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現代語訳 樋口一葉日記 21 (M25.9.4~M25.10.25)◎「うもれ木」完成、野々宮きく子盛岡に赴任、「経づくえ」『甲陽新報』に掲載、『都の花』新年付録の話。

にっ記 明治25年(1892)9月

(明治25年)9月4日 曇り。「今日は日曜日なので、野々宮さん(※野々宮きく子)が来られるはずだ。」と思って、その支度をしていたところに、西村さん(※西村釧之助)と、上野の房蔵さん(※上野の伯父さんこと上野兵蔵の妻つるの連れ子が房蔵。直近では明治25年2月11日に出ている。)が来られた。お話を少し。まもなく野々宮さんが来られた。前からいた方々は帰った。(野々宮さんに)歌を二題詠ませた。(野々宮さんとは)宗教(※キリスト教)上のお話がいろいろとあった。午後から雨が降り出した。少しの晴れ間に野々宮さんは帰宅した。今宵は待つ宵(※まつよい/陰暦8月14日の宵)だけれど(残念にも)月はない。
(明治25年)9月5日 曇り。芝から兄上(※虎之助)が来た。「薩摩陶器の土瓶(どびん)を、(もし)買い手があったら売りたい。」と五個ほど持参された。(※陶工をしていた虎之助はこのころ同じ芝区の薩摩陶器の絵付師重武米山のもとに身を寄せ、絵付を学んでいた。この土瓶は虎之助の作ったもの。)(私は)「わが家でも一つ買いたいです。」と言った。(兄は)日没まで遊んで、(その)帰り道、(私たちと)一緒に万世橋(※よろずよばし)まで行った。兄上はそこから(鉄道)馬車(に乗った)。自分と国子(※邦子)は小川町に廻って焼け跡(※4月9日の神田の大火)に建った新築の建物を見(物し)て、東明館(※とうめいかん/神田神保町にあった勧工場)で墨を買った。今宵は、旧暦七月の十五夜である。夕方から一点の雲もなくなって、明月の光は何とも言えず(美しかった)。お茶の水橋で虫の声を聞きながらしばしたたずんだ(りした)。帰りに葉書を買って、田中さん(※田中みの子)に各評(※かくひょう/詠まれた歌を回覧し、無記名で評を加え、のちに会で発表するもの。会の前に回覧しておく。)出詠(※歌の提出)の断り(状)を出し、小笠原さん(※小笠原艶子)に数詠み(※萩の舎の門人たちが当番制で自宅、あるいは萩の舎で数詠みの集会を実施していた。数詠みは和歌の競技。盆の上に複数のおひねり状にした紙が置いてあり、それを開くと歌の題が記されている。一枚ごとに現れる題に対して制限時間内に歌を詠み、その数を競うもの。)出席の断りを(書いて出)した。家に帰っても月の光を見捨てがたく、板敷きのもとで(月を眺めながら)夜が更けるまで一人起きていた。(※これまでの日記を見てきても、一葉は本当に月が好きである。それは風流のたしなみというよりも、月光に心が惹かれてやまぬ一葉のある種の感受性を思わせる。)
(明治25年)9月6日 大雨が車軸を流すよう(※激しい雨のたとえ)であった。(家の)前の小川に水があふれて、あたかも急流の響きをしていた。母上は「久保木(※一葉の姉ふじの家。ふじが出産。)に出産がある模様です。」と午前中だけあちらにおられた。私は、今日は筆がことのほか動いて、(小説)一回分を書き終えた(※第6作「うもれ木」)。日没頃より久保木の様子がとりわけ悪く、国子(※邦子)と母上がかわるがわる赴かれた。
(明治25年)9月7日 晴れ。午前中は小説に従事することに努めた。動坂(※どうざか/本郷区動坂町。小笠原家の別邸があった。)より師の君(※中島歌子)の手紙をもらった。(今日は)小笠原家の数詠みであったのに、私が断って行かなかったからである。「今日は田中(※田中みの子)も伊東(※伊東夏子)も不参加で大変寂しく、清書(※きよがき/数詠みで詠った歌を順に無記名で清書すること。)にも事欠くので、是非来てください。」とあった。すぐに支度して(小笠原別邸へ)赴いた。(着いたのは)人々が既に(歌を)詠み終わったあとであった。(私は)清書しながら四題詠んだ。師の君は、「用事があります(から)。」とすぐに帰宅された。(私が)残って点数を調べると、長齢子さん(ちょうれいこ/萩の舎門人。直近では明治25年6月13日に出ている。)が最高得点であった。それから暇乞いして帰った。日没少し前であった。今宵の月はとりわけ美しく澄み渡っていた。
(明治25年)9月8日 晴れ。渋谷さん(※渋谷三郎。直近では明治25年9月1日に出ている。)から手紙が来た。小笠原さん(※小笠原艶子)さんも葉書を(私に)寄せた。
(明治25年)9月9日 晴れ。兄上(※虎之助)が来られた。日没まで遊んだ。(兄が)帰宅後、大雨が車軸を流すようであった。山崎さん(※山崎正助。直近では明治25年9月1日に出ている。)から葉書が来た。
(明治25年)9月10日 大雨。早朝に、田中さん(※田中みの子)が車(※人力車)を走らせてきて、今日の(萩の舎の)稽古に(私が)出席することを頼みに来た。「それでは」とすぐに小石川(※萩の舎)に赴いた。(すると)稽古はしないで、師の君はお出かけのところであった。しばらく残って、加藤の妻(※池田屋の加藤利右衛門の妻。未亡人であった。直近では明治25年6月14日に出ている。)とお話をした。師の君の振舞いを聞くに従って胸が痛くなった。(※詳しい事は不明。さしずめ歌子に対する愚痴でもあったのだろう。)みの子さんも来られた。しばらくお話をした。昼頃帰宅した。昼過ぎに久保木で出産があった。稚児は死んでしまったとのこと。日没頃お見舞いに行った。この夜、石井(※石井利兵衛。石井利兵衛。一葉の父則義の頃からの知人で、樋口家に借金があり、毎月少しずつ返済していた。明治24年9月22日の伊勢利と同一人物か。直近では明治25年3月10日に出ている。)から葉書が来た。野々宮さんに明日の稽古断りの葉書を出した。
(明治25年)9月11日 晴れ。
(明治25年)9月12日 (記載なし)
(明治25年)9月13日 
(記載なし)
(明治25年)9月14日 
ここ三、四日、日記どころでなく大忙しであった。ただし格別書くこともなかった。(※「うもれ木」の執筆を急いでいたのだろう。ここ最近はこれまでと打って変わって日記の文も短文で、ただあったことだけを書き留めている感がある。)
(明治25年)9月15日 小説「うもれ木」が出来上がった。(※実際は第5作だが発表順だと第6作になる。)田辺さん(※田辺龍子)に(原稿を)持参した。(田辺さんのところに向かう)途中から雨になった。(そこからは)車(※人力車)で行った。(田辺さんに原稿を渡すと、)田辺さんはどちらかへか結婚の約束が整って、「これよりはなかなか筆を執るのが出来ない身となるでしょう。」とお話しになられた。(※田辺龍子の結婚の相手は三宅雄二郎(三宅雪嶺(せつれい))。東京大学文学部哲学科出身。政教社を設立し雑誌『日本人』を創刊。ジャーナリスト、哲学者、国粋主義者。「真善美」を唱えた。のちに文化勲章受章。田辺龍子は結婚後、三宅龍子(三宅花圃)となる。)(そして田辺さんは、)私の小説は、「雑誌に掲載するよりは一冊の本にした方が、あとあとのためによいでしょう。」と話された。(そこで私が)「私はひとり舞台は心細いので、あなたも何か書いて下さったら、驥尾の青蠅(※きびのせいよう/正しくは青蠅驥尾(そうようきび)。つまらぬ青バエであっても一日千里を走る名馬の尻尾に付いていれば遠くまで行くことが出来る。転じて、つまらぬ者でも、優れた人についていけば何かを成し遂げられること。)、僥倖(※ぎょうこう/思いがけない幸せ)でしょう。」と言うと、「いやいや、それどころではありません。かえって蛇(じゃ)の足(※蛇足。余計な付けたりの意)でしょうが、(それなら)何か、四、五枚のものを書きましょう。」と承諾された。(その本については)「半紙判二つ折りの小型製にして、麗しい表装にしたら(よいでしょう)。」などと言った。「明日すぐに金港堂(※文芸雑誌『都の花』の出版元。金港堂は田辺龍子(すなわち三宅花圃)が書いた『藪の鶯』出版のほかに、『都の花』にも龍子の書いたものを載せていた。金港堂の支配人と龍子の父親が幕臣時代以来の友人であった。)に(この小説を)持たせてやりましょう。ただし、十日くらいは(出版社の返事まで)間があるでしょう。」ということで帰った。
(明治25年)9月16日 晴れ。図書館へ種(※小説の材料)探しに行った。『春雨ものがたり』(※江戸時代の戯作者高井蘭山の『春雨譚』か。あるいは江戸時代の読本作家上田秋成の『春雨物語』か。ただし後者は東京図書館目録にはない。)『丈山夜譚(じょうざんよばなし)』(※安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、文人である石川丈山の随筆。)及び『哲学会雑誌』(※東京帝国大学文科大学哲学会編。)などを見た。帰りに荻野さん(※荻野重省。一葉の父則義の友人。元司法省の官吏。直近では明治25年2月28日に出ている。一葉は同月に何冊か本を借りている。仲御徒町(なかおかちまち)の宿屋に妻といた。)の仮住まいを訪ねた。細君にお会いして新聞を借りた。帰ったのは日没少し前であった。今宵は『朝日新聞』を通読。野尻さん(※先述の野尻利作。先月の8月28日には一葉に『甲陽新報』への執筆を依頼する葉書を出している。)へ手紙を書いた。(※執筆承諾の返事。)石井(※石井利兵衛)へも手紙を書いた。
(明治25年)9月17日 晴れ。今日は田中さん(※田中みの子)の(歌)会日である。けれども自分は行かず、図書館に行った。『奇々物がたり』(※不詳)『くせ物語』(※前述の上田秋成の随筆「癇癖談」。「伊勢物語」のパロディ。)『昔々ものがたり』(※江戸時代の新見伝左衛門の随筆。江戸時代の風俗を描いたもの。)『各国周遊記』(※不詳だが、矢野文雄の『周遊雑記』(明治19年刊)、あるいは依光方成の『世界周遊実記』(明治24年刊)あたりらしい。)『雨中問答』(※西村遠里著。江戸時代の宗教問答談義物。)『乗合ばなし』(※車道軒作著の『気質評判のりあひ噺』。江戸時代の作。)などを借りて読んだ。四時頃図書館を出た。この夜は何もせず、早く寝た。ただし、この夜、山下直一さん(※樋口家の元書生。直近では明治25年8月30日に出ている。)が来訪された。
(明治25年)9月18日 晴れ。野々宮(さん)(※野々宮きく子)が稽古に来られた。(野々宮さんは)今日は用事があると言って正午に帰宅した。昼過ぎから(仏教)諸宗の経文を少し見た。(※一葉は「読む」ことも「見る」と言う癖があるようだ。「読書」ではなく、「書見」なのだろう。原文がそうなのでその通りに訳している。)習字を二度ばかりして、それより『万葉集』を見た。夕暮れ(時)より、国子(※邦子)と一緒に散歩をした。右京山(※一葉の住む菊坂町の裏手にある松平右京亮の邸跡の高台を指す。右京亮(うきょうのすけ)は官職の名。)で虫の声を聞き、それから田町通り(※地名)、本郷の高台を上って、大学前(※東京帝国大学)あたりを遊んで帰った。二人で母上の揉み療治をした。(母上を)お寝かせ申し上げてから近松(門左衛門)の浄瑠璃集(※近松門左衛門は江戸時代の人形浄瑠璃、歌舞伎作家。)を読んだ。
(明治25年)9月19日 起き出てみると雨であった。まだ夜明け前の庭のおもてで、草むらに隠れた蟋蟀(こおろぎ)の鳴く声が、この上なく哀れであった。(部屋を)掃いてきれいになどして、机に向かうと、雨だれの、軒端の蘭の葉に当たる音がほとほとと(響いて)、吹く風が何となしに(うすら)寒く(感じられる)など、気候(※季節)の移り行くさまが大変はっきりとしてきた。
(明治25年)9月20日 雨。
(明治25年)9月21日 雨。山梨より、『甲陽新報』が来た。伊東夏子さんより手紙が届いた。
(明治25年)9月22日 雨。『甲陽新報』が来た。
(明治25年)9月23日 雨は依然としてやまない。早朝、野尻さん(※野尻利作)から手紙が来た。「『甲陽新報』へ載せる小説を(早く)著作してほしい。」とのことである。(※再度の依頼であった。)前田家(※前田朗子(さえこ)/前田利嗣(としつぐ)の夫人。前田利嗣は加賀前田家15代当主。妹の衍子(さわこ)が近衛文麿を出産後亡くなった記事が明治24年10月24日に出ている。前田朗子は直近では明治25年2月27日に出ている。)から使いの者が来た。各評の巻(※歌を書いた巻物)を送ってよこしたのである。昼過ぎ、小石川(※萩の舎)の師の君より葉書が来た。今月に入ってから、思うことがあってどちらの歌会にも一度(たりと)も出席しなかったので、それを不審に思われたのだろう。ともかく明日の(歌)会には出席しようと思った。(※この時期、歌会や萩の舎から何故一葉の足が遠のいたのかは分からない。「思うことがあって」とあるので、一葉の意志であることは間違いない。中島歌子の教師周旋の話と関連があるのかもしれないが、詳細は不明である。)日没少し前から大雨が盆を覆したようであった。母上が、「明日は不参加の方がよいでしょう。」とおっしゃるので、「それでは」と師の君のもとに(その旨)手紙を出した。
(明治25年)9月24日 晴天となった。一日中著作に従事した。(※第5作(執筆順では第6作)「経づくえ」)夜通し雨が降った。
(明治25年)9月25日 晴れ。野々宮さんが来た。和歌を三題詠んだ。四時半までお話をした。日没後、国子(※邦子)とともに勧工場を一、二か所見物した。(この日は)早く寝た。
(明治25年)9月26日 晴れ。早朝師の君のもとを訪ねた。大宮公園(※埼玉県大宮町にある町営の公園。)に秋草を見ようと誘われて、すぐに十一時の汽車で行った。(※上野ステーションから。)三時の汽車で帰った。(※一葉が汽車に乗ったことを書いた初めての文章。)
(明治25年)9月27日 晴れ。日没少し前、師の君のもとに『平家物語』(※家蔵の十二冊本)を持参した。
(明治25年)9月28日 田辺さん(※田辺龍子)より葉書が来た。
(明治25年)9月29日 何事もなし。兄上(※虎之助)が、美濃(※岐阜県茄子川村)に出立した。(※虎之助は陶器製作を学ぶために岐阜県の陶工、成瀬誠志(なるせせいし)のところに身を寄せた。成瀬は日光東照宮を模した陶製の陽明門が名高い。明治26年のシカゴ万国博覧会では輸送中の荷崩れのためこの陽明門の大部分が破損し、やむなく一部のみ展示したが、その緻密な表現技法が認められ銅賞を受賞した。今で言う超絶技巧である。)
(明治25年)9月30日 同じく(何事もなし)。
(明治25年)10月1日 晴れ。小石川(※萩の舎)の稽古に行った。その他には何事もなし。
(明治25年)10月2日 晴れ。田辺さんから葉書が来た。「『うもれ木』をひとまず『都の花』に載せたいとの由、金港堂から言ってきた。」とのこと。(また、)「原稿料は一葉(※一枚)二十五銭とのこと、異存はありますか、ありませんか。」とのことである。ただちに「承知」の返事を出した。母上は、この葉書を持参して、三枝さん(※三枝信三郎。真下専之丞の孫。銀行家。)のところに今月の費用を借りに行った。(三枝さんは)快く承諾されて(母上は)六円借りて来た。それは、「うもれ木」の原稿料が十円ばかり取れるのを目当てにしてである。この夜、国子(※邦子)とともに下谷(したや)ステーション(※当時は駅ではなくステーションと呼んでいた。上野駅のこと。)から池之端(※地名)界隈を散歩した。
(明治25年)10月3日 晴れ。
これよりしばらく何事もなし。
連日の雨や机と御親類
(※連日の雨の中、私は机とご親類になっていたことだ、ほどの意。机にかじりついていた様子が窺える。まさに「経づくえ」という題の小説を執筆していた一葉の洒落。また、この時期は日記を書く暇がない程「経づくえ」に集中し、完成後、10月6日頃には野尻利作に送ったものと推定される。なお、この「経づくえ」の筆名は一葉ではなく、春日野しか子であった。)
(明治25年)10月11日 少し雨の絶え間が見えた。野々宮さんが来訪された。(野々宮さんは)岩手県に新しい高等女学校(※私立盛岡女学校。カトリック聖パウロ会のフランス人婦人宣教師が経営し、上田農夫が開設した。後の東北高等女学校。野々宮きく子は東京府高等女学校を卒業後、明治25年1月から10月まで麹町尋常小学校に勤務していた。野々宮は盛岡女学校で国語、家政、唱歌、洋裁、算術、習字などを教えた。)が開校するのに招かれて、主座(※校長の下で働く学監の立場)の任を持って十四日に出立するということである。ついては、「教科書の、(私がよく)分からないところを(あなたに)聞きたい。」と私を訪ねたのである。『和文読本(わぶんとくほん)』(※初等和文教科書。全4冊。)四冊について相談された。野々宮さんから駒下駄を一足貰った。こちらからは、はなむけということでもないけれど、ありあわせの半襟(※はんえり/着物の下に着る長襦袢(ながじゅばん)に付ける襟のこと。直接着物に汚れが付くのを防ぐ。)を一つ贈った。(野々宮さんは)夜になるまでお話をして帰った。
(※高等女学校の教師になる野々宮が、国語のことで一葉に教えを乞うのである。一葉の国語の教養の高さが窺える。また、教師周旋の話が実現しない一葉の胸中を察するに、野々宮の栄転には複雑な思いも少なからずあったことだろう。)
(明治25年)10月14日 連日の雨が(止んで)晴れ渡った。野々宮さんが(岩手へ)出立するのが午前中になったと聞いたので、早朝から家を出た。国子(※邦子)といっしょに、まず途中で安達さん(※安達盛貞。一葉の父則義からの知人で元菊池家に仕えていた官吏。安達の伯父さん。直近では明治25年8月30日に出ている。当時は病床であった。)を病気(見舞いに)訪ねた。癰(よう)という腫物で、切断(手術)されたとのことであった。老いた人(のこと)で心細かったのだろうか、涙をほろほろとこぼしてお話をされた。ここを出てステーションに行ったのは十一時に近かった。野々宮さんに会った。見送りの人も十人ばかりいた。毛利すま子といって、大島みどり(※萩の舎門人。明治24年6月13日に出ている。東京地方裁判所長の娘。)さんの知人もいた。初対面の挨拶をした。(野々宮さんが乗った)汽車が動き出した時は、何となく物寂しい気がした。それから根岸(※地名)辺りを少し見物した。雨上がりの道で、とても難儀した。帰り道に国子(※邦子)が弱りに弱って、大学(※東京帝国大学)の裏門辺りまで来た時には、足も上がらぬ様子であった。やっとのことで帰った。
(明治25年)10月15日 晴れ。小石川(※萩の舎)の稽古に久しぶりに行った。榊原家の姫君(※榊原つね)が、今日から通学になられた。
(明治25年)10月16日 晴れ。田辺さんのところを訪ねた。
(明治25年)10月17日 雨。上野房蔵さん(※9月4日に出ている。)が来訪された。
(明治25年)10月18日 前日同様、雨。野々宮さんから無事に(岩手に)着いた知らせが来た。
(明治25年)10月19日 好天気であった。西村さん(※西村釧之助)が来訪された。母上は、小林さん(※小林好愛(こばやしよしなる)/一葉の父則義の元上司。当時は生命保険会社にいた。直近では明治25年2月18日に出ている。)及び菊池さん(※菊池家。一葉の父則義が仕えていた菊池隆吉は明治22年に死去。その奥方の菊池政、長男の菊池隆直が本郷元町で「むさしや」という紙類小間物商を営んでいた。)を訪ねた。(※おそらく金策であっただろう。)『都の花』に載せる予定で金港堂へ廻しておいた(私の)小説も、はやくもひと月ばかりになるのに(※9月15日に田辺龍子に渡している。)、いまだその報酬は私の手に入ってこない。そうかといって催促できるところもないので、日々首を長くしてその便りを待つばかりである。母上からは手元の苦しさをたびたび訴えになられる。それももっともである。「今月中に是が非でも入金のすべがなければ」と頭を悩ました。『甲陽新報』へも六回分ばかりのもの(※「経づくえ」全6回。)を出しておいた(のに、)それさえ何の便りもなく、毎日(山梨から)送ってよこす新聞(※『甲陽新報』)さえこの両三日はどうしたことか発送もない(※届かない)。あれやこれやと煩わしくて、夜になっても眠ることが出来ず、書見をして二時過ぎまで夜更かしをした。
(明治25年)10月20日 好天気。昨晩夜更かしをしたので、少し朝寝をした(私の)枕元に、早くも『甲陽新報』が(郵便で)着いていた。邦子がいちはやく(その新聞を)繰り広げて、「ああ、今朝から『経づくえ』が出ましたよ。」と叫んだ。私も慌ただしく起き出て見ると、本当にそうであった。今月の六日くらいに差し出しておいたものであった。「この分では、さらに著作をして送っても、没書にはなるまい」と安心した。(※「経づくえ」は『甲陽新報』10月18日付から25日付まで全7回に渡って掲載された。最後の6回目を編集の都合で2回に分けている。なおこの「経づくえ」の稿料も後日もらったはずだが日記にはその記載がない。)思えば、我ながら恥ずかしい気持ちである。知識不足、学事整わず(※学歴不足。一葉は青海小学高等科第四級中退。)ということは万も二万も(※百も、の百倍二百倍)承知しながら、文学中とりわけ難しいと聞く小説を書いて、一家三人の暮らしを立てようなどとは、大胆と言おうか、身の程知らずと言おうか。(不安で)人知れず夜中に目が覚めて背中が汗で濡れているのがとてもつらい。そうはいっても、これ(※小説執筆)に頼らなかったら母上を安心させ申し上げることも家名を立てることも出来ない、などとさまざまに(悩み、考えてしまう)。
(明治25年)10月21日 図書館に行った。その留守中に金港堂の編集員の藤本藤陰(※ふじもととういん/本名は藤本真。『都の花』編集員と執筆を兼ねていた。神田区猿楽町に私宅があった。なお、金港堂は日本橋区本町にあった。)が来た。「『うもれ木』の原稿料十一円七十五銭を送ります。(※後送するつもりだったか。それとも持参したのか。原文は<送る>で、「届けます」とも訳せる。曖昧だが、少なくとも翌日には間違いなく受け取っている。)さらに頼みたいことがあります、と言い置いて行きました。」と聞いて、それでは明日早朝にその方を訪ねようと思った。
(明治25年)10月22日 小石川(※萩の舎)の稽古であるが、藤本と約束したことがあるので、早朝車(※人力車)を猿楽町に向かわせた。初めて(藤本と)対面した。いろいろと話した。『都の花』の来年の初刷り(※新年号)の付録に、松竹梅の三幅対(※さんぷくつい/三本の軸で一つになる掛物のこと。また、三つ揃って一組をなすもの。ここでは後者。)を田辺さん(※田辺龍子)と私と他にもう一人の婦人に著作してもらいたい、そこでこのことを花圃女史(※田辺龍子)にも(すでに)依頼したけれど、(その返事が)「(書くか書かないか)いずれか考えておきましょう。」とのことであったが、何とぞ相談の上、お二人にて一つずつ題をお決めいただきたく、その残り一つを佐佐木竹柏園(※佐佐木弘綱夫人、光子。号が竹柏園。佐佐木弘綱は信綱の父。佐佐木信綱は明治25年3月9日に出ている。)か坪井秋香(※つぼいしゅうこう/不詳。『都の花』第74号に「松の歎息」という作品を発表している。)かに廻すつもりなので、(何分よろしく)ということであった。(※結局この企画は実現しなかった。)しばらくして帰宅した。すぐに小石川(※萩の舎)へ行った。大雨であったが、(萩の舎からの)帰りがけにはやんでいた。
(明治25年)10月23日 母上が、三枝(※三枝信三郎。10月2日に6円借りている。)のところへ行かれた。『都の花』より受け取った金のうち、六円を三枝さんに返すためである。三枝さんも大変喜ばれたとかいうことだ。
(明治25年)10月24日 大雨。午後から田辺さん(※田辺龍子)を番町(※田辺龍子の家は麹町区下二番町五にあった。麹町の一番町から六番町までは江戸時代から番町と呼ばれていた。宮家、華族、官僚の家が多かった。)に訪ねた。(龍子さんは)留守で、(龍子さんの)母上(※田辺己巳子(きみこ)。甲州の代官の次女であった。田辺太一の妻。)としばらくお話しした。(その)帰り道で、半井さん(※半井桃水)のところの下女に(偶然)会った。半井さんの近況を聞いた。さまざまな思い、さまざまな悲嘆(が胸に満ちて)、今夜は眠ることが出来なかった。
(明治25年)10月25日 晴れ。母上が、田部井(※たべい/一葉の父則義在世時から樋口家に出入りしていた古物仲買商の名。直近では明治25年5月5日に出ている。)を訪ねた。西村常さん(※西村常子。西村釧之助の妹。直近では明治25年7月30日に出ている。)が来た。(常さんは)「家に張り物板がないので、わが家(※一葉の家)で張りたい。」ということであった。(※張り物とは、洗ってのりをつけた布を板張りなどして乾かすこと。その板が張り物板。着物の洗濯の洗い張りの工程で用いる。)

※底本は「全集樋口一葉 第三巻 日記編」(小学館 1979年)及びその復刻版(小学館 1996年)。(句読点、鍵括弧はこれに準じた。実際の一葉の日記にはほとんど句読点、鍵括弧はない。)また、「樋口一葉全集 第三巻(上)」(筑摩書房 1976年)及び「樋口一葉 日記・書簡集」(ちくま文庫 2005年 これは抄録集)も参考にした。
※一葉の日記は40数冊が遺されているが、実際それは千蔭流(ちかげりゅう)という流派の書で書かれていて、草書もろくに読めない我々一般人には到底解読不可能である。ところが専門の方々にも字の判別が分かれる箇所があるようで、それによって意味が変わる場合も見受けられた。よって上記の本を見比べながら、もし相違がある際は、より自然な流れに沿うようなものを採用して訳出した。
※語訳は出来るだけ原文に即した直訳に近いものを目指したが、現代からすると擬古文は外国語のようであり、直訳するとかえって意味が通じにくかったり、文章のリズムが大きく崩れるような箇所が出てくる。その時にはどうしても意訳に近くなる場合もあるが、極力補助の言葉を入れることによってそれに対処するよう心掛けた。また、日記の文章の時制は大半が現在形であるが、日記としての読みやすさを考慮して、問題のない範囲で適宜過去形に修正している。
※括弧のみ(   )の補注は分かりやすくするための補助の言葉、読み、西暦などで、※を付した括弧(※   )には言葉の意味、解説などをほどこしている。店名や人名など極めて専門的な脚注は上記の4冊のものを参考にした。なお、年月日の数字は見やすいように元の漢数字からアラビア数字に置き換えた。
※参考文献は上記の他、次の通り。
「新潮日本文学アルバム 樋口一葉」(新潮社)
「一葉伝」(澤田章子 新日本出版社)
「一葉樋口夏子の肖像」(杉山武子 績文堂)
「樋口一葉「いやだ!」と云ふ」(田中優子 集英社)
「一葉語録」(佐伯順子 岩波書店)
「一葉の四季」(森まゆみ 岩波書店)
「樋口一葉 人と作品」(小野芙紗子 清水書院)
「樋口一葉赤貧日記」(伊藤氏貴 中央公論新社)
「全集 樋口一葉 第四巻 一葉伝説」(1996年版 小学館)
「新装版 一葉の日記」(和田芳恵 講談社文芸文庫)
「全集 樋口一葉 第四巻 評伝編」(1979年版 小学館)
「佐佐木信綱記念館だより」 平成17年3月20日 第19号(三重県鈴鹿市 佐佐木信綱記念館)
「樋口一葉研究 増補改訂版」(塩田良平 中央公論社)


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