燃えないごみ

 火のついていない煙草を唇に挟んでベランダに出た。耳に付けたままのイヤホンからは、古い日本の映画の音声だけが流れていた。第二次大戦中の捕虜収容所を舞台にしたその映画では、英国の将校と日本軍の将校が英語で会話をしていた。僕はその声を聴きながら、ライターのフリントを回し、煙草に火をつけた。
 小さな煙の塊が数回昇った。僕は煙草を右手に挟んで唇から放し、口から空気を吸い込んだ。湿度の高い空気は煙草の煙と混ざって肺に留まり、僕が息を吐くと薄灰色のそれはゆっくりとベランダの大気に溶けていった。
 僕が煙草を吸う間、通行人が数人、アパートの前の道路を歩いて行った。それは三人組の若い女性であったり、傘と買い物袋を提げた恋人同士であったり、そう言った人々が歩き去っていった。日付が変わって一時間ほど経ち、ベランダから見える家々の明かりはすでに消えていた。けれど人々は歩いていた。彼らはアルバイトの帰りであったのかもしれないし、買い物へ行く途中であったのかもしれない。とにかく、人々は生き続けていた。
 昼頃から断続的に降っていた雨は上がり、肌をなでるような湿度の高い大気だけがこの街に残っていた。増水した川の流れる音がうっすらと聞こえていた。僕はイヤホンのボタンを押し、映画の再生を止めてイヤホンを外した。川の音がより大きく聞こえた。
 煙草を吸い終わって部屋に戻った後で、僕は去年の夏に恋をした女の子のことを考えた。彼女の高い声や、彼女が教えてくれたいくつかの事柄を思い出した後で、僕は僕が彼女の名字を忘れていることに気が付いた。
 去年の今頃、僕の部屋の床には何十本ものビールの空き缶が並べられていた。彼女のことを思うたびにそのアルミ缶は一本ずつ増えた。僕は彼女のことがとても好きだった。優しくて柔らかな彼女に降りかかる不条理について考えるとたまらなく悲しかった。けれど今僕は彼女の名字すら思い出せないのだ。
 少しの間記憶を辿って、僕はようやく彼女の名前を思い出した。それからもう一人、他の女の子のことを思い出した。僕のことが好きだと言ってくれた女の子のことだ。彼女と歩いた道のことを考え、そして僕が彼女にどれだけ辛い思いをさせたかを考えた。
 彼女の好意に応えられないと僕が伝えた後、数ヶ月経って彼女は他の男の子に恋をした。彼女はそこでも傷付いた。僕も何回か恋をして、その度に傷付いた。
 僕は色んなことを忘れていたのだ。そしてこれからも、僕はとても多くのことを忘れて行くのだろう。僕は歩き続けているのだ。あるいはそれはただの足踏みかもしれない。けれど僕は確かに足を上げ、そして下ろし続けている。
 その度に僕の心臓は動き、目は何かを捉え、新しい記憶を作り、古い記憶は押し出される。そのようにして僕たちは生きている。僕たちはあまりにも多くのことを忘れながら生きている。

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