現代語訳 樋口一葉日記 25 (M26.2.6~M26.2.11)◎完全無瑕の一美人、街中の百鬼夜行、歌詠みの因習と筆を執る者の本意、『文学界』創刊号と三宅龍子の異様な恰好
(明治26年)2月6日 空は曇っていた。「また雨になるだろう。」と人々が言っていた。著作のこと(※金港堂の『都の花』のための執筆。「ひとつ松」という題であったが、これは未完に終わった。)(だが)、思うようには書けず、頭はただもう痛みに痛んで、どんな思慮もみな消えてしまった。志すのは、他でもない、完全無瑕(※むか/無傷)の一美人を創造しようというものであり、目を閉じて壁に向かい、耳をふさいで机に寄り、(※心を集中し、瞑想して、の意)幽玄(※奥深く、微妙で、容易にはかり知れない趣きのこと。また、老荘や禅の哲理の深遠なさま。)の間(※世界、境地ほどの意であろう)に(入って)、理想の美人を(追い)求めようとすると、天地がすべて暗くなって、その美しい花のような姿も、その愛らしい頻伽(※びんが/極楽にいるという想像上の鳥で、顔は美女で鳥の姿をし、美しい声を発するという。)のような声も、(私の)心の鏡には映ってこなかった。かろうじて(その姿を)見定めれば、紫は朱(あけ)を奪い(※紫の朱を奪う/不当なものが正当なものにとってかわって、その地位を占めることのたとえ。また、偽物が本物に勝つことのたとえ。中間色の紫が正色の朱(濃い赤)を圧倒する意から。)、白は黒に染まり、表には裏があり、善には悪を伴い、私の筆で(その姿を)整えて、(幽玄の世界から)現実の世界に連れ立って来るほどの価値はなく、しばしば嘆き、しばしば恨み、あそこを削り、ここを削(そ)いで、少しは私の心に叶うものになったかと思うと、黒が消えた時に白も消え、悪を退けた時に善もまた見えなくなってしまった。こうまでに私が恋わずらう(ほどの)美人は、実際にはこの世の中にあり得ないものなのだろうか、もしくは私に前世の因縁(※宿命)がなくて、平凡で取り柄のない花や紅葉でなければ私の心の目に映らない(という)のか。もしくは(この)天地の間(※全世界、地球上)に真の美というものが(そもそも)ないのだろうか。もしくは私の(審美)眼では美ではないと判断するもの(こそ)が(かえって)真の美なのか。もしくは天地の自然(※おのずからそのままの天地。世界のありのまま。)が即ち美であるというのか。もしくは真の美というものは、描くことの出来るもので(は)なく、書くことの出来るもので(も)なく、口でも心でも(表現し)尽くし難いもので(あって)、(例えば)天地の間に満ち満ちている空気が、目にも見えず手にも取り難く、しかもこれ(※空気)があるからこそこの世に生きていられるのと同じようなもの、(つまり)こう私が(空気のように何も意識せずに)言っていること(自体)もが即ち美か。人の見る目が即ち美か。私が悪と見定めて書いたものを、またある人は(それを)善と見るのか。それならば、私が悪と見定めたものが即ち美であることになろう。深く思考し続けて心は天地の間を駆け巡り、体は苦悩の汗でびっしょりになった。思慮に疲れてからは、日中(も)まるで夢の(中の)ようで、目が覚めているとも分からず、眠っているとも分からなかった。これほどまでに(私が)求める美の本体、実際にあるはずのものとも、ないはずのものとも、確かに見定めるのは一体いつのことになるのやら。私は営利(※利益を求める活動)のために筆を執るのか。それならば何故にここまで思いを凝らす(※心を集中して一心に考える)のだろうか。得るものは文字数四百を以て(わずか)三十銭の価に相当するのみ。家の貧苦は迫りに迫って、魚肉を食べることは出来ず、新しい着物を身に付けることも出来ない。(家には)老いた母がいる、妹もいる。(だから)一昼夜、安らかに過ごす時間はないのだけれど、(その生活のために)不本意にも文を売る(という)こと(をしている現実)の嘆かわしさ(よ)。(何も書けず)むなしく噛みしだく筆の鞘(さや)の哀しさよ、(ああ)つらい世の中であることだ。
(※一葉の創作におけるイマジネーションを語った、極めて貴重な文章である。内容が抽象世界だけに難解さを伴うが、出来るだけ忠実に、かつ文意が的確に通じるように訳出した。原文もそうだが、この箇所の文章には「誠(真)」「善」「美」の3つの言葉が繰り返し使われている。3つの言葉を合せれば、「真善美」となり、これは人間の普遍の理想を表す価値観を言い、それぞれ認識上の真、倫理上の善、審美上の美である。三宅龍子の夫である哲学者三宅雪嶺(雄二郎)が明治24年に著した「真善美日本人」を一葉が読んだかどうかは分からないが、少なくとも一葉が哲学的思考を試みていたことはこの部分で明らかであろう。そのことからも、一葉の言う<完全無瑕の一美人>とは、要するに、「理想的な人間」を指すのだろうと思われる。一葉の言葉には、美と善を混同する箇所があるが、これは一葉がまさに真善美すべてを追い求めていた足跡であり、それを裏返せば、一葉が「人間」を追求する作家となることの芽生えであると見て取れるのである。言葉を換えれば、単なる「小説」ではなく本物の「文学」を書くことへの転換点とも言えるのである。そう一葉に影響を与えたのは、明治25年12月24日の日記に記したように、『早稲田文学』の「文学と糊口(ここう)」であろう。売文行為を恥じ、しかしそれでしか家族の生計を立てられない葛藤がこの文章の後半にはある。一葉が「文学」の本来を胸に刻み、やがて『文学界』の新しい文学の風を受けて、自身の文学の方向性を定めることが出来たのは、彼女の眼がまさに「人間」を見つめ、そこに本当の「文学」があることに気付き始めていたからに他ならない。無論それがすぐに彼女の作品に直結するわけではないのだが、少なくとも一葉という天才の心の奥底で、何かが動き始めたことだけは間違いないと言えよう。)
(明治26年)2月7日 晴れになった。一日中机に寄り暮らして(※金港堂の『都の花』のための執筆)、日没(頃)から摩利支天(※下谷区上野町の徳大寺のこと)を参詣し、荻野さん(※荻野重省。一葉の父則義の友人。元司法省の官吏。直近では明治25年9月16日に出ている。一葉はよくこの人に本や新聞を借りている。仲御徒町(なかおかちまち)の宿屋に妻といた。)のところで新聞(※『東京朝日新聞』)を借りた。「今日は議会開会の日だ。(その)模様はどうだったのだろう。」と人々は言うようだ。(※明治26年1月23日の記事にもあるように、野党から提出した予算修正案を政府が拒否、それに対して弾劾的上奏案が提出されたので政府は2月6日まで議会の停会を命じていた。)(そこからの)帰り道、切通し坂(※地名)の辺りの様子は(何とも)言いようもないものであった。何よりも高く響くのは号外を売りに来る新聞の売り子の声(で)、そして、壮士とかいうような人(※当時の立憲自由党の青年党員)が、あちこちの辻に立って、今の世の有様を文章にして、「鉄石心(※てっせきしん/極めて堅固な意志)」とか(何とか)怪しい節をつけて唄っている有様なのだ。郵便局(※本郷電信支局)の灯(ともしび)が輝いて、郵便配達員が(その辺りを)足繫く行ったり来たりしているより、(その中の)電話交換所は(さらに)忙しそうであった。警察(※電信支局の隣にあった本郷警察署)に出入りしている人で、二重廻し(※明治大正期に流行した男性用和風防寒コート)の襟を深々と立てているのは探偵(※刑事)と思われ、金ぼたん、角帽(かくぼう)(※つまり東京帝国大学の制服姿)の(学生が)二人三人連れで立ち入る寄席は女義太夫である。(※おんなぎだゆう/三味線に合わせて義太夫節(浄瑠璃の一つ。物語を音曲を付けて語る芸能。)を語る若い女の歌い手。現代のアイドル。熱狂的なファンが多かった。)身なり、装いだけは、どこのお姫様、奥方かと思われる(ような)人が、夫ではあるまい(と思われる)人に手を取られて、面白そうに話して行く言葉を聞くと、味噌こし下げて豆腐屋に走るそれめいていた。(※派手な格好のわりに極めて庶民的な口ぶりであったことを言っている。)文明開化か、百鬼夜行か。(※ひゃっきやこう、ひゃっきやぎょう/さまざまな妖怪が夜に列をなして歩くこと、また、多くの得体の知れない者たちが奇怪なふるまいをすること。)物を書く心に任せれば、材料は山とあるだろう。家に帰り着いた時に、わが新聞(※『改進新聞』)も号外が来ていた。議会は解散にもならず、内閣総辞職にもならず、無期停会になったのである。(※実際は無期ではなく2月25日までの停会であったが、一部の新聞が誤って報じた。)伊東首相(※伊藤博文)が病後はじめて(議会に)出席し、いつもの滑らかな言葉遣い、豊かなお姿(を以てして)、上の者下の者をよく説き、また諭して、このような平穏な収まりになったのである。この夜、『朝日新聞』の小説五十回ほどのもの(※宮崎三昧の「塙団右衛門」という小説)を読んだ。わが桃水先生(※半井桃水)のもあった。「雪だる摩(※雪達磨の書き間違い)」という探偵小説であった。十二時くらいに床に就いた。
(明治26年)2月8日 空は曇っている。とても寒い。炬燵を昨日よりやめにしてしまったので、ひとしお寒い。(※貧しさから炬燵を外したか。)
(明治26年)2月9日 起き出てみると、空は晴れていたけれど、垣根のもと、草の葉の上は、白々と雪をのせていた。「道理で夜の間が寒かった(はずだ)。」などと話した。朝の間にしばらく小説のことを国子(※邦子)と話した。風は少しあるけれど、今日は暖かである。「さてさて、頑張ってあと十日ほどの間にこの小説をひとつ書き終えよう。」と思った。金港堂からの注文に、「歌を詠む人の優美なところをお出しなさい。」というのが(あって)、(それは)とても苦しいことであった。あれほどその(※歌人の)社会に立ちまじって、浅ましくうとましいことを見聞きし慣れた私にとっては、歌を詠む人とさえ言えば、無作法で、ひねくれている人のように思われて、本当の優美なことを書こうとするのなら、(そんな歌詠みの人ではなく)人知れぬ荒れ果てた家で世間を避けて暮らしている人をこそ(その)例えとしてあげるべきであろう。玉すだれの大奥で物思いに沈み、ひっそりと身を隠している姫君などにも歌を詠む人はいないとは言い難いけれども、(しかし、どちらにせよ)それら(※世間から隠遁して暮らしている人の実際)は(完全無瑕の一美人と同様に)全く私の眼に映ってこないのだ(から苦しいのだ)。それにしても、因習(※いんしゅう/よくないのに改めない昔からの習慣の意)の捨て去りにくいものであることはこのこと(※世間から隠れて生活している人の姿の実際が想像できないこと)からも分かるのであって、(今まで受けて来た)教えというものをなかなか投げやりに出来ないことはもっともなことではあろう。(※原文は<さてもならはしのさり難きをこれにしれば教へといふものゝゆるがせになしがたきは道理(ことわり)ぞかし>である。<さても>はそれにしても、の意。<ならはし>はしきたり、習慣の意だが、マイナス面を強調する文意から因習と訳した。<さり難し>は離れがたい、捨て難い、の意。問題は、<これにしれば>の<これ>が何を指すかである。小学館版の一葉全集の注釈には珍しくこの箇所の部分訳が示されている。それによると、「陋習(※ろうしゅう/悪い習慣の意)の離れにくさをこの歌人社会に関係して体験しているので」とあり、この全集の編者は<これ>を一葉が「歌人社会に関係していること」と捉えている。「体験しているので」はそれを踏まえての<しれば>の意訳であろう。しかし、本当にそうだろうか。<これ>が指す内容にしてはかなり遠すぎるきらいがある上に、そういった込み入ったことを<これにしれば>という平易な文章で済ますにはやや無理があるのではなかろうか。それにそのように訳すと、直前の<それらはすべて我眼(わがまなこ)にうつり来たらずかし>、つまり、世捨て人のヴィジョンが全く浮かばないという苦しみとのつながりが断ち切られ、この部分だけが全体から浮いてしまいかねない。やはり、<これ>は直前のまさにこの文章を指すのでなければならないように思われる。要は、本当の優美な世界を創造しようにも、その実際の姿が想像の眼に映らないのは、嘘と虚飾で塗り固められた歌人の因習から抜け出せず、その古い教えを自分がおろそかに出来ないでいるからであって、それももっともな、無理からぬことではある、と言っているのである。実はここでの重要なポイントは、もう少し前の、金港堂からの注文の「歌を詠む人の優美なところをお出しなさい。」というのがとても苦しい、というその「苦しい」のが何故かという解釈にある。単に、歌人の世界が本当は優美でないから「苦しい」のではなく、優美であろうと思われる理想の世界を書こうにもその詳細が何も浮かんでこないからこそ「苦しい」のである。一葉のこれまでの哲学的思考を鑑みればこのように一段深く解釈するのが妥当であろう。そしてその「苦しさ」の原因が、歌人の世界で生きて来た因習と教えに染まっている自分にあるのだと、一葉は自分自身を分析しているのである。)心を洗い、目をぬぐって、真の天地(※本当の世界)を見出すことこそ、筆を執る者の本意(※本来の意思、本懐)であろう。ほんのちょっとの井(※井戸)の中に隠れ住んで(※井の中の蛙を踏まえる。)、これより他に世界はないと悟った顔をしているのを、人から見たら、どんなにおかしいことであっただろう。私もその類いで、我ながらおかしい(ことだと思う)のに、その眼(まなこ)を開きがたいのは、(どうやら)その習性が(私の)生まれながらのものである(からの)ようだ。やんぬるかな。(※原文は<やみぬべき哉>であるが、文章の流れから、おそらく「やみぬる哉」と同じ意味で記したと推測してそう訳した。「やんぬるかな」は元々漢語の「已矣哉」の訓読みで、「やみぬるかな」が音便変化したもの。「已む」は事に決まりがつく、終わりになる意、「矣」「哉」も詠嘆を表す助詞なので、直訳すれば「ああ、終わったなあ」となるが、用語的には、今となってはどうしようもない、仕方がない、もうおしまいだ、といったニュアンスで使われる。原文の方はそれに推量や当然の助動詞「べし」を付けたものと解釈した。)
敷島のうたのあらす田あれぬれど
にごらぬかたもあるべきものを
(※江戸時代後期の歌人、香川景樹(かがわかげき)の歌に、「しき島の歌のあらす田荒(あれ)にけりあらすきかへせ歌の荒樔田(あらすだ)」とあり、それを踏まえたもの。<敷島>は和歌の道、歌道の意。<歌のあらす田>は歌荒樔田(うたあらすだ)という、『日本書紀』に出てくる地名。和歌の道が荒廃してしまったことを掛けている。<あらすきかへせ>は「あらすきかへす」、田を新たに鋤(す)き返す、掘り返す意。よって、香川景樹の歌は、歌道が荒廃してしまったことだ、新たに和歌の田を鋤きかえせ、ほどの意となろう。一葉の歌は、歌道の和歌の田は荒廃してしまったが、けがれていないところもあるはずなのになあ、ほどの意。)
(詠んでみたけれど、)これは歌ではないなあ。(※歌としてはどうかなあ、ほどの意)
この日の午後、塙道忠(※はなわみちただ/一葉の兄虎之助の陶器絵付けの弟子。旧姓能勢。)が来た。兄上の代理である。少しお話をした。
(明治26年)2月10日 晴れであった。かろうじて(小説の)腹案だけは出来たので、今日から書きおろそうとした。午前中、することがあって遊んだ。
(明治26年)2月11日 小石川(※萩の舎)の稽古に行った。新たに入門した人が二、三人いた。渡瀬よね子、坪内某(坪内銑子)、白根某(白根松子)とか聞いた。この方々に習字を教えなどした。三宅龍子さんが来た。「『文学界』の創刊号を郵送するつもりでしたが、(つい)怠けてしまいました。二十六日の発会(※ほっかい/その年最初の歌会のこと)までお許しください。」などと言った。(私が)「(『文学界』には)どんな顔ぶれが並んでいるのですか。」と聞くと、「創刊号は透谷(※北村透谷(きたむらとうこく)/評論家、詩人。直近では明治25年12月26日に出ている。)などのような人で格別面白くもありません。二号の予告を見ると、大和田建樹(※おおわだたけき/歌人、詩人、国文学者、唱歌の作詞も多い。「鉄道唱歌」が有名。)、井上通泰(※いのうえみちやす/歌人、医師で、森鷗外と同窓であった。「遠野物語」で著名な民俗学者の柳田国男の兄。)などの大家連に、私とあなたとの名前が載っています。あなたの「雪の日」はいつもより出来が悪いように(私には)思えましたが、世間の評はどうだか分かりません(ね)。」と言った。(私は)「私もそう思っていたいたことです。だけどそれは脳の仕業(しわざ)で私の罪ではありません。」と笑った。龍子さんは、「今日は御徒町(おかちまち)の会堂(※下谷教会)で巌本善治(※いわもとよしはる/明治女学校の教頭。直近では明治25年12月26日に出ている。)さんの御父上を会葬するのです。」と言った。(龍子さんは)浜ちりめん(※滋賀県長浜地方特産の縮緬(ちりめん)。縮緬とはシボのはっきりした絹織物のこと。)の空色の裾模様に、同じ色のあられ小紋(※一面に石畳の細かい文様を散らした織物。)二枚を下着(※和服を重ね着した時に上着の下に着るもの)に着て、帯は海老茶の繻珍(※しゅちん/滑らかで光沢のある繻子織(しゅすおり)という絹織物に模様を織りだした厚い布地。)、羽織は小豆色の魚子織(※ななこおり/斜子織とも。数本の縦糸、横糸を交互に交差させて織る方法。織物の表面が魚卵のように粒だつ。)であった。かき鼠(※暗褐色)の生地に八重桜を二輪ほど水色の糸で縫って、少しだけ金糸が入った襦袢(※じゅばん/和装の下着)の襟が見えないくらいに甲斐絹(※かいき/甲斐(山梨県)の郡内(ぐんない)でかつて作られていた絹織物の一種。軽く薄手で光沢があった。)の首巻を深くしているのは、「喉にわずらっているところがあって。」というわけであった。髪は何の飾りもなく、イギリス結び(※束髪の一種で、後頭部で三つ編みを長く結い、さらにその三つ編みを花形に巻いて、髷にしたもの。)とかいうのに束ねて、ちょっと見ではただ十六、七歳ぐらいばかりのように見える。最初から(他の)人とは違っていた人であったが、三宅さん(※三宅雄二郎)のもとに嫁がれてから、いっそうはなはだしく(何か)異様なことを会得したのか、どうしても普通の人には思われなかった。この(今)着ているものも、むやみに(上の方に)引っ張りあげにあげて着ていたので、腰のあたりがくしゃくしゃに畳まって、ちょうど大きな袋を巻き付けたようであった。みの子さん(※田中みの子)が言葉を尽くして、「みっともない。お着替えなさい。」としきりに言うので、私も横から(そう)勧めたところ、(龍子さんは)微笑みながら、「それなら母様(※年の離れた田中みの子を指す。)の仰せに従いましょう。」と言って、田中さんに身支度をし直してもらった。私と伊東さん(※伊東夏子)とが左右にいて、それを見ながら、「ここは隠した方がよいですよ。」などと言葉を添えると、(龍子さんは)「ああうるさい、(あれこれ)おっしゃらないで。御筆を取っては樋な子さん(※一葉の呼び名。一葉の本名は樋口夏子で、伊東夏子と同名であったことから、萩の舎の中では、それぞれ、ヒ夏ちゃん、イ夏ちゃんと呼び分けられていた。)はお上手ですけれど、ご自身の装いは私と姉妹の仲ですよ。(※あなたも似たり寄ったりですよ、という意であろう。貧しい一葉はいつも地味で古びた着物を着ていた。一方、萩の舎を彩る裕福な華族のお嬢さんたちは、一葉が女性らしい観察眼で龍子の着物について詳しく記していたように、着ている着物が庶民とはまるで違っていただろう。龍子はいつも貧相ななりの一葉にまで自分の服装のことを言われて、少しカチンときたのかもしれない。ただ後に続く龍子の言葉を読めば、それもすぐに冗談にしていることが分かる。)(樋な子さんたら、)あれこれとおっしゃいながら、私の姿を胸中の鏡に映して、『(小説の)第五回の(中で書く)醜女(しこめ)はあの(人の)状景を書こう。腰のあたりに浮袋(※浮き輪)を付けて。』などと、今風の下書きの絵まで考えていらっしゃるのでしょう。」と(言って)笑ったので、私も他の人もこらえきれずに笑っ(てしまっ)た。(すると龍子さんは)「(会葬に)遅れてしまいます、遅れてしまいます。さらばさらば。」と言って、駆け出した時に頭を二、三度下げたのが一同への挨拶となったが、(龍子さんが行った)あとは台風の後のようで急に寂しくさえなった。中村礼子さん(※萩の舎門人。直近では明治26年1月25日に彼女の家で数詠みの会が催されたが一葉は行かなかった。)が、「十六日に歌留多会をするのでおいでになってくれませんか。」と言った。(私が)「どうでしょうか、(ちょっと)難しいでしょう。」と答えると、(礼子さんは)「あなたはわが家をお嫌いでいらっしゃるのでしょう。」と不機嫌になった。(先日開いた)数詠みの仲間四、五人が残らず参加するとの約束であったということだ。一同が家に帰ったのは四時であった。
そういえば、江崎まき子さん(※萩の舎門人。乙骨まき子。結婚して江崎牧子。岐阜在住で明治24年10月の濃尾大地震の際にはその安否を一葉は心配している。直近では明治25年2月23日にその名が出ている。)が昨日出産したのだった。「女の子でした。」と知らせがあったのだった。この夜は邦子と一緒に九段(※地名)で遊んだ。(※散歩したのだろう)夜は暗く風は強く、三崎町(※半井桃水が営む松濤軒(しょうとうけん)という茶葉屋がある町)あたりは家々が戸をおろして大変ひっそりとしていた。「半井さんのところには龍田さん(※半井桃水の弟、龍田浩。直近では明治25年12月20日に出ている。)だけが見えました。」と国子(※邦子)が言ったので、(次のように歌った。)
みるめなきうらみはおきてよる波の
たゞこゝよりぞたちかへらまし
(※<みるめ>は「海松藻」で海藻のこと。<うら>(浦)、<よる波>(寄る波)、<たちかへる>(波が寄せては返る)はその縁語。和歌では<みるめ>を「見る目」、つまり「会う機会」に掛ける。あの人に会う機会がなかったことを恨みに思いながら、起きては寄る波のようにただここから引き返したものかなあ、ほどの意。)
(私は)とても愚かだなあ、人に言うべきことでもないのに。九段に行った頃、はるか南の空がうっすらと赤く闇を焦がして、(その赤が)だんだん濃くなっていくのは、火事であろう。小川町(※地名)に来た頃、人々が騒ぎだして、「この風ではきっと大火事になるだろう。」と言った。交番所(※派出所)に着いて電報を見ると(※警察署から連絡して来た電報を派出所の掲示板に貼りだしたもの。)、本芝四丁目(※地名)あたりから(の出火)であった。(※実際は芝区本芝町二丁目から出火し、九十二戸の家屋が全焼した火事であった。)不思議に思うのは、去年の天長節(※天皇誕生日。明治25年11月3日)に(も)、国子(※邦子)と九段に遊んでその帰り道、この近辺で錦町(※地名。神田区錦町)からの火事に会った(ことだ)。「さだめし母上がご案じになっていらっしゃることでしょう。急ぎましょう。」と駆け出した。小川町から万世橋(よろずよばし)をを経て、明神坂で母上への土産に飴を買った。これは母上の好物の一つで、しかもどこのよりもここの飴を好まれるからである。帰りがけは、ますます風が吹き荒れて、顔を向ける方向もなく、露店などは大方灯火を吹き消されて、(ぶつぶつと文句を)つぶやきながら(店をたたんで)家路についているようであった。残っている露店も、買い手がいないので、なんとなしに寒そうにうちしおれて、もう少しで泣き出してしまいそうに見えた。家に帰るまで火事はひたすら燃えに燃えているように見えたが、ほどなく火は消えたようだ。
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?