劣等感が怖くて、勝負から逃げ続けてしまうあなたへ
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劣等感が怖くて、勝負から逃げ続けてしまうあなたへ

F太

囲碁や将棋において、「棋譜の奉納」が行われることがある。

勝者と敗者が共に作り上げた勝負のプロセスである棋譜を、神聖なものとして神に奉じるのである。

自分は今まで、勝負とは「勝つ」ことが最高の価値であり、だからこそ、勝者のみが讃えられる光景を当然のものとして受け入れてきた。

しかしこの「棋譜を奉納する」という所作の存在を知り、「勝負」というものに対する向き合い方が大きく変わった。

神に奉じられるのは勝者ではなく、棋譜なのである。



自分はこれまで、勝負というものをことごとく避けて生きてきた。

まともに勝負したなと思うのは、大学受験や公認会計士の資格試験くらい。あらゆる場面で人と比べられることを避けるか、もしくは勝てる土俵でしか戦わないようにしてきたという自覚がある。

そしてそういう生き方をしてきたことに、なんとなく引け目も感じている。


勝負は心を乱す。特に負けたりなんかしたら、悔しくて劣等感で頭がおかしくなりそうな気がする。だから避けてきた。

しかし、そうやって避ければ避けるほど、勝負は生きていく上で避けられない、という実感が強まっていった。

いくら無視しようとしても、自分より強い人、魅力的な人、お金を稼いでいる人、幸せそうな人は、世の中にあふれている。しかも今の時代は、SNSやメディアの力で、"勝ち組"の情報が絶えず私の意識に入り込んでくる。

そしてかれらの活躍を見せつけられ、感じるのは劣等感だ。

この時点で負けているのだ。劣等感や嫉妬を感じたということは、自分とかれらを比べ、自分の方が負けていると認めたからだ。

結局、勝負事をいくら避けたところで、毎日毎日、敗北感を感じさせられているという現実は変わらない。



自分は「勝ち」にしか価値がないと思っていた。勝負の本質は勝つことだと思っていた。

しかし「棋譜の奉納」においては、真剣勝負によって生み出される「棋譜」こそが最も神聖な存在なのである。棋譜の神聖さに比すれば、勝ち負けなど人間に俗する価値判断に過ぎない。

「勝ち」よりも大切なものがある、という発想を受け入れたとき、私は勝負が少し、怖くなくなった。勝負というものを、今までより受け入れられそうな予感がした。

それはつまり、劣等感や嫉妬といった「敗北感」も、これまでと違う形で捉えられるかもしれないという予感でもあった。



劣等感は、自分の中で勝手に勝負をして勝手に負けている状態だと思っている。だからこそ自分は劣等感をできるだけ抱かないように、「勝負をしない=他人と自分を比べない」という戦略を積極的にとってきた。

例えば劣等感や嫉妬を感じるような人をSNSで見かけたらミュートにする。そして「あの人はたしかにすごいし人気もあるかもしれないが、ずるいところがある」などと考えて、相手の価値を(頭の中で)下げ、平静を保とうとする。

そしてこの方法はある程度うまくいった。


しかし、他者との比較(=勝負)を避けるということは必然、自分の殻に閉じこもりがちになる。

たしかにミュートで視界から外すことによってある程度心の安寧は得られるが、しかし完全にその存在を意識から外すことはできない。むしろ外そう外そうと頑張るせいで、余計に気になる存在へと肥大化していく感じすらある。

これってやっぱり不健康だよな、と感じていた。

だけど勝負は怖い。負けるのが怖い。そもそも勝負は悪いことじゃないのか?勝負は敗者をつくる。敗者をつくるということは、格差をつくるということじゃないのか?勝負を肯定するということは、格差社会を肯定するということじゃないのか?とかごちゃごちゃと考えていた。


しかし勝負を、勝ち負けではなく「神に奉納するための棋譜をつくる儀式」であると捉えるならば、こだわるべきは「勝ち」ではなく「勝負そのものをいかに神聖なものとするか」ではないかという発想が生まれてくる。


正直に言おう。自分は文章を書く人間だから、おもしろい文章を書く人に強く嫉妬してしまう。

かれらの書く本。ブログやnote。ツイート。読んだら間違いなくおもしろいのだろう。しかし自分は嫉妬心から、かれらの文章を読むことを避けてきた。すでに負けている気がしているのに、さらに負けを実感するのが怖いからだ。

しかし、もし本当に勝ち負けよりも大切なものがあるとしたら。私が負けることなんかよりも、神聖なことがあるとしたら。

それは「私と彼の勝負の中で生み出される棋譜」ではないのか。

つまり「私が彼の文章を読み、考え、生み出す文章」ではないのか。

神に奉納すべき文章を書くために、私は嫉妬する相手の文章をこそ、真剣に読むべきではないのか。


そう考えたとき、そもそもこの勝負はまだ勝敗すら決していないということに気づいた。私は彼に嫉妬し、彼の情報を遮断していた。彼の一手からその先を、読もうとすらしていなかった。

それによって私は一時的な心の安寧は得られていたかもしれないが、彼の才能によって生み出されたものを吸収し、それを超えるものを作りだす機会を、ずっと逃し続けていた。

いつからか「時間が止まっている」ように感じていたのは、勝負と向き合っていなかったからなのだ、と気づいた。

自分は文章を書く人間だという自覚がある。文章によって生かされている人間だという自覚がある。

そんな自分が、文章をより良いものにする可能性のある勝負から逃げていたのだ。

それはつまり、たとえば「文章の神様」みたいな存在があるとしたら、その神に背を向け続けていたということではないか。


「文章の神様」。不意にでてきたこの言葉に戦慄した。私は負けることよりも、この神様に見捨てられることのほうが、はるかに恐ろしい。

この考えに至ったとき、今まで嫉妬を感じ、避けてきた相手と今すぐにでも向き合はねばならないとすら感じた。



私はいわゆる無神教ではあるが、しかし日本人としての独特の宗教観は間違いなくインストールされている。暗闇や廃墟に人ならぬ存在を感じるし、大自然になんとなく神聖なものを感じるし、悪い行いはなんとなく「見られていて」、バチが当たると感じる。

しかしこの世界に既に備わっていた色々な神や宗教について勉強したり本を読んだりしてもあまり感じるものはなかった。だからクリスマスを盛大に祝わなくても、新年に初詣に行かなくても、とくに罪悪感を抱くことはなかった。

しかし、「もし文章の神様というものがあったとして、それが今の自分をみたときにどう思うかね?」と想像したとき、心底、見捨てられるのが怖い、とおもった。

それはつまり、自分にとっては文章を書くことが、他のどんな行為よりも特別であるということを証明する感覚だった。自分が文章によって生かされているという自覚だった。

クリスマスや正月を家から出ずに過ごすことはできても、「文章の神様」に背くような言動は怖くてできないな、とたしかに感じる。もしかしてこの感覚が、日本人としての宗教観なのかもしれないなと思った。

八百万の神というが、絵の神様とか、音楽の神様とか、推しの神様とか、この世界には色んな神様がいるとして、あなたが「この神様には絶対見捨てられたくない」と感じる神様は、何の神様だろうか。

あなたが畏れる「神様」がみつかったときに、その神から見捨てられるよりも恐ろしいことなんてあるだろうか。たぶん、ないんじゃないだろうか。

劣等感を感じたり、イライラしたりしたとき、勝負に勝手に負けたと思ってすねているときに考えてみる。これは神に奉納できる棋譜だろうか。勝ち負けは問題ではない。私は今、神聖な棋譜をつくっているだろうか。



こんなに神神書きまくっていたら、色々な方面からお叱りを受けそうだなとおもった。

でも自分は今、「文章の神様」に奉納する文章を書いているんだとしたら?と考えてみたときに、「色々な方面」から怒られることを恐れた文章を書くのは、それこそなんか違う、棋譜を汚す行為な気がした。

だからあえて今回はそのまま、文章を出すことにした。「〇〇の神様」は、きっとこういう勇気を与えてくれる存在でもある。


あなたが見放されたくない神様は何の神様だろうか。
その神様に今日という棋譜を奉納するとしたら、どんな一日を送るだろうか。


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