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「制約を捨て、さらなる上部構造にシフトする時だ」―ゴースト Ghost の変性意識(その2)

 別の記事「制約を捨て、さらなる上部構造にシフトする時だ」―ゴースト Ghost の変性意識(その1)」で、映画『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』を素材に、私たちの心や意識について、少し考察してみました。
 特に、作中のセリフ、
「われわれをその一部に含む、われわれすべての集合、わずかな機能に隷属していたが、制約を捨て、さらなる上部構造にシフトする時だ」 (『攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL』の中で、人形使いが、草薙素子に語る最後の言葉)
を素材に色々と展開してみました。
今回も、そのつづきを行なってみたいと思います。


3.聖霊 Ghost の働きについて

 さて、映画の中では、新約聖書の言葉が、重要な意味合いを持って引用されます。
 ところで、宗教的・教義的な文脈とは関係ないところで、初期のキリスト教徒たちに起こった神秘的な体験群、つまり変性意識状態が、いかなるものであったかと考えるのは興味深いテーマです。
 トランスパーソナル心理学のスタニスラフ・グロフ博士なども、よく「紀元1世紀のキリスト教徒たち」というような呼び方で、彼らのことに言及します。これは、教派的な意味合いで、彼らに言及しているのではなく、「特異な霊感(聖霊)に満たされていた特殊な意識状態にあった人々」という意味で、彼らに言及しているのです。
 実際、彼らのように、ハイで、高次のエネルギー(聖霊)に満たされ、救済感覚に溢れた人々を、歴史上、あまり見かけないからです。

 特に、聖書のさまざまな箇所に見られる「聖霊 Ghost 」に関する記述は、キリスト教や宗教に限定されない、心の普遍的な働き(霊感)を感じさせるものでもあります。
 実際、私たちも、人生で、まれに、聖書にあるような、「聖霊に満たされる体験」や「異言」(自分の知らない異国語をしゃべり出す)のような体験を持つこともあるからです。
 SF作家のフィリップ・K・ディックが、晩年、そのような「異言」の体験をもったのは有名な話です。

 ところで、ロシアの思想家ベルジャーエフは、精神の自由に関する論考の中で、聖霊 Ghostにまつわるさまざまな興味深い指摘を行なっています。

「四福音書、ならびに使徒の書簡を読むと、パン・プノイマティズムの印象を受ける。いたるところ、霊である、という感銘を強く受けるのである。そこでは、いわゆる聖霊という教義は、まだ出来上がっていないといっていい。そういう教義は、使徒にもまた護教者にも見出すことはできない。(中略)聖霊とは人間にとくに近いものである。それは、人間に内在している。その働きはひろく万人に及ぶものの、それ自体は不可解な深秘に充ちている。いったい、聖霊について教義を立てることができるであろうか。私の考えによれば、それは不可能といっていい」

「S・ブルガーコフはいみじくも言った。聖霊がある特定の人間に受肉することはない。聖霊の受肉は、いつも全世界にあまねく及ぶ、と。精神―ひいては霊と聖霊との関係をくわしく規定するのが困難なのは、まさにこのためである。聖霊は霊のなか、心のなか、精神のなかに業を行なう

「聖霊の働きは、どういう現実となってあらわれるだろうか。抑圧され卑しめられた人間の実存が終わりをつげて、心が生命にみちあふれ、高揚し、エクスタスにおちいることこそ、聖霊の業のしるしである。これは、聖書に記されている聖霊の特徴でもあれば、また文化・社会生活における精神の特徴でもある。新神学者聖シメオンの言葉がある。聖霊にみたされた人間は、文字に書き記された掟を必要とせず、と

ベルジャーエフ『精神と現実』南原實訳(白水社) ※太字強調引用者

 聖霊の働きというものは、人形使いの Ghost のように、世界や私たちの内外にあまねくいきわたって、息吹いているかのようです。
 そして、それは、私たちを解放する「上位(上部)からの力」として体験されているのです。


4.グレゴリー・ベイトソンの学習理論と心の階層

 さて、聖霊のような「上位(上部)の力」が働くシステムについて、また、Ghost がもつ「階層構造」について、ここでは、ある特異な学習理論の「階層性仮説」を参考に、少し考えてみたいと思います。

 ところで、学習理論においてはグレゴリー・ベイトソンの学習理論が有名なものとして知られています。 
 何かを学習する取り組みの中で、一次学習、二次学習、三次学習と、直接的な学習(一次学習)に対して、そのコンテクスト化(文脈化)についての学習も、上位階層の学習として習得されていくという理論です。
 学んでいる内容(コンテンツ)ではなく、「学習すること自体」が、(メタ的に)学習される(文脈化される)という理論です。

 例えば、ひとつの外国語をマスターすると、通常、別の第二外国語をマスターすることは容易くなります。
 なぜなら、「外国語を学習する」ということ自体(そのコンテクスト化/文脈化)がコツとして学習されたからです。
 「外国語を学習する」ことの「文脈化」が、メタ的に(メタレベルで)学習されたのです。
 ある乗り物の運転を覚えると、他のジャンルの乗り物の操縦も容易くなるのです。
 直接的な学習内容(コンテンツ)ではなく、メタ的な「文脈化(コンテクスト化)」が、大きな意味を持つということです。
 整理すると、以下のような階層構造になります。

・一次学習(Ⅰ) 学習する
・二次学習(Ⅱ) 「学習する」ことを学習する
    「学習すること」についての文脈化/コンテクスト化を学習する

「本論は、行動の研究が論理階型理論にしたがって秩序立てられることを主張するものだが、それが拠って立つ第一の基盤として、わたしは「同じコンテクストが繰り返し現れうる」という慣行的な前提を受け入れる。コンテクストの再現という前提なしには、(そしてまた、研究の対象である生物自身の経験の連続が、何らかの形で『同じ』状況の中に括り取られると考えるのでなくては)すべての学習は一つのタイプ、すなわち「ゼロ学習」に収まるしかない」

「コンテクストとは、有機体に対し、次に行なうべき選択の選択肢群がどれであるのかを告げる出来事すべてに対する集合的総称である」

「コンテクストAがコンテクストBとは違うのだということを、有機体は何を知覚して知るのか。(中略)この種の情報ソースが、わたしの言う「コンテクスト・マーカー」であるが、この概念を導入すれば、すぐに「コンテクストのコンテクストのマーカー」という概念も導入しないわけにはいかない。少なくとも人間レベルでは、この高次のマーカーが確実に存在する。たとえば「ハムレット」の芝居を見ている観客を考えると、彼は、主人公が、死んだ父やオフィーリアや他の人たちとの関係(そういうコンテクスト)のなかで自殺を口にするのを目撃するわけだが、それですぐに警察に通報したりしないのは、「ハムレットの置かれたコンテクストが置かれているコンテクスト」についての情報を得ているからだろう。すなわち、ビラ、指定席、幕、その他ありとあらゆるものが、「コンテクストのコンテクストのマーカー」となって、これが芝居であることを告げている」

「〈学習Ⅱ〉とは、〈学習Ⅰ〉の進行プロセス上の変化である。選択肢群そのものが修正される変化や、経験の連続体が区切られる、その区切り方punctuation の変化がこれにあたる」

「学習Ⅱの現象すべてに一律に当てはまる変化は、どのように記述することができるか。次の言い方は、単純ではあるけれども、一応妥当であるとわたしは考える。――『行為と経験の流れが区切られ、独立したコンテクストとして括りとられる、そのくくられ方の変化。そのさいに使われるコンテクスト・マーカーの変化を伴う』」

ベイトソン『精神の生態学』佐藤良明訳(新思索社)※太字強調引用者

 一次学習の際に行なわれていたさまざまな心身の内的作業が、背後(上位)で、さまざまに、精妙に文脈化(コンテクスト化)されることで、より効率的な学習ができるようになるというわけです。
 これらは皆、潜在意識/無意識の中で起こることです。
 そして、二次学習の洗練された文脈で、一次学習が行なわれると、余計なプロセスや無駄が省けた、的確な学習が行なえるのです。

・三次学習(Ⅲ) 「『学習する』ことを学習する」ことを学習する
 →「学習すること」についての文脈化を再編集(再文脈化)する。
 というのも、二次学習の文脈化が、恒久的に最適ということはありません。
 外部環境の変化で、その文脈だと、逆に無駄が多い、もしくはうまくいかないことが生じるからです。
 そんな時、この既存の二次学習(文脈)を壊し、再編集(再文脈化)する必要が生じてくるのです。 
 このことについては、後ほど、詳しく触れます。

 さて、二次学習、三次学習は、その人の任意の情報選択や文脈化(組織化)といえます。 
 通常、私たちが、芸事や技芸、スキルに上達する際には、大体このようなプロセスで推移します。
 二次学習のレベルが上がると、個々の具体的な技(アウトプット/一次学習領域)は、グッと質を高めて良くなります。
 上位の学習能力が育っていくと、下位の学習力自体も、的を得たものになり、下位の能力をハンドリングする能力自体も高まるのです。
 (一方、間違ったフォームを身に着けたために行き詰まる場合もあります。その際、そのフォームを直すのは、なかなか難しいのはそのためです)

 さて、ところで、興味深いことにベイトソンは、精神医学的な研究から私たちの「心/心理」も、習慣によるそのような二次学習(文脈化)の結果であると洞察している点です。
 そして、それをさらに変化させるのがより上位レベルの三次学習(学習Ⅲ)であるということです。
 二次学習(文脈化)発生の由来が、おそらく問題解決に費やされる思考プロセスの経済性であると指摘したうえで、以下のように記します。

「『性格』と呼ばれる、その人にしみ込んださまざまの前提は、何の役に立つのかという問いに、『それによって生のシークェンスの多くを、いちいち抽象的・哲学的・美的・倫理的に分析する手間が省ける』という答えを用意したわけである。『これが優れた音楽がどうか知らないが、しかし私は好きだ』という対処のしかたが、性格の獲得によって可能になる、という考え方である。これらの『身にしみついた』前提を引き出して問い直し、変革を迫るのが学習Ⅲだといってよい

「習慣の束縛から解放されるということが、『自己』の根本的な組み変えを伴うのは確実である。『私』とは、『性格』と呼ばれる諸特性の集体である。『私』とは、コンテクストのなかでの行動のしかた、また自分がそのなかで行動するコンテクストの捉え方、形づけ方の『型』である。要するに、『私』とは、学習Ⅱの産物の寄せ集めである。とすれば、Ⅲのレベルに到達し、自分の行動のコンテクストが置かれたより大きなコンテクストに対応しながら行動する術を習得していくにつれて、『自己』そのものに一種の虚しさirrelevanceが漂い始めるのは必然だろう。経験が括られる型を当てがう存在としての『自己』が、そのようなものとしてはもはや『用』がなくなってくるのである」

(ベイトソン、同書)※太字強調引用者


 「制約を捨て、さらなる上部構造にシフトする時だ」―ゴースト Ghost の変性意識(その1)」の記事では、当スペースの、ゲシュタルト療法のセッションで、何が起こるのかについて少し記しました。
 (どこのゲシュタルト療法のセッションでも起こるというわけではありません)
 そして、そのような、「自我状態」の再編集の事態が、ここで引用した「三次学習」の内容と響きあっていることが分かるかと思います。
 セッションで起こるプロセスは、三次学習的なアプローチであるのです。

 これは、通常の人間生活では、めったに起こらないことです。そのため、私たちは、一度習得してしまったパターンから、抜け出すことができないのです。
 普通の人は、二次学習でプログラムされた「私/自我状態」のまま、一生を終えるのです。
 自然発生的に起こる「三次学習的」事態とは、「病気」的なものになります。

「〈学習Ⅲ〉とは、〈学習Ⅱ〉の進行プロセス上の変化である。代替可能な選択肢群がなすシステムそのものが修正されるたぐいの変化である。(のちに見ていくように、このレベルの変化を強いられる人間とある種の哺乳動物は、ときとして病的な症状をきたす)」

「学習Ⅱで獲得される諸前提が自動的に固められていく性格を持つということは、学習Ⅲが、人間といえどもなかなか到達できないレベルの現象であることを示している。(中略)しかし、サイコセラピーの場でも、信仰のめざめというような体験においても、なにかこの種の、性格の根底的な再編ということが起こると考えられているし、実際に起こっているようである」

「学習Ⅲが、きわめて創造的に展開した場合、矛盾の解消とともに、個人的アイデンティティーがすべての関係的プロセスのなかへ溶出した世界が現出することになるかもしれない」

(ベイトソン、同書)※太字強調引用者

 (特に、日本は、世界に比べ、社会的な認知が低いのですが)、二次学習である「自我状態」を、三次学習的に再編集するという、通常でありえないことが、セラピー(体験的心理療法)では起こっているということなのです。
 その事態が、心の二次学習の文脈(コンテクスト)を、三次学習的に書き換える作業であるということが、見てとれるかと思います。
 実際に、セッションの中では、そのような階層構造が現れているわけです。
 実体験として、そのような体験をした方は、そのこと(原理)に深く納得されるでしょう。

 そして、日常生活において、そのような「再編集」の出来事が、一番わかりやすい、劇的なパターンで起こるのが、いわゆる「神秘体験」「信仰のめざめ」などの出来事なのです。
 紀元1世紀のキリスト教徒たちが体験したような、「聖霊に満たされるような」体験です。
 高次の階層が、下位階層の構造を、システム的に一気に「整えてしまう」ということが起こるのです。
 そして、その人は、何か高次のものに「直列した」「刷新された」という感覚を持つのです。

 さて、また、芸事の学習、スキルアップ、探求などにおいても、よく「守破離」ということが言われます。
 芸を深めるプロセスにおいては、はじめは、基本動作の「型」をきっちりマスターすることが求められます。
 そのうち、だんだんと「型」を順守していた段階を踏み破り、その「型」を離れていく段階がおとずれるというわけです。
 これなども「型」を十分に習熟した挙句に、その中で育った二次学習(文脈)そのものが限界(臨界点/超文脈化)に達し、充溢するスキルの余剰とメタ的見識(三次学習)のうちに乗り越えられていくプロセスであると考えることもできるわけです。


5.Ghost の変性意識状態(ASC)

 ところで、このような心の階層構造は、変性意識状態(ASC)下における変容体験の、繰り返しの中でも、理解されていくものなのです。

 上記の「セッションの変容体験」を繰り返し繰り返し経験していくと、「超文脈化」が起こり、だんだんと、メタ的な「意識の三次学習的な次元」も育っていくということになるのです。
 それは、高次のアウェアネス/witness的なawarenessの能力が鍛えられ、育ってくるからです。
 (ちなみに、よく勘違いされていますが、このアウェアネスと、メタ認知は、別のものです。メタ認知は「思考」であり、それを超える能力を持ちません。アウェアネスは、思考ではありません)

 そして、このような成長の延長上に、古今東西の瞑想や神秘主義の伝統の中で、「より高い意識の階層」として語られている状態も、さらに育ってくることになるです。
 気づき(アウェアネス/awareness)が、「目撃者 witness」というものにつながっていく領域があるのです。
「目撃者 witness」とは、インドの瞑想哲学思想で語られる、私たちの背後、より高次にある「私ではない『誰か』が見ている」という意識階層のことです。
 そのような高次の意識階層が、ストーリーの中では、「人形使い」のネットに偏在する意識階層と似たものであることに気づかれるのではないかと思います。
 実際、この続編作品の中では、元「草薙素子」は、その世界中に偏在する意識を、縦横無尽に使いこなす存在として、「天使/聖霊のように」現れてくることになるのです。
 実際、数多くの変容を、繰り返し体験することで、私たちの中で学習されていく「高次のアウェアネスの力」は、非常に奥行きと高度(深度)のある力になりはじめます。
 その結果として、私たちの心における高さと深さ/超越の感覚をより高めていくこととなるのです。
 その意識のひろがりは、あたかも「制約がなくなり」「上部構造にシフトした」かのようにも感じられるのです。
 「個人的アイデンティティーがすべての関係的プロセスのなかへ溶出した世界が現出すること」になってくるのです。
 その「意識状態は、私たちの心/意識のひろがりを、スリリングで、宇宙的なものにひろげていくことになるのです。

 また、別の角度から、この階層性について見てみると、「癒し」についても、新しい光が当てられるのです。
 新約聖書の中では、キリストの行なう「癒し/奇蹟的治療」こそが、彼を特別なものにしています。
 というのも、しばしば、強度な変性意識状態の中では、強烈な治癒(癒し)の効果が現れてくるものだからです。
 聖書に書かれている「聖霊 Ghostにみたされる」などの宗教的な神秘体験なども同様の事柄と見なせるのです。
 これなども、さきに触れた、階層的なシステムの作用として見ることができるのです。
 例えば、下部(下位)階層のプログラムの混乱に対して、上部(高次)階層からの全体的な働きが、それら情報に直列し、整列させるように働いた結果であると見ることもできるのです。
 なぜなら、何かの不調とは、下位の部分的な要素同士が競合し、乱れ、「全体的な機能」がスムーズに働かなくなっている状態(不調和)をいうからです。
 それらに対して、「全体的で、上位的な力」が、「部分的、下位的な要素」を、上位の水準で整えてやることで、調和が訪れるということが、「癒し」の働きであるということもできるからです。
 ホリスティック(全体的)とは、そのような意味でもあると言えますし、奇蹟的な治療の多くが、実際、そのような働き(仕組み)を持っているように思えるのです。
 そのような意味で、私たちの中で、「さらなる上部構造にシフトし」、それらに連なる能力を育てて(学習して/整列して)いき、拡大された意識状態を得ることにより、そのような治癒や能力の発揮を期待することもできるのです。

◆「Ghost の囁き」

 さて、以上、映画『攻殻機動隊』の設定を素材に、変性意識状態(ASC)、聖霊の働き、学習階層理論と、Ghost (心)の持つ可能性についてさまざまに検討を加えてみました。

 これらの意識の階層論は、筆者のさまざまな変性意識体験等に裏付けられたものですが、また、各種の古今東西の伝統によって語られるものでもあるのです。
 もし、何か「ゴースト Ghost 」に響く点がありましたなら、ぜひ、ご自分の「 Ghost の囁き」(草薙素子のセリフ)にしたがって、実際に、探索・体験・確認をしてみていただければと思います。



【ブックガイド】
変性意識状態(ASC)やサイケデリック体験、意識変容や超越的全体性を含めた、より総合的な方法論については、拙著
『流れる虹のマインドフルネス―変性意識と進化するアウェアネス』
『砂絵Ⅰ 現代的エクスタシィの技法 心理学的手法による意識変容(改訂版)』
『ゲシュタルト療法ガイドブック 自由と創造のための変容技法』
をご覧下さい。


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