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現代語訳 樋口一葉日記 13 (M25.3.12~M25.3.20)

日記 (明治25年(1892))3月

(明治25年)3月12日 日差しは薄いけれど、晴れなので、梅見の催しは実行しなければならない。(※前日まで一葉は梅見に行きたくない思いを綴っている。)わが家を出たのは九時であった。その時、(入れ違いに)三枝信三郎さん(※真下専之丞の孫。銀行家。直近では明治25年1月17日に出ている。)が来られた。(萩の舎の)師(※中島歌子)のもとに一同揃った。車(※人力車)を連ねて向島(※むこうじま/墨田区の地名)に向かった。自分は一人(車で)走り抜けて、小梅(※地名)に吉田さん(※吉田かとり子。萩の舎門人。直近では明治25年2月21日に出ている。)を誘いに行った。(ところが)すでに(吉田さんは梅見に)赴いたあとであった。臥龍梅(※がりゅうばい/亀戸天神社の隣に亀戸梅屋敷という梅の名所があり、そこに龍が大地に横たわっているかのような臥龍梅という梅があった。水戸光圀が名付けたとされる。明治43年の水害で枯死。)に清楚な六花(※りっか/雪の異称。ここでは梅の花のこと)を見て、これより徒歩で、江東梅(※こうとうばい/香取神社の近くにあった梅園)に向かった。庭園は広々として遠くまで見渡せ、(梅の)樹の(趣ある枝ぶりの)姿はとてもいとおしく、花は少し盛りを過ぎていたけれど、花の香りが袖に移って、筋が通らない(恋人の)咎(とが)めをお受けなされる方も(どこかに)いないだろうかと、面白く思われた。(※古今集の歌に、「梅の花立ちよるばかりありしより人のとがむる香にぞしみぬる」(梅の花に少し近寄っただけなのに、恋人が(一体誰の移り香なのかと私を)とがめるほど梅の花の香りが(袖に)染み入っていたことだ、ほどの意)とあり、それを踏まえたもの。)(梅園の)奥のあずまやで野点(のだて)の粗茶を味わい、玉子に空腹を満たすなど、高貴な婦人の方々がどんなにか珍しいほどお喜びなさったことだろう。嬉々(きき)とした喜びの声、愛々(※あいあい/愛らしいこと)たる心からの笑み、こんな時にこそ人の真情が見えるものだ。この梅園から車(※人力車)で木下川(※きねがわ/江東梅園から北へ1キロのところにあった6000坪に及ぶ木下川梅園。通称「次郎兵衛の梅」。勝海舟の別荘地でもあった。)へ赴いた。細い川の流れが清らかにさざ波を浮かべて、広々とした水田はまだ耕しておらず、時々そこに混じる麦の青く鮮やかなさまなど、造化(※ぞうか/造物主が創造した天地。)が自然(※おのずから/元から持っているありのままのもの、という意。)の美を尽くしている中を、ゆっくりと(車で)運ばれていった。蓊鬱(※おううつ/草木が深く生い茂っていること。)たる老松(おいまつ)の洒々(※しゃしゃ/さっぱりしていてわだかまりのないこと。)たる間に、紅白の香花(※こうか/香りのよい花。ここでは梅花。)が透けて見えるのは、目指す梅林であろう。到着してみると、入り口に細い鉄(棒)で門を設けていたのは、「これが無かったら(よいのに)なあ。」と恨みに思われた。先の二つの梅園のいずれも劣っているわけではないが、この梅園(※木下川梅園)の中へ入るに及んで、ここがさらに一段まさっているものがあることを知り得た。花は今(まさに)十分の香りを放って、全ての枝に色(※花)がないものはなく、ことに雨後の天空は晴れ晴れとして、風もなく暖かで、(世間の)人は「明日の日曜を(ここで梅見としよう)」と心に期するだろう。(※当時は土曜半休、日曜休み。)花の下で無風流な洋杖(ステッキ)(を振り振り歩くような輩)も見えず、果物の皮を投げ捨てて、せっかくの園内を塵塚にする輩もなく、たまたま目に入ったのは、酒に酔って十徳(※着物の一種。僧や茶人が着る上着。)のいでたちをしているのか、(※原文は<一瓢(いっぴょう)に真意(まこと)を属(よ)せし十徳(じっとく)出立(いでたち)か、>で、<一瓢>とは酒を入れた瓢箪(ひょうたん)のこと。<真意>は本当の心、ここでは単に心のことと判断した。<属せ>はゆだねる、まかせる意。つまり、酒に心をゆだねた十徳姿なのか、という意味に解釈した。)猟銃を肩にかけた青年がいるのみであった。(また、)あずまやのほとりで、三宮さん(※三宮義胤(さんのみやよしたね)/政府の外交官。当時は宮内庁官吏。妻はドイツ人であった。)が夫人同伴で(梅園を)遊覧されているのを見た。しばらくしてここを出た。片山さん(※片山てる子。萩の舎門人。直近では明治24年11月9日に出ている。)がしきりに名残惜しそうにされているのも面白かった。この梅園を、伊東さん(※伊東夏子/萩の舎門人。一葉の親友)は(次のように)おしゃった。「(まるで)紋付上下(もんつきかみしも)(※きちんとした和服の正装)だ。」と。なるほどその評は当たっているだろう。「もう少し乱雑な植え方であったらよかったのに」と思う。狭いあぜ道を何本か伝って、向島新梅屋敷(※向島寺島村にあった花屋敷。通称百花園)に着いた。ここはまだ梅は早かった。(そこを)出る頃より空は急に暗い雲に閉ざされてしまった。車(※人力車)を急がせて木母寺植半楼(※もくぼじうえはんろう/向島木母寺の境内にあった植半という料亭。明治25年3月10日にもこの名が出ている。木母寺は梅若伝説の地。)に着いた。ここにて一酌(※いっしゃく/酒をちょっと酌み交わすこと。一献。)する間、遊戯(※和歌の遊びであろう。)がいろいろとあった。(やがて)日没になって帰路についた。堤(※隅田川の土手、墨堤(ぼくてい)かと思われる。)にて師の君とお別れした。家に帰り着く頃には、大雨が盆を覆すようであった。
(明治25年)3月13日 大雨。昼過ぎより晴れる。師の君ご依頼の縫物仕事にとりかかる。夜を徹して従事する。この日、稲葉さん(※稲葉寛の一家)が、小石川柳町(※地名)に引っ越した。(※稲葉寛は、元稲葉家の家来と思われる千村礼三(ちむられいぞう)を頼って、ある事業計画を立てたがうまくいかず、寛の実家に逃げるように引っ越した。明治24年9月24日にそのことを記してある。)
(明治25年)3月14日 曇り。縫い上げた着物を持って小石川(※萩の舎)に行く。師の君としばらくお話して帰った。(帰ると)稲葉さんが来られていた。この日の夕べに新聞の号外が来た。陸奥農商務大臣(※陸奥宗光(むつむねみつ)。元海援隊。農商務大臣は農林大臣と通産大臣を兼ねたもの。)が依願免官(内閣批判によるもの)し、河野敏鎌(※こうのとがま/元は枢密顧問官だった)氏が後任だとの知らせである。ただし陸奥さんは宮中顧問官(枢密顧問官)に任ぜられたとのことだ。
(明治25年)3月15日 晴れ。今朝配達された新聞をあらためてみると、内閣の動静が定まらない。品川内務大臣(※品川弥二郎。総選挙において激しい選挙干渉、妨害し、死者25名を出して引責辞任。明治25年2月15日に総選挙のことが記してある。)がその職を副島伯(※副島種臣/そえじまたねおみ)に譲って、自身は宮中顧問官に転じたのをはじめとして、一方では、「後藤逓信(ていしん)大臣(※後藤象二郎/ごとうしょうじろう)は冠を挂(か)く(※官職を辞す)べきである。」と言い、「某(なにがし)の大臣は辞表を提出された。」と言い、世間のありさまは乱れもつれ、新聞記者が、得意の筆を振るうことのできる時機と見えた。

 午後母上が、森さん(※森照次(もりしょうじ)正しくは森昭治。一葉の父則義の東京府庁時代の上役。樋口家は1月中にこの森昭治から6月までの半年分の生活援助をもらう約束をしていた。明治25年2月18日に一葉と母はお金を借りに行っている。)の所へ赴きなさった。その(母上の)留守に、稲葉さんを尋ねて、渡会(わたらい)という人が、本所(※地名)よりやって来た。元は千村(※千村礼三)のところにいた職工ということで、いろいろなことを話した。稲葉さんが食言(しょくげん)家(※詐欺師。嘘つき)であることをこまごまと述べ立てた。驚くべきことは一つや二つではなかった。私も国子(※邦子)もひたすら途方に暮れるばかりであった。しばらくすると、(渡会という人は)柳町(※地名。稲葉寛の引っ越した先。)へ向けて行った。(やがて)母上が帰宅された。今の話を少ししているうちに、(渡会と)同じく「本所からだ」と言って、また一人やって来た。(そうしてまた)稲葉さんの話をした。(※本所は稲葉寛が引っ越す前に住んでいたところ。渡会ともうひとりの男は、稲葉が計画していた事業の債権者であろう。稲葉が姿をくらましたので捜しに来たのだ。)そうこうしているうちに、村松の老人(※不詳)があわただしくやって来た。これは、この人たち(※渡会ともう一人の男)が我が家より先に村松のところに行ってこの話をしたので、それに大変驚いて、それを我が家にも伝えようと思って来られたのである。村松の老人はしばらくして帰った。母上と国(※邦子)とはお風呂に行った。(それと)入れ違いにお鉱さん(※稲葉鉱。稲葉寛の妻。)が来られた。私にいろいろなことを尋ねられたが、どう答えるべきかためらわれて、深くは語り合うこともしなかった。母上もやがて帰宅された。先ほどからの事について、(母上は)「今よりおいでは無用です。あなた様ゆえに、我が家にまで大変迷惑がかかることがありますから。」と(お鉱さんに出入りを)断った。お鉱さんが涙などを流して弁解されたので、母上も心弱くお泣きになられた。自分はその場に耐えかねて、次の間に退いた。(やがて)お鉱さんが帰宅された。この夜も大変怠けて、はやく寝てしまった。(※稲葉鉱は元は旗本のお姫様である。一葉の母たきは鉱の乳母として稲葉家で働いていたので、元々の身分の違いはあるとはいえ、たきは鉱を娘のように思っていただろう。鉱にとっても、たきは母親と変わらなかったはずだ。二人の間の感情が胸を打つ場面であるが、その修羅場に居合わせた一葉にとってもまたいたたまれない気持ちであっただろう。そしてその修羅場の根本は「貧」であることに、一葉は他所事ならぬ思いにかられていたのではないかと察せられる。)
(明治25年)3月16日 晴れ。一点の雲もない。「本妙寺(※本郷区菊坂町にある寺)で種痘(※天然痘の予防接種)を行う」というので、私も国子(※邦子)も、「行こう」と思って支度をした。二人の髪結いを終えて、母上は奥田(※奥田栄。直近では明治25年3月7日に出ている。)のところへ所用があって赴きなさった。自分は『聖学自在』(※せいがくじざい/江戸時代の儒学者新井白蛾(あらいはくが)の随筆集。)を通読した。昼過ぎ早々、秀太郎(※ひでたろう/一葉の姉ふじの子)と共に種痘に行った。他には何事もなし。
(明治25年)3月17日 晴れ。みの子さん(※田中みの子)の発会(※ほっかい/その年最初の歌会)である。十時頃より支度をした。渡会という人(※2日前の3月15日に出ている。)が来た。稲葉さんの事についてしばらく話された。そのうちに西村さん(※西村釧之助/直近では明治25年2月7日に出ている。)が来た。(すると)その人(※渡会)は帰宅した。自分はすぐに家を出た。師の君のもとで少しお話をした。田中さん(※田中みの子)のところへ行ったのは十一時過ぎの頃であっただろう。今日の来会者は予定よりいっそう多く、二十六、七名がいた。点取(和歌の点数を競うもの)の題は、「朝雲雀(あさひばり)」。重嶺さん(※鈴木重嶺(しげね)/元旗本、明治期では官僚、歌人。直近では明治25年3月9日に出ている。)、鶴久子さん(※江戸時代後期の歌人蜂谷光世(はちやみつよ)の未亡人。光世の号が鶴園で、その死後にそれにちなんで鶴と名乗った。民間歌人。)の甲(※最高点)は伊東夏子さん(※前述。一葉の親友。)、三艸子さん(※松の門三艸子(まつのとみさこ)。夫と死別後、江戸後期の国学者、歌人の井上文雄に和歌を学んだが、家が没落し、深川で芸者となった。美貌と才気でならしたという。後年歌塾を開き、人気歌人となっていた。)の甲は自分の歌であった。皆さんが解散しお帰りになったのは五時であっただろう。自分もすぐに車(※人力車)で(家まで)送られた。この夜は何もしないで寝てしまった。
(明治25年)3月18日 曇り。十時頃からは雨になった。姉上(※ふじ)が来られた。午後、関場さん(※関場悦子。邦子の友人。直近では明治25年3月7日から11日にかけて出ている。)ならびに中島(歌子)先生のもとより手紙が来た。この手紙に応じて、近隣の、もとは中島家の下女であった今野たま(※直近では明治25年1月2日に出ている。また、明治24年9月26日に出会った今野はるは今野たまの妹らしく、同じく中島家で下女をしていたらしい。)のところへ行った。(※おそらく中島歌子のところでまた働いてほしいという要請であったのだろう。明治25年2月11日にも同様の話があったが、その際は今野はるの方であった。その時はるが断ったので今回は姉のたまに当たってみたのであろうかと思われる。実際は別の人物と交渉中で、今野たまはその間だけの臨時の雇いとして迎えるつもりであった。結局断られた。)これについての返事の葉書を(師の君に)したためている時に、思いもかけず、半井先生がご来訪なされた。(慌てて)あたりを取り片づけるなどして大騒ぎであった。我が家に(先生が)来られたのは実に初めてであったからである。(先生は)母上ならびに国子(※邦子)にも初対面の挨拶などをされた。(三人の挨拶が)とても細かすぎてわずらわしい。住まいを本郷の西片町(※にしかたまち /本郷区西片町十。桃水の従妹千賀が河村重固(しげのり)に嫁いで住んでいた。)に移りなさったとのこと。「そのご報告がてら、『武蔵野』のことを言おうと思って(ここに来たの)です。」と(先生は)言った。「『武蔵野』は(発刊が)いろいろ延び延びになることがあって、(それでも)明後日二十日にいよいよ出版の運びになりました。校正(※『闇桜』の校正刷り)も廻ってきましたが、(それがちょうど)私の引っ越しの日であったので、あなたのもとに(それを)廻す暇もなく、私が代理で(校正)したのでもし誤字脱字などあったらお許しください。」とおっしゃった。茶菓をお出ししただけだったが、二時間ほどお話された。「今しばし」などと言いたかったけれど、(先生は)お急ぎであったので、留めることも出来ず、ご帰宅された。(それから)母上も国子(※邦子)もさまざまに噂した。(※半井桃水の人物評価。)母上は、「本当にまあ美しい人だ。亡き泉太郎(※明治20年に亡くなった一葉の兄)にも似ているようで温厚なさまであることだ。誰が何と言おうと、悪い人ではないでしょう。いわば若旦那の趣がある人だね。」などとおっしゃる。国子(※邦子)はまた、「それは母上の見当違いですよ。表向きこそ優しげですが、あの微笑む口元のかわいらしさなんかが策略家の奥の手なのでしょう。なまじっか心を許してはいけない人です。」などと言う。母上は「何はともあれ、半井先生の言葉に、『こんなにご近所になって他には行く所もなし、夜分など運動(※散歩のこと)がてらに折々参るつもりなので』などと言われたのは(ちょっと)困ったものだね。人の目につけばよくない噂が立つでしょう(に)。」などと杞憂(※きゆう/取り越し苦労の意)しなさる。そして国子(※邦子)は、「とにかく家が狭いのが不都合です。ああ、あと一間(ひとま)あったなら、こんなに心苦しくはないでしょう。この隣の家がここよりは少し広いので、なんとかして、あっちに引っ越しするのはどうでしょうか。」などと言う。自分は、「それは仕方がないことです。私が友とする人は、家の狭さ広さ、着物の美しさとみすぼらしさを(一切)問わず、飾りのない言葉、飾りのない心でもって交際するのです。もし、『あそこは家は狭いし、着物も古びている』と言って(私たちを)見捨てる人があれば、そんな人は惜しむに足りません。」と言った。「それはそうなのだけれど、いかにも(その通り(「家は狭いし、着物も古びている」)なの)だから、せつないんですよ。」と邦子は笑った。(※樋口家は女3人。さぞおしゃべりが続いたことだろう。それにしても一葉の生真面目さ、そして邦子の明るく率直で大らかな性格がよく見える場面である。)今日の半井先生の着物は、八丈(※伊豆諸島の八丈島で織られた絹織物)の下着に茶と紺の縦縞の紬(※つむぎ/絹糸で織った粗い手触りの織物)の小袖(※こそで/和服の普段着)を重ねて、白ちりめん(※白い縮緬しぼをだした絹)の兵児帯(へこおび)をゆるやかに(締め)、黒八丈(※黒に染めた八丈絹)の羽織を身にまとっていらっしゃった。「人物が正しくないと聞く新聞記者の中に、このような風采の人もいるのだ。」と、素人目には(そのきちんとした服装に)驚かされた。秀太郎(※ひでたろう/一葉の姉ふじの子)が来た。少し話して帰った。日没後国子(※邦子)に『日本外史』(※にほんがいし/江戸時代後期、頼山陽(らいさんよう)が著した国史。外史とは民間による歴史書のこと。明治24年9月26日に関場悦子から借りている。)の素読(※そどく/文章の意味を解釈せずに声を出して文字だけ読むこと。初学の段階で行うもの。)を授けて、そして『聖学自在』(※二日前の3月16日に通読している。)の「愚者の弁」(※食言家を論じている。)一章を読んで聞かせた。(そうして)母上の肩を揉んでお休みいただいた。一時に床に入った。
(明治25年)3月19日 雨。小石川(※萩の舎)の稽古である。早朝に行った。師の君(※中島歌子)はまだ朝餉の前であった。首藤陸三さん(※しゅどうりくぞう/宮城県出身の改進党党員。のち衆議院議員。)の娘(※1日前、3月18日で記した交渉中の別の人物。)が、小間使いとなって、今日からここ(中島家)に(働いて)いた。名を名乗ったが、なかなか(見ていて)かわいそうであった。(※原文は<名対面するも中々に心ぐるし>で、<名対面>は名を名乗ること。、<中々に>は古語だとすると中途半端な、なまじっか、かえって、という意もあるが、明治なので現代語の<なかなか>とも取れる。<心ぐるし>は自分がつらくせつない場合と、相手が気の毒で気がかりだという場合の二つの取り方がある。判然としないが、初めて小間使いとして働くだろう娘を見て、一葉がかわいそうに思ったのだろうと推測した。また、前日3月18日に臨時で雇おうとした今野たまに断られて、この娘が急遽今日から呼ばれることになった点も一葉の同情を買っただろう。)(今日は)難陳(歌合)(※なんちんうたあわせ/明治24年10月23日に詳しく記した。)の開巻(※かいかん/書物を開くこと。ここでは始まりの意。)なので、龍子さん(※田辺龍子。一葉の姉弟子。直近では明治25年3月2日に出ている。)もてる子さん(※片山てる子。萩の舎門人。直近では明治25年3月12日に出ている。)も来られた。東(あずま)さん(※佐藤東。萩の舎の客員歌人。直近では明治25年2月21日に出ている。)、大造さん(※井岡大造。萩の舎の客員歌人。直近では明治25年2月21日に出ている。)は来られなかった。午前に一題詠んで、午後から(難陳を)始めた。いつもは(論難と陳弁を)口述するので、誰も思いのままには言うことが出来ず、口ごもりがちであるけれども、今日は筆記で意見を述べる形式だったので、人々の論議は盛んであった。「春の夕(ゆうべ)」(難陳歌合の題)の方は、田中みの子さんが(最)高点になった。(もう一つの題の)「恋の喜憂(きゆう)」は自分であった。四時に解散。田辺さん(※田辺龍子)、田中さん(※田中みの子)と約束して、「明後日十二日、上野図書館で会いましょう。」ということになった。(萩の舎の)帰り道に、稲葉さん(※稲葉寛)のことを尋ねようと西村さん(※西村釧之助)の店(※文房具店を出していた。明治24年11月9日にそのことを記してある。また、店は小石川区表町にあった。稲葉寛のいる柳町にも近い。)を尋ねた。釧之助さんは留守であった。常さん(※西村釧之助の妹。明治24年12月21日にも出ている。)としばらくお話して、夕餉をご馳走になった。提灯(ちょうちん)を借りて帰った。道路の汚泥(のひどさ)は(歩くのに)ほとんど困難を極めた。この夜は何もすることなく寝た。ただし、関場さん(※関藤子。関場悦子の妹に当たる。詳しくは明治25年3月8日に記した。)、今日(萩の舎に)入門のはずであったのだが、差し障ることがあって(入門)出来ず、(その)断りの葉書が来た。
(明治25年)3月20日 晴れ。今日は『武蔵野』の発刊と聞いていたので、(また)春季皇霊祭(※現、春分の日。歴代の天皇、皇后などを祀る祭儀があり、昭和23年まではこの名目の祝日であった。明治24年9月23日には秋季皇霊祭のことが記してある。)でもあるからと、寿司などをこしらえた。(寿司を)近隣の向こう三軒両隣に配ったりした。伊東さん(※伊東夏子)と約束して、「今日(そちらに)訪問します。」と言ったので、午前よりその支度をした。山下直一さん(※樋口家の元書生。直近では明治25年1月17日に出ている。)が来た。『早稲田文学』の九、十号を持参して貸してくれた。(※1月17日にも『早稲田文学』をこの人から借りて読んでいる。)山下さんの帰り道、私も一緒に行く(ことにした)。同じ方向(※山下直一は神田区猿楽町の下宿屋に住んでいた。伊東夏子の家は神田区南甲賀町にあった。)だからである。歩きながらお話ししつつ行くと、(人力車の)車夫が、「相乗りで(どうぞ)。」などとすすめて来た。(※原文は<車夫などの「同車にて」など進むる>で、一葉の文章にはこの<など>が多い。全く<など>だらけである。これは一葉の細かい所まで気にする性格を表してもいるのだろう。この現代語訳でも正確を期してなるべくその「など」を付けて訳すことにしているが、ここでは車夫以外に乗車をすすめる者はいないはずなので、<車夫など>の<など>は省略した。ただし、山下が車夫にそう言われて一葉と相乗りで行くことを促した可能性が高いことも付け加えておく。>世間の人であれば、どんなにか(男女の相乗りが)恥ずかしかろう。そうであるのに、何とも思わず(相乗りで)同行するのは、心に邪心がないからであろう。恥じらいとは、情(※じょう/心、感情の意。)より発するものなのであろうか、面白い(ことだ)。お茶の水橋で(山下さんと)袂を分かって、伊東さんのもとを訪ねた。話は数刻(※何時間)に(も)及んだ。胸中のものを吐露しつくして、今日はとりわけ嬉しかった。(※一葉と伊東夏子は萩の舎の停滞したありさまについて話し合い、その不満を解決する方策を練る約束をしていた。)「(もう)帰ります帰ります。」と言い言い、いつしか日も暮れてしまった。晩御飯をご馳走になるなどしながら、さらになかなか話は尽きない。だけれど、いつまでというそのいつを決められないので(※いつまでもきりがないので、の意)、「さあ(帰ります)。」と言って暇を乞うた。八時であった。車(※人力車)を雇ってもらって帰った。帰宅後、母上といろいろとお話しした。(その中で)伊東さんと(今日)約束したことが無効になってしまったことがあった。(※一葉と伊東夏子は久米幹文(くめもとふみ/江戸末期から明治の歌人、国学者。東京大学講師、第一高等中学校教授を歴任。)のもとで二人で国学を学ぼうと約束していたが、その二人の目論見を母たきに反対された。)すぐに手紙をしたためてその旨を(伊東夏子に)知らせた。(※一葉には親は絶対であった。この時代の大半の人々がそうであったはずだ。それにしても母たきは一葉の向学心をくじく役割をしている。一葉が小学校で首席でいながら中途で退学を余儀なくされたのは旧時代に生きる母たきの意向のためである。ただ、樋口家の経済的内情を考えれば、今回の伊東夏子と国学を学ぶ計画は初めから無理があったことも否めない。一葉という天才は、そういう意味では時代と貧に押さえつけられていたとも言えるだろう。)今宵も何もすることなく寝た。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐々木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐々木信綱記念館)


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