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現代語訳 樋口一葉日記 14 (M25.3.21~M25.4.6)◎桃水のキリスト教排斥、中島歌子の文章心得、中島歌子について詳説、『武蔵野』創刊、「別れ霜」の草稿改訂

(明治25年)3月21日 晴れ。望月某(なにがし)の妻(※望月米吉の妻とく。望月は一葉の父則義在世時からの知人。八百屋で屋号は豊屋。生活が貧しく樋口家から時折援助を受けていた。米吉、とく夫妻とその子供がいた。直近では明治25年1月18日に出ている。)が来た。昼御飯をご馳走した。自分は半井先生(※半井桃水)のもとへ、言うことがあって行った。このたびの(先生が引っ越された)住まいが大変近くて、気軽に歩いていける距離なのがとても嬉しい。表玄関はいつものように戸を堅くとざして、庭口から出入りの自由を許しているようだ。(先生に会って)話はいろいろとあった。先生は、「先日引いた風邪がまだよくありません。」と、咳などをひどくなさった。(私は)家で(家族と)相談したことを、半井先生にも語った。「自分の小説が到底世に用いられないものでしたら、気がねせずにはっきり(そう)おっしゃってください。自分は自分の心を信じるのと同じように、人がおっしゃった言葉を(そのまま)信じるものですから、先生がもしうわべだけの誉め言葉を言ってくださっても、その真偽を計ることのできる知恵は持ちあわせていないのです。先生の真意を知ることが出来ずして、(私が)一途にそのお言葉ばかりを頼みにしていることには、私の愚かさはさておいて、先生(ご自身が)がどんなにか困っていらっしゃることでしょう。とても世に用いられないものならば、(私は)今からすぐに心を改めて、自分の身に相応のことを考えます。ただもう(先生の)お心うちをお聞かせくださいませ。」と繰り返し(言っ)たところ、先生はとてもあきれた顔をして、「それはまたどいうことでしょうか。自分は、甲斐性なしではありますが(それでも)男のはしくれです。お引き受けしたこと、(どうして)偽りでありましょうか。月毎に(あなたのことを)案じ日毎に(あなたのことを)考えて、あなたの幸せを願っているのです。私はどこまでも(あなたと)手を取り合って、始めから終わりまで一緒に(やろう)と思っているのに、あなたはなぜそんなにお疑いなさるのでしょうか。そうはいっても、これ(※小説創作)より他に良い方策があるのなら、それはお止めしません。ないのなら今少しお耐えなさい。私が思うには、あなたの著作、この『武蔵野』二、三回のあとには、必ず世にその名を知られなさることでしょう。そうなれば『朝日』(※朝日新聞)であれ、何であれ、私には周旋する手だてがあります。お家の経済などについてご心配なさることがあれば、それは私がどのようにでもします。『武蔵野』は初版より二千冊以上の発売があれば、利益の配当があるはずの約束ですから、この分だけは私の分も合わせてあなたに差し上げようという心づもりです。これほどに思う心が(どうして)偽りでありましょうか。およそお察し下さい。」などとおっしゃった。

 話は宗教(※キリスト教)の事に及んだ。(私は)「先日野々宮さん(※野々宮きく子。プロテスタント教会に通うクリスチャンであった。一葉に聖書を貸している。)に約束して、教会堂へ行きたいと思いましたが、差し障りがあって、その約束を果たしませんでした。」と言った。先生は、「それは、実によいことをうかがいました。危なっかしいことでしたね。せっかくの御身が渦流(かりゅう)に巻き込まれなさるところでしたよ。」と言って嘆きなさった。「それは何故(でございましょうか)。」と言うと、先生は、縷々として(※るるとして/こまごまと説く様子。)教会の表面と裏の顔をお話しなさった。「汚い行い、醜聞はかれこれとあるようです。(※原文は<汚行、彼の如きあり、醜聞、是の如きあり。>で、<彼>と<是>で<彼是>(かれこれ)。それを二つに分けて用いたレトリックであろう。)牧師、伝道師はあたかも色情(※性欲の感情)の教師の如くで、集合する男女の信者(たち)は(また)、ほとんどその(色情の)生徒に他なりません。」と痛論(※激しく議論すること)された。(先生は続けて)「そうではありますが、これは自分が耶蘇(※やそ/キリスト教のこと)を強く排斥する心から、このような感情が付随して生ずるのでしょうか。大方の教会はこのようなものでもないのでしょうが、十中の七、八はその類いであろうと(自分は)思うので、(あなたが)本当に宗教(※キリスト教。ちなみに、一葉はキリスト教のみに<宗教>という言葉を使った。)に熱心になられているのなら、(私の話は)何の甲斐もありません。そうでないのなら、ともかく、敬して遠ざけ(※敬して遠ざける/うわべは敬ってみせるが心では疎んじて親しくしないこと。敬遠する。)なさった方がよいでしょう。」などとおっしゃった。後日(の来訪)を約束して帰路についた。四時であった。この夜は入湯せずに寝てしまった。
(明治25年)3月22日 晴れ。午前中に、習字と著作(※第3作「たま襷(だすき)」)に従事した。昼ご飯を食べてただちに家を出た。図書館に行く約束があるからである。(※三日前の3月19日に、一葉は、田辺龍子と田中みの子に図書館で落ち合う約束をしている。実際に来たのは田中みの子一人。)そこ(図書館)に着いて、(入り口で)「こういう女の人が来ていませんか。」と尋ねると、「そういう方がいましたよ。この下駄であるようです。」と言って見せるのは、更紗(※さらさ/木綿地に人物、花、鳥獣などの連続模様を型染め、あるいは織りこみしたもの)模様の革の鼻緒(の下駄)である。「みの子さんであるようだ。」と思ったので、その下駄と自分の下駄を一つにして館内に入った。(※明治24年8月8日に詳しく記したが、ここであらためて書いておきたい。東京図書館には二階建ての閲覧室と三階建ての書庫があった。閲覧室は1階が男子専用。2階に婦人席と特別閲覧室があった。図書館の利用法は現代とは大きく違っていて、まず入り口で求覧券を購入(有料であった。一回三銭程度か。)、中に入ると看守所で求覧券を閲覧証に交換。そして蔵書の目録が置いてある所まで行き、その目録を開いて読みたい本の書名、その本が置かれている書庫の棚の番号などを調べ、先の閲覧証に自分の住所氏名職業などとともにそれを記入し、出納(※すいとう/物の出し入れのこと)所の係員に渡す。係員がその閲覧証をもとに書庫から本を持って来てくれるのを待つ。名前を呼び出されて本を受け取ったら閲覧室で読む、というものであった。現代のように閲覧室と書庫がほぼ一体となっていて各自で本を探して自由に読むというスタイルではなかった。)目録のある台の上で何かしきりにしたためていらっしゃるのは、思った通りみの子さんであった。走り寄って小声で挨拶をした。(そして)二人一緒に二階の婦人席に入った。(婦人席には)先に一人の閲覧者がいた。医学の生徒であろう、『外科』という本を見ていた。「田辺さんはいらっしゃらないのでしょうね。(約束したのに)あまりのことですね。」などと言って笑った。いつもは大方(図書館に来るのは)朝からなので、昼過ぎには飽きたり疲れたりして眠たくさえなるのに、今日は(本を)見るひまはほんの少しばかりで、閉館の鈴(※ベル)の音がした。(※当時の3月の閉館時間は午後4時半。)「あれあれ、追い出されますよ。」と笑いながら(婦人席の)部屋を出た。(一階の)男子専用の方は、一人も残っている者はいなかった。徒歩にて山内(※さんない/地名)を抜けて広小路(※ひろこうじ/地名)に出て、仲町(※なかちょう/池之端仲町。地名)にて、みの子さんがお買い物をなさった。小路(※こうじ/大通りから横に入った幅の狭い道)に入って、池之端で蓮玉(※れんぎょく/蓮玉庵。有名な蕎麦屋の名。)(の蕎麦)を味わった。道々さまざまな話をした。中島師の君のことなどを話した。(※二人が図書館で待ち合わせたのも、この二日前の3月20日に、一葉が伊東夏子のところへ行った目的と同じだった。萩の舎の停滞したありさまについて話し合ったのだった。)家に帰り着いたのは日没時であった。みの子さんとは真砂町(※まさごちょう/地名)で別れた。伊東さん(※伊東夏子)より手紙が来ていた。前日のことについてであった。(※伊東夏子は一葉の母を説得する意思を示した。果敢な人柄がうかがえる。)国子(※邦子)に『日本外史』(※にほんがいし/江戸時代後期、頼山陽(らいさんよう)が著した国史。)の素読(※そどく/文章の意味を解釈せずに声を出して文字だけ読むこと。)を授けた。(※四日前の3月18日にも授けている。)半井さんより葉書が来た。「明日来ていただきたい。」ということである。今宵も、何をすることもなく早く寝てしまった。
(明治25年)3月23日 曇り、少し暖かい。半井先生を昼過ぎより訪問した。「『武蔵野』の表題の文字を書いてほしい」ということだ。(※一葉の書いた題字は第二編(2号)から用いられた。)しきりに逆らったけれど(※辞退した、の意)、お聞き入れすることが出来るはずもなく、十字ばかり(題字を)記した。また、(先生は)「『武蔵野』の巻末に載せる予定のものが少しばかり不足なので、何でもいいのですが、明日の昼過ぎまでに(何か)作っていただけませんか。」などとおっしゃった。雨が少し落ちて来たので、急いで帰った。すぐに著作にかかった。(今の約束の)文章を一篇書こうと思ったからだ。今宵、雨が大変強く降った。二時頃まで机にいた。
(明治25年)3月24日 大雨。(昨夜書いた)文章があまり面白くないので、春雨を詠む長歌(※ちょうか/和歌の一つ。五七の音を交互に三回以上繰り返し、最後を七音で止めるもの。)を作った。師の君(※中島歌子)に一覧を願おうと、大雨の中家を出た。雨傘というものが一つもないので、小さな洋傘(こうもり傘)でしのいで行った。雨はただもう、射るように降るので、爪皮(※つまかわ/下駄の前方につけた泥よけの覆い)もない、大変歯の高い下駄を履いて泥だらけの道を行くのは、その困難(たるや)とてつもないものであった。師の君のもとに参り着いた頃には、羽織も着物もすべて濡れに濡れていた。師の君は、二階の病床におられた。(※中島歌子は病弱なところがあった。)お話はいろいろあった。(そして)長歌の添削を願った。話が文章の事に及んだ。「私は毎日日記を作って(※書いて、の意)いるのですが、言文一致(※げんぶんいっち/話し言葉に近い形で文章を書くこと。口語体。)になることもあり、大和言葉めかした言葉(になること)もあり、新聞(の報道)のような文体になることもあります。このよう(に不統一)ではかえって文章の為には弊害になるだけであって、(日記を書くことの)利はないのでありましょうか。」と言って師の君の意見をお尋ねした。(すると師の君は)「それは、一定の文則(※文の法則)がないのなら、しない方がよいですよ。何であれ、一つの文則に従ってやりなさい。」などとおっしゃった。(さらには)「今のご時世の新聞屋の文というのは、私が(決して)用いないところのものです。そうはいっても、これもまた一つの(表現の)道具(※手段の意)であって、用のないものというわけではありません。それはそれ、これはこれ、です。総じて、文であれ、歌であれ、気骨というものがあってほしいものです。そうではありますが、女というからには、普段の行いや姿形をはじめ、ものを言うにも筆をとるにも、物柔らかで優美なさまを表(おもて)とするのがよいのです。心の内には、政治の成敗(※成功と失敗の意)、天下の興廃(※盛んになったりすたれたりすること)、さらには文武の緩急(※原文は<弛急>(しきゅう)だが、このような熟語はない。同じ「ゆるむ」の「緩」を用いた「緩急」(かんきゅう/ゆるいことと厳しいこと)が正しいと推測される。)(など)、何であれ思いをくまなく行き渡らせ、しかも(外の)形(※ようすの意)にはあらわさないのが、誠の女というものです。そうはいっても、ひたすら押し隠してのみでいたならば、結局気弱な心に流されて、しまいには心まで青柳の糸(※細い青柳の枝を糸にたとえた語)のようになってしまうに違いないようです。(だから)例えば、鉄の塊を煙の中に包んで(隠して)いるようなのがよいのですよ。」などとお教えくださった。(そのあと)昼ご飯を食べて、(師の君が)「少し待ちなさい、見せるつもりのものがあります。」とおっしゃたので、しばらく初心者の詠草直し(※歌の添削、修訂)などをして(師の君が来るのを)待っていた。(師の君は)蔵から一冊の手記と着物とを取り出して来られた。(そして)「あなたの着物は、とても古びてくたくたになっているようなので、誰それの会など(あって)はさぞ困ることでしょう。これを持って行ってこしらえ直しなさい。」などとおっしゃった。いつもながら大変嬉しかった。(※明治24年10月31日にも一葉は中島歌子に着物をもらっている。歌子がどんなに一葉に目をかけていたかが分かる。)「この一冊、決して人に見せてはならないものだけれど、あなたにはどうして見せるのをはばかることがあるでしょうか。(※ここは原文にはっきりと相違があるのでそれを示しておきたい。小学館版の一葉全集と、筑摩書房版の一葉全集では<この一冊かまへて人に見すまじきものなれどそこにはなどかはとてなん>である。(小学館版の句読点補助は省略。<かまへて>は「決して」の意。<まじき>は打消しの意志の助動詞。<そこ>は「あなた」「そなた」の意。<なん>は強意の係助詞で結びとなるはずの「ある」が省略されている。)一方、ちくま文庫の「日記・書簡集」では<この一冊かまへて人に見すまじきものなれどそこにはなどかさけてなん>である。前者の場合、<などかは>と<とて>の間に、その前の文章の<見すまじき>が省略されているものと推定できる。<などかは>は反語なので<などかはとてなん>は「どうして見せられないことがあろうか」ほどの意となるに違いない。後者の場合はそれが<などかさけてなん>と読ませていて、<さく>は「避ける」「よける」「遠くにやる」意で、そのことから、<などかさけてなん>は「どうして避けられようか」ほどの意となるだろう。ここでは、両者の間をとって、「どうして見せるのをはばかることがあろうか」ほどの意とした。このように、原文そのものに相違があるのは、一葉の千蔭流の文字の判別がそれだけ難しいからである。その文字の起こし方で文意が微妙に変わって来るのが一葉日記の避けられない難点だと言えよう。)と、「常陸帯(ひたちおび)」と表書きした日記をお見せになられた。(※「常陸帯」の原本は見つかっていないが、後年、歌子の死後(明治36年)、三宅花圃(田辺龍子)によりこの一部が改編され、『萩のしずく』(明治41年)という遺稿集に収められた。ここで、師の君中島歌子について記しておきたい。中島歌子は弘化(こうか)元年(1845)、武蔵野国(埼玉県)の絹織物の豪商中島又右衛門、幾子の長女として生まれた。幼名は登世(とせ)。嘉永(かえい)5年(1852)頃、父が小石川安藤坂にあった水戸藩御用宿の池田屋を買い取って、家族で住むようになる。文久(ぶんきゅう)元年(1861)、池田屋を定宿にしていた水戸藩士黒沢忠三郎の甥、林忠左衛門と恋仲になり結婚。翌年水戸(茨城県)に下り、夫の妹てつとともに水戸の家で暮らした。ところが、元治(げんじ)元年(1864)、水戸藩の尊王攘夷派が筑波山で決起したいわゆる天狗党の乱に巻き込まれた林忠左衛門は、その年の10月に切腹。登世(歌子)たちは逆賊として捕らえられて投獄され、2か月間牢内にいた。出獄後は親類預かりとなり母幾子と5年間を暮らした。この間登世(歌子)は、国学者で歌人の加藤千浪(かとうちなみ)に入門、明治5年には住まいの池田屋の奥に手習いの教場を設け、明治10年には戸籍名を「うた」と改名し、歌門を認められ、歌塾「萩の舎」を開いた。両親の実家が水戸藩とつながりがあり、また歌子の10歳上の兄弟子、伊東祐命(※いとうすけのぶ/歌子の恋人だったとも言われるが、明治22年に亡くなっている。)が宮内省の御歌所(おうたどころ)に務めていたこともあり、多数の上流階級の子弟を獲得することが出来た。明治19年に一葉が14歳で入門した時には鍋島家、前田家といった上流階級への出稽古のほか、明治女学校に出講もしていた。ところで、明治23年5月、当時母たきと妹の邦子と3人で兄の虎之助のところに住んでいた一葉は、その生活苦を歌子に相談し、一人萩の舎に内弟子として住み込みを始めたことがある。このことからも、歌子は一葉の才能を高く買っており、ゆくゆくは塾の後継者と考えていたのだろうと思われる。また、子供のいない歌子には一葉は娘のようにも思えていただろう。その時歌子は一葉に女学校の教師を斡旋する約束をしていたが、一葉の学歴(小学校中退)と若年(当時18歳)ではその約束も果たせず、また、虎之助と母たきとの折り合いが悪くなったこともあり、その年の10月には、結局一葉は萩の舎を出て、本郷菊坂町の貸家に母と妹を呼んで3人で暮らし始めた。そしてこの樋口一葉の日記は、その半年後の明治24年4月から始まるのである。)これは下の巻(まき)である。上(の巻)は師の君が、水戸へ下りなさった時の道々の記録だという。これ(※下の巻)は林さん(※林忠左衛門。中島歌子の夫。)が江戸へ上りなさった(※天狗党に属していた林忠左衛門が佐幕派と戦うため筑波山に出陣したこと)際の別れの時から、師の君が牢屋におつながれになるまでの記録である。ある時は涙をこらえて(夫の)門出をお送りなさった(時の)暁の鳥の声、ある時は空しい(独り寝の)布団にわが夫が偲ばれる(外から聞こえる)くつわ虫の声(※原文は<あるは空しきふすまにあづまをしのび給ふくつわ虫の声>で、<あるは>は「ある時は」で、<ふすま>は「布団」。<あづま>は「吾妻」あるいは「東」のどちらか判断が分かれる。「東」ととると「東国」という意味にもなるが、場面が水戸ですでに東国にいるので「東国」を偲ぶというには矛盾がある。「東」には「江戸」という意味もあり、その場合は「江戸を偲ぶ」という解釈も可能だが、それは京都上方から見た江戸であって、水戸から江戸は西になるのでこれにも矛盾が残る。ここでは「吾妻」つまり「吾夫」と解釈するのが自然と判断した。古語の<つま>には「妻」または「夫」の両方の意味がある。)、ある時は(夫からの)初めての便りをずっとお待ちになって(ようやく)届いたくだり、ある時は(自分の)身を亡き者(に)と思い込みなさって(※死んでしまおうと思いつめて、の意)、それでもやはり故郷の母上(※幾子)を恋しく思うくだり、ある時は群がり騒ぐ心のひねくれた人たち(※天狗党討伐に向かう者たちを指す。)の非道な行い(※夫の林忠左衛門が交戦し負傷したことを指す。)のいくつか、(そしてまた)それ(※天狗党討伐に向かう佐幕派の者たち)の恥ずかしめから逃れようと、妹君(※林忠左衛門の妹てつ)、そして故郷からお供としてお連れになっていた年少の雇い女などを、知り合いの所にお隠しになられた時のこと、(また、)つる草の高く生い茂った(貧しい)館の中でたった一人で国を憂い、夫をお慕いになられているご心境、(そして)その折々に詠われる歌の趣きなど、(私は)哀れで悲しくてわけもなく涙ぐまれて、(その日記を机の上に)置くこともせず(つくづくと)眺めいった。師の君が十九歳の時に(実際に)おありになったことだとか。自分は、(その)歌の調子の哀れさよりも、(その)よどみない文章よりも、その心ばえ(※心構え、気概の意)の勇ましさ、雄々しさに、畏敬してなお余りあるほどであった。師の君がおっしゃるには、「これはその折だから書けたことなのです。(もし)今また(その時のことを)思い出して綴りたいとしても、言葉の花(※表現の意)はどれほどにも飾られるでしょうが、この(当時そのままの)感情をどうして写すことが出来ましょうか。文の真(※まこと/真実、真情の意)とはこういうことを言うのです。この日記はまだ文章というものを学んだ時(のもの)ではありません。言葉すらよく知らないので、ただあったことをあったままに記したものだけれど、なまじっか今書いたとしてもこれに及ぶことは(絶対に)出来ません。ですから、文章であれ、歌であれ、たとえ自身がその物に対面していなくても、真(まこと)という心になって作り出したなら、人をも世の中をも動かすことが出来るのです。あなたが小説を書こうとするのも、このような心構えであってほしいものです。」などと教えてくださった。(いつしか)雨も止んだ。(師の君は)「明後日(の稽古)は早くから(ここに)来てくださいね。」などとおっしゃった。(私は)暇乞いして帰った。
 (師の君が)添削されたの(※前述の長歌)をただちに原稿用紙に写しかえて、半井先生のもとに行った。心中さまざまである。昨日森さん(※森昭治。一葉の父則義の東京府庁時代の上役。樋口家は1月中にこの森昭治から6月までの半年分の生活援助をもらう約束をしていた。明治25年2月18日に一葉と母はお金を借りに行っている。直近では明治25年3月15日に出ている。)から葉書が来ていた。二月ばかり前から(森さんに)生活費用の補助を依頼して、六か月ほどを承諾されていた。そうであったのに、「急に差し障りがあって」とその(約束の)断りを(葉書で)言われてしまった(※森昭治は一葉の作品が出るはずの『武蔵野』が出ないので見切りをつけ、婉曲に以後の援助を断ったのである。)ので、母上も妹も深く嘆息し悲しみにくれた。(私は)「何とかしましょう、安心してください。」などと口では言っていたけれど、(私の)小さい胸には(不安と焦りの)波が立ち騒いで、「(ああ)どうしよう。」と(思い悩む)ばかりであったが、(そこで)思い起こすのは半井さん(ただ一人)のみであった。「(半井先生は)いつも、義侠心が深くていらっしゃるから、(それに)どうにかしておすがりしよう。」と思ったのだ。(今、先生の所に)行きながら、「ああ、(他に)人がいなかったらいいのに。」などと願ったところ、(その)思いが通じたのだろうか、(いたのは)先生だけであった。(まず先生に)長歌をお見せした。『武蔵野』は今日、印刷(の方)に(すでに)上がったとかいうことだ。(先生は)「これ(長歌)はこの次の号にしましょう。ともかくお預かりいたしましょう。」とおっしゃった。(そして)言いにくいけれども心を決めて、(私は)そのこと(※借金の申し出)を口に出して言った。顔の熱かったことといったらなかった。(すると)半井先生はあれこれ考える様子もなく、「それは承知しました。何とかいたしましょう。ご安心を。」とすぐにおっしゃった。「今月は弟たちの洋服などをあらたにこしらえたので、少し懐具合が悪いのです。ですが月末までにはご用意致しましょう。」とまるで白湯でもお飲みなさるように(さらさらと)お引き受けなさった。(その)ありがたさにまた涙がこぼれた。(その)嬉しさにつけて、早く母上にお聞かせしたいと思ったので、慌ただしく暇乞いをした。(そんな私の姿に先生は)「嬉しいことも嬉しそうでもなく、恩を恩とも分からぬ(奴だ)」と(でも)お思いになられただろうか。心には思っているけれど、口では多くを表すことができないのは、(どうにも)不甲斐ないことだ。この夜もすることをとても怠けてしまった。
(明治25年)3月25日 朝から時々雪が降った。十時頃より晴れ渡ったけれど、風がとても強い。今日は私の誕生日であるからといって、魚などを買い求めていささかの祝い事をした。(※一葉の誕生日は旧暦の明治5年3月25日。新暦に直せば同年5月2日であるが、旧暦の日付を優先して祝っている。だからこの時点では一葉はまだ19歳である。ちなみに、一葉が生まれたのは先述の山下直一が樋口家の書生をしていた内幸(うちさいわい)町一丁目一番屋敷の東京府庁官舎である。)昼過ぎから母上が姉上のもとへ行かれた。西村さん(※西村釧之助/直近では明治25年3月17日に出ている。)が来た。話はいろいろあった。(※おそらく事業計画に失敗した稲葉寛の件であろう。)日没の少し前に、水野さん(※水野忠敬(ただのり)。元沼津藩の殿様。直近では明治25年3月5日に出ている。もしくはその長女の水野銓子(せんこ)ともとれる。水野銓子は直近では同年2月11日に出ている。)から和歌小集(※わかしょうしゅう/和歌の小さな集まり、要は小規模な歌会のこと。)の招待状が届いた。半井先生から(もまた)、「二十八日までに小説の草稿(※『武蔵野』第二編のための草稿。ちなみに、日記にはないが、一葉は第3作「たま襷(だすき)」を二日後の3月27日に桃水に渡したと推定されている。)を送ってください。」との手紙が来た。今宵はさまざまにすることが多かった。
(明治25年)3月26日 (小石川の)稽古日。小雨。水野さんの和歌小集に行く相談がまとまった。点取題は三つ、それぞれ十点を得る(※十点満点)(という風に決めた)。五時頃帰宅。(帰ってみると、私の留守中に)半井さんより重太さん(※桃水の弟茂太)が迎えに来られて、「よいことがあります。すぐに来てください。」と言われたとか。「今宵はすでに遅い、明日早々に行きなさい」と(母上に)言われ、今宵は(行かずに)就寝した。日没後、芝(※地名)より兄上(※虎之助)が来られた。
(明治25年)3月27日 昼過ぎから半井さんのところへ行った。「小説雑誌『武蔵野』が出版になりました。」と一冊を(私に)くださった。(※一葉の文壇デビューである。「闇桜」は前から3番目に掲載され、筆名は一葉女史であった。出版社は日本橋の今古堂。定価十銭であった。ちなみに巻頭は半井桃水の「紫痕」、2番目は畑島桃蹊(一郎)の「岩飛」であった。一葉が埋め草(※雑誌の空白を埋める原稿のこと)に書いた長歌は間に合わず、正直正太夫(斎藤緑雨)の予告文が載った。)「昨日のよいこととは、あなたが別に書いた小説(※第2作「別れ霜」の草稿。明治25年3月7日に一葉が桃水に渡したと推測されている。)を、『改進新聞』(※立憲改進党系の経営する絵入り新聞)に出そうとしていることです。」とおっしゃった。(私は)「あればかりはお許しください。あまりといえば恥ずかしいものです。」と言ったが、(半井さんは)「それは困ります。既に挿絵の注文さえもしているのですから。」と言われた。(それで)「それならば仕方ありません。どちらでも(結構です)。」と承諾した。(そして、その「別れ霜」の)原稿を、今一度校閲しようと、自分の方に引き取った。作り変えようと思ったからである。「(改進新聞社は)『(全)四十回にしてほしい』との頼みですが、三十五回ほどでいいです。(※新聞連載なので回数が付く。)ともかく奮発なさい。」と(半井さんは「別れ霜」の原稿を私に)お渡しになった。「今夜中に二回分ほど(私に)お回しください。二十九日から掲載の都合ですから。」などとおっしゃった。(私はそれを)了承して帰った。母上、兄上(※前日から来ていた虎之助)が(それを聞いて)大喜びであった。藤田屋(※一葉の父則義の代から出入りしている植木屋の名。お金の貸し借りもしていた。直近では明治25年1月4日に出ている。)が来た。(藤田屋から)お金を一円借りて、兄上に二円ばかり貸した。日没時、兄上が帰宅した。この夜十時、二回分の校閲が終わって、母上と共に半井さんのところへ行った。その夜は他に何もしなかった。(※原文も<其夜>で、これからも一葉の日記は当日書いたものではなく、あとからまとめて書いたことが分かる。)
(明治25年)3月28日 朝から小説(※「別れ霜」)にとりかかった。三時頃、一日分(※二回分。第三回と第四回)だけ(半井さんのところに)持参した。(そこで)二回分の挿絵の注文をした。帰宅したのは日没時であった。国子(※邦子)が迎えに来ていた。この夜は何事もしなかった。
(明治25年)3月29日 『改進新聞』を早朝に見てみた。まだ小説を載せることが出来る(紙面の)余地は見えなかった。「明後日あたりからでしょう」と(妹が)言った。(新聞に)『武蔵野』の広告が出ていた。何となくきまりが悪かった。昼前、水野さんの各評(※かくひょう/詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。会の前に回覧しておく。)を読んだ。昼過ぎ早々に師の君(※中島歌子)のもとへ(各評を)持参し、添削をお願いした。みの子さん(※田中みの子)が来られていた。雑誌、新聞の話があった。(※原文は<雑誌のこなしつけ、新聞の談あり>とあり、<雑誌のこなしつけ>の意味がよく分からない。<こなしつける>には「欠点などをはっきり言って手ひどくやりこめる。」意があるが、これだと前後の脈絡がなく、何の話か全く分からない。小学館版の一葉全集も筑摩書房版の一葉全集も<雑誌のこなしつけ>とある。また、ちくま文庫の「日記・書簡集」にこの部分は載っていない。私見ではあるが、どうも元々<こなしつけ>ではないと思われる。「こなしつけ」という言葉がまずそのあたりの普通の辞典には載っていない。一葉もさすがに使わなかったのではないか。また、この日の前に「小説雑誌『武蔵野』」と『改進新聞』のことが大きく書かれていること、そして何よりも萩の舎で仲良しの田中みの子とばったり会って、そのことを一葉が言わないはずはないと思われること(まして田中みの子は3月に一葉の小説を知り合いの新聞に載せようと二度も周旋の努力をしてくれたのである。)を合わせて考えると、ここは<雑誌のむさし野と、新聞の談あり>と来るのがより自然で現実的であるように思われる。要は<こなしつけ>ではなく<むさし野>と書いてあるのではないかと想像するのである。新聞はもちろん『改進新聞』のことであろうから、一葉が田中みの子に、雑誌『武蔵野』の刊行と『改進新聞』への連載開始を報告した話ではなかろうか。この推測は状況的には的を射ていると思うが、確認しようもないので、あえてこの部分は上記のように簡略に訳すことにした。また、筑摩書房「樋口一葉全集 第三巻下」の事項索引の中で、<こなしつけ>の横に(編集・経営)と添えていることから、この全集の編者はそう解釈していることも付しておく。)帰宅したのは四時。それから一日分(※二回分、第五回と第六回)だけ書いた。半井さんのもとへ(原稿を)持参したのは十時であった。今夜も国子(※邦子)が一緒についてきてくれた。
(明治25年)3月30日 (記載なし)
(明治25年)4月1日 
(記載なし)
(※一葉は「別れ霜」の草稿の改訂に追われ、3月30日から4月4日までの日記を書いていない。ただし、あとから書くつもりだったのだろう、余白だけは残されている。3月24日に桃水に借金を申し込み、月末にお金を受け取ることになっていたことから、そのことを赤裸々に日記に書くのをためらった可能性もある。「別れ霜」は3月31日から4月17日まで『改進新聞』に全15回掲載されたことが近年確認された。以前の推定では3月31日から4月18日までであったが、長らく見つからなかった新聞の現物が2009年に発見されたのである。また、筆名は一葉ではなく、浅香のぬま子であった。)
(明治25年)4月5日 今日は水野さんの和歌小集の催しがある日である。朝から晴天である。半井先生に約束して、「今日は二回(分)だけ是が非でも送ります。」と言った『改進新聞』の原稿はまだ一回(分)も書き終わらない。困り果てて、無理に著作に従事した。十一時に(は)家を出て(水野さんのところへ)向かうつもりだったが、十時過ぎまで草稿をしたためていた。かろうじて一回分を書き終えたので、急ぎ化粧などして家を出た。(一回分だけなのを)お詫びがてらに半井さんのもとへ行った。半井さんは留守であった。伯母上(※河村重固(しげのり)の母。河村重固は桃水の従妹千賀の夫。桃水はその時この阿部の家に引っ越し、同居していた。明治25年3月18日にそのことが記されている。)に言い訳を申し上げて、車(※人力車)を急がせた。(水野家に)着いたのは一時近かっただろう。早くも来客がとても多かった。点取は「夜帰雁(よるのきがん)」及び「野遊(のあそび)」であった。来会者の人数は三十名ばかりであった。酒肴の最中に三曲(※筝(そう/琴のこと)、三味線、尺八の総称)の合奏があった。水野せん子さんの琴の音色は、無風流なわが身にもわけもなく耳を傾けられた。始めは「小督(※こごう/筝曲。平家物語の一場面を題材にしている。)」、次は「松竹梅(※しょうちくばい/祝儀の筝曲)」、酒宴が終わってまた一曲、(これは)何という曲か知らないが大変面白かった。散会は九時。車(※人力車)で(家まで)送られた。この夜は二時まで小説著作(※「別れ霜」)に従事した。
(明治25年)4月6日 曇り。早朝、庭の桃の枝を下ろした。奥田老人(※奥田栄。直近では明治25年3月7日、16日に出ている。)が来られるはずなので(桃の花を)あげようと思ったのである。

※以降、4月18日まで日記は書かれていない。「別れ霜」の著作(草稿の改訂)に追われていたのだろう。


※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐々木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐々木信綱記念館)


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