つらいときに自分を支えてくれる、自分のための時間。
何故私は母といつも喧嘩してしまうのか。喧嘩と言うよりも、ただの私の八つ当たりに近い。メンタルが弱って、八つ当たりして、またやってしまったといつも後悔する。
誰かと暮らしていくって難しい。「私は誰かと接することが下手だなあ」とか、「私は人と暮らしいくことが向いていないのかもしれない」と、たまに落ち込む。
人の愚痴や悩みを聞くというのは、聴く側はかなりのエネルギーを消耗するし、その人のネガティブにつられてしまう。よっぽど余裕がなければ、もしくは何かを犠牲にしなければ、悩みを聞くことができないだろう。
頭では理解しているのだけど、不機嫌な私がいて、そこに母がいたら、私はつい母に弱音のかけらをこぼしてしまう。そのかけらが溢れ出すと、とめどなく溢れてきて、自分でも抑えることができない。きっと、自分の「辛い」という感情を、誰かに認識してもらわないと、不安になってしまうのかもしれない。だから不安な私が表に出ようとして、「私を見て」と必死にアピールしたがるのだ。
「辛い時、誰かに相談してね」という言葉をよく耳にする。だから、「誰かに相談しなきゃ」「頼らなきゃ」と思い込んで、無理して行動していた。
「誰かに相談して解決すること」が正解で、そうすることで絆が生まれる、だから誰かに相談することは褒められることだと思い込んでいた。だから率先して、自分の時間を削って誰かに相談する時間を増やしていた。
その結果、お互い機嫌が悪くなって、喧嘩に発展してしまう。それがいつものパターンだった。
辛い時に誰かに相談したり、頼ること。時には美しくて正しいことのように描かれる物語もあるけれど、現実はそう簡単ではない。
「辛い時は誰かを頼って」という。しかし実際に頼ってみると、他の人には想像できないほど、自分の持っているものが重すぎたりする。私の荷物が重すぎて、その人に頼ろうとしても、その人は自分の荷物を持つことで精一杯だったりする。
その人にはその人の人生があって、波がある。よほど余裕がなければ無理な話だ。
だからこそ、音楽があり、本があり、漫画があり、映画があり、そのほかにも様々な娯楽や趣味がこの世には存在する。
私は辛い時、しんどい時、いつもやることがある。
辛い時に聞く用のプレイリストを聴きながら号泣する。
「しまぐらし」や「muute」というアプリや、紙のノートに、もやもやした気持ちを吐き出す。
益田ミリさんの「今日の人生」をパラリと読む。
甘いものとかアイスとかを食べる。
落ち着く音楽を聴きながら、泣き疲れて眠る。
そして翌朝、私は機嫌良く家族に「おはよう」と挨拶できる。メンタルが弱った時の居場所は、自分で作ることができる。
それでいいじゃないか。自分で自分の機嫌をとって、何が悪いのかしら。
「自分は誰かに上手に相談できない」と悲観したり、自分を責める必要はなかった。日記に気持ちを書き出して、すっきりすれば、解決するのなら、それでいいのだ。でも、私は自分の力だけで、解決できるのだ。むしろ、私はそれで解決する人なのだ。
その時、私はあまり人に相談していないかもしれない。けれども、自分なりのルーティンをすると、穏やかな場所に戻ることができる。
自分がどうすれば幸せで、満たされているのか、私はちゃんとわかっている。だから誰かに相談したり、機嫌をとってもらう必要はない。
無理して相談しようとしてお互い傷つけ合うよりも、自分だけの世界で自分を優しく愛する方が、ずっと自分に優しくできるし、結果的に他の人にも優しくできる。自分で自分の機嫌を取るというのは、きっとそういうことなのだろう。
家族と、人と、接したり、暮らしていくことが、今の私に必要なのかもしれない。その中で学ぶこと、気づくこと、考えがえることがたくさんある。
それは、もし私が今、無理やり避けようと思っても、どんな道を通ろうとしても、その先で、何かしらの形で、絶対に与えられるもの。だからこそ、今、それを得る時間なのかもしれない。