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政治どころではない方や、イデオロギーが苦手な人にも読んでいただきたい2 <右も左もなく、自らが人生の政治家になること>

政治に無関心で投票に行かない、という態度は極めて政治的

そう気づかされたのは、安冨歩さんの演説動画がきっかけでした。

そして、なぜそもそもある種の人は政治に関心を持たない(持てない)のかということをここのところずっと考えています。

夏の参院選の投票率は50%を割りました。おそらく、政治に関心のない、あるいは期待をしない人が多くいて、その層と、自民党を支持している層が、今の日本の政治の状況を支える主勢力だということです。

中には「無為こそ過激」というような、確信犯的に政治に無関心でいる人もいると思いますが、ともかく政治に期待していない層が今の政局を支えている中核を成しているというのは皮肉なことです。

何だかよく分かる気がする、無関心層の気持ち

私もかつてほとんど無関心でした。政治に関心がない代わりに、文句も言わない。ただひたすら手が届く範囲の生活をコントロールして、それをもって「我が人生」としていました。

政治関連の汚職ニュースや難しいニュースなんか、仕事から疲れて帰ってきて見る気もしない、ささやかながらも貴重な時間だから、同じテレビ見るならバラエティ番組か教養番組でも見ていた方が健康にいい。

そんなふうでした。そしてこれは今でも一理あると思っています。ニュース番組や新聞を見ても、こちらが批判的に情報を噛み砕いて読み解かない限りは、メディアが「見せたい」通りの仕方で物事を見てしまう可能性も高いからです。ニュースを見れば見るほど、間違った方向に進んでしまうこともありえます。

また私は、人から政治に関して強い意見を押し付けられるのも、また明確な意見を求められるのも、根っからイヤだと思っていました。

大抵の「意見」は個人的な好き嫌いの感覚、かつ単に立場によるもので、普遍に到達しておらず、そんなものあってどうするのだろうとさえ思っていました。個人の幸せと全体の幸せは合致しにくい、とでも言いましょうか。(思うに多くの政治家が、彼個人の幸せの実現を「全体の幸せのため」と銘打ってやっている)

そして今も押し付けられるのが嫌い。それで私も押し付けません。

情報は自ら求めて拾って噛み砕いて、よく考えてから自分の意見、というよりは意志を決めるのみ。他人の心を動かすのはそれからのことで、そこまでできる人は少ないです。そんな人がいたら、その人はすでに政治家です。

また、宗教はじめ、いかなるイデオロギーにも染まりたくなかった(とはいえすでに何らかのイデオロギーに染まりきっていたのかもしれませんが)。街で見る宗教の勧誘も、政治家の演説もスルー。グイグイ押されるほどにイヤになる。

そのため投票に行くのは、与党(つまり自民)のまずさが目に留まるなど、たまたま自分の「気が向いた」時で、他の政党に投票するのですが、大概自民が勝って、そのたびに無力を感じていました。「やっぱり変わんないな、もう投票行っても行かなくても同じかも」。

そうやって政治をあきらめている間に、気が付いた時には、なぜか、どこか、変に息苦しい「こんな世の中」になっていて、なんと自分もそれを築いた1人になっていたのです。自分で自分の首をしめていたとは、なんとも情けないことです。

移住して見えてきた日本。そして、れいわ新選組の衝撃。

数年前フィンランドに移住以来、日本で働いていた頃を振り返り自分がどういう国に身を置いていたか、少しづつ客観的に見ることができるようになりました。

フィンランドという1つの比較対象ができたことで「良くも悪くも、全然ちがう!」とショックを受けたことで、ようやく、国の政治というものに、身をもって関心を持つことができたのです。

そして日本特有とも言えそうな強い同調圧力や見事なほどの手のひら返し、また医療や教育などの制度の長所・短所などについて、色々と思うところ、日本にいる友人たちに伝えたいようなことボロボロと出てきました。

そんな時、確か改元前後だと思いますが、たまたま大西つねきさんの活動を偶然YouTubeで知りました。そして、改元後、れいわ新選組立ち上げを知りました。山本太郎さんの政見放送も見て、人としてのまともさと熱意が伝わってきて、演説動画、国会動画を見るようになりました。

今まで私がテレビで見てきた限りでは、政治家、そして評論家、各分野の専門家でも、話に血が通ってなかったり、乱暴な理屈を孕んでいることも多い印象で、そんな時は1分と見る気がしないのですが、両者には全く異なる印象を感じました。

データを踏まえた話が展開されているのはもちろんですが、それ以前に「人としてのまともさ」とでもいうべきようなものが、響いたのです。

そして夏。里帰りで日本に帰ってみると、母親が山本太郎さん、れいわ新選組を熱心に応援していることを知りました。母は70代で、政権が交代してもおそらくそれほどメリットはないと思いますが、とにかく今の政治のおかしさに怒っているようです。

もう「逃げ切り」で人生を終えられるだろう高齢者さえ政治をまだあきらめていない、そしてまだ新しい政党に関心を持っていることが新鮮に感じられました。

里帰りからフィンランドに戻り、経済のこと、安倍政権のあれこれ、心に引っ掛かったままの原発のことなど、遅ればせながら考えるための材料を求めてさらに情報を収集しました。今も勉強中です。

もちろん唯一の正解は無く、「絶対に正しい」答えを求めていたのでは一生かかる、しかし選挙はやってきます。

大事なのは政策だが…

れいわ新選組の人気について「山本太郎に熱狂したのであれば、冷めるでしょうね」というようなことを山本太郎さんはテレビで言っていました。冷静です。要するにアイドルではないのだから、党の政策が肝心ということです。

もちろんその通りで、私も政策が自分が理想とする社会の方向性と合っていると判断したので支持することにしました。

しかし、政策の細部については講演などを聞いていて、果たして本当にそうかな?と思うこともあります。また、チラシ等に明確に書かれていないこと、例えば天皇制のことなども気になりますが、何事にも優先順序があり、全て完璧に自分の考えと一致する政党を探すのはほとんど無理です。自分の考えだって「より良い」方向に変えていく柔軟さも必要です。

それは他の政党を支持するとしても同様で、あらゆる政治問題について実際にどう政党が動いてくれるかについて前もって全て知り尽くすことは不可能です。だからこそ、政治家や政党の「方向性」あるいは「根っこ」がどうあるかを見極めることが大事だと思います。

ある程度、政治家の思想や政党の政策を自分で検討した後は、態度を決める、覚悟を決める。

自分の投票した政党が与党になってボロボロだったら批判する、支持した政策が失敗したらともに反省する、ということが必要で、選挙は市民の学習なのだと思います。

自民がいい、れいわがいい、というようなことは言うまでもなく個人の自由な選択であるけれど、その自由な選択にたどりつくには、社会問題の背景や根本に何があるのかを考えたり、あふれる情報の真偽を見極めたり、そして真偽以前に、自分自身がどんな社会を望んでいるかを考えて知ることがとても大切だと気付けたことは、れいわ新選組を通じて政治に興味を持ったことの最大の収穫です。

そもそも、自分はどんな世界を望んでいるか。

どんな国だったら生きやすいか。

政治家には何を期待するか。

これを考えることがなければ、「政治なんて変わんない」「投票には行かない」という態度が形成されてしまうのは当然です。日本に暮らしていたころは、そんなことにも気づかずに、慢性病のような生きづらさに向き合うことはせず、ほとんどの時間を 『とりあえず働く⇄逃避としての娯楽 』 に費やし、先の見えない(ある意味では見えてしまって行き詰った)日常を過ごしていました。

魑魅魍魎が跋扈するSNS

政治の情報を求めてTwitterを始めてから驚いたのですが、まぁ騒がしいこと。SNS活用が苦手な私は、こんなことになっているとはつゆ知らず。ネトウヨ、パヨクと耳にしたことはあったけれど、なるほどこれかぁ...!と気おくれしてしまいました。

自称左翼、自称右翼の人はそれほど多くなくて、お互いにネトウヨだ、パヨクだ、とカテゴライズし合って言い争っている様を見ると「政治への関心がこのように人を過激にして、人と人を分断してしまうくらいなら、政治に興味を持たないほうがマシではないか」とまで考えてしまうほどです。

実際私も、SNSで政治の情報を拾い始めて、政策等に関する賛成反対が人を分断しかけて有意義な話し合いができないことが多々あることや、SNSに真っ当な意見がたくさんあふれていても、権力側にちっとも届かず、いろんなものがあいかわらず暴走し続けていることに気分が悪くなり、日々の気力さえ失われていきそうにもなります。

私も含め大抵の人はSNSに使う時間を、実生活の人間関係の中で創造的に使った方がもしかして世の中良くなるのではないかと今でも思っています。まぁ、それができれば苦労はないのですが…。

政治的意見(イデオロギー)の違いで、分断してしまっては意味がない

とはいえ、私のような多くの人が主権を政治家に丸投げしてきた結果が今。

実際今起きているいろいろな問題は、多くの人の政治への無関心がまわりまわって、個人にかえってきて、ささやかな幸福さえも脅かされてしまいかねないと感じます。

極端に言えば、検閲や戦争などが生じれば、我々市民の人生にとって大損害ということです。

それでも、政治にあえて無関心でいる期間や自由は誰にでもあるべきだとあえて私は考えています。というより、どんなアンチも、マイノリティも、選挙権のないホームレスも、場合によって許したり、包み込んだりするような社会をつくることも政治のはず。山本太郎さんの言う「そんなあなたも」というやつです。

何らかの研究に夢中で選挙のことは頭になかった・・・とか、そんな人がいてもいいし、100人が100人選挙に行かず、世間とは全く違う枠組みで生きる人がいてもいい。

あえて政治に期待するのやめて、自分自身のオリジナルな生き方と大切にしたいコミュニティを創造することに注力する人が増えるのであれば、そんなところから世の中変わるかもしれない。

「万引き家族」の、万引きなし版とでも言えばよいのでしょうか。

きっと問題の本質は、無意識に今のシステムの歯車としてただただ回り続けてしまうことで、どこかで減速すること、あるいはいいカタチではみ出していくことが肝心なのだと思います。あえて不登校を選択するという形で、それを実現している子どもたちもいます。

最後に、これは原発に関しての養老孟司さんの言葉ですが「原発が安全か危険かの議論をしている間に、本当の意味での安全性が「嘘」になっていたのではないか。議論そのものが肝心な作業を妨げていたと言ってもいい。もっと悪く言うと、原発の反対派も推進派も、結果的に両者が共同して手を抜いていたということ。私が政治を嫌うのは、そういうところである。われわれの生活に関係があることは、賛成か反対かというイデオロギーで考えてはいけない」。(アエラ2011年4月4日号)

右も左もなく、自らが人生の政治家に

もしくは、これも安冨歩さんの演説動画から自分が感じたことですが、根本的には人生を国や何かに任せるのではなく、自分が望む生き方、社会のあり方を、自分から、小さなコミュニティから実践していくということが、国民の手に政治を取りもどす、ということなのではないでしょうか。

政治は何も選挙や国のことだけではなく、根本的には自分の生き方である、私はそういうふうに考えて生きていきたいと思います。

私は今海外に住んでいますが、遅ればせながら在外選挙制度があることを知ったので、手続きを終え次第、今後は投票します。

れいわ新選組を支持していると、左と言われるのでしょうが、祈りを本質とする皇室の宮中祭祀は重要なものだと感じますし、また、日本の水の管理を外資に任せてしまうような水道民営化、なんでもかんでもグローバル化してしまうことには違和感を持っています。

右・左と分断してお互い攻め合うのは不毛! 

自分たちの水や食べ物について考えるのに、右も左もあるか!

いい政治家がいないなら、せめて自分がどんな世の中だったらより楽しいか、人に言えるくらい考えて、自分自身が人生の政治家になればいい!

(それとも、そもそも人間が、土地や資源をそもそも特定の誰かのものとして考えること自体、間違いなのかもしれないが...これは政治の範疇を超えるので密かに考えることにしよう)