ラッキー


 ウィスキーを飲んで、酔ったままで吸う夜の煙草が好きだった。酔うために紙コップに入れた三センチ程のウィスキーを、酔うためだけに一人で飲むことが好きだった。僕は人とお酒を飲んだことがほとんど無くて、僕がお酒を飲む理由と言えば、ただ酔うため以外に何もなかった。ウィスキーを飲んで、水を一口飲んで灼熱感を流し、ラッキーストライクを一本唇に挟んでベランダに出ていた。酔ったままで吸う煙草は楽しかった。それを口に咥えたままで上を向き、細い歯と唇の隙間から煙を吐いた。時々は音楽を聞いた。フランク・シナトラの曲が好きだった。それが人生だ、と彼は言っていた。

 アルコールと言うものを全く口にしなくなってからは、ただ習慣として煙草を吸った。以前のような楽しさや美味しさは無かった。でもまぁ、それで良かった。大戦中の米兵はラッキーストライクを吸っていたらしい。アフガニスタンの空港で過激派の爆弾で死んだ米兵は僕と同い年だったけれど、それから少し経って僕の方が二つか三つ年上になった。過ぎたことは全部夢みたいだ。

 思い出の辛さや悲しみには慣れた。慣れては無いけれど、僕は頭のシャッターを下ろすことができるようになった。一日に何度も訪れる、その強い風のような思い出はもう僕の肌に直接触れることはなくて、僕はシャッターを下ろした部屋の中でじっと膝を抱えて座っている。部屋の中の僕は泣かないけれど、嗚咽のその始めの一音がずっと喉の底にある。風は強く吹きつけて、ガタガタと音を鳴らし、部屋の壁は大きな表面積にそれを受けてたわんでいる。でも僕は部屋の中にいる。自分の体を自分の手で抱いて、泣きそうな顔をしている。

 生活の中のほとんど全てが、繰り返しのコピーになっている。毎日はいつか見た覚えのあるような嫌な夢みたいで、見るものも聞くものも、それを受けている脳は間違いなく僕のものなのだけれど、その僕はどこか違うところにあって、僕はその場所から送られて来る情報を受け取るだけ。受け取っているのかな?そうじゃ無いかもしれない。生きていることに現実感のようなものが無くて、僕は僕として、一人称的にそれを見ているのだけれど、細かく描写された小説を読んでいるみたいな気分で生きている。間違いなく現実なのだけれど、その現実がなんだか嘘みたいで、長い芝居に出ている役者のようだ。

 僕より二つ後のバス停から乗ってきた男は、バスのステップに上がる時にニット帽を落としていた。バスが走り出した少し後に男はそのことに気付いたのだけれど、僕は何も言わなかった。バス停に落としていましたよ、と言えば良いのだろうけれど、なんだか言う気持ちになれなくて、彼の帽子がどこにあるかは僕だけが知っていた。男はしばらく車内の床を見渡していた。席を立って席の下を覗き込んでみたり、自分の歩いてきた車内の床を眺めたりしていた。彼は乗り込んだ次のバス停でバスを降りた。帽子を探しに歩いて行った。

 頭の中が騒がしくて、辛くて、ぐちゃぐちゃになると僕は椅子から立つ。そして後ろを振り向いて、何を落としたのだろうかと思う。何を手にすれば幸福になれるのかな、と思う。色々思いつくことを一つずつ想像の中で手に取ってみるけれど、何もぴったり合わなくて、やっぱりどうしようもないなと諦める。友達が欲しいわけでは無くて、人と話したい訳でも、笑いたい訳でも、楽しい気持ちになりたい訳でも無い。ずっと前に振られた恋人が恋しい訳でも無くて、何が足りないのだろう?と不思議に思う。現実じゃ無いみたいな現実の中で、僕は何が足りないのか何も分からない。

 みんな嫌いだな、と思う。友達も、友達じゃ無い街中の人たちも、誰も彼も分かったような顔をして歩いているのが気に食わない。多分分かってないのは僕だけで、僕だけが人に化けた狸なのだからだと思う。

 何が足りなくて、何が欲しくて、なぜ辛いのかが分からない。少し考えてみたけれど、でんぐり返りをすれば良くなるような気がした。

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