佐藤梅吉(※一葉の父則義の恩人真下専之丞の元で書生として働いていた人。則義在世時から親交があった。直近では明治25年1月5日に出ている。真下の孫である渋谷三郎とはなじみであった。)のところにも寄りました。これから山崎さん(※山崎正助。一葉の父則義の東京府庁時代の同僚。8月2日、3日に出ている。)を訪ねようと思います。」などと言っているうちに、昼も近付いた。(私が)「昼食はいかがですか。」と言っても、「いや、食べません。」とばかり言うので、「それでは。」と(渋谷さんを待っている)車夫にだけ出した。(渋谷さんが)「書帖(※しょじょう/習字の冊子。墨蹟。一葉が邦子の手習いの手本のために『古今集』などの書物の一節を書きつけたもの。)が見たい。」と言うのでそれに従って出して見せた。(渋谷さんは)高慢なことといったら際限がない(ほどだ)。「さあ三人で写真を写しに行きましょう、さあさあ。」とそそのかすけれど、「どうにもこうにも」と言って、私から(写真写しを)取りやめにした。(渋谷さんは)「越後(※新潟県)に着いたら、すぐにお手紙を送ります。あなたもお手紙ください。」などと(言って)いそいそと帰路に就いた。『近世偉人伝』(※明治10年から明治24年にかけて漢学者の蒲生重章(がもうしげあき)が編んだ叢書。第三編上巻に「真下晩菘(※ましもばんすう。晩菘は真下千之丞の号)伝」がある。)のことを依頼された。「晩菘翁の伝記をお書きなさるつもりはございませんか。」と(私が)言うと、(渋谷さんは)「書きたいのだけれど、いまだにその暇がありません。どうかあなたも気にかけて、お耳に入るようなことがあれば、ご記憶にとどめておいてください。」など、大変言葉が多かった(※おしゃべりであった、意)。手紙を約束して帰った。今日は大変涼しい日であった。昼過ぎからは来る人もなく、とても暇であった。もっぱら小説(※第6作「うもれ木」)に従事した。珍しく手習いをした。夜になってから母の肩を揉んだ。(母は)少し暑気あたりと見えた。それからは絵画、(描いたのは)植物の一図である。

なみ風のありもあらずも何かせん
一葉(ひとは)のふねのうきよ也けり

(※波風があろうがなかろうがそれに(いちいち心を動かしても)一体何になろうか。(私という)一枚の葉の舟が行くのはこのつらい浮き世(憂き世)なのだから、ほどの意。)

※今回の日記は明治25年8月23日までであるが、前掲の「現代語訳 樋口一葉日記16 M25.5.29のあとの余白に書き込み」の期間が6月22日からこの8月23日の翌日くらいまでであることを踏まえて読み進めると、この期間に一葉を襲った運命の波風がいかなるものであったかがよく理解できよう。一葉のわずか20歳の女性としての心の揺れ、そして一方で芯の強い気丈さというものが如実に感じられると思う。
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐々木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐々木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)


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