チャイティー・アンド・シガレッツ

 吸い殻の入った紙コップを随分と長い間放置していたことに気が付いた。灰皿代わりのそのコップの隣には彼女が置いて行った茶葉の瓶があり、僕は茶葉に煙草の匂いが移ってしまわないかと怖くなった。僕はリビングを出て脱衣所に向かい、茶葉の瓶を開けて匂いを嗅いだ。チャイティーの茶葉からはスパイスの匂いがした。僕は注意深く瓶の蓋を締め直し、リビングに戻るとそれを流しの下にある棚にしまった。その後で流しに置いていた皿を全て洗ってしまうと、僕はベランダに出て二本目の煙草を吸った。
 数日前、最後の煙草を吸ってしまった後、この一箱で終わりにしようと思っていたのに、僕は新しいものをもう一箱買ってきた。間違えていつもより低いタール値の物を買ってしまったせいで、どれだけ吸い込んでも煙を飲む感覚は殆どしなかった。ストローで空気を吸っているようだった。煙草なんて吸わないに越したことは無いとは分かっていた。彼女に喫煙が知られないように、ベランダから戻った後は体中に消臭剤を振りかけるルーティンだって惨めだった。けれどどうしても、不意に寂しくなると僕は煙草を吸った。一日に一本、多くても二本。シャワーを浴びる前に。ベランダに出て煙草に火をつけると、僕は遠くの丘の上に建つ大きな建物の明かりを眺めた。それは大学病院の照明達で、その丘のふもとには彼女の家があった。僕は煙草を吸い終わるまでの数分間、彼女のその柔らかく、そして温かい小さな肩に一切の不安や恐ろしさが降りかからないことを祈った。ベランダからは星空が良く見えた。隣家の明かりも見えた。マンションの前を通る人の話し声も聞こえた。彼女の肩の温かさも良く思い出された。そしてその全部が、いつか僕の目の前から行ってしまうのだと思うと、僕はたまらなく悲しかった。

 タイトルは映画「コーヒー&シガレッツ」より。
 

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