夢日記 カリフラワーと街

 どうしてそんな物を食べていたのかは分からないけれど、僕は真っ白な茹でたカリフラワーを食べ続けていた。僕は食べ物の好き嫌いはあまりないのだけれど、ほとんど唯一と言ってもいい苦手な物が、カリフラワーとイワシだった。でも僕はカリフラワーを食べていた。次から次へと、黙ってそれを箸でつまみ、口に運んだ。マヨネーズは付けなかったような気がする。茹でる際に塩味が付けられていたのかもしれない。午前九時三十分の陽光で、部屋は眩しかった。引っ越したばかりの部屋には殆ど物が無かった。白く薄いレースカーテンだけが窓の手前で揺れていた。暗い茶色の床板と、それよりも少し明るい天板の机があり、その上に真っ白な皿と真っ白なカリフラワーが載っていた。僕は試験を受ける小学生のようにまっすぐ机に向かって座り、そして隣には彼女がいた。
 彼女が誰なのか、僕には分からなかった。彼女について僕が分かっていたことは、彼女はとても素直で、優しいこと。黒い髪を後ろで一つに結んでいること。部屋の暖かな光が良く似合っていたこと。僕が彼女を愛していること。そして最後に、彼女は僕の知る誰でも無く、名前も無く、この世界のどこにも存在していないことだった。
「なんでそんな物食べてるの?」彼女は僕に聞いた。彼女も僕と同じように、カリフラワーを食べていたのかは分からない。二人で食事をしていたようにも思えるし、僕だけがそれを食べていて、彼女は隣で暇を持て余していたようにも思える。
「これしか無かったからだよ」僕はさっき口に入れたカリフラワーを飲み込んだ後でそう言った。そしてまた新しいカリフラワーを口にした。
「そんなものなの?」彼女は少し僕の方に体を傾けてそう聞いた。
「そんなものだよ」僕はそう答えた。そしてそれが、僕と彼女の会話の終わりだった。
 僕は箸を皿の上に置いて、そのまま右手を伸ばして彼女の肩を抱いた。僕らは少し椅子同士を近づけて、彼女は上体を僕に預けた。僕らの体温はちょうど同じだった。36.4℃と言うのがちょうど僕達の体温だったような気がする。彼女は目を閉じていた。僕は彼女の肩に置いていた手の位置を少し直し、体をすり寄せた。すぐに崩れる岩同士をこすり合わせて、互いの間の空間を少しでも減らすみたいに。彼女の髪からはどんな匂いもしなかった。僕たちの周りには、ただカリフラワーの匂いと、物の少ない部屋特有の、あの胸のすくような匂いがあった。
僕達はそれ以上何も話さなかった。その後はずっと、ただ眩しい春の日が続いた。
 
 僕と彼女がその街に越したのは、昨日のことだった。だから部屋の家具はカーテンと机と椅子と、皿が数枚と。それだけだった。後は僕と彼女という二人だけが部屋の中にものとして存在した。僕達は車を持っていなかったし、自転車も無かった。だから僕らは駅前に行くために、タクシーを呼ぶ必要があった。
 
 タクシーの中では誰も話をしなかった。僕も彼女も、運転手だって一言も話さなかった。フレームレートの低い景色だけが窓の外を流れた。僕は引っ越したばかりのこの街をとても気に入った。天気のいい春の土曜日だった。とても気持ちが良かった。春の土曜日、という言葉は何かしら素敵なイメージを僕に与える。桜や梅や、バラ科の樹々は花をいっぱいに咲かせていたし、常緑樹は突き抜けるように青かった。何もかもが明るくて、空や地面の色は白く飛んでいた。葉の青さとコンクリートの灰色と、時折通り過ぎる公園の遊具の赤さだけが、窓ガラスの向こうでちらちらと流れていった。光はちょうど助手席側の窓から入り、運転手側の窓から抜けていった。空気は少し冷たかったけれど、光を受けた皮膚は暖かかった。見える物のフレームレートは段々と鈍くなっていった。そして気付かない内に眠りについた。僕は二度とその街に戻ることは出来なかった。

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