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日本人の私がベトナム料理屋を始めたワケ

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日本人の私が、ベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたきっかけは、7歳の時、近所を走る電車の踏切に爆破装置が仕掛けられたことでした。 ベトナムを追い続けているうち… もっと読む
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私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(3)

私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(3)

ベトナム戦争が終結したのは1975年ですが、第三次インドシナ戦争と呼ばれるカンボジア、中国との国境紛争は1990年まで長引きました。

そんな軍事政権下の1990年、私は1人でベトナムへと向かったのが前回までのお話。

戦後間もなかったベトナムでの国営公社の監視付きの窮屈な旅についてお話する前に、バンコク経由ニャチャン行きの飛行機の中でのエピソードをひとつ紹介します。

ベトちゃんドクちゃんの担当

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私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(5)

私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(5)

1990年。
ベトナムからバンコク経由で成田に帰国する機上で、私は自分の身体に異変が起きているのを感じました。
厳密に言うとベトナム入りした直後からずっと微熱が続いていました。

マラリヤや破傷風などいくつものワクチンを打ってから出国していたものの高熱と激しい動悸、締めつけられるような胸痛があり、帰国した翌日、病院で検査を受けます。

検査結果は、「多種類の細菌による心臓の衰弱」。
心筋梗塞を起こ

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私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(4)

私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(4)

1990年、念願のベトナム入りを果たした私が見たホーチミン市内の様子はどのようだったかについて今回はお話します。

外国人が珍しかった時代ホーチミン1区は、今でこそハイブランドのアパレル店舗が立ち並ぶ市内の中心部ですが、1990年はアスファルトの道は少なく、バイクが土埃を巻き上げ、スコールの後はぬかるみで足元が泥だらけになりました。

自動車に乗るのは外国人かよほどのお金持ちだったので、市民の足は

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私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(2)

私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(2)

前回お話した「南武線発火装置事件」の4年後の
1975年4月30日。北ベトナム軍のサイゴン陥落によりベトナム戦争は事実上、終結します。

ベトナムは社会主義国家としての新たなスタートを切りますが、内戦が始まり更なる犠牲者を出し続けます。

報道写真が伝えたベトナム戦争

「安全への逃避」というベトナム戦争を撮影した写真でピューリツア賞を受賞した沢田教一というカメラマンを皆さんはご存知でしょうか?

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私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(1)

私がベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」を始めたワケ(1)

ベトナム料理屋「フジマルサイゴンプロパガンダ」の企画、立ち上げからもうすぐ3年が経とうとしています。

店舗で調理をしていると、お客さまから、
「どうしてベトナム料理の店を始めたのですか?」
と毎日のように聞かれます。

私だけでなく娘やバイトのナナちゃんもあまりに質問されるので、
「いい加減にママ、店の成り立ちをnoteで説明して!」とついにお叱りを受けました(涙)。

なのでプロパガンダが出来

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