ロンドン滞在日記 5日目:はじめてのおつかい(ただし39歳)
正直、佐藤栞里気分でした
パートナーの仕事が予想外に長引いていて、お昼近くになっても一向に終わる気配がない。まあ、たまには家でのんびりする日があってもいいか、忘れないうちにこの日記のために今日までの細かい記憶をメモしておこう…なんて思っていたら、彼女がしれっとこんなことを言うのである。
「ごめん、一人で自然史博物館に行って先に見てて。後から追いつくから」
あーうんうん、わかった。おっけおっけー。
「ちょっとお風呂のお湯止めてきて」と言われたぐらいのテンションでそう答えてはみたものの、実は内心では青天の霹靂。脳内にYouはShock!!、ドッキドキ!LOVEメール、ごむたいな、が3曲連続で流れるほど動揺していた。
なぜなら、私にとって「一人で自然史博物館に行ってきて」は、台風が直撃する日に「ちょっと田んぼの様子見てきて」と言われるのに等しいミッション・インポッシブルだからだ。
実を言うと、海外の地で単独行動をすること自体が初めてなのである。これまでは先頭を切ってくれる誰かしらが常に同行していたし、誰かがいることに甘えきってもいた。海外における私のポジションは、『有吉の壁』でいえば佐藤栞里であり、自分は有吉弘行の後ろをついて歩けばいいと信じて疑わなかった。よもや一人で出かけなければいけないとは想像もしていなかったのだ。
英語力の圧倒的欠如。
とにかく私が海外旅行に及び腰な理由のすべてはこれに尽きる。
真っ暗闇で目玉焼きを作らされる感覚
高校の勉強までは言われた範囲のことを覚えていればそれでよかった。受験も短期記憶の容量いっぱいを使い切って何とかなった感がある。大学生になって英語の単位を取るのに苦労するようになり、社会人になってまったく英語に触れなくなって、いよいよ苦手意識は肥大化した。
言うても、高校英語までの文法は一度はマスターしたはず。本気を出して学び直せばある程度は思い出せるだろうし、それに今の時代、話したいことを翻訳アプリにかけてしまえば、最低限、自分の意思を伝えることはできる。
しかし、いかんせん私はヒアリング能力が壊滅的に低いのだ。話すことは努力と意志の力でなんとかなっても、聞き取る力はどうすれば体得できるのか皆目見当がつかない。「できるようになる」イメージがまるで浮かばないのである。
実を言うと、下宿先の一家が話す簡単な日常会話すら、ほとんど聞き取れていないという現状を皆さんに告白しなければならない。適当に空気に合わせて愛想笑いをしているだけ。それでも、日本人のA子さんの話している英語だけはまだなんとなく耳に入ってくるから不思議なものだ。日本人特有の日本人に聞き取りやすい発音、というものがあるのだろう。
とにかくこの、「自分のコントロールがまったく利かない状況で、話が通じる気がしない相手と、すべてを把握できないまま物事が私の手を離れて勝手に進んでいってしまう」感じが、とてつもなく不安で嫌なのだ。
たとえば、真っ暗闇の中で手探りで目玉焼きを作れと言われたとする。自分が掴んだものは本当に卵なのか、ちゃんとフライパンに卵を割り入れることができただろうか、もうそろそろ焦げてしまっていないか。何の実感も確信も得られないまま、最後にパッと電気がついたらなぜか目玉焼きらしきものがちゃんとできあがってはいるが、正直、自分で作った気が何一つしない。もう一度やれと言われてもまたゼロから手探りが始まる。
私にとって英語圏で暮らすというのは、それくらい自己効力感のない世界に放り出された気分なのである。ほとんど恐怖に近い感情と言っていい。
それなのに、自然史博物館に一人で行かなければならないなんて。
海外の男、ほぼ赤子説
パートナーの仕事は、いつ終わるという目処も立ちそうにない。「いいよ、終わるまで待ってるよ」なんて言ったら、かえって気を使わせてしまうし、それに、「あれ、こいつもしや……一人で行くの嫌がってるな?」と思われるのも情けない。ここは、ひとりでおつかいいけるもん!というところを見せなければ。
幸い、自然史博物館の近くまではバス一本で行くことができる。そもそも今回の旅で自宅からヒースロー空港までは自分で来れたのだから、これは能力というよりも私の気持ちの問題なのだ。そう言い聞かせてバスに乗り込むが、今どこを走っているのか、行き先は間違っていないか、降りるバス停はまだかといちいち心配で、スマホでGoogleMAPの路線検索の画面を常に見ていないと気が気でない。
なんだか、本当に「はじめてのおつかい」をする子どもに戻ってしまった気分だ。普段、いかに自分が日本語に依存して生きているか、そして、「日本語が通じる」ということが自分にとってどれだけ万能感を与えてくれているのかを思い知る。
俗に、日本人は女性より男性のほうが海外に行きたがらないと聞いたことがある。日本で受けられる恩恵や特権が通用しなくなることに耐えられないからだろう。私が海外で感じるこの無力感も、単なる英語能力の低さに由来するものだけではないのだろうか。確かに「こんな思いまでして」という傲慢な気持ちがどこかにあるのかもしれない。
そんなことを思っていたら、バスの中でなぜか突然スマホの電波が入らないゾーンに突入し、「このままスマホが死んだら俺、帰れないぞ」と軽い動悸に見舞われつつも、無事に自然史博物館には到着した。
死んだ動物を乗せたノアの方舟
自然史博物館は入館無料である。だから誰でもいつでもフラリと入れるのかと思ってノーアポで行ったところ、この日は土曜で街全体がめちゃくちゃ混んでおり、時間指定のWeb予約をしてない人は当日飛び込み用の長い行列に並ばなくてはいけないという。あわてて公式サイトから予約を取ろうとするが、時すでに遅し。今日の分はあえなく終了していた。
どう少なく見積もっても、休日のスプラッシュマウンテンぐらいは並んでいる。諦めて他の場所に行こうにも、隣接するV&Aミュージアムや科学博物館もどうせ似たような状況だろう。せっかく並び始めた列を、うかつに離れる気にはなれなかった。
途中、ポツポツとにわか雨が降ってきて己のツイてなさを呪ったり、雨に濡れたスマホ画面を洋服で拭ったらここまで書いていた5日分の日記が誤操作でほぼ全部消えるという悲劇に見舞われ、あやうく膝を地面につきかけたが、コピペでカットされていただけだったようで、ペーストしたら無事に復旧できてひと安心。結局、1時間半待ってようやく入館することができた。
ひとたび中に入ってしまえば、日本の国立科学博物館に似ているという意味でそこはもう「ほぼ上野」と言ってよく、巨大哺乳類の剥製や骨格標本、絶滅動物や古代人の復元模型、恐竜の化石など、大人から子供まで文句なく楽しめる充実の展示内容。
でもって、とてつもなく広い。鳥類、爬虫類、魚類はもちろん、甲殻類、節足動物といったマニアックな項目や、鉱物のコーナー、火山と地震のコーナーなどまであり、じっくり見ていたらとても1日じゃ見切れない館内面積、展示数、情報量なのである。とにかく地球のぜんぶをダイジェストで詰め込んでやろう、という気概のもと、圧巻の物量で殴りかかってくるのだ。
ノアの方舟。
そう、これって現代のノアの方舟みたいな発想の施設だなと思ったのだった。
旧約聖書に書かれたノアの方舟は、堕落した人間を滅ぼすために神が大洪水を起こすっていうんで、ノアがすべての動物のつがいを乗せて避難するために作った船のことだが、「すべての動物のつがい」を乗せられると思うことがまずどうかしているのに、それくらいのスケールのことを現代に再び、死んだ動物でやろうとしているのが自然史博物館ではないだろうか。
人間の「網羅したい」という欲望、自分たちならそれをやってのけると思える自信と、かつての宗主国としてのある種の傲慢さは、つまりイギリスってすげえな、というバカみたいな感想に集約される。
そして、何よりもこれがすべて無料で見られるというのだから恐れ入る。いかに国が教育や文化、研究にお金をかけることを大事に捉えているかの証左だ。どんなに貧しく文化資本に恵まれない家庭で育った子であっても、ここに来ればタダで地球の歴史と生物多様性を学ぶ機会に出会えるのだ。そういうところがさすがノブレス・オブリージュの国・イギリスだなと思う。
出すところに出したら問題になる表現
ただひとつ、どうしてもツッコんでおきたいのは、「火山と地震」の展示コーナーだ。
そこでは、地震大国として日本が紹介されており、東日本大震災の痛ましい津波映像なども上映されていたのだが、その一角に、日本のスーパーかコンビニを模した商店の棚が再現されており、轟音とともに展示室の床がぐらぐらと揺れる、というむだに大掛かりな「地震体感コーナー」があったのだ。
問題は、そのスーパーだかコンビニだかのクオリティである。「戦時中か!」と言いたくなる時代がかった昭和風デザインのポスターが貼られている割には、棚にはカールやプリッツなどのお菓子、さらには日本のものですらない東南アジアのインスタントラーメンなどが並んでいて、とにかく時代感覚も地理感覚も狂いまくっているのである。
ハリウッド映画に出てくるステレオタイプのトンデモ日本像…ともまた違う、「イギリス人が何の資料も見ないで作った日本のイメージ」にしかなっておらず、おかしくて仕方がなかった。これ、見つかってないだけで、出すところに出したら問題になると思う。
そんなこんなで、私のイギリスでの「はじめてのおつかい」は終了。結局、パートナーの仕事が終わらなかったため、この日はそのまま一人で帰宅した。
夕飯はサーモンのグリルとブロッコリー、にんじんのラペ、ナスの辛子漬け、コーンスープに白飯という非常にヘルシーな日本風定食。A子さんの教育の賜物なのだろう。この家の人たちは、夫のPさんも息子のJも、みな箸を使うのがうまい。箸の持ち方をクワマンに喩えるなら、「クワマンの吹くトランペット」くらいうまい。
コンプライアンスの時代、人をバカにするのは良くないので、ちょっとトリッキーな喩え方をしてみた。悪意を感じたのだとしたら、それは読んでいるあなたに悪意があるということである。しかし、見つかっていないだけで、出すところに出したらこれも問題になると思う。
食後は、モモにブラッシングなどをしてかわいがった。私にもすっかり慣れてきてくれたようで嬉しい。(つづく)
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