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東日本大震災と文学【10】君の名は。

「君の名は。」の「起点」は、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県名取市閖上だった。

朝日新聞2018年6月17日

2011年以降、僕たち日本人は「もしも自分があなただったら…」と常に考えるようになったと思うんです。言い換えれば、今の自分とは違う自分があったかもしれないという感覚です。「もしも自分があのとき、あの場所にいたら」とか、「もしも明日、東京に大きな災害が起きたら…」とか。それは、思いやりが深くなったというよりは、常にそうなる可能性があるということを突きつけられて、意識下に染みついてしまったという印象です。

https://www.huffingtonpost.jp/2016/12/20/makoto-shinkai_n_13739354.html
『君の名は。』新海誠監督が語る 「2011年以前とは、みんなが求めるものが変わってきた

震災後文学の一つとして取り上げたいと思います。

実際、木村朗子氏は震災を描いたものだけが震災後文学であるとは述べていません。震災後文学とは、読み手がそこに震災を読み取ってしまうことに始まるということを指摘しています。
それにくわえて、引用に示した通り、新海誠にとって東日本大震災が本作の起点となったからです。直接的に震災を描いているわけではないですが、災害による大量死のイメージは3.11があったからこそ、この作品にも投影されたのでしょう。

セカイ系としての震災後文学

そもそもセカイ系の定義は下記のものがメジャーです。
「ぼく」と「きみ」がセカイ破滅の大問題に立ち向かう作品群のこと。
例えば、『エヴァンゲリオン』が一番有名でしょうか。

そしてセカイ系作品に指摘される問題点としては、
中間としての社会が抜けているということです。
「ぼく」と「きみ」という閉鎖的な二者関係と、セカイという大きな存在。
その間にあるはずの、社会が描かれていないというところがセカイ系の特徴であり、文学としての論点になるのではなります。(ちなみに日本の純文学は社会を描けていないという批評は常々されてきました。セカイ系が社会を描いていないということは必ずしもセカイ系だけに批評の矛先が向かっているとは私は考えていません)

実際、『君の名は。』にも《描かれない》という空白部分が非常に多いですよね。
例えば、
・宮水三葉と父親の関係
・宮水三葉と神社の関係
・立花瀧の家族関係
・立花瀧のバイト、学校の関係

挙げたらキリがないほど、この作品に描かれていないことはあまりに多いですね。中間としての社会という問題を除いても、
・入れ替わりの理由
・なぜ瀧君と入れ替わるのか
などなど。

こうした空白があることが、本作が大反響を呼んだ理由でもあるはずです。つまり、綺麗さっぱりした終わり方だったら映画館をでた後に忘れてしまう。でも、「あのあと三葉はどのように父親を説得したのだろう」「その後の五年間ふたりはどのように過ごしていたのだろう」などの余韻が残りますし、そこに想像を広げる面白さがあるはずです。

けれどもやはり、批評の視線を向けた時にはこの作品の論点はたくさんあるはずです。
・母の不在(立花家、宮水家)
近代的家族観としての家と女(伝統を守る「家」に囚われた宮水家。たとえば本作においてキーワードとなる「結び」だが、『ボラード病』においては「結び」は「絆し」である。縛り付けるものとしての「結び」が3.11文学として両者に描かれているのは興味深い)
・伝統の崩壊(口噛み酒の販売を誘う妹、酒税法で社会を理解する三葉)
生あるいは性のイメージ(隕石と細胞分裂、糸とへその緒。震災後文学における分裂のイメージは強烈だ。「神様2011」「恋する原発」はリメイクという分裂として作品が形成されているし、『ボラード病』も分裂のメタファーをもつ。本映画も時間・人間の分裂が描かれている。また、木村朗子は魂魄の問題も指摘しているが、魂と魄という肉体と魂の分裂も震災後に扱われたテーマであった。)
・都市と田舎のイメージ

このようなことを深く考察していくには、
震災三部作としての、『君の名は。』『天気の子』『すすめの戸締まり』を最低でも見ておく必要があるし、震災以前の新海誠作品についても学ばなければならないので、ここでは割愛します。
ちなみに、『新海誠論』が先月あたりに出版されました。これも押さえておきたいですね。著者の藤田直哉氏は『東日本大震災後文学論』にも論文を寄せているので、震災と新海誠の関わりについても言及しているかもしれません。

藤田直哉、作品社

《美しい》災害

これほど壮麗な天体現象を目撃していること、まさに肉眼で目撃できていることは、この時代に生きる私たちにとって大変な幸運というべきでしょう

君の名は。

災害と美の関係は、ともすると被災者に不快感を与えることになるでしょう。しかし同時に、3.11に私たちが美しさを見出してしまったということから目を背けてはいけない気がします。
震災に絶えた一本松、フクシマの蒼天、煌々と燃える山々……。

自然災害という暴力のまえに、為す術もない人間の無力さ。人を殺し、文化を奪い去っていく災害をまえに、皮肉にも美しさを感じてしまう。
それは、原発のイメージとも重なります。緑に輝くウランを原発が利用している。この美と災害の矛盾は、原発それ自体にも内包された問題でした。

ウラン

作品に表れた《怒り》

一方で、災害に美を見出す行為が他者性という問題を孕んでいるのを忘れてはいけません。彗星が隕石として落下するまで、それを「幸運」と捉える映画の登場人物たち。そして、その作画を「美しい」と思ってしまった我々の存在。私たち視聴者が『君の名は。』の美しい情景描写に感動してしまった瞬間、そこには震災の負のイメージが忘れられてしまうのではないでしょうか。そこに誰かの死があったことを忘れてしまいます。それを忘れてしまって、「美しい」と感じてしまうことへの《怒り》が作品論として重要なテーマなのではないでしょうか。このような《怒り》のイメージ、——忘却する非当事者たちへの怒り、マスの死という表現への怒り——が新海誠の描いた『君の名は。』だと考えます。

例えば、本作で描かれる大量死のイメージには、そこから抜け落ちた死者の存在を忘却しています。彗星災害による死者「500人以上がなくなって」という表現、「住人のほとんどが奇跡的に無事だった」という表現。ここには、数字として切り捨てられた人々の死があるはずで、個々の死がマスの死として捉えられてしまっているという問題があります。
こういった報道は、東日本大震災の死者「約20000人」という報道の記憶を掻き立てますし、違和感を覚えた人はすくなくないはずです。実際、このようなことに対する違和感を村上春樹は阪神淡路大震災を描いた『神の子どもたちはみな踊る』で主張しています。そして興味深いのは、村上春樹自身のことばではなくて、『気狂いピエロ』という映画のセリフを引用する形で示しているということでしょう。

ゲリラが一一五名戦死というだけでは何もわからないわ。一人ひとりのことは何もわからないままよ。妻や子供たいたのか? 芝居より映画の方が好きだったか? まるでわからない。ただ一一五人戦死というだけ
ジャン=リュック・ゴダール『気狂いピエロ』

神の子どもたちはみな踊る

阪神淡路大震災の大量死のイメージが、東日本大震災としての『君の名は。』に引き継がれていることは注目に値します。立花瀧が五〇〇人以上死んだ彗星災害の「犠牲者名簿」から宮水三葉の名前を見つけるということによって、マスの死ではなく、個の死を描いています。都会の、無関係だったはずの瀧が入れ替わりに巻き込まれることによって、五〇〇人の死から、宮水三葉の死へと導かれていく。それは、彗星災害を美しいと見ていた非当事者が、入れ替わりによって当事者と移り変わっていく可能性の描写であり、新海誠の言う「もしも自分があのとき、あの場所にいたら」という非当事者への警鐘に昇華するのです。

谷川流も阪神淡路大震災における非当事者の無責任さについて訴えていることも忘れてはなりません

被害を受けた場所を見てどう思った? 何を思った? 自分には関係のない、圏外での災害だと感じたか? 破壊と混乱と困惑の疵痕についての感想は? やはり関係ないと思っただろうか? 残念なことだが、今やキミは傍観者ではないのだ。

『学校を出よう!』谷川流

ここでいう当事者とは誰なのか、そういった疑問に作品はあるギミックを施しています。それは彗星災害を偶発的な事故ではなく、「一〇〇〇年周期」としていることに表れています。周期的ということは、次の1000年には彗星が落ちることは予想されていることで、宮水の氏神神社にも彗星が落下する絵が確かに描かれていまし。
そのような破壊的災害が次の1000年に発生するということがあきらかなはずなのに、そこに町ができて人が住んでいるという事実。これは震災の復興として「がんばろうニッポン」のスローガンのもとに津波被害地に同じように建物を建て、原発を再稼働させようとする人々への警鐘です。つまり、被災者自身にも非当事者意識を持ってしまっていることを示唆しているのではないでしょうか。

最後に

映画を見ていて、うわ~と思ったことが一つだけあります。
それは、
彗星災害からの避難を促すために、変電所を爆破するという行為です。

あきらかに原発事故を想定してこういった描写を挿入したようにしか思えませんよね。原発が人災なのか自然災害なのかという議論はcontroversialなタネではありますが、それは脇において、ここで注目したいのは、自然災害をとめるために、人災を引き起こしているということでしょう。3.11が起きることを知っていたら何ができただろう、と誰しもが考えたはずです。その一つの答えとして提示されているのが変電所の爆破だとすると、このシーンはうやむやにしてはいけないところですよね。



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