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現代語訳 樋口一葉日記 23(M25.12.24~M25.12.31)◎三宅龍子より『文学界』寄稿依頼、迫る年末の支払い、貧苦の稲葉鉱の家へ、桃水の妻か。

よもぎふにっ記 (明治25年(1892))12月

(※蓬生(よもぎう)とは、ヨモギがたくさん生えているような荒れ果てたところ、の意一葉はこれに限らず同じ題を何度も使っている。)

(明治25年)12月24日 気にはかけまいと思うけれども、本当に「貧は諸道の妨げ」(※ことわざ。金がなければ何もできず、貧乏生活では何をしようにも自由にならないこと。)であることだ。すでに今年も師走の二十四日になった。この年(の瀬)の支度、身分相応には用意しているのだが、今月の初めに三枝さん(※三枝信三郎。一葉の父則義の恩人真下専之丞の孫。銀行家。直近では明治25年10月23日に出ている。)から借りた金が、今はもう残り少なくなって、奥田(※奥田栄。樋口家はこの老女へ父の借金の返済を続けていた。直近では明治25年9月3日に出ている。)の利金(※利子)を払ったら、本当に手払い(※持っているお金をすべて出し尽くすこと。一文無し。)になってしまうだろう。(正月の)餅はどうやってつけばいいのか、家賃はどうしようか、お歳暮の進物はどうしたらいいのか。「暁月夜(あかつきづくよ)」(※一葉の小説第7作。12月10日頃に脱稿し、原稿は『都の花』の編集員藤本藤陰(ふじもととういん)に渡したと考えられる。なお、「暁月夜」が掲載された『都の花』は明治26年2月19日に発行される。)の原稿料もいまだ入らない。他には一銭の入金のあてもないのに、今日は稽古納めということで、小石川(※萩の舎)で福引(※景品は参加者が持ち寄った。)の催し(などというのは)、大変やりきれないことだ。(結局、萩の舎の福引で)引き当てたのは「まどの月」(※最中(もなか)の一種。四角い。)の折詰であった。(萩の舎から)家に帰ると、国子(※邦子)が待ち受けていて、「これをご覧ください、龍子様(※田辺龍子。結婚して三宅龍子。)からこの書状がたった今届きました。お喜びください。」と言って見せたのは葉書であった。(そこには)「来たる新年早々女学雑誌社より『文学会』(※正しくは『文学界』、一葉の書き間違い。)という雑誌が発行になります。あなたに是非とも短篇小説を書いていただきたく、その出版社から頼まれて(の)このお願いです。」とあった。「いろいろお話もあるのでお暇なときにお越しください。」と最後に書かれていたので、すぐに返事を書いて、「明後日参ります。」と伝えた。家では、「このように雑誌社などより(執筆を)頼まれるようになったのは、もはや一つの事業の土台が固まったのと同じですね。」と言って喜ばれた。最近の『早稲田文学』に「文学と糊口(ここう)」という(書評)欄があったのを思い出すと、(私のような者が小説を書くなど、恥ずかしくて)顔を赤らめる(ような)行いである。(※明治25年9月と10月に発行された『早稲田文学』24号、25号に掲載された奥泰資(おくたいすけ)の評論「文学と糊口と」。その内容は、近年雑誌の発行と文学会の設立が盛んで、中には文学を一種の新職業とみなして名誉、金銭、地位を得るのに最も手軽なものと思っている者もいるようだが、それは大きな間違いで、本来の文学のためにもそれは嘆かわしい、としたもの。生活のための売文行為を批判している。一葉は何と言っても初めから生活のために小説を書いているのだから、それを真っ向から否定するような評論であっただろう。一葉の文学観に少なからず影響を与えたことは間違いない。)
(明治25年)12月26日 早めに昼食を食べて番町(※三宅雄二郎、龍子夫妻の家。麹町区下二番町37。この辺りは江戸時代から番町と呼ばれていた。)に行った。「三宅さん(※雄二郎)のところは初めて行くのですから、何かお土産を持って行かないと。」などと(家の人は)言ったが、(私は)「さあどうだか、虚飾はない方がよいでしょう。それをあれこれお咎めになられたら、(龍子さんは)哲学者の妻とは言えませんよ。(※龍子の夫三宅雄二郎は哲学者であった。詳しいことは明治25年11月11日の日記に記した。一葉のこの発言は、彼女が哲学についても興味を抱いてていたことを示すものだろう)」と笑って行った。田辺さんのところ(※田辺龍子の実家。麹町区下二番町5。)よりは一丁(※約109メートル)ばかり手前で、女学雑誌社(※麹町区下二番町42の巌本善治(いわもとよしはる)宅を指す。女学雑誌社は神田区神保町にあった。巌本善治については明治25年4月20日のところで少し述べたが、明治18年初の本格女性誌『女学雑誌』を創刊し、明治20年には発起人として名を連ねていた明治女学校の教頭となっていた。)の(ある)通りに少し引っ込んで入った(ところの)格子造りの家であった。向かい合わせに一、二軒のお隣さんがあった。いわば裏屋(※うらや/街並みの裏にある粗末な家。)めいているのだけれど、座敷の数は十間ほどあって、家の中もそこまで見苦しくないのは、思っていたのとは違っていた。(三宅さんの家には)志賀重昂さん(※しがしげたか/のちに「日本風景論」を書いた地理学者。三宅雪嶺(雄二郎)とともに政教社を設立、国粋主義を主張し、共に雑誌「日本人」を発行した。)が一足先に来られていて、ふすま一つ隔ててそちらで三宅さん(※三宅雄二郎)とお話しする声が、ありありと聞こえた。そこでもしきりに金のことを言っていて、「「五百円何とやら(※ここの言葉がよく聞こえなかったのだろう。)、宮崎(※宮崎寅蔵(滔天/とうてん)。アジアの革命を実践することを目指した革命運動家。中国の革命運動に協力した。)が今必死である。君がいかほどとやらを出せば、その残りは私が何とでもしよう。私に手元の金がないのは無論だけれど、それこそ何とかして算段しよう。」と言うのは、志賀さんの(声の)ようである。(家の)主(あるじ)(※三宅雄二郎)は声は低くはないのだが、(話す)言葉がどもっているからであろうか、よくは聞き取れず、とぎれとぎれにお話をする。(金の話をしているので、)窮鬼(※きゅうき/貧乏神)は(私のところばかりではなく)どこをも襲うものであろうかと、おかしかった。龍子さんはここで初めて(高価な絹の着物ではなく、質素な)木綿の着物を着ることになって(も)嫌とはしないお顔、(おそらく)内心に誇るところがあるからであろう。(※これは龍子の生来の誇り高さを指摘した一葉の的確な観察眼と見てよい。)志賀さんがお帰りになられて、三宅さん(※雄二郎)も私(たち)の座にお越しになった。(ところが)あちら(※雄二郎)に(出る)言葉もなく、こちら(※一葉)にも(出る)言葉はない。初対面というものは窮屈なもので、ついには困ってしまって(三宅さんは)次の間に入って(※引っ込んで)しまわれた。(龍子さんは、)「雑誌は、女学雑誌社の北村透谷さん(※きたむらとうこく/詩人、評論家。浪漫主義、恋愛至上主義に根差した評論を多く発表し、活躍したが明治27年に自殺。自殺した当日一葉に会いに行くと言って家を出たが気が変わって家に戻り、自宅の庭で縊死したという逸話も伝わる。ちなみに透谷と一葉は一度も会ったことはない。『文学界』においても透谷は編集には携わらなかった。)、星野天知さん(※女学雑誌社の創刊した『女学生』の主筆。直近では明治25年11月11日に出ている。)のお二人の創刊で、はじめは『葛衣(くずぬの)』(※正しくはひらがなの『くずぬの』)と名付けていたのを『文学会』(※『文学界』が正しい)と改めました。それには理由があります。」と言って、(その誌名に)龍子さんの意見(※龍子が『文学界』という誌名を提案した。)が用いられたことを話された。(続けて龍子さんは)「私に『和歌の欄を受け持ってほしい』との依頼でしたが、もとより(私には)そんな力もなく、かつまた(結婚して)暇のない身でなかなか忙しく大変なので、『私一人なら御免被(こうむ)りたいと思います。もう一人一緒にやってくれる人があるのならともかくも。』と言って、少し僭越でしたがあなた(※一葉)のことを言ったところ、『和歌は(お一人で受け持つか、お二人で受け持つか)どちらでもあなたのお心にお任せしますが、一葉女史のことは、かねて(私が)『女学生』(※雑誌名。巌本善治の発案で、星野天知を主筆に明治23年に創刊されたミッションスクール系の機関紙。明治25年12月刊の第30号に星野が匿名で書いた「明治廿五年文界」が掲載されていた。そこで星野は一葉の「うもれ木」を評価している。)に論じましたように、そのすぐれた着想にすっかり感心していましたので、是非小説の著作を依頼したく、(どうか)あなた様(※龍子)から(一葉女史に)依頼してくれませんか。』と星野さんから手紙がきました。その『女学生』の評はご覧になりましたか。」と(私に)尋ねられた。(私は)「いいえ、知りません。」と言うと、龍子さんも「(私も)まだ見ていません。見たいものですね。ともかくも是非(小説を)書いていただけませんか。一つはご名誉にもなりますし、これから先のためにもなるでしょうから。」などと言われた。(原稿は)三十一日までにとの約束で暇乞いをして(三宅さんの家を)出たが、それにしても(なんだか)心もとないことになったものだ。(※期日があと5日しかなく、それまでに原稿を書けるか不安だったのだろう。)帰宅してただちに机に向かって硯(すずり)を鳴らした(※硯で墨を磨(す)る音)けれど、(小説の)趣向がなかなか浮かばず、(何もできないまま)いたずらに今日も暮れてしまった。
(明治25年)12月27日 亡き兄清光院(※しょうこういん/長兄泉太郎)の祥月命日(※しょうつきめいにち/故人の亡くなった月日と同じ月日)である。茶めしを炊(た)いて、久保木の姉上(※ふじ)を招いた。芝の兄上(※虎之助。9月29日に美濃(※岐阜県)へ出立し、美濃の陶工、成瀬誠志(なるせせいし)のところで陶器製作を学んでいたが、当時は岐阜からすでに帰京して、南佐久間町で間借りをして住んでいた。)も来訪のはずであったが、どうしたのだろうか、来ない。上野の房蔵さん(※上野の伯父さんこと上野兵蔵の妻つるの連れ子が房蔵。直近では明治25年10月17日に出ている。)、奥田の老人(※奥田栄)などが来られたので、これ(※茶めし)を振舞った。金港堂(※雑誌『都の花』の出版社)からの(原稿料支払いの)連絡はいまだにない。「そうはいっても明日は二十八日である。餅をつかせないわけには(いかない)。」と、二円ばかり(餅)を注文して作らせた。これは奥田(の老人)へ支払うべき利金(※利子)を、ちょっとの間餅の方にまわそうという心積もりであったのだけれど、今宵この老人が来られたので、「(利金の支払いは)待って」と言うのも苦しいので、手元にあるほどのものを集めて二円やった。それでもまだ二円五十銭ばかりを渡さなければならないが、それは利金ではなく元金のほうであるので、しばらくの猶予を頼んでこのようにしたのである。「そうはいっても明日岡野(※本郷区本郷三丁目にあった岡埜栄泉堂という菓子屋か。)から(注文した餅を)持ち込まれた時、何と言おう。榛原(※はいばら/榛原商店という酒醤油店。神田区にあった。)へ注文しておいた醤油も酒も明日は来るだろう。その支払いはどうしよう」と(母と妹と)見合す顔にため息をのみこむのもつらかった。奥田の老人が、「では」と帰ろうとする(ちょうどその)時、「郵便です。」と届いたのは何だろう、あわただしく見ると、藤陰隠士(※藤本藤陰(ふじもととういん)。『都の花』編集員と執筆を兼ねていた。直近では明治25年10月22日に出ている。また、隠士(いんし)とは隠者で、俗世間から離れて一人で生活する男のこと。)より「『暁月夜(あかつきづくよ)』の原稿料、明日二十八日、両替町(※日本橋区本両替町(ほんりょうがえちょう))の編集所でお渡し申し上げます。午前中にお越しください。」ということであった。自然はこうも円滑なものなのだろうか。
(明治25年)12月28日 夕べから野々宮さん(※野々宮きく子。休暇で盛岡から帰京していた。)が泊っていて今朝もまだ帰らない。家では、「餅つきのお祝いに御汁粉を作りましょう。」などと、お勝手で母上の手が忙しい。私も、「岡野(※菓子屋)から(餅を)持ち込むのに先立って、金港堂からお金を受け取って来よう。」と思って、十時という頃に家を出た。野々宮さんも、「それならご一緒に。」と言って、真砂町まで連れ立った。伊東夏子さんにも借りた金があった。いつまでという期限の決まりもないのだけれど、投げやりにしてはいかがなものかと思って、通り道だったので、するが台(※伊東夏子宅。神田区南甲賀町8)に立ち寄って、その言い訳をした。彼女も、「話すことがとてもたくさんあります。」と言った。私からも言うことはあるのだが、「ではまた。」と言って別れた。ここから車(※人力車)で本両替町の書籍会社(※金港堂)に行った。すぐに藤陰(さん)に会って、「暁月夜(あかつきづくよ)」三十八枚の原稿料十一円四十銭を受け取った。(━━思えば)十六歳ばかりの時であった(※明治20年頃か。)。第九十五国立銀行(※日本橋区本町3丁目にあった。)に所用があってこの(銀行の)前を取っていると、洋服いでたちの若い男が、立派な車(※人力車)に乗って、(銀行の方に)引いて行かせたのを見た時、「あっぱれ、見事だ。あれは大方若手の小説家などであって、著作か何かのことについて、この銀行に出入りする人であろう。三寸(※約9センチ)の筆でもって昔からの(※伝統的な)風雅を極めて、人に尊ばれその身に美しい衣服を着飾り、(小説家とは)これ以上ない職業だなあ。」と思った(あの時の私の)愚かさよ。(※一葉は田辺龍子/三宅花圃の「藪の鶯」(明治21年)に触発されて小説家を目指したというのが定説だが、小説家への憧れはこの時点からあったことは注意すべきであろう。「藪の鶯」より1年早い。)私も(今)辻車(※往来で客を待ち迎えて運ぶ流しの人力車。個人や会社の抱え車に対する呼び方。)ではあるけれども、美しき毛皮の前掛け(※上等の人力車には客の防寒用に毛皮のひざ掛けが設けられていた。)があって、(車を引く)車夫の(法被(はっぴ)の)背中に縫われたカタカナ文字(※人力車駐車場を拠点とした、人力車営業組合に入っている人力車組織を「番(ばん)」といい、その「番」を示すカタカナ文字の記章が車夫の法被に縫われていた。個人の抱え車の車夫にもその法被に持ち主の名前や頭文字が記されていただろうから、知らなければ見分けがつかない。)が、私の苗字かそうでないかは知らない人には分からないだろうから(この辻車を抱え車と思う人もいるだろうし)、まして、古いものだけれど絹の上下の着物(を着ているし)、手に持つ頭巾だって、どうにか紺屋(※こうや/染物屋)を口説いて、「はっきり(上手く染めが出来るか)分からない」と(一度は)断られた染めを(無理に)頼んで(してもらい)、伸子(しんし)張り(※両端に針がついた竹の棒を、洗った布の幅に合わせて何本も渡して張り、縮みを防ぎしわを伸ばして乾かす方法。)はすることが出来ないので、家でつい今しがた火のし(※底の平らな金属製の器に木の柄をつけた道具。中に炭火を入れて熱し、布のしわをとる。今で言うアイロンのようなもの。)の力を借り(てどうにかしわを伸ばし)、「かぶらなくとも、この寒空に頭巾なしでいては(はた目にも)みすぼらしいから(手にだけ持っていなさい)。」と、母上の(体裁だけを保つ)苦し紛れの趣向(であった)なんてことは人も知るまい。(※つまり、外からは仮に立派に見えていたとしても内実は全くその逆であるということを言いたいのである。)私も昔は(外からは金持ちに見えた小説家が実際はこんなありさまであったとは)思わなかった。この情けない文学者(※一葉自身を指す)が、家に帰った時は一緒に餅も来た、酒も来た、醤油も一樽(ひとたる)(※醤油は樽で販売していた。)来た。支払いも出来た。和やかな風が家の中に吹くのだがそれも頼りないことだ。(※正月用の餅や酒は体裁を保つためであって、前日まではその支払いをどうしようかと途方に暮れてため息をついていたのである。見かけは立派だが内実は貧相であるという直前の話に通じる。)「さあ」と言って昼過ぎから師の君(※中島歌子)のところへお歳暮に赴いた。「中村さん(※中村礼子。萩の舎門人。直近では明治25年11月9日に出ている。)からあなた(※一葉/ちなみに原文は<我れ>であるが、中島歌子の言葉であろうから、分かりやすいように「あなた」と訳した。)へのお歳暮にと帯揚げ(※帯を太鼓結びにするときに用いる布。帯の上辺にちらりと見える。)の縮緬を贈られました。」と取り次がれた(※中村礼子と一葉の間に立って品物を渡したということ)。(そして)師の君に頼まれて、小出さん(※小出粲/こいでつばら。萩の舎の客員歌人。小石川区水道端町に住んでいた。直近では明治25年8月18日に出ている。)にお歳暮のものを持って行った。(その)帰り道、前もっての心積もりでは「暁月夜(あかつきづくよ)」の原稿料は十円のつもりであったが、(実際は)予想を超えて(※十一円四十銭)いたので、かの稲葉の穂波が風に吹かれて枯れかかっているのも哀れである(※稲葉寛(かん)、鉱(こう)、正朔(しょうさく)一家のこと。事業の立ち上げに失敗し、明治25年3月13日に逃げる様に小石川区柳町に引っ越している。その際に稲葉寛の詐欺騒ぎが3月15日にかけて起こっている。また、繰り返しになるが、鉱は、一葉の母たきが、長女ふじを里子に出して乳母奉公に行っていた二千五百石旗本稲葉正方の養女、姫であった。一葉らにとっては乳姉妹と言えよう。鉱は明治15年に稲葉正方の死亡により戸主を相続していた。鉱の入り婿が稲葉寛。鉱は当時35歳ほど。明治維新後、屋敷を官収されて、住むところも仕事もない没落士族の典型であった。)から、(ことにお鉱様は、)昔は私も睦まじくした人で、こちらからは何も頼むことはないけれど、そうはいっても仇の間柄では(もちろん)ないし、理屈を言えば五本の指を折って入るような血筋でもないけれど、それでも同じ乳房にすがった身で、いわば(私の)姉ともいうべき人なのだから、「さあ、喜びは一緒に。」と思って、柳町の裏屋に貧苦の体でいるのを見舞って、お金を少しお歳暮としてさしあげた。昔は三千石の姫と呼ばれて、白い肌に美しい着物を断たなかった人が、髪はまるで枯野のすすきのようで、いつ髪を(整えるために)たぐりあげたことか油気もなく、(老人、子供が着るような)袖なしの羽織をみすぼらしく着て、さすがに自分の姿を恥じているからだろうか、うつむきがちに、「何とも見苦しい住まいで、お茶を差し上げるのも(汚らしくて)かえって無礼になりますから。」と言って、嘆かれるのがとりわけ涙の種になった。畳は六畳ばかりで、(表面のい草が)切れも切れて、ただもう藁ごみのようで、そのうえ、障子は一か所も障子紙が続いているところもなく(穴だらけ)で、昔見た思い出のよすがとなるようなものは、兎(う)の毛に置く露(※諺。「兎の毛の末に置く露」。非常に微細、微量であることのたとえ。ほんの少し。)ほどもない。夜具や蒲団もないだろう、手道具もないだろう。あきれるほどひどい形をした火桶(※木製の火鉢)に土瓶をかけて、(そこで)小鍋だて(※小鍋で食べ物を煮ながら食べること。当時は贅沢とされた。)をした面影はどこにもない。主(あるじ)(※稲葉寛)はこれから仕事に出るところということで、筒袖の法被(※人力車の車夫をしていた。)を肌寒げに着て、行火(あんか)を抱いて夜食の膳に向っているのもはかなく感じられる。正朔さんが私のお土産(※何かは不明だが玩具だろう。)に喜んで、紅葉のような手に(それを)持ったまま少しの間も離さなかった。「ご仏前にご覧にいれなさい。」と母上(※鉱)に言われて、仏壇めいたところにそれ(※玩具)を供えた。(私が)「何事もご時世であって、また巡って来る春もあるでしょうし、正朔さんさえこのようにいらっしゃるのですから、決して力を落とされてはいけません。かよわい(あなた様の)御身に(おかれまして)胸を痛められ、ご病気などになられたら、それこそ取り返しのつかないことになりますから。」と言って慰めると、(お鉱様は)「お聞きください。この子は『大きくなったら、陸軍の大将になって、銀行からいくらでも金を持って来て、父も母も安楽に暮らせるようにするんだ。』と常々威張って申すことです(の)。」と、いかにも頼もしげに微笑んで話された。「また来ます。」と言ってこの家を出たら、夕風が袂に吹いて大通りはすでに暗くなっていた。
(明治25年)12月29、30日 の両日、必死になって著作(※第8作「雪の日」)に従事した。暁がた(※夜明け前)に少しまどろんだだけで、ひたすら三十一日までに間に合わせようとするにつれて大変苦しくなった。三十日には上野の伯父さん(※上野兵蔵。直近では明治25年7月11日に出ている。)がお歳暮ということで来られた。(それで)一日筆を執ることができずに暮らした。その夜十一時まで燈下にい(て執筆をしてい)たが、国子(※邦子)がしばしば私を諫(いさ)めて、「名誉も誉れも命があってこそですよ。ここまで脳を使い、心を労して病気に(でも)なったらどうするのですか。はたから見ているの(でさえ)も大変苦しいのですから、何とぞこれ(※三宅龍子に原稿を三十一日までに渡すという約束)は断って、もう今宵はお休みください。」と繰り返し忠告した。(それを聞いて私も)「本当にそれももっともなことだ。」と思って筆を置くと、心身共に疲れてにわかに眠くさえなった。
(明治25年)12月31日 早朝、三宅さん(※三宅龍子)に断りの葉書を出した。一日家の中の掃除などをして、日没前にすべてやり終えた。さあ、と国子(※邦子)と一緒に買い物がてら下町の景気を見に行った。本郷通りから明神坂を下り、(神田)多町(たちょう)で買い物をして、(神田)小川町の景気を眺め、三崎町で(は)半井さんの店先を(少し離れたところから)眺めた。「年の若い女が、髪などを美しく飾って、下女ではあるはずもない振舞い(をするのは)、大方先生(※半井桃水)の細君でしょう。」と国子(※邦子)が言った。(※一葉は目が悪いのでよく見えず、かわりに妹が、桃水が経営する茶葉屋松濤軒の店先の様子を姉に教えていたのだろう。)(それを聞いて私は)「例の大阪の富豪の娘、先生に深くご執心と聞いていたが(※明治25年8月21日に野々宮きく子から聞いた桃水の縁談話。『胡砂吹く風(こさふくかぜ)』を非常に愛して桃水にお嫁に行きたいとする女性。)、その娘が持参金を持って嫁入りに来たのではないだろうか。それにしてもいかに(先生が)働きのある人であっても、これほどの店が何も持たないで(※資金がなくて)成り立つはずはないのだから、金銭を出す(秘密の)穴(※金の出どころ)がどこかにあるだろうことは必定だ。この世はこんなものなのだ。」とため息をついて、(※おそらく、邦子は桃水の従妹の河村千賀を見て、妻ではないかと言ったのではないだろうか。邦子は河村千賀の顔を知らない。一葉はよく見えないので、そこから余計な誤解が生じたのだろうと思われる。しかし、よく考えて見れば、それはおかしなことで、第一一葉が最後に桃水に会いに行ったのは11月11日で、それからまだひと月半である。その時の桃水の様子にも結婚の気配は微塵もなかったことからも、桃水の結婚は非現実的である。それに、この一葉の言葉には不思議なほど悲壮感がない。あれほどの桃水への思いを吐露してきた一葉にしては、あっさりし過ぎている。思うに、賢い一葉は、邦子の言う女性が河村千賀だと内心気付いていながら、自分の桃水への苦しい思いを断つために、以前野々宮きく子から聞いたあの娘と桃水は結婚したのだと自分に言い聞かせ、思い込ませようと、あえてこのような感懐を記したのではないだろうか。そうでなければこんなため息だけで終わろうはずはない。)その帰り道、富坂下(※とみざかした/地名)で国子(※邦子)がものを拾った。(※何を拾ったかは不明。)大変のどかな大晦日で、母上は、「家を持ってから、今年の暮れほど楽な心持ちはない。」と大変喜ばれていた。(そうして、まだ夜)九時というのに、表を閉ざして寝てしまった。

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)(下)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)
「人物叢書 樋口一葉」(塩田良平 吉川弘文館)

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