オーヴァー・アール・スクエアード

 良くないことだとは分かっているけれど、ウィスキーを二口飲み下してからベッドに入ることが習慣になっていた。寝つきが悪い訳では無い。酔いたい訳でも無い。そうすることで安心できるからだった。ウィスキーを口に含み胃に落とした後、コップ一杯の水を飲んで喉に残った嫌な灼熱感を消す。その後でベッドに入ると落ち着くことが出来た。悲しみにさえ落ち着いた心で接することが出来た。「眠りたくない」と騒ぐ子を宥めて布団の上に寝かせ、薄いブランケットをかけてあげるような気分で悲しみを感じられた。じっと目を瞑っていると段々アルコールが回り始める。ぼんやりとし始める意識は眠気と混じり合い、やがてどちらがどちらなのかの区別が付かなくなる。そんな中では眠りにつく寸前まで何かを考えることが出来た。思考によって眠気が覚めることが無いのだ。僕は色々なことを思い出し、それについて考え、そして悲しさを感じ、その中で眠った。
 夢を見て起きた。酒を飲んで寝ると、決まって夢を見る。夢の中で僕は神社にいた。長い石段の上にある賽銭箱の前で財布を開き、数枚の五円玉を手に取った。語呂合わせのゲン担ぎなどはどうでも良かった。五円玉の他には百円玉しか入っておらず、それを賽銭として差し出せるほどの余裕は(精神的にも金銭的にも)僕には無かった。僕は手のひらの上の硬貨を賽銭箱の中に落とそうとして、ふと思い留まった。僕は肩にかけていたトートバッグの中から文庫本を取り出し、そのページを探した。物語のちょうど中頃にあるページだ。章と章の間に挿入された数行の詩。物語と関係があるようにも思えるし、全く関係のない、ただ作家が気に入っているから引用したようにも思える詩。僕はその詩の載ったページを破り取り、それに硬貨を包んで賽銭箱に入れた。
 本を破ることは非道徳的な行為であるように思えたし、貨幣以外のものを賽銭箱に入れることもまた同様に良くないことのように思えた。けれど僕はそのページを破って捨てる必要があったし、そうする以外の選択肢は持っていなかったのだ。僕はその小説が好きだった。僕はそれを何度も読み返し、そしてその詩が現れるたびに辛い気持ちになった。その詩がどんな物であったかを思い出すことはできない。けれど僕は夢の中において、賽銭箱の前でその詩を最後に読み返した。過去を思うことについての詩だったように思う。そして僕はそれを捨てた。それを捨てることで僕に何か変化が起こる訳では無いし、もう二度と辛さを感じなくて良くなる訳でも無い。でも捨てるしか無かった。あっても無くても辛いのなら無い方がよっぽどいい。
 目を覚ました後、僕はしばらくの間ベッドの上で横になっていた。時間の流れがとても緩やかだった。そしてそれは好ましい緩やかさでは無かった。僕は自分の周りを後ろから前へ流れる時間を、手に取るように感じることが出来た。光の粒子にさえ触れることが出来た。重力が強いのだ。
 僕の頭の中、もしくは心の中には酷く重い何かがあった。それはとても小さく、しかし膨らみ切った、とても重い何かであった。重みを持つ物の周りには重力場が生まれる。僕はそれを感じることが出来た。科学館に置かれている、蟻地獄の巣に似た模型のような重力場だった。来館者がその中に小さな金属球を落としいれるような模型だ。僕はその中を回り続けていた。去年の夏から色々なことがあった。数か月の期間を置いて二人の女の子に恋をした。けれど僕は誰とも、そしてどの場所とも繋がれることは無かった。重力場の模型の中に金属球が落とされる。それは外縁を回り、ゆっくりと速度を上げながら中心の穴へと向かう。回転はやがて残像を残すほど速くなり、最後には穴の中へ落ちる。もう球は回らない。そして誰かが再び拾い上げ重力場の中に落とす。球は回る。速度が増す。穴に落ちる。もう回らない。その繰り返しだった。僕はどこにも行けなかった。
 二時間ほど経って僕はベッドから出た。歯を磨いて顔を洗い、化粧水と乳液を塗った。洗濯機を回しながら朝食と昼食の合わさった食事を摂り、その後で部屋の床に掃除機をかけた。それらを終えた後でも、洗濯が終わるまでには五分ほど時間があった。僕は火のついていない煙草を咥えてベランダに出た。とても良い天気だった。僕はライターで煙草に火をつけ、二口煙を吸った。その後で彼女は今何をしているのだろうかと思った。煙を吐き出しながらそれについて少しの間考えたけれど、結局僕には分からなかった。彼女が元気に過ごしているのかすら僕は知ることが出来ないのだ。いつ目覚めたのかも分からないし、そもそも彼女が昨夜眠ったのかも分からなかった。けれどきっと彼女は眠ったし、今朝も正しい時間に目覚めたのだろう。彼女はそう言う人だった。
 半分ほど吸った後で僕は煙草を消した。まだ昇り切っていない日の光が斜めにベランダに差し込み、大きな矩形のコントラストを作っていた。僕はその中にあるティッシュのゴミを見ていた。それは数か月前からそこにあるゴミだった。何かの拍子に部屋の中から飛び出たそれは、長い時間をおいてもベランダのその場所にあり続けていた。初夏の日差しの中にあって、それはとても清潔に見えた。けれど少しだけ、劣化の影も見えていた。まるで落ちて間もない花弁のようだった。白く、そして大きな木蓮の花弁。この街には木蓮が多く植えられている。
「あれは木蓮なんだって」彼女がまだ僕といたころ、そう教えてくれた。
「そうなんだ」僕は感心してそう言った。彼女は色んな花や樹の名前を知っていた。「でもどうして教えてくれたの?」
それは突然のことだったから、僕はそう聞いた。
「前にあなたが私に聞いたじゃない?」彼女は木蓮を見たままでそう言った。「あの後で調べたの」
「ありがとう」僕はお礼を言ったが、不思議だった。僕は彼女にその樹の名前を聞いたのだろうか?僕には覚えがなかった。けれどそれは綺麗な花だったし、そんな綺麗な物の名前を知ることができるのは素敵な気分だった。
 
 ベランダに落ちているティッシュは真っ白だった。直射日光の下にあるそれをじっと眺めていると、段々目が痛くなってきた。僕は部屋の中に戻った。いつもの部屋の匂いがした。

「英語名はマグノリアって言うの」「素敵じゃない?」
「うん、素敵だ」
「まず白い花が咲いて、次に紫の花が咲くの」

 彼女は頭のいい人だった。恐らくは僕よりもずっと。けれど一つだけ彼女は嘘をついた。彼女に悪意は無かっただろうし、嘘と言うよりかは勘違いだったのだろう。彼女は白い木蓮も紫の木蓮も同じ品種だと言った。同じ樹に色の違う花が二度咲くのだと。

 実際の木蓮には二つの品種が存在する。白い花を咲かせるものと、紫の花を咲かせるもの。一つの樹に二度花が咲くことは無いのだ。

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