最近の記事

  • 固定された記事

バルバス・バウ

 海風の吹き付ける木陰のベンチには、一人の老人が座っていた。彼はその涼しげな場所で、文庫本のページをめくっていた。遠くから彼を見た時、僕は彼がスマートフォンを持っているのだと思った。ベンチに近づくにつれて、彼が手にしているのは何かの本であることに気がついた。僕は彼のことがとても羨ましかった。ページを捲る彼が持っているであろう、静かで穏やかな心が、とても素敵に思えた。  彼の隣を通り過ぎると、僕は川に沿って歩いた。そこはちょうど河口と呼べる場所で、ほんの少し先には瀬戸内海が広

    • 日傘をさす女性

       「彼女の足元に咲いている、この花の名前は何だと思う」 教員が僕にそう聞いた。 「花の名前にはそれほど詳しくなくて」僕はそう答えながら、絵に映るのと同じ色の花にはひとつだけ心当たりがあるな、と思った。 照明が全て落とされた教室の中にあって、天井のプロジェクターが映す絵には明るい黄色の花が咲いていた。日の当たる場所のような黄色の花だ。 「菜の花ですかね」その花がどのように咲いていたのか、僕はもうあんまり覚えていなかったけれど、絵の中の花の明度と記憶の中の花のそれは似ている気がし

      •  人間としての形を保てなくて、横断歩道を無理矢理渡りながら、信号無視と速度超過の車両が僕を轢いてくれたらと思う。夕飯の鶏肉とセロリを買いにスーパーへ出かけたのに、二段飛ばしの春の暖かさが色んなものをぐちゃぐちゃにして、冬の間に僕が冷やし固めて来た自信も何も無くなって、死にたいなと思う。頭の中に道を作るために音量を最大まで上げたイヤホンが本当にうるさくて、顔は上げられなくて、溶けたクッキーアイスみたいな色の店内の床に視線を走らせながら、早歩きよりも早く歩いた。買い物かごは手に取

        • サンシュユの聖母

           どこに行きたいの、と彼女は聞いた。僕は少しそのことについて考えて、そしてワインを飲んだ。いつか素敵な日に飲もうと思って、何ヶ月も冷蔵庫にしまっておいたワインだった。 「分からない」と僕は答えた。僕はどこへ行きたいのだろう。  夢の中で僕は彼女と会った。彼女は彼女自身について、「私は聖母だよ」と言っていた。どうして?と僕は聞いた。どうして彼女は聖母なのだろう。 「目を見て」と彼女は言った。僕は彼女の目を見た。でもどうしてなのか、僕には分からなかった。  彼女は二本の指で、自

        • 固定された記事

        バルバス・バウ

          イエロー

           久しぶりに昼寝をした。シャワーを浴びる前に布団に入るのが昔から苦手で、あまり昼寝はしないのだけれど、どうしても眠たかったから。掛け布団の上で体を曲げて眠った。西アジアや中国の砂漠地帯で見つかる、小型の恐竜の化石のように体を丸めて眠った。実家で浪人をしていた頃は今日と同じように、昼過ぎに少しだけ目を閉じていたような気がする。その頃は布団には横にならずに、椅子のリクライニングを倒して目を閉じていた。近くに小学校があって、グラウンドで体育の授業を受けている子どもたちの声や、下校す

          イエロー

          オライオン

           昼の間は空の七割くらいを雲が覆っていたけれど、夜になるとそのひび割れたような雲たちはずっと東の方へと押し流されて、僕の上にはもう何も無かった。いくつかの星が白くまっすぐ、鋭く光っていた。街の明かりがもっと少なければ、星はずっと明るく、そして沢山見えるだろうなと思った。僕はオリオン座を探した。それはすぐに見つかった。オリオン座はいつも変わらない場所に、いつも同じような明るさで光っていた。星座は空に針で固定されて、磔のように見える。そうは言っても僕はオリオン座以外の星座を見分け

          オライオン

          夢日記 カリフラワーと街

           どうしてそんな物を食べていたのかは分からないけれど、僕は真っ白な茹でたカリフラワーを食べ続けていた。僕は食べ物の好き嫌いはあまりないのだけれど、ほとんど唯一と言ってもいい苦手な物が、カリフラワーとイワシだった。でも僕はカリフラワーを食べていた。次から次へと、黙ってそれを箸でつまみ、口に運んだ。マヨネーズは付けなかったような気がする。茹でる際に塩味が付けられていたのかもしれない。午前九時三十分の陽光で、部屋は眩しかった。引っ越したばかりの部屋には殆ど物が無かった。白く薄いレー

          夢日記 カリフラワーと街

          メイ

           別れた恋人の夢を見るのは久しぶりだった。夢の中で僕らは街で不意に会い、少しだけ会話をした。彼女と話すのは八ヶ月ぶりだった。僕たちはたまたま互いが隣り合って立っていることに気が付き、どちらが話しかけるでも無く言葉を交わした。それは僕にとってすごく意外なことだった。別れてからの僕らは一度だって話をしなかったから。どこかで僕らがすれ違うと、彼女はばつの悪そうな表情を浮かべて視線を落とした。そこにはある種の怒りや嫌悪まで感じられた。僕はそれが不思議だった。どうして彼女はあれほど不快

          ラッキー

           ウィスキーを飲んで、酔ったままで吸う夜の煙草が好きだった。酔うために紙コップに入れた三センチ程のウィスキーを、酔うためだけに一人で飲むことが好きだった。僕は人とお酒を飲んだことがほとんど無くて、僕がお酒を飲む理由と言えば、ただ酔うため以外に何もなかった。ウィスキーを飲んで、水を一口飲んで灼熱感を流し、ラッキーストライクを一本唇に挟んでベランダに出ていた。酔ったままで吸う煙草は楽しかった。それを口に咥えたままで上を向き、細い歯と唇の隙間から煙を吐いた。時々は音楽を聞いた。フラ

          ラッキー

          海の見える寝室と墓石 偽物の街

          海の見える寝室と墓石  彼女が死んだことは人伝に聞いた。信号のない横断歩道でバンに跳ねられたらしい。事故があってから二週間が経った頃、共通の知人を数人介して僕はそれを聞いた。僕は何度か、その事故の様子を頭に思い浮かべようとした。キューで突かれたビリヤード球のように、彼女は短く空を飛んだ。そして道路の上で眠るように横たわり、二度と目を覚まさなかった。そんな様子を想像してみたけれど、実感のようなものは何もわかなかった。半年前に彼女が去ってから、僕らは一度も話さなかった。だからか

          海の見える寝室と墓石 偽物の街

          ずっと歌を歌っている

           ずっと歌を歌っている。それを見た(聞いた?)人は「ご機嫌だね」と僕に言うけれど、大きな間違いだ。僕は本当にまじめに、真剣に、怒りながら、頬の側面を嚙みながら、歌っているのだ。ファイトポーズをとるみたいに。歌を歌うことは僕の人生における基本的姿勢のようなものだし、僕は本当に真剣に歌っているのだ。楽しくなんてないし、うきうきなんてしていない。頭の中に浮かぶ嫌な予測だったり、何か月も前の幸せな、特にすでに失われてしまった幸せな思い出だったり、そう言ったものが脳内で広がってシミを作

          ずっと歌を歌っている

          雨で何も聞こえない

           街には雨が降り続いている。ベランダに出るために窓を開けると、強い風に吹かれた雨粒が部屋のカーテンにいくつも水滴の跡をつけた。サンダルは濡れていた。靴下も突き抜けて足の裏が冷たくなった。ズボンの裾からはみ出たくるぶしにも雨が当たった。フラッシュをたいたように空が光った。ずいぶんと時間が経ってから雷鳴が聞こえた。とても遠くに雷が落ちていた。  古い映画の歌を思った。何か月か前、同じような雨の日のバス停でも同じ歌のことを思った。あの時は同じことを思っている人が隣にいた。その日観

          雨で何も聞こえない

          燃えないごみ

           火のついていない煙草を唇に挟んでベランダに出た。耳に付けたままのイヤホンからは、古い日本の映画の音声だけが流れていた。第二次大戦中の捕虜収容所を舞台にしたその映画では、英国の将校と日本軍の将校が英語で会話をしていた。僕はその声を聴きながら、ライターのフリントを回し、煙草に火をつけた。  小さな煙の塊が数回昇った。僕は煙草を右手に挟んで唇から放し、口から空気を吸い込んだ。湿度の高い空気は煙草の煙と混ざって肺に留まり、僕が息を吐くと薄灰色のそれはゆっくりとベランダの大気に溶けて

          燃えないごみ

          オーヴァー・アール・スクエアード

           良くないことだとは分かっているけれど、ウィスキーを二口飲み下してからベッドに入ることが習慣になっていた。寝つきが悪い訳では無い。酔いたい訳でも無い。そうすることで安心できるからだった。ウィスキーを口に含み胃に落とした後、コップ一杯の水を飲んで喉に残った嫌な灼熱感を消す。その後でベッドに入ると落ち着くことが出来た。悲しみにさえ落ち着いた心で接することが出来た。「眠りたくない」と騒ぐ子を宥めて布団の上に寝かせ、薄いブランケットをかけてあげるような気分で悲しみを感じられた。じっと

          オーヴァー・アール・スクエアード

          僕が聞きたかったこと

           小さなころから怖がりだった。ユニバーサルスタジオジャパンのアトラクションが怖かった。赤く目を光らせたターミネーターが怖く、小さかった僕は祖母の腕に顔を埋めて怯えていた。サーカスのライオンの鳴き声が怖く、開演十分後にテントを出た。花火の破裂音が怖く、一時間かけて連れて行ってもらった花火大会を初めの一発で帰った。 変わることが怖い。何も変わらないものなんて無いからこそ、それを分かっているからこそ怖い。決定的に、不可逆的に変わってしまうその瞬間までは何も変わらないのだと信じていた

          僕が聞きたかったこと

          チャイティー・アンド・シガレッツ

           吸い殻の入った紙コップを随分と長い間放置していたことに気が付いた。灰皿代わりのそのコップの隣には彼女が置いて行った茶葉の瓶があり、僕は茶葉に煙草の匂いが移ってしまわないかと怖くなった。僕はリビングを出て脱衣所に向かい、茶葉の瓶を開けて匂いを嗅いだ。チャイティーの茶葉からはスパイスの匂いがした。僕は注意深く瓶の蓋を締め直し、リビングに戻るとそれを流しの下にある棚にしまった。その後で流しに置いていた皿を全て洗ってしまうと、僕はベランダに出て二本目の煙草を吸った。  数日前、最後

          チャイティー・アンド・シガレッツ