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現代語訳 樋口一葉日記 15(M25.4.18~M25.5.29)◎不機嫌な桃水、痔疾の手術、悩む一葉

にっ記 明治25年(1892)4月

 決して(この日記は)人に見せるつもりのものではないけれど、(もし遠い将来、)立ち戻って以前の私(※つまり現在の私)を回想すると、危なっかしく、また正気を失っているようなことがとても多い(と思われる)ことは、異常で、他人が見たら、「狂人の所為」と(でも)言うのだろうか。

(明治25年)4月18日 雨。午前の内に片町(※西片町)の先生(※半井桃水)のもとへ行った。このところ(先生は)病気(※桃水は痔疾でふせっていた。この時一葉はまだ病名を知らなかった。)に苦しんでいらっしゃるところがあられる上に、どうしたのだろうかお腹立ちのご気分で、お話も(以前のように)はきはきとはしていただけないのがつらく切ないので、さあ今日こそはご機嫌を取ろうと、出立した。小石(の多い)道で大変悩ましいところを(雨の中)やっとのことで行くと、河村さんからの下女が(※桃水は前月から桃水の従妹千賀の嫁ぎ先である河村重固(しげのり)の家に同居していた。実際は河村家の庭を回ったところにある離れを住居としていた。その庭には井戸があった。)、水を汲んでいたりしていた。「先生は、もうお起きになっておられますか。」と尋ねると、(下女は)うなずいて案内をした。いつものように庭口から書斎の縁側に上がっているうちに、先生が出てこられた。いつもは、とても親しみ深いお話をさまざまにして、帰るべき時が(見つから)ないありさまなのだが、近頃は異常なくらい別人のようにおなりになっていた。「御病気はいかがですか。」などと(私が)問うと、「少しはいいです。でも頭が痛いことだけは困っています。」と言って、後頭部を手でたたいておられる。(私が)「(今は)どこも花盛りと承っておりますが、家にこもってばかりいらっしゃるのは何故ですか。」と言うと、(先生は)「日陰者の身ですから。」としょんぼりしてしまった。(そして先生は)「一昨日の夜、上野の夜桜を見に行っただけで、飛鳥山(※現東京都王子の飛鳥山公園。桜の名所。)も隅田川も全く訪れていません。それにしてもこう引きこもってばかりいては病気も軽くなる時がないのだろうか(しらん)と思ったので、少し散歩を試みてみたりなどしたのですが、ますます頭が痛くなるありさまです。どうしたらよいのでしょうか。全くその方策に悩んでしまいます。このままでは最後には死んでしまうのでありましょうか。」などと心細いことをおっしゃった。(あとは)頭をうなだれがちに言葉は少なく、それもこちらからお尋ねしない限り本当に全くお話をされない。(私が『武蔵野』のことを聞くと、)「『武蔵野』(※第二編)は一昨日までに諸事完了して、昨日発行のつもりでありましたが、どうしたのでしょうか、まだ(こちらに印刷された本が)廻ってきません。この度の(『武蔵野』)はどれもこれもよろしくないようです。」などとおっしゃた。(それを聞いて私が)「私の(小説)は特に無茶苦茶で、(※『武蔵野』第二編には一葉の第3作「たま襷(だすき)」が載っている。)さぞかしお困りもお怒りもされたでしょう。わが師中島先生(※師の君、中島歌子)は、会のある日やその他の集まりで、弟子の詠歌がよくない時には常に、たいそう顔色が悪いようです。先生(※半井桃水)も同じように、私の著作があまりに(出来が)悪いのにお怒りになられて、いっそう御病気が重くなられたのではありませんか。心配になります。」と言うと、「いや、そんなことはありません。」とこともなげにおっしゃった。(そして)「『武蔵野』三号の分は今月中に原稿を(こちらに)廻してください。」などとおっしゃった。「それにしても暇のないのが健康上にとても(悪い)影響を及ぼしています。『朝日新聞』の方も明日からまた執筆することになりました。(※桃水は4月8日に「胡砂(こさ)吹く風」が終了し、次回作「鐘供養」の執筆に忙殺されていた。)せめてひと月の猶予があればよいのですが、よき暇を得難いのが(どうも)弱り切ります。」などと話された。私もいろいろと言うこと(※現実としては、一葉はまだ『改進新聞』に掲載された「別れ霜」の原稿料を受け取っていなかった。が、それをさしおいても、一葉としてはいつものようにもっと桃水と楽しい会話がしたかっただろう。)があったが、(先生が)うるさそうなのに遠慮して、そこそこに暇乞いをした。けれども(先生は私をいつものように)引き留めようともされなかった。帰り道は怏々(※おうおう/ふさぎこんでいるさま)として楽しくなかった。(一体先生は)何をこんなにお怒りになられているのだろうか。私に(は)少しも(身に)覚えがない。どうしたら以前のようになってくれるのだろうか。家に帰ってもこのことだけを(家人に)言った。母も妹も一緒に(なって)とても心配してくれた。母がおっしゃるには、「それもそのはずですよ。世間からも人からもお隠れになっていらっしゃる身の上ですからこそ、この花咲き鳥歌う(うららかな)春の日を、こぢんまりとした家の中でお過ごしになっておられるのは、どんなにかどんなにかつらく切ないものでしょう。まして花柳界の巷(ちまた)を朝夕の宿とされていた(※家をあけて待合遊びをしていたということ。以前邦子の友達関場悦子から桃水の悪い噂を聞かされている。明治24年9月26日と10月26日に記されている。)方が、急に足踏みをさえなさることが出来ない(※自由に動けないことのたとえ)のですから、それはもっとも(なこと)です。」などと言った。(※原文にも<の給ふ>と<いふ>が混在、重複しているのでそのまま訳した。また、<母君>は「母上」と訳し、<母>は「母」とそのまま訳した。)今日は何事もすることなく一日を過ごした。
(明治25年)4月19日 晴れ。今日の『改進新聞』の配達が待ち遠しかった。私の(「別れ霜」連載の)後には誰が出るのだろうと見ると、南翠外史(※なんすいがいし/須藤南翠。明治大正の小説家。新聞記者。)であった。「ああ、嬉しいなあ、(半井)先生の(小説)だ。(※一葉は南翠外史を桃水痴史(半井桃水の筆名)の変名だと勘違いしている。)それでは、わが身をどれほど大急ぎに端折って縮めても(※小さくしても、の意)、前後とも先生の(作品に挟まれているの)だから嬉しい。(※「別れ霜」は南翠外史の小説「非文人」のあとを受けて書いたもので、一葉は「別れ霜」が桃水の二つの小説の間に挟まれたものと思い違いをしているのである。それにしてもそれを喜ぶ一葉がいかに桃水を敬愛していたかが分かる。)」と言った。今日は来客がとても多い。鍛冶町(※かじちょう/地名。神田鍛冶町。)の石川(※石川銀次郎。石川銀次郎の父正助が同郷の一葉の父則義と懇意にし、則義が経済的に援助をしていた。石川は蒲鉾製造商。号は遠州屋。遠銀と呼ばれていた。)及び菊池さんの奥方(※菊池政。一葉の父則義が仕えていた旗本菊池隆吉(たかよし)の奥方。隆吉は明治22年に亡くなっている。政は明治24年7月21日にも出ている。)などが、最近あった火事見舞いのお礼にと来られた。(※4月10日に神田一帯が火事で四千戸が焼失した。菊池は本郷にあり、鍛冶町は全焼を免れたので実際の災難はなかった。おそらくその時樋口家が菊池家に火事見舞いをしたのであろう。)昼前は習字。昼過ぎから小説本を少し読んだ。(それから)著作(※第4作「五月雨」)にかかった。桜井さん(※桜井鏸子(けいこ)。萩の舎門人。)に頼まれた詠草を一つ短冊に書いた。
(明治25年)4月20日 晴れ。図書館へ書物を見に行った。太田南畝(※おおたなんぽ/江戸時代後期の狂歌師。)、藤井瀬斉(※正しくは藤井懶斎。ふじいらんさい/江戸時代前期の儒学者。)の随筆などを見た。明治女学校(※明治18年に牧師の木村熊二が麹町に開いたキリスト教主義の女学校。明治20年から教育家で演劇評論家の巌本善治(いわもとよしはる)が教頭となって実務を執っていた。巌本が日本初の本格女性誌『女学雑誌』を編集していたことから、寄稿者であった星野天知、北村透谷、馬場孤蝶、戸川秋骨、島崎藤村らの若い文学者が教壇に立つ。その彼らがのちに一葉を慕って彼女を訪ねてくることになる。明治女学校は明治29年に火事で一度焼失したが翌年巣鴨に移転して再建。しかし経営難により明治41年に廃校となった。卒業生に羽仁もと子、野上弥生子がいる。)の生徒及び駒場農学校(※東京帝国大学農科大学の旧名。)の某(なにがし)氏の夫人が、『刀剣類写図』の模写に来ていらっしゃっるのに会った。(図書館からの)帰路、広小路(※上野広小路。地名。)まで同伴した。山一面の桜は大方は散っているけれど、そうはいってもまだ(花を)見る人は多かった。日没の少し前に家に帰った。
(明治25年)4月21日 曇り。昼過ぎより(半井)先生のもとを訪れた。『武蔵野』の来月分(※3号)の趣向について(の相談)である。畑島さん(※畑島一郎。朝日新聞社の社会部記者。畑島桃蹊(はたじまとうけい)と号した。明治25年3月7日に出ている。また『武蔵野』創刊号の2番目に畑島の小説が載っている。)も来られて一緒になった。いろいろとお話があった。先生たちの(雑誌の)趣向のお話は大変面白い。四時頃帰宅した。この夜田中さん(※田中みの子)より、明日小金井(※多摩郡小金井村の多摩川上水の堤は桜の名所として名高かった。)に(花見に)行く催しがあると、葉書が来た。夜、雨が降り出した。
(明治25年)4月22日 今朝は大変よく晴れた。小金井行きは大変嬉しいのだが、『武蔵野』(の原稿)締め切りの日限も差し迫っている。悠々としている暇はないので、(小金井行きは)やめにした。午後洗濯を少しした。明日小石川(※萩の舎)の稽古なので各評(※かくひょう/詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。会の前に回覧しておく。)の兼題(※けんだい/歌会などで前もってだしておく歌の題)などを少し詠じた。
(明治25年)4月23日 晴れ。小石川へ行く。日就社員(※日就社は明治7年に読売新聞を創刊した印刷会社。現読売新聞社。)鈴木光次郎(みつじろう)さんが、師の君(※中島歌子)の履歴の探訪のため訪問された。二階でさまざまなお話があった。(※この時の記事が同年4月25日の読売新聞に、「明治閨秀(けいしゅう)美談」として掲載された。)その間、島田政子さん(※毎日新聞社の主筆、島田三郎夫人。萩の舎門人。明治25年3月9日にも出ている。)と一緒に下の座敷で語らった。悲話が縷々(るる)(※とぎれず細く続くさま)として(語られ)、思わず袖を濡らすことであった。(※島田政子と夫の三郎の関係は破局に向かっていた。政子は家付きの娘で書生との関係が非難され、やがて離縁された。一葉の小説「われから」はこの話がモデルとなっている。)他には何事もなかった。
(明治25年)4月24日 早朝、関さん(※関場悦子か、あるいは関藤子か。関藤子は関場悦子の腹違いの妹。明治25年3月8日に詳しく記してある。)へ葉書を出した。
(明治25年)4月25日 曇り。国子(※邦子)が歯痛の為、姉上(※ふじ)とともに谷中坂町(※やなかさかまち/地名)の妙清寺(※正しくは妙情寺(みょうじょうじ)。寺内の戸隠祠が虫歯除けとして知られていた。)内へ願掛けに行った。帰宅早々、(歯痛は)跡形もなく平癒したという。不思議なことである。小説(※「五月雨」)、はじめて原稿を書き始めた。日暮れより雨が降り出した。この夜、母上に新刊小説をお読みしてさしあげた。
(明治25年)4月26日より雨。 
(明治25年)4月27日 
(記載なし)
(明治25年)4月28日 
(記載なし)
(明治25年)4月29日
まで小説(※「五月雨」)にひたすら尽力したものの、出来上がらず。夜通し(小説執筆に)従事。
(明治25年)4月30日 小説はまだ十頁ばかりしか出来ていない。仕方がないので、その事情を半井先生へ申し上げることにした。その上今日は小石川(※萩の舎)の稽古である。朝から大雨だったけれど、押して家を出た。(萩の舎で)師の君(※中島歌子)のもとに十二時までいた。(そこからの)帰り道、ただちに片町(※西片町。地名)の師の君(※こちらは半井桃水)のところへ訪問した。先生は次の間(ま)にいらっしゃるのだろう、河村さん(※河村重固)の老母及び夫人(河村千賀)、娘さん(※長女の芳子)などが、火桶(※木製の丸い火鉢)のそばに(集まって)いた。先生の病気を尋ねなどしたところ、先生は痔疾でおありになったのを、とても秘密にしていらっしゃたので、わずかの間に病気が重くなって、一昨日(痔を)切除する手術をされたということだ。(私は)非常に驚いて、「(お具合は)いかがでしょうか。」と気遣うと、「大変失礼ですが、病人の(寝ている)部屋でお会いになってください。」と(家人が)その部屋に(私を)通した。石炭酸(※消毒殺菌剤)の匂いがとても強かった。これは毎日洗滌(※せんでき。または、せんじよう。/薬品で創面(そうめん)などを洗うこと)するからであるようだ。さまざまなお話をした。さすがの先生も大変苦しそうに見えていらした。一時頃帰宅した。
(明治25年)5月1日 午前十時頃より家を出て、下谷区の伊予紋(※いよもん/料亭の名。)で口取(※口取肴。くちとりざかな/日本料理の最初に出る、きんとん、かまぼこ、だて巻などを少しずつ盛り合わせたもの。)を買った。桃水さん(のお見舞い)に献上するためである。十二時頃より片町(※西片町)に行った。お話しはいろいろあった。「追々快方に向かっています」という(ことだ)。
(明治25年)5月3日 西隣の家に引っ越ししようという相談が整った。
(明治25年)5月4日 半井さんのもとを訪ねた。(わが家の)引っ越しの件を話して、(『武蔵野』の)原稿は七日までと(締め切りを)日延べしてもらった。
(明治25年)5月5日 晴れ。引っ越し。(※本郷区菊坂町七十から六十九へ移転した。)久保木(※久保木長十郎。一葉の姉ふじの夫。)、田部井(※たべい/一葉の父則義在世時から樋口家に出入りしていた古物仲買商の名。明治25年1月1日と1月5日に出ている。)が手伝いに来た。この夜からまた小説にとりかかった。兄上(※虎之助)が偶然(※引っ越しを知らなかったのだろう。)来た。
(明治25年)5月6日 一日(中)小説に従事、(完成)出来なかった。
(明治25年)5月7日 夕方までにはどうにか(小説を)完成させたく、大いに努力した。ただし今日は小石川(※萩の舎)の稽古であったけれど(著作のため)行かなかった。
(明治25年)5月8日 終日(取り組んだが)まだ(小説は)完成しなかった。
(明治25年)5月9日 小石川(※萩の舎)の月次会(※つきなみかい/例会。毎月9日に行われた。)の日だったけれど、早朝からは行かれなかった。三時頃になって小説(※第4作「五月雨」)が完成した。(それから)即刻ただちに髪を結いなどして、まず半井先生のところへ行った。藤村(※ふじむら/本郷四丁目にあった和菓子屋の名。)にて蒸し菓子を少々買いそろえて持参した。(先生に原稿を渡して)すぐに帰った。その足で小石川へ行った。(私の遅いのに)師の君(※中島歌子)が大立腹であった。
(明治25年)5月10日 蝉表(※せみおもて/下駄の表の地で、籐(とう)の皮を細かく編んだもの。邦子が得意だった。)の内職にとりかかった。(※一葉が小説に集中している間、生活費のために邦子が一人で蝉表の内職をしていたのだろう。雑誌に載ったとはいえ全然お金にならない小説執筆に全力を挙げながら、一葉は戸主として家人に申し訳ない気持であっただろう。)
(明治25年)5月11日 前日と同じ。(蝉表の内職)
(明治25年)5月12日 前日と同じ。(蝉表の内職)
(明治25年)5月13日 師の君(※中島歌子)のもとへ行った。
(明治25年)5月14日 (萩の舎の)稽古日。田中さん(※田中みの子)より田辺さん(※田辺龍子。一葉の姉弟子。直近では明治25年3月19日、22日に出ている。)の言伝(ことづて)を聞いた。島田さん(※島田政子)のこと、師の君(※中島歌子)のこと(である)。帰りは日没少し前であった。考えることがとても多い。
(明治25年)5月17日 田中さん(※田中みの子)の歌会である。午前から行った。来会者は十二、三名。(帰りは)車(※人力車)で送られた。
(明治25年)5月18日 小笠原さん(※小笠原艶子/萩の舎門人。直近では明治25年2月15日にその名だけが出ている。)のところで数詠み(※かずよみ/和歌の競技。盆の上に複数のおひねり状にした紙が置いてあり、それを開くと歌の題が記されている。一枚ごとに現れる題に対して制限時間内に歌を詠み、その数を競うもの。)の催しがあった。お招きに預かった者は五名。題は二十三題であった。終わった後、ばら新(※ばらしん/本郷区駒込動坂町(こまごめどうざかちょう)にあった薔薇専門の植木屋。店主が横山新之助であった。)、美香園(※びこうえん/ばら新と同じく駒込動坂町にあった植木屋。)に薔薇を見に行った。帰宅したのは日没時(であった)。
(明治25年)5月19日 半井さんを訪ねた。「一時は日に日に快方に向かっていましたが、また少し無理などをしたからでしょうか、再び切除(手術)を行わなければならないと思います。」などとお話しになった。とてもとても苦しそうなので、どうしようと(半井さんを)見つめていたちょうどその時、医師が来診に来たので、自分は帰宅した。
(明治25年)5月20日 また(半井さんを)見舞いに行く。「昨日切除(手術)はしたのですが、まだ十分ではないようなのです。もう一度切らなければ(いけないようです)。」などと言った。今日も気分悪げであった。二時間ばかりいて帰った。
(明治25年)5月21日 小石川(※萩の舎)の稽古である。早朝に行った。私の小説のことで、田中さん(※田中みの子)からのお話も(3月に)あり、(※明治25年3月1日から3月6日にかけて、田中みの子が一葉の小説を新聞などに周旋する話があり、試作品を田中みの子に送っていた。同日の日記に書かれている。)(それに)何か応えないのは悪いだろうし、しかし、半井さんの(これまでの一年間に及ぶ)さまざまな懇篤(※こんとく/親切で手厚いこと)なるお言葉、してくださったことを思えば、こちら(※半井桃水)を捨ててあちら(※田中みの子)につくというのは、(道)義において、出来ない事であろう。どうしたらよいのかと(言わん)ばかりに師の君(※中島歌子)にも相談をした。(師の君は)「それはもっともです。それならばこうしましょう。」などとおっしゃられた。(※師の君の具体的な発言内容は不明。)『武蔵野』二巻(※ふたまき/1号と2号)を(師の君の)閲覧に供した。帰宅は日没時であった。(※この時の一葉の葛藤を見ると、田中みの子からもまた田中側のルートで一葉に小説掲載の要請があったのではないか、と想像されるが、具体的なことが書かれていないので想像の域を出ない。むしろ、月ごとの『武蔵野』の原稿に追われて、萩の舎にも行けず、遅れていくと中島歌子は立腹し、かといってその原稿は金にもならず(『武蔵野』は予想以上に売れなかった。)、執筆の間は生活費のために妹の邦子ばかりが蝉表の内職にいそしむ他なかった有様に、一葉の責任感がさいなまれたのではないかと思われる。その反動が桃水を捨てるという、心の揺れになったのではないか、と考える方がより自然であろう。その場合、田中みの子からの話は逃げ口上ともとれる。事実、田中みの子からの話はこれ以上進展しない。また、頼みの桃水が病気で倒れたということも一葉には不安であっただろう。貧苦の中にいる一葉にとって、この不安はより生活を脅かす不安に近かったことは想像に難くない。)この夜、野々宮さん(※野々宮きく子)が、「教会からの帰りです。」と言って、(どうか)一晩泊めてほしいと無心に来た。(※明治25年3月21日の日記にあるように、野々宮きく子はプロテスタント教会のクリスチャンであった。この日は土曜日で、翌日の日曜日にも教会に行かねばならず、友人の邦子を頼って泊りに来たものと思われる。地理的な理由だろうか。)十一時頃までお話した。
(明治25年)5月22日 野々宮さんといろいろとお話しした。半井さんの性情、人物などを聞くと、すぐにでも交際を断ちたくさえなった。(※野々宮きく子が桃水の悪口を言ったのだろう。このあたり、元々桃水と仲がよく一葉に桃水を紹介してくれた野々宮きく子が急に態度を変えたことには注意しておかなければならない。7か月前の明治24年10月には、訪ねてこない一葉を心配する桃水のことを一葉に伝え、桃水の妹幸子の結婚祝いを機会に、再び桃水のもとへ一葉が通うきっかけともなった野々宮きく子が、ここにきて何故態度を180度転換し、桃水の悪口を言うようになったのだろうか。これまで桃水の悪口を言っていたのは関場悦子だけだったはずで、邦子もそれに同調していたことは日記の記述で明らかである。野々宮きく子はむしろ桃水側の人間であったはずだ。或いはキリスト教を排斥する桃水に対する反感があったのかもしれないが、いずれにしろ野々宮は故意に一葉に桃水の悪い話を吹き込んだと考えられる。とはいえ、一葉の心の揺れが、野々宮との話の前から起こっていたことは前日の日記からも分かることである。一葉は野々宮に会う前に、中島歌子にその相談をしているのだから。とすると、一葉は、野々宮の桃水の悪口さえも、桃水から離れる口実にしようとしたふしがある。そこに一葉のしたたかさ、つまり金にならないのなら交際を断つのも厭わないという一葉の打算的な性格を感じる向きもあるだろう。しかし、一葉はそれが道義にもとることだと苦しむ女性である。むしろ苦しんでいるのである。一葉は何よりも樋口家を支えなければならない戸主としての責任があり、次々と借金を抱え、生活は逼迫(ひっぱく)しつつある中で、必死に小説を書き、萩の舎には礼を欠き、妹にばかり内職をさせ、その挙句『武蔵野』は売れず、あてにした金も入らず、非常に焦っているのである。このまま桃水についていていいのか、と思案するのは当然である。と言って、初めて会った日から今まで親切極まる桃水を捨てることも彼女には出来なかった。人としてそれは許されないという気持ちでいっぱいだっただろう。桃水は自身も生活が苦しいのに、それでも弟子としての一葉を助けようとしてくれるのだ。だから悩むのだ。そこのところの一葉の内面の苦しみを理解しなければならないだろう。)そうではあるが、それにしてもまあ今(その半井さんが)病に苦しみなさっている折も折、どうしてよくもこんなことを話に行くことが出来ようか。(半井さんの)快方を待って(からにしよう)と心に思った。九時頃、野々宮さんは帰宅した。午後よりまた、病気の半井さんを訪ねた。(すると)朝鮮から友人が二、三人来た(※当時、朝鮮の政変に失敗した開化党の金玉均(キムオッキュン)と朴泳孝(パクヨンヒョ)らが日本に亡命していた。特派員だった桃水とも知己であったようだ。)とかいうことで、そのあたりが散らかっていた。自分が行ったからであろうか、(その)人たちは早く帰ってしまった。そのことに理由がないわけでもあるまい。(※この一文は後から行間に書き込まれていたもので、その理由とは何かがよく分からない。亡命者が他人をはばかったのか、あるいは一葉を桃水の女とでも思ったのだろうか。)今日は日曜日だからだろうか、重太さん(※茂太。桃水の弟。)及び小田さん(※小田久太郎。桃水の同郷、新聞社の同僚、弟子にあたり、果園と号した。のちの三越専務。明治25年1月8日、2月4日にその名が出ている。)が来た。はじめて果園さんとお近づきになった。すぐに帰宅した。
(明治25年)5月23日 雨。
(明治25年)5月24日 雨がひどく降る。『九雲夢』(※きゅううんむ・クウンモン/17世紀朝鮮のハングル小説の古典。作者は金万重(キムマンジュン)で、原文は漢文で書かれていた。)を書写する。十枚ばかりである。(※この書写は桃水に頼まれたらしい。)
(明治25年)5月25日 雨がとても激しく降る。午前の内に『九雲夢』を十枚ばかり書写して、それから小説の草稿にとりかかった。(※この小説については不明。結局書かなかったのではないか。)今日の『改進新聞』に『武蔵野』二編の評が載っていた。
(明治25年)5月26日 連日の雨が晴れた。早朝より『九雲夢』を書写した。
(明治25年)5月27日 大雨。『九雲夢』を書写。この(日の)夕べ、半井さんより手紙が来た。(※桃水は、『回天』という雑誌に寄稿した原稿料を一葉にまわすつもりであったが、その『回天』が休刊し原稿料が取れず、一葉への生活金補助が危ぶまれることを手紙に記していた。)
(明治25年)5月28日 晴れた。小石川(※萩の舎)の稽古に行く。しかし、ご老人(※中島歌子の母幾子。)が、昨夜より急病で、生死もおぼつかないということである。「今日の稽古はお休みになさっては。」などとお諫めしたが、師の君(※中島歌子)はお聞き入れなさらなかった。終日教えを垂れなさった。医師(※佐々木東洋。中島歌子の主治医で、佐々木医院を経営。直近では明治25年2月11日、15日にその名が出ている。)も来た。「この分では今が今というわけでもないだろう。」ということである。自分は、夕方にひとまず帰宅した。(もちろん)また(明日)参るつもりである。帰宅してすぐに半井さんのところへ赴いた。病気見舞い、かつまたご返事しなければならないことがあったからである。日没前に帰った。藤田屋(※一葉の父則義の代から出入りしている植木屋の名。お金の貸し借りもしていた。直近では明治25年3月27日に出ている。)が来て終日庭造りをしていた。酒と夕食を供してその労に報いた。この夜、長齢子さん(※ちょうれいこ/萩の舎門人。書家で漢学者の長三州(ちょうさんしゅう)の娘。直近では明治25年1月9日に出ている。)さんから借りていた『読売新聞』(※4月25日の新聞に「明治閨秀美談」の「中島歌子」が載ったのを見るために借りていた。)の小説「三人妻」(※尾崎紅葉の連載小説)を二十回ばかり見た。
(明治25年)5月29日 早朝すぐに小石川(※萩の舎)の病人を訪ねた。昼時までいた。この間に小笠原家(※萩の舎門人、小笠原艶子の家だろう)及び伊東の老母(※伊東夏子の母延子。萩の舎門人。)が、お見舞いに来た。(私は)いったん帰宅して『九雲夢』を少し書写した。(そして)再び夕方から小石川に行った。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)


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