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現代語訳 樋口一葉日記 11(M25.2.4~M25.2.18)◎雪の日、「闇桜」執筆、『武蔵野』

(明治25年)2月4日 早朝から空模様が悪く、「雪になるだろう」と皆が言う。十時頃より霙(みぞれ)まじりに雨が降り出した。晴れたり降ったりで昼にもなってしまった。「よし、雪になるならなれ、どうして厭(いと)うことがあろうか」と思って、家を出た。真砂町(※まさごちょう/地名)のあたりから、(雪が)綿をちぎったかのように、大きいのも細かいのも少しもやむことなく降った。壱岐殿坂(※いきどのざか/坂の名前)から車(※人力車)を雇って行った。前ぽろ(※人力車の前面を覆う幌(ほろ))はわずらわしいと言って掛けさせなかったので、風に競って吹き入る雪がとても耐え難く、傘で(自分の)前を覆いながら行くのはとても苦しかった。九段坂(※くだんざか/坂の名前)を上る頃には、堀端通りなどの道が(雪で)やや白く見え始めた。平川町(※平河町二丁目十五)へ着いたのは、十二時を少し過ぎた頃であっただろう。先生(※半井桃水)の家の門口で案内を乞うたけれども、返事をする人もなかった。おかしいと思って、何度も案内を乞うたけれど、同じよう(に返事が)な(い)のは、留守だろうかと思われて、しばらく上がり框(※あがりがまち/家の入口にあたる床の端をふちどる横木)に腰かけて待っているうちに、雪はまるで投げるように降るので、風さえ一緒に格子の隙間から吹き入って、寒いことといったらない。耐え難かったので、そっと障子を細めに開けて、玄関の二畳ばかりのところに上がった。ここには新聞が二つ『東京朝日新聞』と『国会』が配達して来たままで置かれていた。朝鮮の釜山(プサン)からの書状が一通あった。ふすま一枚向こうが先生の居間なので、それを開けさえすればいらっしゃるかどうかは分かるのだが、いつもの自分の(恥ずかしがりの)気質ではなかなか中へ入ることもできず、ふすまのそばに寄って耳をそばだてると、まだお眠りになっておられるのだろう、いびきの声がかすかに聞こえているようであった。どうしようとばかり(一人)困っていたその時、「小田(※小田久太郎/東京朝日新聞の桃水の同僚で、弟子。明治25年1月8日に詳しく記している。今一葉のいる桃水の元の隠れ家はこの人の持ち家であった。ちなみに小田の家は平河町六丁目二十二にあった。)からです。」と、年若い台所の仕事をする下女が郵便を持ってきた。これは、先生が最近世間から隠れて人に(ご自分の)在処(ありか)を知らせていらっしゃらないので、親戚などの遠方にいる人々からの書状はみな小田さん宛てに差し出されているのだろう。この使いも、これ(※郵便)を持ってきたまま、先生を起こしもしないで、「よろしく(お願いします)」などと言って帰ってしまった。一時の時計が鳴った。心細くさえなって、咳払いなどを時々しているうちに、お目覚めになったのだろう、さっと跳ね起きる音がして、引き続いてふすまが開かれた。寝間着姿のだらしなさを恥じなさってか、「これは失礼」とばかりに、せわしく広袖の長い掛け衿(えり)をつけた羽織を着られた。「昨晩誘われて歌舞伎座で遊び、一時頃に帰宅したでしょうか。それから今日の分の小説(※桃水は東京朝日新聞に「胡砂(こさ)吹く風」を連載していた。)を書いて床に入ったので、思いもかけず寝過ごしました。まだ十二時頃と思っていましたが、すでに二時にも近いのですね。どうして起こしてくださらなかったのですか。(いくらなんでも)遠慮し過ぎですよ。」と大笑いしながら、雨戸などを繰って開けられた。「あれっ、雪さえ降り出していたのに、さぞかしお困りだったことでしょう。」と言ってお勝手の方へ行くのは、手水(ちょうず)など使いに行くのだろう。「一人暮らしは気楽だろうけれど、起きるとすぐに(男が一人で)井戸の綱をたぐって水をくみ上げたりなど(せねばならず)、かえって寂しいものだなあ」と思っていると、台十能(※だいじゅうのう/火を熾(おこ)した炭を運ぶ道具。十能の底に台が付いたもの)というものに、消し炭(※薪(まき)や炭を燃やして途中で消したもの。二度目には簡単に着火する。)を少し入れて、その上に細かく切った木っ端をのせて、先生は持ってこられた。(先生はさらに)火桶(※ひおけ/木製の火鉢)に火を熾(おこ)し、湯沸かしに水を入れてきたりと、その(おひとりで立ち働く)姿を見ているのもつらく、「自分にも何か手伝わせてくださいませ。勝手が分かりませんのでお教えくださいませ。まずこのお寝床を片付けましょう。」と言って、畳もうとしたが、先生は気ぜわしく押しとどめなさって、「いやいや、お願いすることは何もありません。それはそのままにして置いていてください。」と迷惑そうだったので、押して(するの)もいかがなものかと(畳むのを)やめてしまった。枕元には歌舞伎座番付、それからまた紙入れなども取り散らかしている上に、紋付きの羽織、糸織(※いとおり/絹のより糸で織ったもの)の小袖(※こそで/袖口を狭くした長着)などが床の間の釘につるしてあったりと、乱雑さもまたこの上ない。(そうして先生は)「昨日手紙を出したその用というのは、このたび、青年の人々、と言うと(まるで自分が)大人びた顔をしているようですが、まだいっこうに小説(というもの)に慣れ親しんでいない若者たちの(小説)研究かたがた、一つ雑誌を発行しようというのです。世に言う大家という人は一人も加えず、腕の限り、力の限り、死ぬまで(努力して)くじけない(その)決心、なかなか潔く、原稿料はなくてもよし、期するところは一身の名誉である、という計画があって、一昨日の夜に相談会があったので、これは必ず実現することと思う故に、あなたを是非(その同人に)と頼んでおきました。(そこで)十五日までに短文を一編書いていただけませんか。もっとも、一、二回は原稿料無しとのご決心であっていただきたく、少し世に知られはじめた時は、人はさておき、まずあなたなどにこそ配当金を出すつもりですから。」などと繰り返し繰り返しおっしゃった。(私が、)「でも、自分らごとき不文(※ふぶん/文章が下手なこと)の者が、創刊号などに顔をだすのは、雑誌の為には不利益になるのではないでしょうか。」と言って辞退すると、(先生は)「どうしてそんなことがありましょうか。いまさらそのようなことをおっしゃっては、仲立ちする私がはなはだ迷惑します。先方にとっては(あなたの参加は)既に当てにしていることなのですから。」などと言葉を尽くしておっしゃってくださった。(私は)「それならよろしくおとりはかりくださいませ。実は最近書きかけた小説を、お目に掛けたいと(思って)今日持ってまいりました。完成したものではございませんが。」と言って、持ってきた小説を一覧に供した。(それを一読した先生は)「よろしいでしょう。これを出されるといいでしょう。自分は先日お話したものを、一通の書簡文として書いてみたいと思います。」などとお話された。そうこうしているうち、先生は隣の家へ鍋を借りに行かれた。年の若い女房の、「半井様、お客様ですか。お楽しみですね。おうらやましいこと。」などと言う声が、垣根一つの向こう側なので、とてもよく聞こえる。「イヤ別にお楽しみなのではありませんよ」など言うのは先生(の声)だ。(隣の女房に)「先日おっしゃっていた、あのお方ですか。」と問われて、「そうですよ。」と言ったまま、(先生は)駆け出して帰ってこられた。「雪が降らなければ、たいそうご馳走をするはずだったのですが、この雪では(それも)絵に描いた餅(※本物でなければ意味がない事のたとえ)ですね。」と言って、手ずから御汁粉を煮て下さった。「お許しください、お盆はあるのですが(棚の)奥の方にしまい込んでいて出すのがおっくうです。箸も失礼ながらこれを(お使いください)。」と言って、餅を焼いた箸を(私に)渡された。(そうして)さまざまなお話があった。先生ご自慢の写真を見せるなどなさった。(やがて私が)暇を乞うと、(先生は)「雪がますます降ってきていますので、今宵は(あなたの家に)電報を打って、ここに一夜泊っていってください。」としきりにおっしゃった。(私が)「どうしてそんなことが出来ましょうか。(母上の)お許しを受けないで、人の家に泊まるなどということ、大変母に禁じられております。」と真顔で言うと、先生は大笑いなさって、「そうむやみに怖がりなさいますな。自分は小田の家へ行って泊ってきましょう。あなた一人がここにお泊りになるのに、何事があるでしょうか。(お泊りになっても)よろしいでしょう。」などとおっしゃたが、(私が)頭を振って承諾しなかったので、「それなら」と、(先生は)重太さん(※桃水の二番目の弟)に(言って)車(※人力車)を雇わせなさった。半井先生のもとを出たのは四時頃であっただろう。白皚皚(※はくがいがい/雪が一面真っ白の意)たる雪中(せっちゅう)、凛凛(※りんりん/寒気が鋭く身に染みる様)たる寒気を冒して(※冒(おか)す/危ないことを承知の上でやり通すこと)帰る。(これが)なかなか面白い。堀端通り、九段の辺りでは、吹きかかる雪に顔も向けられなくて、頭巾(ずきん)の上から肩掛けをすっぽりとかぶって(※ここでの頭巾は、明治時代まで流行していた御高祖頭巾(おこうそずきん)で、目の部分だけ残して頭や他の部分を全部包む頭巾。肩掛けは今で言うショール。)、時々目ばかりを出してみるのも面白い。様々な感情が胸に迫って、「雪の日」という小説一篇を書きたいとの腹案ができた。家に帰ったのは五時。(帰ってからの)母上、妹(※邦子)との話は多かったので書かないことにする。
(明治25年)2月5日 (記載なし)
(明治25年)2月6日 
小石川(※萩の舎)の稽古。
(明治25年)2月7日 何事もなし。ただし、山下さん(※先述の山下直一)、石井さん(※石井利兵衛。一葉の父則義の頃からの知人で、樋口家から金銭的世話を受けていた。明治24年9月22日に出た伊勢利と同一人物かと思われる。)、西村さん(※先述の西村釧之助)、荻野さん(※荻野重省。一葉の父則義の友人。元司法省の官吏。)が来られた。
(明治25年)2月8日 何事もなし。
(明治25年)2月9日 奥田の老人(※先述の奥田栄。未亡人。一葉らは、この人に一葉の父則義の借金の返済を続けていた。直近では明治25年1月7日に出ている。)が病気との知らせがあった。母上がすぐに向かわれた。国子(※邦子)とともに、このことについていろいろと相談した。荻野さん(※前述の荻野重省)がいらっしゃった。『朝日新聞』(※桃水の「胡砂吹く風」が連載されていた)をご持参であった。(荻野さんは)「原町田(※はらまちだ/地名 東京都町田市)の渋谷(※先述の渋谷三郎の実家。真下専之丞の妾腹である徳次郎の子が渋谷三郎。三郎の兄に仙二郎がおり、この仙二郎が渋谷家の跡目を継いでいた。仙二郎は原町田で郵便局長をしていた。荻野重省と渋谷家は親しかったらしい。なお、渋谷三郎は明治25年1月4日に出ている。)へ書状を出してもらいたい」と(樋口家から渋谷家への)葉書を依頼された(※内容は不詳)。日没後、母上が帰宅された。(奥田の)老人はそれほどでもなかった由。この夜、姉上(※ふじ)、秀太郎(※ふじの子)が来た。(姉上は)十時頃まで話して、帰宅した。母上は、国子(※邦子)も(同じく)、「今宵は眠くない」と二時頃まで起きていらっしゃった。

にっ記 二   明治25年2月より

(明治25年)2月10日 朝から机にいた。昼過ぎに母上が奥田(※前述の奥田栄)にお見舞いに行かれた。日没の少し前に小石川(※萩の舎)から郵便が来た。「師の君(※中島歌子)が風邪で、一人では歩くことも出来ない」とのこと。「すぐに来てほしい」という趣旨だったので、ただちに支度して行った。(行くと)師の君はたいそう喜ばれた。「のぼせがはなはだしく、ともすると正気をも失うのではないかと思うほどであるので、いろいろと後事を託しておきたいと思って(あなたを)呼んだのだ。」と言って。心細げにお泣きになられた。いろいろなお話があった。「あなたがいらしてから心が落ち着いたのか、少し良くなったようです。」とおっしゃった。薬などをすすめていると十時にもなった。「明日、また」と言って(自分も)床に就いた。(※歌子の家に泊まったのである。)
(明治25年)2月11日 快晴。師の君は大いに快方に向かわれた。下女の事に関して、伊東家(※伊東夏子の家)との一件につき話があった。そのことで、おけい(※今村けい。一時中島歌子の養女になっていた人。離籍して同じ小石川区にいた。歌子はけいに戻る気はないか確かめ、その結果次第で伊東家に下女を依頼する心組みであった。明治24年9月26日に一葉が図書館に行くときに出会った今野はるが、もともと伊東家の紹介で歌子の家で下女をしていたことがあり、歌子は今村けいが駄目なら今野はるにまた頼もうという意向であった。)のもとへ使いに行った。その(話の)模様(※本来、様子という意味だが、ここでは、結果ほどの意)によって(※今村けいには断られたのだろう。)、さらに伊東さんのところへ行った。岩松(※おけいが身を寄せていた家らしい。)のところから車(※人力車)を雇った。伊東さんのところでしばらくお話した。(※伊東夏子の母、伊東延子と話した。)ただし夏子さん(※伊東夏子)は外出中であった。その帰り道で佐々木さん(※佐々木東洋。中島歌子の主治医で、佐々木医院を経営。直近では明治24年10月25日に出ている。)のところで薬を受け取った。昼過ぎに、水野せん子さん(※水野銓子。水野忠敬(みずのただのり)の長女。水野忠敬は元沼津藩の殿様。明治24年11月1日の鳥尾家の難陳歌合の会に親子で出ている。)が来られた。三時を過ぎた頃に、家から国子(※邦子)が迎えに来た。(中島歌子の家の)新参の下女が、(邦子を)自分(※一葉)と見間違えた奇談があった。(※残された写真でも姉妹の顔立ちはよく似ている。)それからすぐに暇乞いをして帰った。四時であった。上野房蔵(※うえのふさぞう/一葉の義理の伯父上野兵蔵の妻つるの連れ子、藤林房蔵が兵蔵の籍に入ったもの。直近では明治25年1月1日に出ている。)が来ていたとのこと。国子(※邦子)はそれより吉田さん(※邦子の友達)のところへ行った。(邦子が)帰宅したのは日没後であった。吉田さんより梅と水仙の生け花を貰ってきていた。この夜、国子(※邦子)が、「日記の書き初めをした」と言って見せた。この夜は二時に床に入った。
(明治25年)2月12日 雨。父上の命日(※明治22年7月12日死去)なので、母上が、お寺参りをなさるはずであったのだが見合わせた。小説を十五日までに半井先生へ送る約束であったのに、期日も近付いた。まだ上(じょう)の巻だけ(しか出来ない)で、中下(ちゅうげ)が残っていた。(※この時書かれたのが一葉の処女作「闇桜(やみざくら)」である。)それならば明日の(萩の舎の)稽古は断りを言って休もうと、師の君のもとへ葉書を出した。この夜、小説を少し読んで、母上にお聞かせした。思うことが思うままにならないで、今宵も大変怠けてしまった。
(明治25年)2月13日 晴天。朝から小説にとりかかった。一日中(それに)従事した。この夜も一晩中(小説に従事して)、明け方に少し眠った。
(明治25年)2月14日 大雨。一日中小説に従事、灯火をつける頃になって完成した。半井先生へ葉書を出した。「明日の午後参ります」とである。重荷を下ろしたようになって、今宵はとても心安らかだった。
(明治25年)2月15日 雨は止んだけれど風が寒い。昼前に家を出て、まず師の君のもとに行った。伊東さんの老母(※伊東夏子の母、伊東延子)が帰宅されようとするところであった。師の君はこれより佐々木さんのところ(※佐々木医院)へ行かれる由。「しばらくここにいてほしい」と言ってお出かけになられた。(だが)二時近くになっても帰られない。自分も麹町(※こうじまち/平河町に接する町で、ここでは単に桃水宅を指す。)行きに心が急がれて、留守居している下女に後を頼んで暇乞いした。九段坂上(※地名)より車(※人力車)に乗って到着した。(すると)半井さんの家には来客がある様子だったので、(どうしようかと)軒端にしばしたたずんでいたら、先生が窓から顔をお出しなさって、「お入りください。(来客は)ご配慮される(ような)人ではありません。私の兄弟同様の人ですよ。」とおっしゃった。中に入ってみると、(その人は)何という方か知らないが(※畑島一郎。朝日新聞社の社会部記者。畑島桃蹊(はたじまとうけい)と号して文学作品も書いた。)、年若く、色の黒い人であった。(書いてきた)小説を一覧に供した。(先生に)とてもほめられた。その人(※畑島一郎)もいろいろと言った。(先日話のあった)雑誌の名は「武蔵野(むさしの)」とついたとのこと。(先生は)「遅くとも来月一日頃までには発行することができる見込みです」と言う。(さらに)「男の書き手はひと月交代でのつもりですが、あなただけは毎月続けてお願いしたい。」などともおっしゃった。先生の新作の草稿(※桃水が『武蔵野』第1号に載せる「紫痕」の草稿である。)もお見せくださった。(その中に)「小笠原艶子嬢」という人物の名があった。(私は)「この名前は(同姓同名の方が私の身近にいらっしゃいますのでそれに)ご配慮して、(別の名前に)お直しくださいませ」など言った。(※小笠原艶子は萩の舎門人。直近では明治24年11月1日に出ている。)しばらくして帰宅した。芝(※地名)の兄上(※一葉の兄虎之助)が、(先日)「病気をしてはなはだ困窮している」と言ってきたので、金を少々通運便(※今で言う書留便)で送っていたのだが、「もう少し送ってもらいたい」と葉書で言って寄こしてきた。(私は)「それなら明日自分が参りましょう」と言った。久保木(※一葉の姉ふじの夫、久保木長十郎)が来た。国子(※邦子)と自分と、かもじ(※髢。婦人が髪を結う時に添える髪。いわゆるヘアピース。)を買いに行った。(二人が)留守中に母上が腹痛(に苦しんでいた)とのこと。帰宅して早々に手当てをした。夜を徹して(母上は)よくなかった。この日は総選挙(※前年の12月25日に第二議会が解散していた。日本最初の衆議院解散後に実施された総選挙。内務大臣品川弥二郎による激しい選挙干渉、妨害は有名。なお、当時はまだ女性に選挙権はなかった。満25歳以上の男子で1年以上国税15円以上納めていた者のみに選挙権があった。)投票当日だったので、市中のありさまはどこも何となく色めき立つ様子であった。
(明治25年)2月16日 大風。寒気がはなはだしい。母上は森照次さん(※もりしょうじ/正しくは森昭治。一葉の父則義の東京府庁時代の上役。その後警視庁第一局次長、青森県書記官を経て、退官。当時は本郷区駒込千駄木林町(こまごめせんだぎはやしちょう)に住んでいた。明治25年1月8日に出ている。)のもとへお金を借りに赴きなさった。(※樋口家は1月中にこの森昭治から6月までの半年分の生活援助をもらう約束をしていた。母たきが赴いたのは2か月分借用のため、森氏の都合を問い合わせるのが目的であった。)自分は芝(※虎之助のいる地名)へ行った。万世橋(※よろずよばし)から鉄道馬車に乗って、それから車(※人力車)で行った。(兄虎之助は)貧家のありさまは思っていた通りだったけれども、病気(の方)はそこまで重くはなく、大いに安心した。持参したお金を贈った。いろいろと話があった。昼食もここで食べた。三時頃帰宅の途についた。新橋(※地名)からまた鉄道馬車。帰宅したのは、やや日没に近かった。母上が、森さんの方は首尾よくいった話をされた。一同喜んだ。この夜、原町田の渋谷さんからの返書が届いた(※2月9日に荻野重省から依頼された葉書の返書だろう。)
(明治25年)2月17日 早朝から髪結いして家を出た。荻野さん(※荻
野重省)を仲御徒町(※なかおかちまち)の宿屋に尋ねた。お話がさまざまあった。(荻野さんから)書物を借りた。それから図書館に行った。三時に帰宅した。習字をした。日没後、入湯。お魚を買いに行った奇談があった。(※既にそのころ樋口家にとって魚は高価なものであったことが分かる。)
(明治25年)2月18日 晴天。寒風が顏を切るようだった。「森さん(※森昭治)にお礼かたがたお金を借りに行ってきます。」と言って支度をした。母上と一緒に家を出たのは九時であっただろう。歩いて林町(※森昭治の住所)に着いた。森さんは留守であった。(森さんの)奥方にいろいろとお話をした。証書をしたためて八円借りた。昨日小林さん(※小林好愛(こばやしよしなる)/一葉の父の元上司。当時は生命保険会社にいた。直近では明治25年1月17日に出ている。森昭治と小林好愛は東京府庁時代の同僚であった。)が来られたとのこと。小林さんの家の盗難事件、および栗塚国会議員が同じ盗難に見舞われた話(※不詳)などがあった。ひいては(私の)小説著作のことに話が移った。画工の竹内桂舟(※たけうちけいしゅう/明治大正期の浮世絵師、挿絵画家。硯友社のメンバーとして硯友社作家の作品の挿絵を描いていた。硯友社(けんゆうしゃ)は尾崎紅葉らの文学結社。)は奥方の甥の師匠であるとか。(奥方は)「(竹内桂舟は)時々は(こちらに)参ることもあります。あの方は硯友社連(※連は仲間、グループの意)の一人ですから、美妙斎(※山田美妙(やまだびみょう)小説家、評論家。)、紅葉(こうよう)(※尾崎紅葉 小説家)、漣(さざなみ)(※巌谷小波(いわやさざなみ)小説家、児童文学者)さんたちとも昵懇(じっこん)ですので、もしあの方たちに紹介を要するのであれば、その労はとりましょう。」ということである。以上のようなことを話して、森さんの家を暇乞いしたのは十一時であった。(母上と二人で)「梅の香りをかぎながら薮下(※やぶした/地名。旧大名邸の庭園があった。)より参りましょう」と言って、根津神社を抜けて帰った。風は寒いけれど春は春である。鶯(うぐいす)の初音が折々聞こえ、思わず足を止める垣根もあった。紅梅の色の美しさに目を奪われるのも少なくなかった。家に帰ったのは十二時頃であった。それから新作の小説にとりかかった。(※一葉の第2作「別れ霜」の執筆開始である。)稲葉さん(※稲葉寛。直近では明治24年11月10日に出ている。この日に息子の正朔と一緒に樋口家を訪れ、縫物を依頼している。正朔の着物だったのだろう。)が来られた。(頼んでいた)正朔さんの着物をもらいに来たためである。日没少し前に、三枝(※明治24年12月23日に三枝(さえぐさ)信三郎の家での女児出産のことが記されている。)から出産祝いの赤飯が届いた。(この日の)夕餉はことににぎにぎしく終わって、もろもろの有名な作家の面白い小説をひとめぐり、母上に読んでお聞かせした。国子(※邦子)が、(私の)日記を見て、「よく書いている」などと言う。(※この邦子が一葉の死後この日記を大事に保管していたことは非常に大きい。そうでなければ、一葉の研究はまるで進んでいなかっただろうし、何よりもこの日記を長大な文学作品(私小説)として認識した時、とてつもない文学財産の喪失となっていたはずだ。ちなみに、初めて一葉の日記が刊行されたのは明治45年博文館刊行の『一葉全集』においてである。実に、一葉の死の16年後であった。)夜が更けて雪が降り出した。自分が寝床に入ったのは二時頃であっただろう。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)






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