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現代語訳 樋口一葉日記 20 (M25.8.24~M25.9.3)◎西村釧之助の縁談、教師としての周旋話、有神論無神論、迫る借金の返済日、渋谷三郎との婚約破談のこと、姉ふじの家出騒動

しのぶぐさ (明治25年(1892)8月)

(明治25年)8月24日 「晴れているのに時々雷の音がするのは、まもなくここにも雨が降るということなのでしょう。」などと(妹と)言い合った。着物を三つ、四つ洗ってからのちに、机についた。西村さん(※西村釧之助)が来られた。昨日(西村さんに)細君の世話をしようということで、俵初音さん(※俵田初音。野々宮きく子の知人。後に一葉から毎週日曜日に『徒然草』の講義を受けることになる。)のことを話したので、そのことをなおよく聞きにと思ってである。(話が終わって西村さんは)昼前に帰宅した。母上は、一昨日より時候あたり(※暑さや寒暖差による体調不良)で気分がすぐれず、昨日はお伏せになることが多かった。(私は)一日中机に座って、日没後、母上の肩を国子(※邦子)と共に揉んでお寝かせ申し上げた。自分も今宵は頭が大変痛く苦しかったので、早く寝た。
(明治25年)8月25日 晴れ。母上はまだよくならない。家の掃除、勝手元のことなどを九時頃までして、机についた。思いもせぬこと(※8月22日、23日の渋谷三郎の来訪を指す。)よりさまざまなことをあれこれ考え出して、しきりに自身を顧みる気持ちになった。作り始めた小説の趣向も大きく変えることにした。(※第6作「うもれ木」の主要な登場人物の一人を偽善者として描き始めた。)
(明治25年)8月26日 今朝三時、伝通院(※でんづういん/小石川伝通院。浄土宗の寺院。)内の沢蔵稲荷が焼失した。(※小石川区表町の民家から出火、寺院一棟と沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり)が焼失した。)この稲荷、近くで失火がある時は(周囲に)告げ歩きなさるとか聞いていたのだが、(他でもない)その社(自体)が焼けたというのは、面白い。
(明治25年)8月27日 小石川(※萩の舎)の稽古に行った。稽古の後、師の君(※中島歌子)と少しお話をした。伝通院内の淑徳女学校(現小石川淑徳学園中学校・高等学校。伝通院の境内にあった。)とかいうところに私を(教師として)周旋してくださるという話である。私も考えているところを述べるなどして帰った。母上にこのことをお聞かせ申し上げると、限りなく喜んでくれた。今宵はとても勉強した。
(※中島歌子は、明治23年にそう約束したいきさつで、一葉を淑徳(しゅくとく)女学校普通科の読書(国文漢文の講読、作文、和歌)の教師として周旋しようとしたのである。が、今回も学識不足を理由にだろう、これは実現しなかった。一葉の小学校中退という学歴がどうしても大きかったようだ。ところで、明治24年3月24日の日記の中で、中島歌子の来歴について詳しく述べたあと、次のように記した。「明治23年5月、当時母たきと妹の邦子と3人で兄の虎之助のところに住んでいた一葉は、その生活苦を歌子に相談し、一人萩の舎に内弟子として住み込みを始めたことがある。このことからも、歌子は一葉の才能を高く買っており、ゆくゆくは塾の後継者と考えていたのだろうと思われる。また、子供のいない歌子には一葉は娘のようにも思えていただろう。その時歌子は一葉に女学校の教師を斡旋する約束をしていたが、一葉の学歴(小学校中退)と若年(当時18歳)ではその約束も果たせず、また、虎之助と母たきとの折り合いが悪くなったこともあり、その年の10月には、結局一葉は萩の舎を出て、本郷菊坂町の貸家に母と妹を呼んで3人で暮らし始めた。そしてこの樋口一葉の日記は、その半年後の明治24年4月から始まるのである。」つまり、中島歌子はその時から2年後に、もう一度一葉を学校の教師に周旋しようとしたことになるのである。しかし今回も不首尾に終わる。ちなみに、最初の周旋については同じ淑徳女学校だったかどうかは分かっていない。最初の周旋は妹邦子がのちに書いた「かきあつめ」にそのことが記してあるばかりで、具体的なことは不明である。「かきあつめ」には中島歌子が一葉に「其知人にたのみて某女学校えいださんとすすめ約す」のだが、結局、「学校え出る日をのみまちてそのとしもくれ、よくとしの春になれどなにのさたもなし」ということで終わったとあるのみである。ただ、その時萩の舎の内弟子となって張り切っていた一葉は勿論それを期待していたであろう。が、待てども待てども師の君からは何も言ってこない。また内弟子とはいえやっていることは女中と変わらず、その勝手仕事が忙しくて歌の稽古もろくに出来ない。また、同じところに住んでいると、中島歌子が意外に吝嗇家であったり、彼女の私生活のだらしない部分が否が応でも目に入ってきて、18歳の一葉には夢を見ていただけにその幻滅も大きかっただろう。それに何といっても一葉は士族の娘である。彼女の矜持は自分が下女同様の仕事をさせられているのがどうにも耐えられなかっただろうと察せられる。そうして一葉は萩の舎の内弟子をやめ、兄虎之助のところにいた母と妹を呼んで三人で住み始めたのであるが、この、二度に渡る教師周旋の話は、その結果の詳細が日記に記されていないので、一葉が教師になれなかったことはその経歴で知れるのだが、その理由についてはどちらともあくまで想像であることは明記しておきたい。また、もしかすると、最初の周旋は実際には行われておらず、明治25年の今回の周旋がはじめてのものだった可能性もある。その判断は難しいが、いずれにしろ資料がなく、そのあたりは曖昧である。が、中島歌子とて約束しておきながらさすがに2年も放ってはおかないだろうと考えるのが自然であろう。)
(明治25年)8月28日 晴れ。野々宮(さん)が来た。(野々宮さんは)半井さんを訪問されたが、(半井さんは)鎌倉に赴きなさったまま、いまだご帰宅されないとのことだった。(野々宮さんが)私の絵画用の筆を買ってくださっ(てい)た。歌を二題詠んだ。(そのあと)初音さん(※先述の俵田初音。)が、「父と姉の歌の添削をお願いしたい。」と持って来られた。(それが)終わったあと、いろいろとお話しした。初音さんは宗教家(※一葉はキリスト教だけを宗教と呼んだ。故に宗教家とはクリスチャンのこと。)なので、有神論を主張なさった。私は有神無神元一物論(※ゆうしんむしんもといちもつろん/心ひとつで有神論にも無神論にもなるうるということ。神の存在は心ひとつからであって、経験的にその存在をどうこう言うことは出来ないということ。華厳経の三界唯心(さんがいゆいしん)の思想から来たか。三界とは、一切の衆生が生死流転する迷いの世界、欲界、色界、無色界のことで、その迷いの世界すべてが心から造り出されているのだということ。このことからも一葉の仏教の素養は深かったと思われる。)を唱えた。話は佳境に入ってなかなか尽きなかった。(裏手の)右京山(※一葉の住む菊坂町の裏手にある松平右京亮の邸跡の高台を指す。右京亮(うきょうのすけ)は官職の名。)に月が昇るまで話をした。「さあ(帰ります)。」と言って(初音さんが)帰宅されようとしたところ、初音さんが持っていた西洋傘(※こうもり傘)及びわが家の傘も合わせて三本ほどが、いつの間にか盗まれていた(※外に置いていたのだろう)のも大変面白かった。(※直前まで初音と一葉は神のありなしについて楽しいほどの論戦を交わしていたのだろう。すると、「神」ではなく、「傘」がないのである。それが面白かったのだ。それほどに一葉はこの論戦に興奮していたことが窺われる。)あとで、母上、邦子などが残念がっていたので、(私は)「どうして悔やむことがあるでしょうか。わが家のものこそ失いましたが、天下のものがなくなったのではありません。誰かの手に渡り、誰かの所持するところになろうとも、その用は一つのみです。こうもり傘はこうもり傘たる効用が変わるものではありません。あったからこそ、失ったのです。なくなったのなら、また(いつか)得ることもあるでしょう。」と言って笑った。(※少々理解しにくい一葉の言葉であるが、神の存在について話していたのだから、思わず、似たような哲学的見解を施したのだろう。また、青砥藤綱(あおとふじつな)という鎌倉時代の武将の逸話に、夜に銭十文を誤って川に落とし、家来に五十文で松明を買わせそれで川を照らして探させた話がある。周囲がそれでは損ではないかと笑うと、青砥藤綱は、川に十文残っていればその十文は永遠に損であるが、五十文使えば他人を益することになり、天下はあわせて六十文の利となるではないかと諭した。その故事をふまえたものともとれる。)「わが家の貧困は、ただもう切迫に切迫している頃合い(※ここでは、状態ほどの意)です。」と言って、母上がとても深いため息をつかれた。今月の三十日限りで、山崎さん(※山崎正助/一葉の父則義の東京府庁時代の同僚。8月3日に母たきが借金をしに行ったことが記されている。)に金十円を返却しなければならないのに、私の著作はいまだ出来上がらず、一銭をも得ることの目当てもなく、人に信用を欠くことが残念だというわけである。いろいろと話し合った。自分と、国子(※邦子)が「ある限りの着物を質入れして、一時の急場をしのぎましょう。」と言った。母上がひたすらこのことを嘆くのがつらかった。(※原文は<母君の愁傷(うれひ)これのみとわびし>である。そのまま単純に直訳すれば、「母上の嘆きはこればかりだとつらくなった」となるのだが、これだとまるで一葉が母のわがままを難じているように聞こえてしまう。おそらくだが、一葉はもともと「母君のこれのみ愁傷ふ(うれふ)とわびし」と書きたかったのではないか。そう書くところを、「これのみ」より先に「愁傷」と書いてしまったので、そのまま「愁傷」を名詞として扱って、それに「これのみと」を続けて文章の構造を変えてしまったのではないかと思われる。その理由はまず、<母君の>の<の>がここでは明らかに所有(「~の」)の<の>であるが、一葉はそういった場合にはほぼ「が」を用いる。例えば<我(わ)が著作>というように。<の>と書いてしまったのは、それが主格の「が」を意味する<の>であったからに他ならない。例えば、<くに子などの残念がれば>(邦子などが残念がるので)のように。だからこれは元から「母上が」と主格で来るはずだったのではないかと推定した。もう一つの理由は、<これのみ>の<のみ>は限定(~だけ、~ばかり)の意ではなく、強意(ひたすら~でいる、ただもう~する)の意であろうと思われるからである。強意の場合は「のみ」を含む文節が修飾する用言の方を強調するので、「愁傷(うれ)ふ」を強調することになる。「ひたすら憂う(嘆く意)」のである。そして<これ>が指す内容は直前の、邦子と一葉がありったけの着物を質入れすることだとするのが自然であろう。もうひとつ前の内容の、山崎さんの信用を欠くこと、あるいは、わが家の貧困を指すにしては遠すぎる。すると、母上は、わが娘たちが自分たちの着物を質入れしようとするのをひたすら嘆いているのである。これが最も自然な解釈だと思い、上記のように訳した。このあとに出てくるが、母上が、<質入れのこと可ならず>(質入れは許しません)としているのも、このことにこだわる母上の心情にぴたり一致する。)甲府(※山梨県)の野尻さんから手紙が来た。(※野尻利作が主宰していた『甲陽新報』から一葉に執筆を依頼してきたもの。野尻利作は山梨県玉宮村の野尻家の次男。東京帝国大学に在学中、一葉の父則義は野尻家から理作の学資を預かり、監督を頼まれていた。明治24年10月1日に葡萄を贈られるくだりで出ている。また直近では明治25年1月4日に年賀状が来ている。当時は山梨に戻って甲陽新報社という新聞社を設立していた。)この日、野々宮さんより『国民新聞』を借りた。
(明治25年)8月29日 晴れ。時々雷鳴がした。頭痛がとても激しかったので、しばらく昼寝をした。午後から小説執筆に努めた。野々宮さんが来訪された。『婦女雑誌』(※当時博文館から発行されていた婦人向け教養雑誌。)を持参してきてお話をした。(野々宮さんは)「こうもり傘を人から二本もらったので。」と言って一本をわが家に贈られた。昨日(私が)言ったことと違(たが)わなかったのが面白い。またいつ(傘を)なくすことになるのだろうか。(野々宮さんは)しばらくして帰宅した。この夜、国子(※邦子)に習字を教えた。
(明治25年)8月30日 晴れ。母上がしきりに、(私と邦子の着物の)質入れのことは可ならず(※許しません)と言って、「安達(※安達盛貞。一葉の父則義からの知人で元菊池家に仕えていた官吏。安達の伯父さん。明治24年8月5日に、一葉に読書や作文は脳に悪いと述べた人物。直近では明治25年7月30日に出ている。当時は病床であった。)に一度金策を頼(んで)みましょう。」と、早朝(安達に)赴きなさった。私は(母を)止めるのに努力したがその甲斐はなかった。(母は)安達家が不承諾ということで昼前に帰宅された。「思っていた通りですよ。」と一同笑った。午後からはとりわけ(小説執筆に)努めた。日没後、国子(※邦子)とともに右京山(※8月28日に出ている。)に月を待ち受けて虫の音を聞いた。(※この時の月は上弦の月。満月ではないことから、一葉は妹と二人きりで質入れのことなどを話し合ったのだろうと思われる。)帰宅後、山下直一さん(※樋口家の元書生。直近では明治25年8月15日に出ている。)が来訪された。
(明治25年)8月31日 晴れ。今日は二百十日(※立春から数えて210日目の日。新暦で9月1日頃で台風が多いとされている。)の厄日と聞いているのに、空はのどかで風もなかった。一日中来客もなく、日没後、母上が「西村さん(※西村釧之助)を訪ねてきます。」とお出かけになられたところに、入れ違いで西村さんが来訪された。しばらくして西村さんは帰宅した。山崎さん(※山崎正助。樋口家は8月3日に金10円を借りている。)がお金のことについて(催促に)来られた。この夜、更けてから、久保木(※一葉の姉ふじの夫)が(ふじに)出産の模様があるといって、母上を迎えに来た。ともかくもそれ(※出産)はなく、今宵も時が過ぎて行った。
(明治25年)9月1日 早朝、国子(※邦子)が姉上を見舞った。大したことはなかった。母上は鍛冶町(※神田区鍛冶町の石川銀次郎。石川銀次郎の父正助が同郷の一葉の父則義と懇意にし、則義が経済的に援助をしていた。石川は蒲鉾製造商。号は遠州屋。遠銀と呼ばれていた。直近では明治25年4月19日に出ている。)にお金を借りようと赴きなさった。私の頭痛は大変激しかった。水で頭を洗い、鉢巻などをした。筆を執ることが大変おっくうで、『文章軌範』(※ぶんしょうきはん/中国の文章読本。宋時代の正編と明時代の続編がある。模範とすべき文章を編集したもの。日本には室町時代に伝来。)をしばらく通読した。韓非子(※かんぴし/中国戦国時代の法家。韓非とも。著書『韓非子』。)の「説難(ぜいなん)」(※『韓非子』の「説難篇」で、説をなすことの難しさを説いている。相手の気持ちを知って説かないと逆に憎まれたり身に危険を及ぼすこともあることを述べている。『文章軌範』では続編に収録されている。)が胸に響いた。昼過ぎ、母上が帰宅された。鍛冶町より金十五円を借りて来られた。昼過ぎただちに、山崎さん(※山崎正助)に金十円返金に赴かれた。(その時)山崎さんが、「渋谷三郎さんをわが家(※樋口家を指す。)の婿に周旋しましょう、もしくは(渋谷さんに)お嫁に行かれてはいかがですか。」などとしきりに言ってきたのを、母上は断って来られたとのこと。「世はさまざまですね。」と一同笑った。(この前来た)渋谷さんの今日(こんにち)の姿も、一体どのような感じであっただろうか(と考えてみると)、わが家の中でのお話し(ぶり)は、怪しいほどその筋(※結婚)のことを引き合いに出しながら、(まるで)こちらの方から結婚話を言い出すのを待っているものだったように思われ(てき)た。はじめは私の父が、あの人(※渋谷三郎)に望みをかけて私の婿にと言いだされた頃、その返答を(渋谷さんは)はっきりとはしないで、(そのまま)何となく行き来して、私とも隔てなくお話しして、国子(※邦子)と三人で寄席に遊んだこともあった。そうこうしているうちに、私の父はこの事を気にしながら、結婚話は半ば整ったように思って急に亡くなったのだ。少し月日が経つうちに、あの人(※渋谷三郎)もまだ年が若く、思いが定まらなかったのかもしれない。ある時、母からそのこと(※一葉との結婚話)を丁寧に(渋谷さんに)言い出して、「はっきりした返答を聞きたいのです。」と言ったところ、(渋谷さんは)「私自身はいささかも異存はありません。承諾致しました。」と言った。(それを聞いて)母上は喜んで、「それなら三枝(※三枝家。真下専之丞の長女とみ子は三枝家に嫁していた。三枝信三郎がとみ子の長男。渋谷三郎と三枝信三郎は従兄弟。)に正式な仲人を頼みましょう。」と言ったところ、(渋谷さんは)「ともかくしばしお待ちください。さらに父と兄によく話して(からにします)。」と言って、その日は帰ってしまった。(すると)どういうことがあったのだろうか、そののち、(渋谷さんは)佐藤梅吉(※一葉の父則義の恩人真下専之丞の元で書生として働いていた人。則義在世時から親交があった。真下の孫である渋谷三郎とはなじみであった。直近では8月23日に出ている。)をして、怪しくも利欲にこだわることを言ってきたので、(※高額な結納金を要求した。)母上がはなはだしく立腹して、その請求を断りなさったところ、「それならこのご縁は成りえません。」と破談になってしまった。私はもとより、このことに心が引っかかっているのでもないし、だからといって(相手を)憎いのでもないので、母上がさまざまにお怒りになられるのをひたすら鎮めて、そのまま年月が過ぎ去ってしまった。だけれどもあちら(※渋谷三郎)から(こちらへ)の行き来も(また)、まったく以前と変わらなかった。父上の一周忌の折に、気にかけて訪問してきたり、新年の礼を欠かさないこと(は勿論)、任官して越後へ出立しようという時までわが家に必ず立ち寄るなどするのであるから、こちらから嫌がることもしかねて、彼(※渋谷三郎)から手紙が来たらこちらからも返事を出すなど、(なるべく)親しくはしていた。それなのに、今回の上京でどのように心を動かしたのだろう、再び昔の約束に立ち返って、この(結婚)話をまとめようとする様子が、あちら(※渋谷三郎)に見えていた。わが家はだんだん運が傾いて(きて)、その昔の面影もとどめず、借金は山の如くで、その上得る収入は、私が筆先の少しを持って(※小説を少し書いて、の意)、暮らしを立てようとする境涯。人には侮られ、世に軽んじられ、(その)恥辱と困難は一つ(や二つ)ではない。そうであるのに、今あの人(※渋谷三郎)は雲なき空に昇る朝日の如く(出世して)、(その)実家(※渋谷三郎の兄仙二郎が原町田の郵便局長をしている。)は評判の金持ちで、ますます盛大になろうとする様子。実姉(じっし)は某生糸商の妻になって、この家がまた三百円の利潤がある頃(※ここでは、様子ほどの意)という。自身は新潟の検事として正八位に叙せられ、月俸五十円の栄職にあるのである。今この人に私は頼る(べきな)のか。母上をはじめ妹も兄も、亡き父親の名まで辱めず、(樋口)家も見事に成り立つことは出来るが、それは一時の栄(さかえ)であって、もとより富貴を願う私ではなく、位階(など)、何だというのか。母上に安穏をお授けして、妹に良いつれ合いを与えて、私は養う人がいなければ路頭にも寝よう、三衣一鉢(※さんえいっぱつ/僧が持つのを許された三種類の着物と一つの食器のこと。ここでは出家托鉢を意味している。)の食につくことにしよう。今となってこの人になびき従うようなことは(決して)するまいと思う。それはこの人が憎いからではなく、はたまた私の(やせ)我慢の意地でもない。世の中のかりそめの富貴、栄誉を嘆かわしいものと捨てて、小町の末(※小野小町の行く末。謡曲の『卒塔婆小町』を踏まえる。恋多き絶世の美女小野小町が年老いて乞食の老婆になり、卒塔婆に坐っていた。それを見てとがめる僧とのやりとりから始まる小町伝説。仏教の深い哲理がある。ここでは男になびかず自身の進むべき道を歩いた小野小町に共感を抱く一葉がいる。)を私はやってみたく、この気持ちはまたいつか変わるかも知らないけれど、今日(今)の気持ちはこうなのだ。また(いつか)自ら(その気持ちを)見比べるときがあろうかと思って、このように記した。今日はとても物憂くて、何もしないで一日を過ごした。
(※一葉の父則義が渋谷三郎に一葉の婿にと言いだしたのは明治21年頃(一葉16歳頃)か。則義が翌明治22年7月に亡くなり、渋谷三郎はその年の夏に東京専門学校法科を卒業。母たきが渋谷に結婚の意向を問いただしたのはそれから間もなくのことであっただろう。渋谷三郎は樋口家をまだ富裕層だと思っていた。学校を卒業したばかりの男子の入り婿であるから、生活費を保証してもらうのは当然といえば当然ではあるのだが、結果的に渋谷三郎は金で一葉を捨てたことになる。一葉の死後、大正11年、山梨県の慈雲寺に一葉碑が建てられた際の式典で、渋谷三郎(当時は阪本三郎)は同席の文学者連から殴り掛かられたという逸話が残っている。殴り掛かったのは日記を読みこんだ一葉ファンであろうから、さもありなんである。しかし、見方を渋谷側に変えれば、渋谷にとってはひどい災難であっただろう。出世した渋谷は、没落した樋口家を本当に救いたかったのかもしれない。一葉の父と約束したことが心に引っかかってもいたはずである。しかし、高慢な渋谷の行状を顧みれば、それは樋口家のためだけとはまた考えにくい。塩田良平がつとに看破しているように、平民だった渋谷にとっては、入り婿となれば樋口家の士族の地位が得られもするのだから損はしないのである。一葉との結婚の裏には、樋口家の士族という地位があるのだ。ただ、そのようなガリガリの立身出世を絵にかいたような男の行為は、文学者にはそれだけで嫌われただろう。ただし、一葉の死後、母たきも亡くなり、一人残された邦子を再三助けたのはまた渋谷三郎であったことも明記しておく。人間は決して一面的なものではない。)
(明治25年)9月2日 晴れ。伊東夏子さん及び師の君に手紙を出した。(※萩の舎の稽古を休む連絡であった。)一日中何もせず沈思に終始した。この(日の)夕べ、久保木の姉上が家出をした騒動があった。(※姉のふじはお腹が大きく、神経が過敏になっていたらしい。)母上が大いに心配した。ただし、この夜帰宅したとのこと。雲が大変不穏である。「雨になるでしょうか。」などと言った。
(明治25年)9月3日 晴天になった。早朝に洗濯物を三、四枚した。「近頃は柔弱(な生活)に慣れてしまって(少し洗濯をすると)体が耐え難い程苦し(くて仕方な)いので、これからは力仕事に努めたいものです。」などと話した。久保木(※久保木長十郎。ふじの夫。)が来訪した。姉上の家出の顛末を語った。身投げなどの覚悟だろうか、水道橋のたもと(に立っているのを)取り押さえたということだ。(それを)聞くのも堪えがたい。久保木が帰るとすぐに母上は奥田(※奥田栄。樋口家はこの老女へ父の借金の返済を続けていた。直近では明治25年8月15日に出ている。)へ毎月の利子を持ってお行きなさった。伊東さん(※伊東夏子)から手紙が来た。昨日の返事である。母上は、奥田の家で昼食のご馳走に預って来られた。お帰りは昼過ぎであった。
(※この9月2日、3日の日記の記述は、いかにもぼんやりした一葉が感じられる。萩の舎の稽古を休み、終日<沈思>しているのであるから、姉のふじが家出しようが自殺まで図ろうが、心ここにあらず、という感じの一葉である。桃水と別れ、田辺龍子のつてで『都の花』に小説を掲載しなければ一円の金も入らなくなった状況で、大出世した渋谷三郎が現れ、陰から結婚を促される。それをきっぱり断ったはよいが、実は渋谷と結婚すればこの貧苦の生活からは抜け出せたはずなのである。逃した魚は大きい。だがそれは一葉の矜持、生き方に大きく反するものである。そうして、自らの道を歩む決心をする一葉に、かえって、借金と生活の不安が大きくのしかかってきていたのは間違いない。理想と現実のはざまで揺らぎながら、きっぱりと理想の方を選んだ一葉に、現実は容赦なくその牙をむき出してくるのである。)

※樋口邦子の「かきあつめ」の引用は塩田良平著「樋口一葉研究 増補改訂版」(中央公論社 1968年)から。
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)


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