現代語訳 樋口一葉日記 24(M26.1.1~M26.2.5)◎新年の挨拶回り、三界唯心について詳説、小説「雪の日」完成、真夜中の雪景色、恋は浅ましいもの。
(明治26年)1月1日 は、大変のどかな日の光に洗われて、門松の緑に千年(の長寿と幸せ)を祈って、いつものように雑煮を食べ終わった。昔は三が日のうちは年始の(挨拶の)お客様に台所仕事が忙しく、「(羽根突きの)羽根をつく時間もない。」と恨めしく思った(ものだ)が、(今年は)打って変わって全く来る人もない。母上が、近隣に年始参りをされると、そちらからも老母、奥さんなどが答礼に来て、(それが)すべて女性であった。芦沢芦太郎(※正しくは、芳太郎。あしざわよしたろう/山梨県後屋敷村の芦沢卯助の次男。芦沢卯助は一葉の母たきの弟。芦沢家の養子となっていた。明治25年8月3日に手紙が来ている。芳太郎は上京して陸軍に入り近衛第一連隊に配属されていた。のちに日清戦争(明治27年~28年)に従軍。)が早朝から来た。陸軍にていただいた料理を持参してきた。一日遊んで三時頃(陸軍の)営内に帰った。今日年賀状が届いたのは野尻理作(※野尻理作は山梨県玉宮村の野尻家の次男。東京帝国大学に在学中、一葉の父則義は野尻家から理作の学資を預かり、監督を頼まれていた。当時は山梨に戻って甲陽新報社という新聞社を設立していた。また直近では明治25年9月23日に一葉に小説を依頼する手紙を書いている。『甲陽新報』には「経づくえ」が載った。)、穴沢小三郎(※西村釧之助の弟。茨城県北条町の穴沢和助の養子になり、呉服雑貨商を営んでいた。明治24年12月21日に西村小三郎の時にそのことで挨拶に来ている。また穴沢和助についても、刺客に斬られたという話が明治25年7月30日に出ている。)、山下信忠(※山下直一、次郎の父。樋口家は明治2年8月から3年間、内幸(うちさいわい)町一番屋敷の官舎に住んでいた。その内幸町時代に書生として、埼玉の人、山下直一(やましたなおかず)が寄宿していた。その弟が山下次郎。父信忠が埼玉県熊ケ谷から上京して大病であった直一を次郎と共に看病した話が、明治24年8月1日、2日に出ている。また、直近では明治25年1月4日にも年賀状をもらっている。)といった人であった。こちらから出したのは十五件ばかりであった。
(明治26年)1月2日 も大変のどかであった。三枝(※三枝信三郎。一葉の父則義の恩人真下専之丞の孫。銀行家。直近では明治25年12月24日に出ている。)、藤林(※上野房蔵。上野の伯父さんこと上野兵蔵の妻つるの連れ子が房蔵。直近では明治25年12月27日に出ている。藤林は旧姓。)、山下(※山下直一)、安達(※安達盛貞(安達の伯父さん)の妻、安達こう。安達盛貞は直近では明治25年8月30日に出ている。)など親類めいた年始の挨拶のお客があった。兄上(※虎之助)も来た。久保木の姉上(※ふじ)を呼んで、この夜は歌留多の催し(をして)大変にぎやかであった。姉上は三十七、兄上は二十八、私は二十二、国子(※邦子)は二十、(※全て数え年。満年齢は1歳引く。一葉はこの年の5月に満21歳になる。)「いずれも子供ではすまされない年齢なのに、集まればここまで幼くなるものですか。」と、母上が炬燵にもたれて(にぎやかな歌留多会を)御覧になっているご様子、何の憂いもあるはずがないと(いった風に)楽しげであるのが、もったいなくも嬉しかった。事にまぎれて(ここに)書き残した。稲葉の正朔さん(※稲葉寛、鉱の子)も年始の挨拶ということで今日遊びに来たのだった。
(明治26年)1月3日 田中みの子さんが年始の挨拶に来た。
(明治26年)1月4日 大島みどりさん(※萩の舎門人。明治24年6月13日、明治25年10月14日に出ている。)が年始の挨拶に来た。
(明治26年)1月8日 にはじめて年始の挨拶に出た。猿楽町の藤本さん(※藤本藤陰。『都の花』の執筆者兼編集員。直近では明治25年12月27日、28日に出ている。私宅が猿楽町にあった。)、(神田区)西小川町の大島さん(※大島みどり。萩の舎門人。)、下二番町では田辺さん(※三宅龍子)三宅さん(※三宅雄二郎)(夫婦)、その帰り道で師の君(※中島歌子)のところに行った。(人力車の)車夫の廻り順が、このような都合だったから(このように廻ったの)である。田中さん(※田中みの子)のところにも参るつもりであったが、三宅さんのところで(ばったり)会って、(田中さんは)「今日は(私はずっと)留守ですから、同じ事ならまたの日に(いらっしゃい)。」と言った。(田中さんと別れて、)三宅さん(※三宅龍子)と共にしばらくお話をした。(龍子さんは)「『文学界』の小説、是非お出しください。創刊号は二十日に発行のはずですが、これに間に合わないのなら二号にでもよいのです。是非とも(出してください)。」と言った。(そして)少しお話して別れた。
去年のこの日は、半井さん(※半井桃水)を平河町に訪ねて逢えず、小田さん(※小田久太郎)のところへ行き、(それから先生の)隠れ家に行き、心が慌ただしかったことを思い出すと(※明治25年1月8日にの日記に詳しい。一葉は桃水の留守宅に入りこんでしまった。)、何とはなしに胸がとても狂おしい気持ちになってしまう。昨非今是(※さくひこんぜ/境遇、思想、性格が変わって、昨日悪いと思ったことが今日は正しいと思える事。ただし原文には<昨是今非>とある。書き間違いであろう。)の世の中だ、今日は明日の何になるのか(分からないではないか)、思えば喜びも悲しみも(元々)違いはないものなのだ。
(※この最後の部分の原文は<思へば喜憂は無差別なり>である。一葉は明治25年9月17日に図書館で『雨中問答』(※西村遠里著。江戸時代の宗教問答談義物。)を借りて読んでいる。その『雨中問答』から書き抜いた言葉が、実は、明治25年9月4日に始まり10月25日で終わった日記「にっ記」の最後に記されている。それは「三界唯一心/心外無別法/心仏及衆生/是三無差別」という偈(げ)(※仏典の中で仏や菩薩をたたえる詩句)である。<思へば喜憂は無差別なり>の「無差別」はこの「無差別(むしゃべつ)」と同一の意味と見てよいだろう。この偈にある「三界唯一心」については、ここだけではなく、この前にも、明治25年8月28日の日記に、クリスチャン俵田初音と神の存在について論争した際、華厳宗の三界唯心(さんがいゆいしん、三界唯一心と同義語。)の思想から来たかと思われる言葉を残している。(※一葉はその時「有神無神元一物論(ゆうしんむしんもといちもつろん)」(有神か無神かは心ひとつだという考え。)という言葉を用いた。)三界とは、一切の衆生が生死流転(しょうじるてん)する迷いの世界、すなわち、煩悩を捨てられず解脱もできず生死を繰り返しながら抜け出せない現世の世界のことで、その世界は次の3つの世界に分けられる。欲界(欲望から離れられない衆生が住む世界)、色界(欲望を離れた清浄な物質の世界)、無色界(欲望も物質も超越した精神のみの世界)である。三界とは、要は、その3つをまとめた全世界のことである。そして三界唯心とは、その流転する迷いの世界すべてが「心」から造り出されているのだという教えである。三界の世界すべてが心の変現であって、心を離れては存在しない世界だというのである。一葉は、この「心」に注目し、その思想を追い求めているのだ。「三界唯一心/心外無別法/心仏及衆生/是三無差別」という偈を試みに訳すと、三界とはただ一つの心から生まれるのであり、心のほかに別の法(※法則、真理)があるわけではなく、心と仏と衆生は、仏も衆生もその心から生まれた概念である以上、この三つに何か違いがあるわけではない、ほどの意か。仏教の深い学識を正しく理解するのは難しいが、畢竟(ひっきょう/つまるところ)、すべては自分の心から生まれるということを知れ、ということであろう。蓋し(※けだし/思うに)、仏教は、その心を超越する場所を目指す哲学的思考と実践の教学とも言えそうだ。三界を超えた場所に悟りがあり、仏がいるのだろう。このような仏教の教えを踏まえて、もう一度一葉の言葉<思へば喜憂は無差別なり>に着目すると、彼女の言わんとするところが見えてくる。それを敷衍(ふえん/詳しく説明すること)して述べてみると、次のようになる。「何事も自身の心ひとつから生じる、いわば心の鏡のようなものであるのだから、そのことを正しく悟り得るならば、物事に一喜一憂しても、その気持ちは実は(私の)一つの心が生み出したもので、その意味では喜びと憂いとに何の違いもない。むしろそういった心にとらわれていてはならないのだ」、ほどの意になるだろうか。1年前のことを思い出し、桃水との別れに苦しむ一葉にとって、仏教は心の処方箋であったことだろう。)
(明治26年)1月13日 の夜、宮塚さん(※宮塚ふじ。一葉の父則義の東京府庁時代の僚友宮塚正義の娘。宮塚正義は、樋口家と上野や安達のように血縁のない縁だったと思われる。宮塚正義の妻、宮塚くにが「宮塚の伯母さん」として明治25年1月8日に出ている。また、明治24年12月23日にも宮塚という名前が出ている。)が来訪した。上海に赴いたのは五年前である。(※このあたりの消息は不明。)昔そのままのお話しに懐旧の思いに耐え難かった。(羽根突きの)羽根をついて共に遊んだ春は、宮塚さんが十七歳の頃であった。それにしても変わってしまった(私の)身上(※境遇)だなあ。こうあれとも思わなかったのに(※自然に、の意)、涙がただこぼれにこぼれて、恋しいのはその遠い昔であった。
(明治26年)1月14日 小石川(※萩の舎)の稽古はじめであった。風流な世俗の(※年始の)雑事、少しだけ点取り(※てんとり/歌の点数を競う催し)をして過ごして、日没後に帰った。
(明治26年)1月15日 上野の清次(※上野兵蔵とつるの間の子)が母(つる)と一緒に来た。菊池の武治(※きくちたけはる/菊池隆直の次男。菊池隆直は一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉の長男。)も、母(菊池隆直の妻。直近では明治25年7月11日に出ている。)と一緒に来た。田部井(※たべい/一葉の父則義在世時から樋口家に出入りしていた古物仲買商の名)の清三(せいざ)が、父と一緒に来た。(※父が古物商で、その子が清三だったのだろう。)榊原家の姫(※榊原つね。萩の舎門人。明治25年10月15日に出ている)が、乳母(※伊東せい。のちに一葉の門人となる。)と一緒に来た。この乳母は、もとは中島師(※中島歌子)のもとに仕えていた女で、今は榊原家にいるのだ。
(明治26年)1月16日 早朝、秀太郎(※久保木秀太郎。一葉の姉ふじの子。直近では明治25年3月18日に出ている。この頃は青山堂という薬局に奉公に行っていた。)が藪入り(※やぶいり。正月とお盆の16日に奉公人が家に帰ること。)で帰って来ていて、わが家にも立ち寄った。西村さん(※西村釧之助)が来訪。昼食をご馳走した。
(明治26年)1月17日 龍子さん(※三宅龍子)のところから『文学界』に出す小説を催促に来た。とても憂鬱だ。
(明治26年)1月18日 芝の兄上(※虎之助)に手紙を出した。議会傍聴券のことについてである。
下院議会(※衆議院)は昨日十七日河野広中さん(※こうのひろなか。自由党議員。)の発議により、政府の反省を求めるため、向こう五日間を休会と決めた。それは、予算案が政府に容認されなかったことによるものである。二十三日の開会日が天下分け目(の時)であるようだ。議会解散をさせられるのか、内閣大臣総辞職に至るのか、ここのところがとても難しいだろう。(※明治26年度の予算案について、軍備を削る衆議院の要求を政府が同意しなかったため、衆議院は5日間の休会を決め、政府の処置を待つことになった。なお、当時の情報源は新聞である。樋口家では当時『改進新聞』を購読していた。)
ここ、二、三日市中の警戒がおびただしいとのことである。(※東京の警察が特務巡査を増員、自由党過激分子を調べていた。)
(明治26年)1月20日 兄上(※虎之助)に二十三日の傍聴券を送った。西村さん(※西村釧之助)に依頼してもらって、飯村丈三郎さん(※いいむらじょうざぶろう。茨城県の衆議院議員だった。西村釧之助の故郷が茨城県。明治25年1月8日に釧之助の母、西村きくが茨城から来ていた話がある。)から貰ったのである。この夜までに、小説「雪の日」(※第8作)を書き終えた。(※「雪の日」は2月に『文学界』第3号に掲載された。)
(明治26年)1月21日 小石川(※萩の舎)の稽古であった。昼前から行った。小説「雪の日」は、今日は郵便に託して三宅さん(※三宅龍子)に送った。師の君(※中島歌子)は、錦輝館(※きんきかん/神田区錦町にあった会席料理店)に某さんの年始の会があって(そちらに)赴きなさった。私は(師の君の代わりに)人々に手習い(※習字)などを教えて、日没頃帰った。
(明治26年)1月22日 藤本さん(※藤本藤陰)を猿楽町に訪ねた。借りていた『都の花』を返し、さらに、またそのあと(の『都の花』)を借りて来た。(藤本さんと)今後の著作について、しばらくお話しした。この日、野々宮さん(※野々宮きく子)と吉田さん(※邦子の友人。直近では明治25年2月11日に出ている。)が来訪。野々宮さんは、一度岩手に帰って、また今日来られたのである。(※明治25年12月28日に出ている。)(野々宮さんは)「帰京してすぐに来ました。」と、行李(※こうり /荷物入れ。行李鞄(かばん)。)などを携えていた。(こんなにすぐ戻って来たのは)結婚のことなどで(も)あろうかと、首を傾げた。(野々宮さんは)「みちのくからです。」と言って、雉子(きじ)の▢(※草稿1文字欠字。空白である。おそらく「雛(ひな)」であろうと思われる。)を贈られた。この日は西北の風がとても激しかったので、この方々が帰った後、浅草より出火した(火事があった)。(燃えたのは)西鳥越(※地名)とか聞いたので、(※この日の午後3時過ぎ浅草区西鳥越で176戸を全焼する火事があった。)「三枝さん(※三枝信三郎)はどうしたのでしょうか。(※三枝信三郎は浅草区東三筋町に住んでいた。)」などと、一同心を悩ませた(※心配した)。
(明治26年)1月23日 晴天。母上は、小林さん(※小林好愛(こばやしよしなる)/一葉の父則義の元上司。当時は生命保険会社にいた。直近では明治25年10月19日に出ている。)にお金を借りに行かれた。菊池さんの老母(※菊池政。一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉の妻。1月15日に記した菊池隆直の母。)が来訪された。新年初めてだったので、ありあわせの酒を出した。母上がちょっと家に戻って来て、すぐに三枝(家)に火事見舞いに赴かれた。かなりの大火で百何十戸とか焼けたけれど、三枝(家)には何事もなかった。この火事でまた、鳥越座(※歌舞伎などを上演する芝居小屋。)も烏有に帰した(※うゆうにきす/火災で焼けて何もかもなくなること。)。この夜、新聞の号外をうるさく売りに来た。わが『改進新聞』も号外を発行した。議会は停会になったのである。(※野党から提出した予算修正案を政府が拒否、それに対して弾劾的上奏案が提出されたので政府はただちに停会を命じた。)二十三日より向こう十五日間、二月六日までである。
(明治26年)1月25日 雪が降った。少しずつなら(これまでも)時々降ったが、積もるほど降ったのは、今日がはじめてであった。中村礼子さん(※萩の舎門人。直近では明治25年12月28日に中島歌子を介してお歳暮に帯揚げをもらっている。)のところで数詠み(※萩の舎の門人たちが当番制で自宅、あるいは萩の舎で数詠みの集会を実施していた。数詠みは和歌の競技。盆の上に複数のおひねり状にした紙が置いてあり、それを開くと歌の題が記されている。一枚ごとに現れる題に対して制限時間内に歌を詠み、その数を競うもの。)の催しがある日なのだけれど、最近は歌にそれほど気持ちが入らず、人々とお話しするのが大変気が進まないで、事にかこつけて断ったが、「この雪では他の方々も来会したのだろうか、どうだったのだろうか。」などとさすがに思いやられた。三寸(※約9センチ)ばかりは積もった。(雪をかぶった)木々の姿、大通りのさまが大変面白い。四時頃には降りやんだ。
(明治26年)1月28日 小石川(※萩の舎)の稽古であった。正午から行った。伊東さん(※伊東夏子)が、教会の事について少しお話をした。(※伊東夏子は駿河台英和女学校で洗礼を受けたクリスチャンである。女学校の学生で組織されたキリスト教青年会に加わっていた。)「中村さん(※中村礼子)のところで聞いたこと」と言って、怪しい言葉を言い聞かせられたが、その心がよく分からなかった。(※このあたりの具体的な内容は不明。)師の君(※中島歌子)は養子のことが決まって、「今日はそちらへ(参ります)。」と言って稽古のあとすぐにその支度をされた。ここのところは(さすがに)全てを書き続けるべきではないだろう(からやめる)。(※中島歌子は翌明治27年5月に大阪の安場善助の次男廉吉を養子に迎えている。明治25年2月11日のところで記したが、歌子はその日に出ている今村けいの他にも1人養女として迎えた経歴があるが、2人とも実家に復籍、あるいは嫁いだので、新しい養子を探していた。おそらく、過去に一葉もその候補であったはずだ。)
(明治26年)1月29日 暁(※夜明け前)から雪が降った。今日は先日の雪にまさって、勢いよく降りに降った。芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。「今日は九段(※靖国神社)で大村卿(※大村益次郎。蘭方医でありながら西洋兵学に長け、戊辰戦争で活躍。新政府の軍制改革に携わるなど、日本陸軍の父と呼ばれた。)の銅像の落成式があるはずだったけれど、この雪で延期になった。」などと話した。安倍川餅などをこしらえて、寄り合って食べているうちに、いよいよ降りしきる雪は積もりに積もって、芦沢が帰宅する頃には五寸(約15センチ)にもなった。日没少し前に(雪は)やんだ。
夜も深く更けて、雨だれの音が聞こえるのは、雪が解けているのだろうかと、寝室の戸を開けて外を見やると、庭も籬(まがき/竹や柴を荒く編んで作った垣)もまるで銀色の砂を敷いたようにきらきらと光っていて、見渡した向こう側にある右京山(※一葉の住む菊坂町の裏手にある松平右京亮の邸跡の高台を指す。右京亮(うきょうのすけ)は官職の名。)がすぐ近くに浮き出たようになって、夜目(よめ)をはばからず大変はっきり見えるのは、月夜になったのであろう。たくさんの悩み事をことごとく捨てて、はかないこの世の中を離れようと思うこの(私の)身に、それでもやはり気持ちを抑えがたいのはこの雪の景色である。(※原文は<こゝら思ふことをみながら捨てゝ有無の境をはなれんと思ふ身に猶しのびがたきは此雪のけしき也>である。<ここら>はたくさんの意、<思ふこと>はここでは悩み事だろう。<みながら>はことごとく、残らずの意。問題は<有無の境>で、これは、正しくは、有為(うい)の境かと思われる。有為は仏教語で、因縁(原因と結果)によってつくられたこの世の一切の現象。また、移り変わりやすくはかないこの世のこと。有為転変の有為である。有為の境とは、移ろいやすいこの世の境遇、といったほどの意。ただし、有無(うむ)であっても、存在することと存在しないことの境(※境界)ともとれるので、いずれにしろ「はかないこの世の中」ほどの意ではあろう。<猶>はそれでもやはり、の意。<しのぶ>は気持ちを抑える意。そして、<雪の景色>だが、これは1月20日に脱稿した小説「雪の日」と深い関連がある。小説「雪の日」は、一葉が明治25年2月4日に半井桃水のとろへ赴き、寒い中を桃水が起きるまで玄関の二畳ばかりのところで待ったその日に着想を得た作品である。日記にもそう明記してある。その日の日記を読めば分かるが、この日は彼女の人生の中で最も幸せな日であっただろう。雪が降りしきる中人力車で帰る一葉の、いきいきした語調の漢詩文、そして頭巾から目だけを出して面白がる彼女のかわいらしい様子が印象的だ。今、目の前に広がる真夜中の雪景色に、彼女は1年前のその日、雪の日を思い起こしているに違いない。)あれこれと思い続けているうちに、胸中が熱くなりそれに耐えられなくなったので、おもむろに(庭に)下りて、雪を手のひらに掬(すく)おうとすると、私の影が(雪の上に)落ちてはっきりと見えた。月はわが家の軒の上に上って、寝室にいながらでは見えなかったのだ。空はまるで磨いた鏡のようで、塵ほどの雲もとどめず、どこにまで(月は)その光を照らしているのだろうか、(※あの人のところまで月光は届いているのだろうか、という思いが込められている。)(と思って、)何とはなしに歌を作って口ずさんでみたものの、寂しい(かぎりだ)。
降る雪にうもれもやらでみし人の
おもかげうかぶ月ぞかなしき
(※<やらで>は「~せずに」の意。<みし人>はかつて会った人、またはかつて愛した人の意。ここでは後者であろう。降る雪に埋もれ(※隠れ)もせずに浮かぶ月にかつて愛した人の面影が浮かんでくるその悲しさよ、ほどの意。)
わが思ひなど降(ふる)ゆきのつもりけん
つひにとくべき仲にもあらぬを
(※私のあの人への思いはどうして(こう)降る雪のように積もってしまったのだろうか。ついには(雪解けのように)とけ合うことのできる仲でもありはしないのに、ほどの意。)
(明治26年)1月30日 薄緑の空に群がっている鳥のさえずりがとてものどかであった。家々で雪かきをするということで、子供などが走り騒ぐ様子も大変かわいらしい。この家の隣ともいえるところに、若い娘が二人いる家がある。その軒並びに住んでいる独り身の男が、いつも(娘たちに)追従(ついしょう)しながら暮らしていて、この雪でもひたすらどんどん雪かきをしていた。この(家の)娘も出て来て面白そうに話をして、笑ったりなどしながら、はたから見苦しいまでに親しくまつわりついて(じゃれあって)いるのは、ああ、悲嘆の種をまこうとしているのだろうか、他人事だけれどとても浅ましい(※驚きあきれた意)ことである。
(明治26年)2月3日 母上が、上野(※上野兵蔵)に年頭(旧正月)の挨拶に赴かれた。
(明治26年)2月4日 (母上が)佐藤梅吉(※一葉の父則義の恩人真下専之丞の元で書生として働いていた人。則義在世時から親交があった。直近では明治25年9月1日に出ている。)へ同じく(年頭(旧正月)の挨拶に赴かれた。)この夜、姉上(※ふじ)が、母上を寄席(※姉ふじの家の近くに菊坂亭という寄席があった。)に誘って連れ立って行かれた。
(明治26年)2月5日 梅吉(※佐藤梅吉)から母上を誘って、共に水天宮(※日本橋区蠣殻町(かきがらちょう)の水天宮。)の参詣をした。「帰りにうなぎをご馳走になった。」と母上はお喜びになられていた。この日、日曜日なので、芦沢(※芦沢芳太郎)が来た。
恋は、浅ましい(※驚きあきれた意、また、情けない、嘆かわしい意もある)ものだなあ。心を尽くし、身を尽くして成就できる仲であればよいだろうけれども、(そうでない時、)この恋は成就するはずがないものと自分から決めて(しまうのはいいが)、それでもやはり(相手のことを)なかなか忘れることが出来なくて、(そのために)夢うつつに(※ぼんやりとの意)(かなわぬ恋を)思い悩むのだろうなあ。もとより、その人の目、鼻、あご、それから手足のどこか(といった外見に)に恋心を寄せるというわけでもなく、(また、)字を上手に書き、文章を綴る類いの事、言葉遣い、声の調子、気立て、(などといった内面的なことにおいても)どこがどこが(※ここがいい、あそこがいい)と言うことが出来るものではない。ただ(単に)その人が恋しいのであって、それゆえ、いつも自分が(恋しく)思っていることとは相違して、(その人の)一つ一つについて言えば、(別に)恋しいところもない(も)の(なの)だ。物事をわきまえる心もなく、思慮が足りない人は、一時の恋に身を誤らせる類いのことが、こういうところ(※よく考えれば具体的に恋しいところがないことに気付いていない点)で起こるのだろうし、少し物事をわきまえて、冷静沈着な人は、この恋心に負けまいと抵抗して、身の内はただもう燃える様に(恋しさに)焦がれていても、気持ちは死ぬほど思い悩んでいても、それでもやはり本当の迷いには入らないで、ついには夢(※恋)が覚めてしまうこともあるのだ。女などは心が繊細なものなので、その(心の)争いに負けて、狂気じみてしまう類いもあるようだ。だけど、これは普通ではない恋であって、本当の妻女というのであれば、もしこれほどの恋仲であったとしたならば、どんなにか人も羨み、世間に褒め(たたえ)られるものになることか。貞女(※ていじょ/節操を堅く守る女性)、節婦(※せっぷ/操の堅い女性)などというのは、このような(恋)心を内に秘めて、表向きには(平然と)世間の務めを果たしているのだろう。(男女の間柄だけでなく、)親子の仲、主従の関係、いずれにもこういう(均衡のとれた)心組みであってほしいものだが、何事も(あまり)一方に走(り過ぎ)ると偏りが生じるもので、(その偏りに)従っていると、弊害になることもあるのだ。近頃見たり聞いたりしたところによると、(そう)あってはならない人にあってはならない行いなどが散見されるそうだが、(それも)やはりこの類い(※偏重になること)のことで、同じことなら、まじめで誠実な道に伴っていってほしいものだが。(※当時、政府と民党(自由民権運動を推進した自由党、立憲改進党などの民権派の政党)との対立、争いが激しく、政情が不安だったことを言っているのだろう。恋の話から最後は政情不安への思いに転じているのが個人の日記の自由さでもあろう。)
※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ( )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※ )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)
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